言われた瞬間、私は少しだけ目を見開いた。今回は、いつものような圧のある脅しではなかった。ただ静かに――先に離婚届を出してから、それから考える時間をくれるという話だった。らしくないな、と心の中で思う。あの宏が、こんなふうに順番を譲るなんて。でも、逃したらきっと次はない。そう思った私は、迷わず応じた。「じゃあ、明日で。彼、明日の午後空いてる?」加藤が一瞬だけ迷ってから、答えた。「……はい、空いてます」「なら伝えて。明日午後二時、役所で」電話を切ったあと、自分でも驚くほど、心が静かだった。ほっとしたわけでもない。寂しさも、怒りも、未練もなかった。まるでただ明日、誰かと約束して、ランチでも行くような。そんな、日常の一コマみたいな感覚。むしろ私は考えていた。あの頃、あんなに深く嵌って、あんなに傷ついて、あんなに苦しんだ私は……いったい、何をそんなに求めていたのか。……電話を切った加藤は、静かに社長室のドアを開けた。室内では宏が無言のまま資料をめくっていたが、視線を上げるとそのまま冷ややかに問いかける。「……彼女、いつ離婚届を出すって?」「明日、午後二時です」加藤は少し息を呑む。長年この男の下で働いているが、ここ数年でいちばん読めなくなってきている。怒っているのか、哀しんでいるのか、諦めているのか――顔に出ない。宏は視線を少し落とし、皮肉のような笑みを浮かべた。「……わかった」加藤はそれ以上余計なことは言わず、そっと部屋を出て、音もなくドアを閉めた。ひとり残された宏は、ゆっくりと立ち上がり、大きな窓辺へと歩く。夕日に照らされたシルエットは、静かに揺れていた。……本当は、手放したくなかった。あの夜、ホテルで、彼女が手を振りほどこうとした瞬間、本能がそれを拒んだ。離したくないという衝動が、理性よりも先に動いた。けれどこの二年間、彼女が言った言葉が、何度も頭の中で反響していた。……もしかしたら、自分はあまりにも彼女を尊重してこなかったのかもしれない。ちゃんと向き合って、話を聞いたことがあっただろうか。彼女の気持ちを、思いやろうとしたことがあっただろうか。すれ違いも誤解も、そのままにして。何も手を打たずに、彼女を一人で傷つけさせ
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