慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った のすべてのチャプター: チャプター 381 - チャプター 390

1400 チャプター

第381話

スマートフォンを握ったまま、ふと意識が遠い昔へと引き戻されていた。見知らぬようで、どこか懐かしい断片が、次々と押し寄せてくる。「鷹!今日うちで朝ごはん食べるって言ったのに、また寝坊したでしょ!」「鷹、痛いよぉ……うぅ、早くおんぶして!」「鷹、みんな私たち婚約してるって言うけど、婚約ってなに?」「鷹、あれ摘んで!一番大きなオレンジのやつ!」「鷹……」……「ちょっと、理不尽じゃない?時間ぴったりでも遅刻なのか?」「だから走るなって言っただろ。ほら、乗れ」「俺がお前をお嫁さんにもらうってことだよ」「わかったわかった」「お前、礼儀ってもんはないのか?鷹お兄ちゃんって呼べ!」……「鷹……っ、うわぁぁん……おじいちゃんいなくなっちゃった……おばあちゃんが言ってたの、みんな、いつかはいなくなるって……奈子のそばに、ずっといてくれる人なんていないって……」私は声を上げて泣きじゃくっていた。そんな私を、鷹は優しく抱きしめながらあやしてくれた。「俺はいるよ、奈子。ずっとそばにいる」涙でにじんだ視界の中で私は言った。「鷹、今日はやけにいい人みたい」彼は得意げに顎を上げて、大人のように言い直した。「いいお兄ちゃん、な」……幼い頃の記憶、ここ最近の記憶、そして――鷹の死を知らされた記憶。すべてが脳裏でごちゃ混ぜになって渦巻いていた。私は思わず胸に手を当てた。顔は乾いたままだった。「南……」近くにいた山田先輩が、息を呑んでこちらを見つめ、慌てて声をかけた。「もう戻ってこない人のことで、そんなふうに自分を痛めつけないで。体に障るよ」長い沈黙のあと、私はぽつりとつぶやいた。「……思い出したの」でも、思い出してしまったがゆえに、彼の死を受け入れるのが、よりいっそう苦しくなった。「何を?」と、山田先輩。「……先輩、たくさんの記憶が戻ってきたの」彼はすぐさま医師を呼び、診察の結果、事故による神経系への刺激が、記憶の回復を引き起こした可能性が高いという見立てが出された。ふと、医師が外国人だと気づき、私はようやく我に返った。「……先輩、ここ、海外なの?」「そう。ここはフランスだ」「え?」「宏の情報網が国内じゃあまりに敏感すぎるからな。君を病院に運んだあと
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第382話

「それに……俺は、南がフランスに残るのも悪くないと思ってる」そう言われて、私はそっと唇を引き結んだ。「どうして?」「フランスに、俺の知り合いでトップクラスの心理専門医がいるんだ。南ならきっと治せる、と言ってくれてる」「先輩……あのセルトラリンは、来依のもので……」認めたくなくて、声が濁る。山田先輩は静かに私の手首へ触れた。塞がったばかりの傷痕に、指先がそっと触れる。「手首を切って、次は湖に飛び込んで……南、自分の命を大事にしていないのは、見れば分かる。生きる気力が消えてる。それでもまだ、俺に隠すつもり?」「……私は」顔を背けて窓の外を見た。「本当に……どうしてこうなったのか、分からないの」頭の中で勝手に湧いてくる考え。自分の身体さえ、自分のものじゃないみたいだった。思えば、兆候は前からあった。でも――大阪から鹿児島に戻ったあの一ヶ月で、急に濁流みたいに押し寄せてきた。来依が異変に気づき、半ば無理やり病院へ連れていき、そこで重度のうつ病と診断された。手首を切ったあの日。もし大阪に行って鷹のことを確かめる必要がなかったら、傷を包帯で巻くことすらしなかったかもしれない。「大丈夫。南が悪いんじゃない」山田先輩は私と視線を合わせ、まっすぐに言った。「人は、生きていたら誰だって病気になる。身体のことも、心のことも。退院したら、俺の友人に会おう。南のことは話してある。治せる、と断言してた」「……うん」「それと、大学の頃のこと覚えてる?先生が南と俺を海外に出そうとしてた」「覚えてるよ」あの頃、先生は私の才能をすごく評価してくれていた。でも、当時の私にはお金がなかった。学費が免除されても、生活費は到底払えなかった。才能を評価されても、現実はついて来なかった。「まさか、この歳でまた学生に混ざるのは……」「違うよ」先輩は小さく笑った。「南を弟子にしたいっていう、天才デザイナーがいる。作品を見て、『市場に縛られなければ、とんでもないものを作る』って、太鼓判を押してた」治療も、未来も。私が立ち止まらないように、全部整えてくれている。胸がじんわり熱くなって、私は微笑んだ。「先輩……こんなに考えてくれて、私、何もお返しできない」「十分返してもらってる
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第383話

2年後、鹿児島空港。ぺたんこの靴でスーツケースを転がしてゲートを出た瞬間、来依が飛びついてきて、思いっきり抱きしめられた。「南ー!ようやく帰ってきたのね?」「ちょっ、息ができないってば……」私は苦笑して答えた。「来依に会いたくなったから、帰ってきたんだよ」実際には、来依は時間さえあればフランスまで会いに来てくれていた。最後に会ったのは、ほんの半月前。帰り道、運転しながら彼女は言った。「事故直後、江川は完全に取り乱してて、南が突然いなくなったのが信じられなかったらしくてさ。鹿児島の地面全部掘り返す勢いで、湖の水まで抜こうとしてたんだから」「……それ、もう何回も聞いたよ?」「しみじみするじゃん、たまには」来依はため息をついて続けた。「でもこの件、江川と山田先輩がきっちり抑えてたから、南が事故に遭ったこと、知ってる人はほとんどいない」実際、来依と山田先輩以外の人は、私が今も宏の傍にいて、江川夫人として何不自由ない暮らしを続けていると思っている。服部花も、鷹のことがあってからすぐに服部家に戻って、あの私生児と権力争いを始めた。自分と、母親と、そして鷹の遺したものを守るために。車窓の外、鹿児島の街並みは相変わらずざわめいていて、人も車も多くて、まるで何も変わっていないようだった。RFグループの勢力はこの二年でさらに拡大し、藤原家への攻撃は止めたものの、藤原星華が家業に手を出すことは禁じたまま。違反すれば、再び潰しにかかると通告までしていた。一方、大阪では謎の勢力が急成長を遂げていた。その後ろ盾は誰なのか、誰にもわからない。けれど、たった二年でRFグループすら迂闊に手を出せない商業伝説となっていた。私はこの二年で、一度死んで、生まれ変わったようなものだった。「……何か思い出してる?」来依が私のぼんやりした様子を見て、冗談っぽく言う。「スーツケースひとつだけ?南のトロフィーとか、入りきらないでしょ?」「面倒だったから、服だけ持ってきた。あとはお手伝いさんに頼んで、まとめて送ってもらった」「へぇ~、それより、今回帰国って、DaveよくOK出したね?」Dave――ファッション業界じゃ知らない人がいない天才デザイナー。業界の誰もが「先生」と呼ぶ人。山田先輩もフランスにいた
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第384話

「ねえ、誰だと思う?」「最近よく見るあの若手女優……?」「違う違う、もっと大胆にいってみて」「えっ、まだ大胆に……?」「京極佐夜子よ」「……は?」私は目を瞬かせて驚いた。「来依、まさかあなた、今はそんな業界と繋がりあるの?」京極佐夜子――芸能界四大トップ女優のひとり。二十年以上前にデビューしてすぐに爆発的人気を得て、家柄もすごいらしいけど、何年経ってもその正体は誰にも探れなかった。噂じゃ、もしそれが本当なら、庶民には到底届かない世界の話だって。数年前に表舞台を離れてからは完全に裏方に回って、今じゃ芸能界でも資本そのもの。ひとたび姿を現せば、その注目度は今のトップスターと肩を並べるほどだった。「でもこれ、私のコネじゃないんだよね」来依は嬉しそうに笑った。「彼女が先月のファッションウィークで、南のドレスを見てすごく気に入ったらしくて。マネージャーを通じて連絡があって、特別にオーダーメイドできないかって聞かれたの」来依は私の負担を考えて、毎月2件だけプライベートオーダーを受けていた。でも、そのすべては海外で活動している、もうひとつの名前での仕事だった。南希の裏に、まだ清水南がいることは、誰にも知られていない。来依は私の頭をツンと突きながら言った。「もうあんた、2年前の南とは違うんだからね。今じゃオーダー希望の芸能人が列をなしてるんだよ。レッドカーペットで『誰のドレス!?』って話題さらいたくてさ」私はくすっと笑って、わざとからかうように言った。「……で、京極さんは?」「その子は別格!ただの芸能人じゃないんだから。あの人には、頭下げてでもご機嫌とらなきゃダメでしょ」来依は大げさに肩をすくめてから、ふっと真面目な顔になった。「で、本題。南、今回の帰国、本当にそれだけの理由?」私はソファに肘をつきながら、ぼんやりと彼女を見た。「2年前にここを離れたとき、私、ボロボロだった。ずっと放りっぱなしのこと、いろいろあるからね」生きるだけで必死だったあの頃、他のことを考える余裕なんてなかった。藤原家とのいざこざ、南希とRFの株の問題、あれもこれも――すべて。「で、最初にやるのは?」「一つずつ、片付けてく」私は唇をひと噛みしてから言った。「そういえば、京極さんとの約束っ
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第385話

私が車の窓に手を伸ばした瞬間、ひとりの黒服がすばやくそれを遮った。「失礼ですが、こちらはプライベートな車です」「わかってます」私は窓の中を指さした。「彼とは知り合いです」助手席の窓がスッと下がり、もうひとりのボディーガードが穏やかに、だがきっぱりと言った。「申し訳ありません。うちのボスはあなたのことを存じ上げません」「……知らない?」「はい、恐らく人違いかと」その瞬間、運転手が指示を受け、アクセルを踏む。黒い車体がゆっくりと発進し、他の車もそれに続いた。私はその場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。鷹が私を知らないふりをした……?それとも、彼はそもそも鷹じゃないのか?込み上げる疑念をぐっと抑え込み、私は再び病室へ戻って、看護師に尋ねた。「さっきの服部さん、初めていらした方ですか?」「どうでしょう……たぶん違うと思います。私は別の日に当番だったので詳しくは……でも、病室の勝手はよくご存知のようでした」「祖母は、彼のことをどう呼んでいましたか?」「おばあさまはずっと彼の手を握って離さなかったんですよ。私は途中で、彼の部下に外に出されちゃったんですけど、出る前にひとことだけ聞こえたんです。ええと……たしか、鷹って」――やっぱり、彼だ。彼は、生きている。死んでなんていなかった。しかも、今この大阪にいる。私は思わず大きく息を吐いた。力が抜けて、ほっとしたように微笑むと、興奮気味に看護師へ言った。「ありがとうございます、助かりました!」「清水さん……彼、お知り合いなんですね?」「はい」私はふっと笑って頷いた。「とても、大切な人です」フランスでのあの二年間、何度も自分に問いかけていた。宏との関係が崩れかけていたあの頃、もし鷹が現れなかったら。もし、私の代わりに、あの重さのすべてを受け止めてくれなかったら。私は、今こうして生きていられただろうか。……たぶん、無理だった。おばあさんが目を覚ましたあと、しばらく一緒に話をした。私のことは覚えていたが、記憶は混線していた。「お小遣い、ちゃんともらってるかい?」何度もそう言っては、通帳を渡そうとする。私は笑って断るが、帰り際、口座に振り込まれていた金額を見て仰天した。8桁のの金額が増えていた。
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第386話

私は聞こえないふりをして、淡々と口を開いた。「彼女が私のことを嫌っているのはわかってます。でも、あなたも実は私のことを嫌っているんじゃありませんか?けど、あなたが私の実の父親です。父親が自分の子どもを嫌うなんて、どうしてですか?もしかして、私の実の母と何かあったんですか?」「もういい加減にしろ!」藤原家当主が低い声で怒鳴り、顔を真っ赤に染めた。「鹿児島に戻って二年も経つのに、どうしてまた子どもの頃みたいに勝手で、攻撃的になってるんだ?」「そうですか……」私は欲しかった答えを確信したようにうなずいた。「やはり、私の実の母は別の人だったんですね」これは、フランスの心理カウンセラーが教えてくれたことだった。人は核心を突かれると、話を逸らしたり、感情的になったりする。つまり、図星ってこと。私は最初、七、八割の確信だったけど、今はもう間違いない。普段は穏やかで品のある藤原家当主が、そのときだけは明らかに私を忌々しそうに睨んで――そして吐き捨てた。「出ていけ!」「……わかりました」私はにっこりと笑い、彼が本格的に怒鳴り出す前にすっと背を向けた。「待ちなさい!」その背後から声が飛んだ。「さっき、おばあさんと話したのか?」振り返って軽くうなずく。「はい、話しました」「……遺言について、何か聞いたりしていないか?」「遺言?おばあさん、遺言なんて書いてたんですか?」とぼけたように問い返すと、彼の表情がわずかに緩んだ。「いや、あの、財産のこととか……分配の話とか……」「ちょっと、焦りすぎじゃないですか?」私は眉をひそめ、わざと怒ったふうに言った。「おばあさん、まだ判断もはっきりしてないのに、財産の話なんてするわけないでしょう?あまり詰め寄ったら、怒って体調崩すかもしれませんよ」少し間を置いて、私はあくまで何気ない口調で付け加えた。「だって、遺言の中身なんて誰にもわからないですし。おばあさんが生きてるうちは、みんなまだ自分の取り分、狙えるわけですから」……鹿児島に戻ると、来依が夜食のデリバリーを頼んで待っていてくれた。テラスに並んだ料理の香りの中、私は午後の出来事を一通り話した。彼女は一口酒を飲み、しばらく考えた後、ぽつりとつぶやいた。「でもさ……相手が服部だ
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第387話

「その後って?彼が元気でいるか確認できれば、それで十分だよ」一瞬、思考が止まる。けれどすぐに言葉が出た。「……もう、何も想像したくないんだ」鷹に対して、自分がどんな感情を持っているのかはっきりしない。この二年間、ただひたすら願ってきたのは――彼が生きていて、どこかで無事に暮らしていてくれたら、それでいいということだった。翌日、来依と一緒に南希へ向かった。鈴木はすでに昇進していて、デザイン部の副部長として自分のオフィスまで持っている。会社のガラス越しに私の姿を見つけると、満面の笑みで来依のオフィスまで駆け込んできた。「清水さん!ようやく戻ってきてくれたんですね!もう毎日、首を長くして待ってたんですよ~」「そんなに彼女がいないと寂しかった?」来依が笑いながらからかう。「彼女がいなかった間は、あなたが実質トップだったんでしょ?好きにできて、快適だったんじゃないの?」この二年間で、南希はかなり拡大した。今では下のフロアも借りて、二階分まるごと使うようになっていた。デザイン部の人数も増え、鈴木の権限は大きくなった。部長の席は来依が私のためにずっと空けてくれていたから、私が不在の間、デザイン部の実質的なトップは彼だった。「えへへ……」鈴木は頭をかきながら、はにかんだ。「でもやっぱり、清水さんのもとで働いてると、学べることが多いですからね」「私がいなくても、ちゃんとやれてたでしょ」私は軽く笑った。「提出されたデザイン、毎回しっかり目を通してるよ。特にあなたのは一番厳しく見てた」「えっ!?マジですか?」驚いたように目を丸くする鈴木。「最終チェックしてたの、清水さんだったんですか?」「うん、そう」私が海外に行ってから、最終稿は来依経由で私の元に届いていた。誰も知らなかった、南希の「影の審査員」が誰なのかなんて。それに、師匠のもとで学び始めてから、私のデザインはどんどん挑戦的になっていった。スタイルも大きく変わったせいで、まさか私が審査してるなんて思われなかったはずだ。鈴木は目を輝かせながら、来依を振り返って笑った。「河崎さん、口が固すぎですよ~」「そりゃあそうよ」来依は肩をすくめ、冗談ぽく返す。「もし私が黙ってなかったら、知り合いが見てるって甘えちゃうで
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第388話

鼻先を抜ける香りは、清々しくて心地いい。夏にちょうどいい、すっと沁みるような匂いだった。それだけで、京極さんがどれほど生活の質を大切にしている人か、すぐに伝わってくる。ほどなくして、寝室の扉が内側から開いた。京極さんは、シンプルなシルクのキャミソールタイプのロングドレスに身を包み、ゆったりとした足取りで姿を現す。――さすがは、長く第一線に立ち続けてきた人だ。普段、画面越しに見る映像や写真よりも、実物のほうがはるかに存在感がある。年齢の影はほとんど感じられず、五十前後とは思えないほどの華やかさ。ただ「美しい」だけではなく、息を呑むほどの迫力があった。「京極さん」私は笑顔で立ち上がり、声をかけた。来依も続いて立ち上がり、心からの調子で言う。「百聞は一見に如かず、ですね。正直、メディアに出てる写真なんて、実物の半分も伝えてませんよ」京極さんは少しも気取らず、その言葉を笑いながら受け取った。アシスタントの簡単な紹介を受け、彼女は私と来依を見分ける。スリッパのままこちらへ歩いてきて、赤い唇をゆるく持ち上げた。「立ってないで、座りましょ。ゆっくり話したいわ」そう言って私の手を引き、そのまま勢いよく話し始める。「先週のショーのあの一着、本当に素敵だった。まさか、デザイナー本人がこんなに若いなんて思わなかったわ」少し照れくさくて、私は笑った。「もし気に入っていただけたなら、フランスから取り寄せることもできますよ」「本当?」京極さんは目を輝かせる。「前にマネージャーが連絡したときは、向こうの責任者から『外には出せない』って言われたけど」「本当です」あの一着は、師匠がとても大切にしている作品だ。私にとっても、事実上の「卒業作品」のような位置づけで、簡単に外へ出したがらなかった。けれど、京極さんには、自然と好感が持てた。「そのドレスは、先生にとっても私の卒業作品みたいなもので、大事にしてるんです。だから貸し出しには慎重なんですけど……でも、自分の作品ですから、私の判断でお渡しすることもできます」「だめよ」京極さんは首を振り、柔らかく言った。「そんな意味のあるものなら、ちゃんと手元に置いておきなさい。私のために、オーダーの枠をひとつ用意してくれるだけで、十分すぎるくら
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第389話

鹿児島なんて、そう広い街じゃない。帰国を決めたとき、また彼に会うことになるだろうとは覚悟していた。ただ――まさか、こんなに早く。私は反射的に手を引っ込めた。すぐに京極さんの少し驚いた声が聞こえる。「江川夫人?」「ええ」「元妻です」宏と私、ふたり同時にそう口を開いた。私は気持ちを落ち着け、京極さんのほうを見て微笑む。「京極さん、お忙しいところありがとうございました。そろそろ失礼します」「ありがとうございました。何かあれば、またご連絡ください」来依も穏やかに挨拶を交わす。ふたりでホテルを出ようと歩き出したとき、後ろから京極さんの皮肉っぽい声がかすかに聞こえた。「江川さん、どうやら元奥さんに嫌われてるみたいね?」……ちょうどホテルを出ようとしたその時だった。一台の黒いベントレーが、車寄せから走り出ていく。私は何も考えずに駆け出した。見慣れたナンバープレートが目に飛び込んでくる。来依が追いかけてきた。「どうしたの、そんな勢いで……幽霊でも見た?」「違う」私は車の流れに紛れていくベントレーを指さす。「あの車、前に療養院で鷹が乗ってたやつだと思う」「服部が鹿児島に来てるの?」「たぶんね」私は鍵を彼女に渡す。「先に帰ってて。私はちょっと、鹿児島マンションに寄ってみたい」彼が死んだと報じられて、もう2年。さすがに、あの部屋には住んでないだろう。でも、それでも――もしかしたらという思いは消えなかった。「付き合うよ」来依は私を止めて、タクシーを使わせなかった。鹿児島マンションに着くと、彼女は車を降りずにそのまま地下の駐車場で待つことにした。「もし本当にまだ住んでたら、そういう久しぶりの再会って、私はいないほうがいい気がして。行ってきなよ。何かあったら連絡して」「うん」私は頷いて車を降りた。エレベーターに乗り込み、なじみ深いフロアのボタンを押す。数字が一つずつ上がっていくのを見つめながら、妙に落ち着かない自分に気づいた。会えたとして――その時、私は何を言えばいいのか。何が言えるのか。あの時、あの決断は、私の独りよがりだった。……チン。エレベーターが目的の階に到着する。私は足を踏み出し、何度も彼が気だるそうにもた
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第390話

鷹はライターを指の間でくるくると回しながら、表情一つ変えずに言った。「俺にも、わからない」香織は吹き出すように笑った。「なにそれ?あんたみたいな人でも、人に振り回されることあるんだ?」「……彼女には、無理はさせたくないだけだよ」「はいはい、そういうのいいって」香織は一気に突っ込み、あからさまに笑い出す。「あんたさ、彼女が今日あのホテルに来るって分かってて、わざわざそのボロ車で目立つようにして行ったでしょ。追ってくるの、待ってたんじゃないの?」「……」「で、いざ来たら、今度はこの部屋で拗ねて、会いに行きもしないってわけ?」「……」「鷹」香織は急に立ち上がって、指をさして言う。「もしかして、押してダメなら引いてみろとか、そういうやつ?」「……」鷹はその手を軽くはたき落とし、わざとらしく落ち着いた声で返した。「お前、彼女より妄想力あるな」あの時、彼女が江川のもとへ戻ったのは、本当に迷いのない決断だった。すべてを断ち切るように、自分との連絡も絶った。花が自分の訃報を伝えようと電話をかけたときも、出たのは江川だった。……そして、誰にも言っていないことがある。あの後、どうしても耐えきれず、深夜に一度だけ電話をかけたことがあった。それも、出たのは江川だった。……私は階下に戻り、来依の車に乗り込んだ。助手席のドアを閉めると、彼女がちらりと私の顔を見て言った。「……誰もいなかったの?」「いたよ」「でも、なんか顔が微妙。期待外れだった?」「鷹じゃなかったの」シートベルトを締めながら答える。「たぶん、あの家、もう売ったんだと思う。ドアを開けたのは女の人だった」きっとこの部屋には、「彼を見捨てた私」の痕跡が残っていて、置いておくのも気が引けたんだろう。来依はうん、と頷いて、車を発進させた。しばらく走ったところで、ふと思い出したように口を開く。「で、その女の人、若かった?綺麗だった?」「うん。綺麗だったよ。たぶん、私たちと同じくらい?」「じゃあさ、鷹の彼女とか、なんかそういう関係の人って考えなかった?」「……」私は少しだけ黙り込んだ。正直、その可能性は考えてなかった。でも――二年もあれば、人の状況なんていくらでも変わる。宏が私
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