All Chapters of 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った: Chapter 411 - Chapter 420

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第411話

怜太がいち早く反応し、ソファからひょいと飛び降りて、嬉しそうに玄関へ駆けていった。「ありがと、鷹さん!」届いたのは、私が注文したデリバリーだった。私は受け取ってドアを閉め、怜太の頭を軽く撫でる。「おじさんに会いたかった?」「えっと……違うよ」怜太は首を振る。「鷹さんじゃなくて、鈴さんと一緒にいたいの。鈴さん、今夜一緒に寝てもいい?」「それは、おじさんに聞いてからね」私は彼の手を引いてダイニングへ向かい、山田先輩に声をかけた。「先輩、大阪の地元のレストランから頼んだんだ。食べてみて」「うん、いただくよ」山田先輩は食にうるさくない人で、大抵のものは口にする。彼が私の隣に座ろうとした瞬間、怜太が椅子によじ登って、山田先輩の腰をぽんぽんと叩いた。「おじさん、向こうの席に座って?僕、鈴さんの隣がいいの」山田先輩はその姿を見下ろしながら、怜太のほっぺをつまんで微笑む。「わかった」料理は五品とスープ一つ、気楽な食事だった。怜太はとてもお利口で、スプーンを渡せば、自分で器を抱えてぱくぱく食べる。せいぜい、料理を取り分けてほしいときだけ、私のことを呼ぶくらい。「ねえ鈴さん、じゃあ鷹さんの夜ごはんはどうするの?」食事の途中、怜太がふと思い出したように、まんまるな目でこちらを見上げてきた。「鷹さん、かわいそうだよ。自分でごはん作れないもん……」「デリバリーくらい頼めるんだよ」私は微笑んで言う。「それに、家にお客さんが来たら、まずはお客さんをおもてなししないとね?」「そっか、鷹さんは家族だもん!」怜太は満面の笑みでスプーンをぶんぶん振った。「じゃあ気にしなくていいや!」そのとき、山田先輩の表情が一瞬だけ固くなった。「君と鷹、付き合ってるの?」「ううん」私は笑って首を振った。「ただ、同じマンションに住んでるだけ」山田先輩は少し考え込むように頷き、笑った。「じゃあ今はすぐそばに住んでるんだ。そりゃアプローチしやすいよな」「先輩」私は苦笑しながら、何か言おうとしたところで、玄関のチャイムが再び鳴った。怜太がお尻をふりふりして玄関に向かおうとしたのを、私は押さえた。「ちゃんと食べて。私が行くから」おそらく、鷹が会議を終えて迎えに来たのだろう。私は立ち上
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第412話

鷹は理不尽だった。「やめて」私は彼を見て、そう言った。大学時代も、二年前も。私を助けてくれたのは、いつも山田先輩だった。もし彼があの時、私を救い出してくれなかったら。必死で医者を探し、恩師を紹介し、仕事での達成感を与えてくれなかったら。私はきっと、あの鬱の底から這い上がれなかった。恋愛として報いることはできなくても、その恩を忘れてはいけない。ましてや今日は、彼がわざわざシロを届けてくれた日なのに。けれど鷹は、まるで聞こえていないかのように、手を離そうとしなかった。私は少し困りかけたところで、山田先輩の声がした。「大丈夫。ご飯食べてて」そう言って、彼は靴を履き替え、何も言わずに去っていった。玄関の扉が閉まった瞬間、胸の奥にチクリとした罪悪感が湧いた。私はそのまま、鷹の手を振り払った。「……満足した?」「まあ、悪くないかな」鷹はじっと私を見て、意味ありげに言う。「怒ってる?」怜太がそばにいることも、彼の身体のことも気にして、私は首を振った。「怒ってない。食べよう」そう言って席に戻り、無言で箸を動かした。夕飯を終える頃、鷹がぼそりと口を開いた。「……俺が送らせなかったから、怒ってる?」「だから、怒ってないって」「怒ってないくせに、さっきからずっと無口だよな」「別に話すことなかったし。誰だって、黙って食べるときくらいあるでしょ」彼は鼻で笑った。「俺の悪口まで言われてたのに、それには怒らないで、俺が送らせなかっただけで怒るって、どういうこと?」「違うよ……」私は唇をきゅっと引き結び、言った。「ただ、山田先輩にはたくさん助けてもらったから。最低限の礼儀ぐらい、ちゃんとしたかっただけ」「ふうん。で、俺には?」「鷹さん……」リクライニングチェアでお腹をさすっていた怜太が、小さな声で口を開いた。「もう、やきもちやかないでよ。鈴さん、言ってたよ?あのおじさんはお客さんで、鷹さんは家族だって」鷹は眉をひそめて私を見た。「……本当?」私は答えなかった。「本当だよ。さっきのおじさんも聞いてたもん」怜太は胸を張って答え、彼の袖をちょこんと引っ張った。「鷹さんさ、僕ね、パパがどうして離婚されたか知ってるんだ」「……古臭いからだろ?」「
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第413話

私の目がじんわりと潤み、胸の奥を何かに鋭く引っかかれたような痛みが走った。――いっそ、もう全部話してしまおうか。たとえそれが彼の病状に影響を与えるとしても、一緒に向き合えばいい。夜な夜な疑って、私を薄情な女だと思い込まれるより、ずっといい。「違うの、鷹。この二年間、私は……」そう口にしかけたとき。「もういい」鷹は薄く笑った。そこには嘲りが滲んでいた。目の端は赤く染まっている。「俺は最初からお前に期待なんてしなきゃよかったんだな」――その言葉は、あまりにも痛かった。私はぎゅっと目を開いたまま、指で目頭を押さえて涙を引っ込めると、無理に笑って言った。「そう言うなら……そうかもね」この二年間、私はあちこちで彼の行方を探した。けれど何一つ掴めず、まるで何もしてこなかったような日々だった。自分がしてきたことを、今さら彼に伝える必要なんてない。どうせ彼の目には、私は冷たい人間にしか映っていない。彼が行方不明になった直後、すぐ他の誰かと幸せに暮らしていた――そう思ってるんでしょ。なら、もう何を言っても無駄だ。「そうか」鷹が低く笑った。言葉には、怒りと諦めが混じっていた。そして次の瞬間、彼はぐっと腕を伸ばして私の手を掴み、力任せに引き寄せて顔を近づけさせた。そのまま、大きな手が私の後頭部を押さえつけ――鷹は、私に噛みついた。そう、噛んだ。キスなんかじゃない。愛情でも、優しさでもない。唇の隙間から、血の鉄臭い味がじんわりと広がっていく。思わず息を呑んだ。痛みで身体が震える。けれど、彼の足のことを考えて、強く突き放すことはできなかった。私は自分で距離を取り、ようやく彼から離れた。鷹の目は深く沈んでいた。そして、低く鋭い声で言った。「お前が南だろうが奈子だろうが関係ない。俺以外の男と一緒にいた時点で、それはもう許されることじゃない」そう言い放つと、彼は車椅子を操作して背を向け、去っていった。私は指で唇をそっとなぞった。赤く染まった指先に、思わず苦笑がこぼれる。「怜太、まだお風呂入ってるよ」「最近忙しいんだ。お前が見ててやってくれ」振り返ることなく、鷹は言い捨てた。鷹が帰宅した家は、真っ暗だった。外の窓から差し込む星の光だけが、かすかに
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第414話

「そう」香織がうなずいた。「私の知り合いが、京極佐夜子とイベントでちょっと話す機会があってさ。運よくLINEも交換できたんだけど……その子が言うには、去年彼女がなんか投稿してたらしいのよ」「どんな投稿?」「半年しか表示されない設定だったから、細かい内容は覚えてないらしいけど……「天からの贈り物」みたいな感じのことが書いてあったって。写真には、京極さんと若い女の子が写ってた。たぶん二十代くらいの子」「贈り物……?」鷹は目を細め、手元の写真を一枚送信した。「この人かどうか、確認してもらって」「了解」香織はすぐに写真をその子に転送しながら、首をひねった。「にしてもさ、この子もう二十代でしょ?それで天からの贈り物って、何がそんなに驚きなのよ。まさか、今までずっと父親側にいたとか?」「もう少し調べてくれ」鷹の指先が、車椅子の肘掛けを不規則に叩いていた。なにか、説明できない違和感がある。つい二年前まで、藤原家の偽の娘として暮らしていたはずの子が、今は突然、京極佐夜子の実の娘だと言う。どう考えても、どこかおかしい。――たぶん、機会を見て直接会ってみるべきだ。そのタイミングで香織のスマホが鳴った。向こうから連絡がきたらしい。通話を終えた香織が、すぐに鷹へ向き直った。「ビンゴ。あんたが送ってきた子、京極佐夜子の投稿に載ってたのと同一人物だって」……「鈴さん!」ぼんやりとソファに座っていた私の耳に、ふわっとした可愛らしい声が届いた。顔を上げると、怜太がちょこんと頭をのぞかせて、ちょっと恥ずかしそうに言った。「僕、服ないの忘れちゃった」「私が探してあげるね」私は部屋に戻って、適当なTシャツを一枚手に取る。「とりあえずこれ着て。すぐに新しいの買おうね?」鷹の顔はずっと曇ったままだったし、今さら彼のところまで服を取りに行くなんて、自分から火に飛び込むようなもんだった。今はネットで何でも買える時代だ。注文して、洗って、乾燥させれば今夜には着られる。「うんっ!」怜太は元気よくうなずいた。その拍子に、頭に泡がまだ残っているのを見つけて、思わず笑ってしまった。「ちょっと待って、まだ泡ついてる。もう一回、ちゃんと流そう」再びバスルームに戻ってひと騒動。そのあと
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第415話

「え?もう知ってたの?全然サプライズにならないじゃない」京極さんは少し意外そうに笑った。「菅さんが搭乗前にSNSに投稿してたのを見ましたから」「そっか」京極さんは穏やかに笑い、「こっちに来たのは少し仕事もあるんだけど、前にも菅から聞いたでしょ?夏美が大阪をすごく気に入ってるって。それで今回、何件かマンションを見て、こっちに移住するのもアリかなって考えてるの」その言い方は、どこか少し複雑だった。まるで、長い間心の中で迷い続けた末の決断――本音では大阪が好きなわけじゃない、でも娘の望みを叶えるためだけに、ここを選ぼうとしているような。私はうなずいた。「娘さんのこと、すごく大切にしてるのが伝わってきます」「そうね。だって、たったひとりの娘だから」その言葉に、京極さんの声はふっと柔らかさを帯びた。「彼女のためなら、私はなんだってするつもりよ」「本当に、いいお母さんだと思います。じゃあ今回は、大阪に少し長めに滞在される予定なんですね?」「特に何もなければ、そうなるかな。どうかした?」「ドレス、今ちょうど裁断に入ったところなんです。一週間くらいで仮縫いに入れると思うので、その時にご試着いただければ、もし気になる点があれば微調整もできます」確か、京極さんが出席するのは今月開催予定の、かなり格の高い映画賞のレッドカーペットだった。彼女はそこで、審査員を務める予定だ。「うん、楽しみにしてる」京極さんは笑ってうなずき、ふと話題を変えた。「今日電話したのは、もうひとつ理由があるの」私は首をかしげた。「なんでしょう?」「明日、業界関係の晩餐会があってね。表に出てる人も裏方も、けっこう顔が揃うの。あなた、出てみたいと思わない?」「え……」一瞬思考が止まって、それからすぐにピンときた。「……もしかして、国内のマーケットに出るきっかけを作ってくださるんですか?」私は海外では名前が知られているけど、国内ではまだ業界関係者くらいしか知られていない存在。正直、一般の人たちからすれば、私は存在していないのも同然だった。それもそのはず。これまで師匠の意向で、基本的に仕事は海外案件に絞られていたし、「南希」という名義で続けること自体も、特別に許された例外だった。師匠はずっと言っていた――「
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第416話

娘を自分のもとに迎え、彼女がこれまでいかに過酷な人生を歩んできたかを知ったとき、佐夜子は心に決めた。この子には、世界で一番いいものを与える、と。実の娘として迎えてから、まだ一年あまり。もしもこのタイミングで、もう一人義理の娘を持つようなことになれば、夏美がどう思うかは火を見るより明らかだった。菅は女性用の細い煙草に火を点け、ゆったりと紫煙をくゆらせながら言った。「ずっと思ってたんだけど……あなたと夏美、なんだか噛み合ってないよね」佐夜子は軽く目を細めた。「どういう意味?」「清水さんと話す時、あなたすごく自然でしょ。口調も柔らかいし、何かと気を配ってるのが伝わってくる。でも夏美には……なんていうか、『ちゃんとしなきゃ』『補わなきゃ』って気持ちが先に立ってるように見えるんだよね。で、夏美の方は……」菅は煙を吐き出しながら、少し声を潜めた。「はっきり言うけど、あの子、あなたのこと金ヅルくらいにしか思ってないんじゃない?」佐夜子は一瞬黙り込んだ。その視線が遠くに向かう。「……私が悪いのよ」低く、苦しそうな声だった。「彼女があんな人生を送ったのは、突き詰めれば私のせい。母親としての責任を果たせなかった。それを今になって埋め合わせようとしてるだけ。……だから、彼女が私に愛情を持っていなくても、当然なのよ。時間をかけて、少しずつ信頼を築けばいい」「まだそんなこと言ってるの?」菅はやや呆れたような口調だった。「この一年で、あなたがあの子にどれだけ金を使ったか、覚えてる?今日は都心にマンションが欲しい、明日は飛行機の座席が狭いってプライベートジェットを買いたいって……バッグやジュエリーは日常茶飯事。あの子、口を開けば望みは叶うって思ってるでしょ?」――それは、普通の家庭なら一生かけても届かないレベルの贅沢だった。京極夏美は、まるでそれが当然であるかのように、日々それらを享受していた。菅が怒っているわけではない。ただ、佐夜子のこれまでを知っているからこそ、悔しくなるのだった。佐夜子が芸能界に入った当初、無名もいいところの若手女優で、その美貌だけが唯一の武器だった。雪の降る夜に、夏物の衣装で一晩中待機。主役の一言で、理由もなく仕事を失い、40度の高熱を出しても病院にも行けず――あの頃を
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第417話

「うん、彼女、出席するって」「……そう」夏美は心の奥で静かに歯ぎしりした。その女が空気を読まず、しつこく母に近づこうとするなら、もう遠慮する必要なんてない。藤原家を取り逃がした時の失敗は繰り返さない。今度は絶対に、京極佐夜子という藤原家以上の「大船」を手放さない。……電話を切ると、来依がすかさず顔を寄せてきた。「なに?そんなに笑って。いいことでもあった?」「京極さんが、手を貸してくれるって」私はスマホを置きながら答える。「明日、一緒に晩餐会に行くことになったの」「最高じゃん!」来依は私と同じように喜んだ。「どうやって南を国内で売り出すか、ずっと悩んでたんだけど……賞を引っさげて商談に行くのもいいけどさ、それってちょっとカッコ悪いっていうか、向こうから見たら押し売りみたいでしょ」「そう。オーダーメイドにお金出すような人たちは、格を求めてるの。自分から出向いてくる相手なんて、軽く見られるに決まってる」仕事の話になると、来依の分析はいつも冷静で的確だった。「京極さんは、絶好のチャンスよ。彼女の隣に立っているだけで、名乗らなくても誰かが勝手に『この人誰?』って調べ始める」「うん、私もそう思ってる」本来なら、月末の授賞式を終えた後、その勢いで国内市場に少しずつ踏み込むつもりだった。けれど、どうやらそんなに待つ必要はなさそうだった。……翌日の午後。私は早めに支度を始めた。唇の傷を丁寧に隠すよう、入念にメイクを施し、Daveが自らデザインしたオフショルダーのマーメイドドレスに袖を通す。一見シンプルに見えるが、見れば見るほど引き込まれるディテールに満ちた一着だった。準備を終えた私は、来依と怜太を連れて一緒に階下へ。前夜のうちに決めていた通り、私は晩餐会に向かい、怜太は来依に連れられて、新しくオープンしたウルトラマンのテーマレストランへ。ただ、建物を出た瞬間、見覚えのある車が目に飛び込んできた。そしてその車にもたれている男――彼もまた、見慣れた存在だった。江川宏。高級スーツに身を包み、長い指先で火のついた煙草を持ち、俯き気味に佇んでいたが、その上から抑え込むような雰囲気は、相変わらずだった。「鈴さん~!怜太、恋しくなるよ~!」私は彼の頭を優しく撫でた。「うん
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第418話

ホテルに向かう車内、運転席ではドライバーが静かにハンドルを握っていた。後部座席では、私と宏が並んで座っていた。彼は終始無言で、ふと私のほうをちらりと見ることはあっても、言葉を発することはなかった。私も、彼と話すべきことなど何もなかった。ちょうどよかった。沈黙を保ったまま、車は目的地へと進んでいった。ホテルまでは、それほど遠くなかった。無言のまま、車は静かに停まった。「さっきのあの子、服部の甥か?」長い沈黙を破るように、くぐもった低い声が車内に響いた。私は顔を上げ、その視線と交わった。彼の黒い瞳には、どこか複雑な影が揺れていた。「ええ、彼のお姉さんの子よ」宏は、どこか苛立ったようにタバコの箱を取り出し、一本咥える。だが、火をつけようとして一瞬私を見やると、そのまま手を止め、イライラしたようにそれを揉み潰して灰皿に放った。それからまた私をじっと見つめたまま、躊躇いながら、ようやく口を開いた。かすかに震えを含んだ声だった。「……君と服部、付き合ってるのか?」私は静かに彼を見返した。罪悪感も気まずさも、何ひとつなかった。時が流れ、いろいろなものが変わっていった。ただ、それだけだ。彼が誰かと一緒になるのも、私がそうなるのも、不思議なことじゃない。隠すつもりも、誤魔化すつもりもなかった。「まだよ」私は穏やかに微笑んだ。「まだ……?」彼はその言葉に反応し、目を細めた。私は頷き、率直に答えた。「ええ。彼との間には、まだ解けてない誤解があるの」宏は喉を鳴らし、乾いた声で言った。「……で、その誤解が解けたら?」「きっと、付き合うことなると思う」私はまっすぐ彼を見て、静かに言った。「結婚して、子どもを持つかもしれない。わからないけど、少なくとも、今の私の人生設計には、それが含まれてる」その瞬間、車内の空気が凍りついたかのようだった。宏はまるで時が止まったかのように動きを止め、ただ黙っていた。夕暮れの影に沈むその姿は、どこか憔悴して見えた。やがて、彼は長く息を吐いた。その息には、抑え込んだ何かが滲んでいた。「……じゃあ、俺は?」かすれた声が漏れる。「南、君はもうとっくに前に進んでる。でも俺は、まだずっと同じ場所に立ち尽くしてる気がするんだ」
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第419話

しばらく、宏は何も言わなかった。何を考えているのか分からないまま、長い沈黙が流れる。やがて、彼は低い声でぽつりと口を開いた。「……痛かったか?」私は首を横に振った。「もう、痛くないよ」けれど彼も、同じように首を振る。「違う。俺が聞きたいのは、あの時だ。あの時は、痛かったのか」「……まあ、そこそこ」唇を軽く舐めてから、私は続けた。「でも、あれは一番じゃなかった」「覚えてる……」彼の声には、わずかに鼻にかかったような響きがあった。「君、採血のときでさえ、針を刺されるのを怖がってた」思わず、笑ってしまう。「あの頃はね。今は、あんまり怖くない」いろんなことが次々と起きて、気づけば痛みなんて、いちばん分かりやすい感覚だと思うようになった。怖がるほどのことじゃない。あの頃、フランスに着いたばかりの私は、こっそり薬をやめてしまっていて、感情のコントロールもできていなかった。その時は、痛みなんて考える余裕すらなかった。気づいたときには、もう刃は肌に食い込んでいた。そんな話をしているうちに、車は駐車スペースに滑り込む。運転手が外に出て、私の側のドアを開けてくれた。バッグを手に取り、ドレスの裾を軽く持ち上げて車を降りる。数歩進んでから、すでに外に出ていた宏を振り返った。「送ってくれてありがとう。私は先に京極さんを探しに行くね」そう言い終えると、返事を待つこともなく、ヒールを鳴らして歩き出した。背を向けたその瞬間、ふと気づく。――自分が、もう以前とは違うということに。どこが、とは言えない。けれど確かに、何かが変わっていた。晩餐会の会場に足を踏み入れると、視線を一巡させる。見知った俳優や監督の顔が大半を占めていた。その中に、数人だけ、見慣れない若い顔。デビューしたばかりの新人だろう。きっと、どこかの大物に連れられて、顔を売りに来たのだ。京極さんは、ワイングラスを手に、ひっそりとした場所に立っていた。それでも、気づけば人が自然と集まってくる。「清水さん」入口の方を気にしていたのだろう。私を見つけると、すぐに手を振った。「早く、こっち!」「京極さん」笑顔で近づき、ふと彼女のドレスに目が留まる。――見覚えがある。以前、私
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第420話

「逸子!」京極さんが彼女の額を指で軽くつつく。「もしかして、ネットに出回ってる私の悪い噂、流したのあなただったりして?」そのとき、不意に宏がワイングラスを手に現れ、少し離れたところからグラスを軽く掲げた。「京極さん。お久しぶりですね」けれど、その視線は時おり私のほうへ流れていた。「江川さんが今夜いらっしゃるなんて、思ってもみなかったわ」京極さんは少し驚いたように言いながら、彼の意図を一瞬で見抜いた。だが、それを言葉にすることはなく、さらりと尋ねる。「いつからエンタメ業界にご興味を?」「ちょっと、分け前にあずかろうかと思いまして」宏は穏やかに微笑みながら言う。「もっとも、京極さんが許してくだされば、ですが」言外に、RFが芸能界に進出する意思を示していた。先輩である京極さんに対して、礼儀として一声かけに来たのだ。将来、どこかで競合することがあっても、角を立てないように。京極さんはくすっと笑って言った。「江川さん、冗談ばっかり。どの業界だって、結局は実力勝負だから」少し離れた場所から、その様子をじっと見ていた夏美は、悔しさで奥歯を噛みしめていた。母はあの女のために、ありとあらゆる手を尽くして道をつないでいる。それだけじゃない。あの江川宏まで、あの女に夢中だなんて。――なんでよ?ちょうどそのとき、菅が洗面所から出てきて、彼女のそばを通りかかる。「夏美、どうして行かないの?お母さん、さっきあなたのこと探してたよ」夏美はお腹を押さえながら、小さくうめいた。「菅さん……急にお腹が痛くなって、ちょっとトイレに……」「そうなの?分かった。でも、何かあったらすぐ電話してね」「うん、ありがとう!」ぶんぶんと頷いてから、夏美は足早に洗面所に向かった。扉の内側に背中を預け、そっと手のひらを開く。そこには、小さな白い粉の袋。――その瞬間、スマホが震えた。画面に表示された名前を見て、夏美の唇がふっと歪む。「もしもし、もう着いた?」『急な用事が入って、行けなくなった』電話の向こうは男の冷たい声だった。『彼女は今日、服部鷹と一緒に来たのか?』――服部鷹、また服部鷹。そんなにあの男のことが気になるわけ?結局、嫉妬してるってことでしょ。自分の今の立場
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