All Chapters of 離婚協議の後、妻は電撃再婚した: Chapter 501 - Chapter 510

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第501話

「救急箱が来た!」メイドが救急箱を真奈の前に差し出した。ちょうどそのとき、外から幸江と伊藤も到着した。荒れ果てた屋敷の中を目にした幸江は一瞬言葉を失い、二人とも強盗の正体が誰であったかをすぐに悟った。「私の車で行きましょう。救急車がいつ来るかわからないから」幸江は眉をひそめながら言った。「ありがとう」真奈は警備員に指示を出し、冬城を幸江の車まで運ばせた。病院では、医師たちがすぐに冬城の応急処置を開始した。幸江は真奈に寄り添い、廊下のベンチに腰を下ろして声をかけた。「大丈夫よ。さっき先生も言ってたじゃない。致命傷じゃないって」「でも、出血が多すぎると命を落とすこともある」真奈は眉間を押さえながら尋ねた。「伊藤は?」「智彦は……用事があって一度戻ったわ」「黒澤を探しに行ったの?」真奈も幸江も、それ以上言葉にせずともわかっていた。今日冬城家に押し入った強盗の正体は、黒澤だった。今回の黒澤の行動はあまりにも軽率だった。どう見ても衝動的な犯行で、この一撃は冬城の命を奪わなかったとはいえ、予期せぬ事態が起こる可能性は誰にも否定できない。「ご家族の方はどなたですか?」医師が手術室から出てきて言った。「患者さんは入院が必要です。ご家族の方にサインをお願いします」「私がサインします」真奈は一歩前に出て、書類にサインをした。そして医師に尋ねた。「彼はいつ頃目を覚ましますか?」「麻酔がまだ切れていないので、夜中過ぎになるでしょう」「わかりました。では、私が付き添います」「真奈!」幸江は心配そうに真奈を見つめた。真奈は振り返り、彼女に向かって言った。「黒澤のことは伊藤に任せましょう。冬城の容体が落ち着いたら、私は帰ります」「でも……」二人ともわかっていた。黒澤のあの気性を。彼が冬城家にまで乗り込んだということは、それだけ怒りが深かったということだ。これは伊藤と黒澤の十年来の友情だけでは、とても収まる問題ではない。「帰ったら伊藤に伝えて。今回の黒澤はあまりにも衝動的で、証拠もたくさん残しているはず。彼に処理をお願いして。警察が介入すれば、黒澤はかなり不利な立場になる」その言葉に、幸江はうなずいた。「わかった。帰ったら伝えておくね」真奈はそれ以上何も言わず、黙っていた。このとき、手術を終えた冬城
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第502話

真奈は病床で意識のない冬城をちらりと一瞥し、淡々と言った。「いい。元気になったらまた来る」そう言い残して、何の未練も見せることなく病室を出ていった。そのとき、病床に横たわっていた冬城が、静かに目を開いた。その光景を目の当たりにした中井は、思わず呆然とした。「総裁……?なぜ……」「起こしてくれ」冬城の声はかすれ、掠れていた。中井は慌てて駆け寄り、彼の体を支えながらゆっくり起こした。そして、思わず訊いた。「総裁、これは……苦肉の策だったんですか?」冬城は黙ったままだった。あのとき、彼はすでに異変に気づいていた。警備システムの警報はすでに作動しており、冬城家に侵入できる人間は黒澤しかいない。彼にだけ、それができる力がある。強盗団が突入してきたとき、あの一撃は、彼の身体能力なら十分にかわすことができた。しかし彼は避けなかった。正面から、あえてその刃を受けたのだ。ただ、それだけが知りたかった。真奈が、自分のことで動揺し、心を痛めてくれるかどうかを。冬城の口元に、苦笑ともつかない淡い笑みが浮かんだ。「中井……真奈の心の中に、俺はまだいるよな」「総裁……」中井はしばらく黙ったあと、静かに言った。「やっぱり……奥様は以前から社長のことをお慕いしてましたから。社長が怪我をすれば、奥様が気にかけるのも当然です……」「気にかけてる……?」冬城は低くつぶやいた。「気にかけてるなら、あいつ……帰ったりしない」冬城の顔色は蒼白かった。すでに意識は戻っていたとはいえ、受けた傷は紛れもない本物だった。真奈は賢い。きっと、さっき中井とのやりとりから何かに気づいたのだ。だからこそ、あえて身を引いた。「もう疲れた。退院手続き、してくれ」「ですが総裁……」「言ったとおりにしてくれ」「……かしこまりました」一方その頃、病院の廊下。真奈がエレベーターに乗ろうとしたその瞬間、暗がりから伸びてきた人影が、彼女の腕を掴んだ。眉をひそめた真奈がまだ言葉を発する前に、相手はそのまま彼女を壁に押しつけた。「黒澤……」真奈は低く問いかけた。「あなたなの?」その言葉に、男の体がピクリと硬直する。真奈の問いは図星だった。暗闇の中で、黒澤はようやく仮面を外した。その顔が露わになった瞬間、真奈は怒りをあらわにした。「誰が病院で勝
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第503話

「証拠残したらどうするつもり?そんなの考えた?私にもう危ないことしないって、約束したよね?」今日、黒澤が連れてきたのは、以前彼のそばにいた命知らずの連中だった。真奈は一度も見たことのない顔ぶれだ。しかし真奈は知っていた。前世では、黒澤が海城に来たのには、本当は別の目的がある。そして彼の標的は、ずっと冬城だった。その目的がなんなのか、今の彼女にもまだわからない。けれど、ひとつだけ確かなことがある。黒澤は海城の覇者になろうとしている。そして、一番の邪魔者が冬城司だ。予想外だったのは、今世ではこれほど多くのことが起こり、未来の道筋が大きく変わったにもかかわらず、黒澤の狙いだけは一切ぶれていなかったこと。そして、あれほどの危険な勢力を密かに従えていたという事実だった。あの命知らずたちのうち、誰かひとりでも捕まってしまえば、黒澤は滅びるかも知れない。未来のことなんて、考えるのも怖かった。真奈は目の前の黒澤をじっと見つめた。彼が何を言うのか、待っていた。しかし、黒澤は何も言わないまま黙っていた。すると真奈は、真正面から問いかけた。「海城で、他にやらなきゃいけないことあるんでしょ?」「……ああ」「海外ですでに一方の覇者なのに、なんでわざわざ海城に来るわけ?出雲だって臨城じゃ思い通りにできてるのに、何年も前から海城を狙ってる。海城には何があるの?金?それとも権力?」真奈の問いかけに、黒澤は再び沈黙した。「言いたくないなら、もういい。私には、あんたたちみたいに海城を獲るとか、そういう野望なんてないの。ただ、平穏な未来が欲しいだけ。私と、瀬川の家族がずっと安全に暮らせるように、お父さんの築いた会社を守っていきたい。それだけ」真奈の声は、いつの間にか冷えきっていた。「あなたと一緒にいると、未来が不安すぎる……もう、やめよう」その最後の言葉を口にした瞬間、黒澤の手が彼女の腕を強く握りしめた。「時間をくれ。ちゃんと片付ける」「もう十分あげた。覚えてる?あなた、前に言ったよね。過去とはきっぱり手を切って、私に安定した未来をくれるって。でも、約束、破ったじゃん」真奈の顔には、もはや感情は浮かんでいなかった。二度目の人生。彼女はもう、自分が本当に望むものを知っていた。そして、それを黒澤には与えられないことも。真奈はそのままエレベーター
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第504話

目の前に建っていたのは、ごく普通の別荘のように見えた。だが、このあたりは海城でも最上級の一等地。ここに建つ別荘は、どれも一棟数十億円は下らない。住めるのは、財か権力を持つ者に限られている。けれど、この場所はどうにも人が頻繁に出入りしている気配がなかった。「佐藤さん、こんな趣のある家持ってるんですね」「これは私のものではありません」佐藤茂はあくまで淡々とした口調だった。真奈が反応するより先に、彼はポケットから鍵を取り出す。軽く咳をして、その顔色はどこか優れない。そのまま玄関のドアに鍵を差し込み、静かに開いた。真奈は一歩前に出て、問いかけた。「こちらは、あなたのお宅ではないのに……どうして鍵をお持ちなのですか?」「友人から預かっているだけです」佐藤茂が友人と呼べる人物など、この海城には数えるほどしかいない。真奈の脳裏に、まず浮かんだのは黒澤の名だった。佐藤茂が静かに玄関の鍵を開けると、真奈もその後に続いて中へと入った。外から見たかぎりでは、どこか質素な造りだったが、いったん中に足を踏み入れれば、その印象は一変した。調度のひとつひとつが洗練されていて、年月を経ても色褪せない美しさを保っていた。佐藤茂が明かりをつけると、真奈は周囲を見回した。どこも綺麗に整っていて、長く放置されていたようには思えない。佐藤茂はここに何度も足を運んでいることは明らかだった。真奈の疑問をたたえた視線に気づいた佐藤茂は、静かに言った。「定期的に人を入れて掃除させています。中の様子も、昔のまま何も変えておりません」「ここ……もしかして、以前黒澤がお住まいだった場所ですか?」真奈は黒澤からこの家のことなど一度も聞いたことがなかった。以前、クルーズの上で彼がわずかに触れたことはある。しかし、それ以上のことは彼女の知るところではなかった。佐藤茂は真奈をリビングのソファへと案内した。座った真奈の視線は、ふと壁にかけられた一枚の結婚写真に引き寄せられた。写真には、妊娠中の女性が写っていた。清楚な顔立ちに、穏やかなまなざし。そして、その隣に立っていたのは――何年も前にすでにこの世を去った、黒澤家の長男であり、前代の当主――黒澤修介(くろさわ しゅうすけ)だった。「ここは……」「ここは、黒澤おじさんご夫婦がご結婚された当時のお住まいです」佐藤茂は、ど
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第505話

真奈は、長いこと思い出すこともなかった。何年も前、自分がまだ幼かった頃に起きたあの交通事故のことを。あの事故で両親を失って以来、それはただの不幸な出来事、単なる事故だと信じて疑わなかった。けれど今――佐藤茂が目の前に座り、それが偶然ではなく、周到に仕組まれた陰謀かもしれないと告げたのだ。「黒澤のご両親は、あの事故で亡くなったとされていますが――それは偽装でした。妊娠中だった黒澤夫人は生き延びていたのです。あの連中に気づかれないように、そして彼女が安心して出産できるようにと、前々代当主は彼女を国外に送りました。その後、間もなく黒澤が誕生したのです」世間で語られていた噂では――黒澤遼介の母は、黒澤修介が外に囲っていた愛人で、黒澤家を深く恨み、息子に復讐を吹き込んだ狂人とされていた。実際、あのクルーズ船の上で、黒澤本人も「それは外部の根拠のない噂に過ぎない」と明言していた。黒澤の母は愛人などではない。正真正銘、黒澤修介の正妻――黒澤夫人その人だったのだ。「……ですが、まだ教えていただいていません。いったい誰が、黒澤さんのご両親を殺そうとしたのですか?そして、私の両親がその件にどんな関係があるのですか?」真奈は、どうしても知りたかった。あの頃、何が起きていたのかを。佐藤は手元の指輪を静かに指で回しながら、ゆっくりと口を開いた。「黒澤家の前々代当主の前の代――いくつかの名家が、海城に隠されたある秘密を共同で守っていたのです。その名家とは、佐藤家、黒澤家、伊藤家、そして……瀬川家です」「瀬川家」という言葉を聞いた瞬間、真奈は驚いて顔を上げた。佐藤茂は淡々と語り続けた。「黒澤家は軍部として、最も重要な情報を握っておりました。そして、瀬川家は代々続く学問の家柄です。あなたが冬城家に嫁がれたのは、冬城家が海城における瀬川家の百年にわたる基盤に価値を見出したからでしょう。近年、瀬川家は没落したとはいえ、あなたは瀬川家のお嬢様として、その過去の栄光をご存知のはずです」瀬川家のかつての繁栄を、真奈は確かに覚えていた。あの頃、家には立派な持仏堂があり、父はよく彼女を連れてお参りに出かけていた。年末年始になれば、必ず家族揃って本家に戻るのが恒例だった。しかし、その本家にも、父が亡くなってからというもの、真奈は一度も足を運んでいない。「私が知りたいのは
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第506話

「瀬川さん……これ以上は、お聞きにならない方がいいと思います」佐藤茂の顔は紙のように白く、今はさらに憔悴して見えた。「たとえ真相を知ったところで、何も変わりません。……平穏に暮らしていくことの方が、よほど幸せではありませんか?」「でも、私は瀬川家の娘です。亡くなったのは、私の両親です。真実を知る権利は、私にあるはずです!」真奈の揺るがない意志を前に、佐藤茂は机の角に手をかけてなんとか体を支え、車椅子へと腰を下ろした。「……四大家族のことなら、お話できます。しかしご両親を殺したのが誰かは、本当にわかりません。長年調べ続けていますが、黒澤おじさん夫婦の死の真相ですら、未だに辿りつけていないのです」その目に、嘘をついているような気配はなかった。真奈は少し黙り、そしてゆっくりと尋ねた。「では……四大家族のこと。当時何があったのか、すべてご存知なのですか?」「当時の恩讐や是非について、私は大まかには把握しています。黒澤家は軍を掌握し、絶対的な発言力を持っていました。佐藤家は情報網において突出した力を持ち、瀬川家は当時の当主の下で名を轟かせていました。いわば軍師のような存在です。伊藤家はもともと黒澤家の副将でしたが、資産も豊かで、人望もあり、四家の中でも特に関係が深かった。そうして、自然と四大家族と呼ばれるようになったのです」真奈は静かに耳を傾けていた。確かに、かつて叔父から聞いたことがある。あの時代――海城に根を下ろし、これほどの大企業を築き上げたのは、すべて先祖の卓越した手腕によるものだった。「黒澤家、佐藤家、瀬川家、伊藤家……その四家が線を結ぶように協力し、瞬く間に海城の頂点に立った。当時から、ある噂が囁かれていたのです。四大家族が短期間で海城を制したのは、大正時代の財宝を手にしていたからだと。その財宝は国家の富に匹敵すると言われており、それだけの資金力があれば、覇権を握るのも当然のことです」「大正時代の財宝……?そんな……」真奈は思わず口にしかけたが、次の瞬間、佐藤茂のどこか冷ややかな視線と目が合った。そのまなざしに言葉を飲み込み、彼女はすぐに頭を下げた。「……どうぞ、お続けください。もう口を挟みません」「噂というものは信じがたいものですが、だからといって全てが虚構とは限りません。海城には、確かに何かがある。それは今も受け継がれ、
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第507話

「冬城は……?黒澤は、なぜ冬城を狙うのですか?」真奈の脳裏には、前世の記憶が鮮明に浮かんでいた。黒澤が海城に現れてから数年――彼と冬城は、まさに互角状態だった。冬城家との暗闘は表にも裏にも明らかで、黒澤は冬城の明確なライバルだった。黒澤の本当の標的は、冬城なのでは?そう思い至った真奈は、緊張に手を握りしめながら、口を開きかけた。「もしかして……」「違います」佐藤茂は、彼女が言いたかったことを察したように、きっぱりと遮った。「黒澤は、あくまで疑っているだけです。確たる証拠は持っておりません。そもそも冬城家は、四大家族のひとつではありませんから。冬城家の台頭は、四大家族にとっても完全な予想外だったのです」「でも……冬城家も百年の歴史を持つはずです」「そのあたりは私にもはっきりとは言えません。ただ、家系図上では冬城家は四大家族には含まれていません。冬城家が勢力を拡大したのは、冬城のお祖父様の代からで、お父様の代でその力を極め、現在の冬城さんが今日の地位にまで押し上げたのです。実力は――四大家族に劣らぬほど強大です」ここまで話したところで、佐藤茂は軽く咳をしながら言った。「……お水をいただけませんか?」これまで長く話し続けていたことに気づいた真奈は、慌てて立ち上がり、水を手渡した。「では……つまり、黒澤は――冬城家がご両親を害したと疑っているということですか?冬城家が海城の宝を奪おうとした、あるいは――ただ単に、上位に立ちたかっただけだと?」二十数年前――黒澤家は、まさにその勢力が最も栄えていた時期だった。その頃の冬城家は、まだ海城の頂点には立っていなかった。だが――もし、その当時の黒澤家当主・黒澤修介と、まだ生まれていなかった黒澤遼介がいなければ……状況はまったく異なるものになっていたかもしれない。「……おそらく、黒澤もそう考えておられるのでしょう」佐藤茂は淡々と語った。「私は、当時の事件が冬城家と直接関係していたとは思っておりません。しかし、あの真相を本当に探ろうとするならば――黒澤は、海城の頂点に立たなければならないのです。その位置にいなければ、当時の関係者たちを引きずり出すことなど到底できません。事故を装い、黒澤の両親を手にかけるような人物が並の存在であるはずがありません。この海城で、無名でいられるわけがないのです
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第508話

「……そうかもしれませんね」「本当に……私の両親を殺した人物が誰なのか、ご存じないのですか?」その問いに、佐藤茂は一瞬だけ沈黙した。だが、やがてゆっくりと口を開いた。「……存じません」真奈は静かに眉をひそめた。そして無言のまま、佐藤茂を車まで送り届けた。運転手が佐藤茂を後部座席に丁寧に乗せる。そのあと真奈も車内に入ったが、胸の中にはなお拭えぬ疑問が渦巻いていた。この夜は、眠れぬ夜になるだろう。「……瀬川家の本家まで、送っていただけますか?」小さな声で真奈は言った。「ご住所を」真奈はスマートフォンを取り出し、瀬川家の本家の住所を佐藤茂に送信した。それを確認すると、佐藤茂は運転手に静かに命じた。「出発だ」「はい、旦那様」瀬川家の本家――そこは家の決まりで、基本的には正月にしか戻ることが許されていない場所だった。父が亡くなってから、真奈は瀬川叔父の家に身を寄せ、本家には一度も戻っていなかった。それに、そこは本家とは名ばかりで、実際に暮らした者は曽祖父の代までさかのぼる。それ以降、誰もそこに住み着いた者はいない。真奈にとって、その場所はただの見知らぬ邸宅に過ぎなかった。その別荘は都心の一角にあり、長年ほとんど人が足を踏み入れず、年に数回だけ掃除される程度だった。夜風が肌を刺すように冷たく、車を降りた真奈は、佐藤茂が掛けてくれたコートをぎゅっと体に巻きつけた。庭はすっかり荒れ果てていた。剪定の跡など見当たらず、園丁が何年も手を入れていないのは明らかだった。だが――その荒れ具合とは裏腹に、敷地全体の警備は驚くほど厳重に整備されていた。真奈は静かに佐藤茂の車椅子を押しながら、沈んだ夜の空気の中を進んでいった。この屋敷に入るには、瀬川家の鍵が必要だった。真奈はハンドバッグから、丁寧に包まれた古びた鍵を取り出した。この鍵は、彼女がずっと肌身離さず持ち歩いていたものだった。門を開けると、そこにはレトロな二階建ての邸宅が静かに佇んでいた。外から見れば特別大きいわけではなかったが、百年前という時代背景を思えば、これは当時最高級の別荘だったに違いなかった。曽祖父が亡くなって以降、祖父はこの屋敷を出て行き、今では――この場所は、歴代の瀬川家の祖先を祀る持仏堂として使われていた。「覚えているかぎりでは、持仏堂は裏庭の建物にあった
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第509話

佐藤茂はふと顔を横に向け、隣に立つ真奈を見つめた。その視線に気づいた真奈は、少し首を傾げて尋ねた。「何か問題でも?」佐藤は唇を結んだまま、無言で真奈のコートのボタンを留めた。「……寒いです。帰りましょう」「……はい」どれほど厚手のウールのセーターを着ていようと、佐藤茂の顔色は、相変わらず青白く冴えなかった。「今日は……遅くまでお付き合いいただいて、申し訳ありませんでした」真奈は小さな声で言った。もっと早く気づくべきだった。佐藤茂の身体が思うように動かないことも、寒さが病を呼び込みやすいことも。こんな時間に、冷たい夜風の中まで無理に付き合わせるべきではなかったのだ。「好奇心は、誰にでもあるものです。今夜あなたをここに連れて来なければ――おそらく、眠れなかったでしょう」真奈は静かに頷いた。車椅子を押して屋敷の前庭を進みながら、ふと沈黙を破るように問いかけた。「佐藤さん。佐藤家の持仏堂も……私たちの家と、同じような造りなのでしょうか?」「同じです」佐藤は、変わらぬ口調で答えた。「佐藤家と瀬川家は、いずれも海城に根を持つ本家筋の家柄です。黒澤家と伊藤家は、後から海城へ移ってきた家系に過ぎません」その言葉に、真奈はまたそっと頷いた。「……持仏堂には、もしかしたら――私たちの知らない秘密が隠されているのかもしれませんね?」「そうかもしれません」佐藤茂の口調は、あくまでも平然としていた。真奈には、わかっていた。あれはもう数十年前の出来事だった。佐藤茂が当主として佐藤家を率いてきた時間も短くない。もし、本当に何かを掴めるなら――その手腕で、とっくに調べ上げていたはず。今さらわからないなどということがあるはずがない。あるいは、知っていながら、自分にあえて教えるつもりがないのかもしれない。思えば、出雲やかつての海外の白井家が、わざわざこの海城を狙って動いていた。外部の者たちがここまで執着を見せるからには――海城という土地に、何か特別な秘密が隠されていることは、まず間違いない。とくに、あの出雲のように計算高い男が、確たる証拠もないままに、噂話程度で海城の利権に手を出そうとはしない。彼が動いたということは、明確な裏付けを何かしら掴んでいる証拠でもある。そんなことを、ぼんやりと考えていたそのときだった。「……このまま、どこま
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第510話

佐藤茂の車は、真奈をマンションの前まで送り届けた。車を降りた真奈は、胸の奥に思いを抱えたまま建物の入り口へと向かった。ちょうどオートロックの前に差しかかったその時、警備員が声をかけてきた。「瀬川さん!」真奈は少し眉をひそめて尋ねた。「……どうしたの?」「お客様がおひとり、瀬川さんをお待ちしています。中で……もう1時間ほど前からお待ちです」そう言って、彼は入口脇にある守衛室を指差した。真奈の視線がそこに向くと、室内には黒澤の姿があった。真奈の表情は、瞬時に冷たさを帯びる。「親しくない人よ。帰ってもらって」「かしこまりました。すぐにお引き取りいただきます!」警備員が立ち去ろうとするのを見て、真奈の心が少し和らいだ。「待って!」「……え?」「……中に入れてあげて」その一言に、警備員は一瞬戸惑ったような顔をした。親しくないんじゃなかったの?どうして入れてあげたの?「瀬川さん……こちら、規則でして。もし何かストーカーのような被害に遭われているなら、私たちに言ってくだされば、すぐに追い出すこともできますよ!」「ストーカーって……あの人、私の彼氏よ」「……え?」警備員はぽかんとした顔で固まった。彼氏?彼は手元のスマートフォンに目を落とす。ちょうど今、ニュース速報が再生されていた。画面には――真奈と冬城が、手をつなぎながら「復縁」を発表する姿が、はっきりと映っている。……いやいや、どう見ても同一人物には思えないけど……警備員は困惑しきりで頭を掻いた。何がどうなっているのかまったく分からないまま、ひとまず守衛室へと向かい、椅子に腰掛けていた男に声をかけた。「ええと……冬城さん、奥様がお呼びです」「……今、俺のこと、なんて呼んだ?」「えっと……冬城さん……ですよね?」黒澤の目が、すっと細められる。その視線は、まるで鋭い刃物のようだった。警備員は自分が何を言い間違えたのか、よく理解できていなかった。だが背筋が、ものすごく冷えたということだった。黒澤は、まるで叱られた子どものように真奈の後ろをついて歩きながら、なかなか距離を詰めることができなかった。エレベーターの中でも二人は無言のまま。先に真奈が降り、黒澤は黙ってその後に続いた。玄関の前で鍵を取り出そうとした時、真奈はようやく後ろを振り返る。黒
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