All Chapters of 結婚は断るのに、辞職したら泣くなんて: Chapter 481 - Chapter 490

491 Chapters

第481話

あの頃、彼の目は見えず、11号は声を失っていた。 ふたりはこのLINE番号を通じて、心を通わせていた。 この携帯は視覚障害者専用の機種で、届いたメッセージはすべて音声で読み上げられる。 そしてこの番号は、11号だけのもの。他の誰とも繋がったことはなかった。 智哉は、携帯の画面に表示されたメッセージをじっと見つめた。 【99号、私が見える?手を振ってるよ】 ――目の前にいるこの少女こそが、彼がずっと探し続けてきた11号。 智哉はもう一度、窓際の少女を見つめた。 少女は彼に向かって、手話を送る。 【99号、久しぶり】 その瞬間、智哉の瞳がかすかに揺れる。 これこそ、あの時11号が彼に教えた唯一の手話だった。 「もし退院して、またどこかで会えたら、この手話で伝えるから」 そう笑いながら言った彼女の姿が、鮮明に蘇る。 この合図を見れば、すぐに私だとわかるから――そう約束した。 智哉は、その窓際の少女から目を離さなかった。 すべてが、確かに11号と彼だけの記憶に基づいている。 疑う理由など、本来どこにもないはずだった。 だが、この少女が現れたタイミングが、彼の心に影を落とす。 佳奈とすれ違った矢先に、突然現れた11号。 それは果たして偶然なのか。 それとも、誰かが意図して仕組んだものなのか。 もし仕組まれたものだとしたら、この少女は一体誰なのか。 そして、本物の11号はどこにいるのか。 その疑念を胸に抱えたまま、智哉は表情を崩さず、少女に軽く頷いてみせた。 そして、ゆっくりとカフェの中へと足を踏み入れた。 少女は隠しきれない喜びを顔に浮かべ、柔らかな声で問いかける。 「99号……元気だった?」 その声は穏やかで優しく、まるで時が巻き戻ったかのようだった。 智哉は、ほんの少し口角を上げて答える。 「どうして、こんなに時間がかかったんだ?」 その問いに、少女の目には涙が滲んだ。 しばらく黙ったまま彼を見つめ、ようやく口を開く。 「退院してから、家が大変だったの。父の会社が経営危機になって、継母はお金を持って他の男と逃げた。父はそのストレスで、
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第482話

彼女はポケットからスマホを取り出し、短くメッセージを送った。 【会えた。でも、彼はまだ警戒していて、近づけない】 そのメッセージを受け取った男は、唇の端を不敵に吊り上げた。 「こんな簡単に引っかかったら、智哉じゃないだろう」 助手がくすっと笑いながら頷く。 「きっとこれから、智哉は綾子の素性を調べ始めますよ。そう簡単には信じないでしょうから」 男は鼻で笑い、冷たく言い放つ。 「信じさせてやるよ」 カフェを出た智哉は車に乗り込むと、すぐに高木に指示を出した。 「綾子って女を調べろ」 ハンドルを握る高木がルームミラー越しに智哉を見る。 「何か気になる点でも?」 智哉は瞳を細め、低く答える。 「逆に……何もなかった。それが気に食わない。まるで全ての問いに、あらかじめ答えを用意していたみたいだった。それに……あの綾子、11号のはずなのに、どこか他人みたいに感じた」 エンジンをかけながら、高木が言葉を続ける。 「もし偽物だったら、本物の11号はどこにいるんです?それに、どうして二人しか知らない秘密を知っていたのか……」 その問いに、智哉の心に不安が押し寄せる。 11号が巻き込まれていないことを、ただそれだけを祈った。 ―― 翌朝、佳奈は悪夢にうなされ、飛び起きた。 夢の中で、血まみれの母が泣きながら手を伸ばしてくる。 その光景が頭から離れず、苦しげな息遣いのままベッドに座り込む。 額には冷や汗が滲んでいた。 その物音を聞きつけ、清司が慌てて部屋へ入ってきた。 「佳奈、大丈夫か?また悪い夢を見たのか?」 佳奈は涙を浮かべながら彼を見つめた。 「お母さんが……血まみれで……」 清司は胸が締めつけられる思いで佳奈を抱きしめ、優しく背を撫でる。 「大丈夫だ……もう何も心配いらない。玲子は死刑判決を受けた。奈津子おばさんの裁判が終われば、すぐに執行される。それまでの辛抱だ。お母さんも、それを見届けて安らかになれるはずだ」 佳奈は声を震わせながら尋ねた。 「お母さんは、私が智哉と結婚したことを……恨んでないかな?」 清司は優しく頭を撫でる。 「そんなことあるわけないだろ。あの人が選んだ相手だ。むしろ
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第483話

なぜ彼は、まったく記憶にないのだろう。智哉は今すぐ部屋へ行き、佳奈に問いただそうとした。だが、その時、清司の声が聞こえてきた。「智哉が、お前の好きな鶏だしラーメンを作ったんだ。運んでもらって、一緒に話してみたらどうだ?」それを聞いた佳奈はすぐに首を振った。「お父さん、もう少しだけ時間をちょうだい。まだ、どう彼と向き合ったらいいかわからない。この問題がきちんと整理できなければ、一緒にいたとしても、心に壁ができちゃうから……」その言葉に、智哉の足が止まった。力なく垂れていた両手は、静かに拳を握りしめる。彼は音を立てないようにゆっくり階段を降り、スマホを取り出して誠健に電話をかけた。コールが繋がると、向こうからのんびりとした声が響いてきた。「なんだよ、せっかくの休みなのに……起こしたらタダじゃ済まさねえぞ?大事な用じゃなきゃ文句言うからな?」だが、智哉の声は重く沈んでいた。「知里を出してくれ」誠健はその深刻さにすぐに察し、ベッドから跳ね起きた。「どうした?そんなに慌てて……」「佳奈が……母親の事故の真相を知った。今は俺の顔も見たくないらしい。知里に来て、少しでも彼女のそばにいてほしいんだ」その言葉に、誠健は慌てて知里の部屋に駆け込む。ドアも叩かず、勢いよく中に入ると――。「知里!佳奈が……!」叫んだ瞬間、誠健は凍りついた。知里は浴室から上がったばかりで、頭にはタオルを巻き、身に何もまとっていなかった。衣装ダンスの前で服を選んでいるところだったのだ。知里は驚愕し、慌ててタンスからスカーフを取り出し、身体に巻きつけると、誠健に向かって思いきり蹴りを入れた。「このバカッ!ノックくらいしろ!!」誠健は避けつつ、苦笑を浮かべた。「悪かった!でも佳奈が大変だって聞いて、そんな余裕なかったんだよ!」その言葉に、知里の顔色が変わる。「佳奈が?」急いで誠健の手からスマホを奪い、耳にあてた。「智哉?佳奈、どうしたの?」智哉は少し沈黙し、静かに答えた。「玲子が母親を殺したことを、佳奈が知ってしまった。俺の顔を見るのも辛いらしい。だから、君に側にいてほしい」知里はすぐに答える。「わかった、今すぐ支度して向かう」電話を切る直前、智哉はふと口を開いた。「俺と佳奈
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第484話

どこを歩いても、そこには智哉との思い出があった。 ふたりでブランコに座ってキスを交わした場所。 芝生の上に寝転がって、陽の光を浴びた場所。 庭でハクと一緒に駆け回った場所――。 歩くたびに、あの日々の温もりが彼女の胸を締めつける。 佳奈はブランコに腰を下ろし、ハクの頭を優しく撫でながら、ぽつりと呟いた。 「ハク……パパに会いたいな……」 ハクはくぅんと甘えた声をあげて、佳奈を見つめ返す。 佳奈はさらに言葉を続ける。 「彼が玲子の息子じゃなかったら、どんなによかったか……」 けれど――そんなもしもが、現実にあるわけがない。 ただ、心のどこかで願い続けている幻想にすぎなかった。 佳奈は苦笑し、自嘲するように小さく笑った。 その時、車のエンジン音が聞こえ、誠健の車が庭に入ってきた。 知里が風に乗った凧のように、佳奈のもとへと駆け寄ってくる。 「佳奈!私、義理の息子に会いにきたわよ!」 満面の笑みで、色とりどりの綿菓子を手渡す。 「旦那さんがいないうちに、こっそり食べちゃいなさい。ただし、食べすぎはダメよ。義理の息子の成長に響くからね!」 知里のその明るさに、佳奈の沈んでいた心も少しずつ晴れていく。 ぺろりと綿菓子をひとくち舐め、目を閉じて満足そうに微笑んだ。 「今日はどうしたの?」 「もちろん、佳奈と義理の息子に会いたかったからよ。さあ、お腹触らせて!」 知里は佳奈のお腹に手を当て、優しく撫でる。 その様子を見ていた誠健が、後ろでくすくすと笑った。 「そんなに触ると、子どもの性格がお前に似ちゃうぞ。すぐカッとなる直球娘になったらどうする」 その言葉に、知里は振り返り、怒りを爆発させた。 「また余計なこと言って!口縫い合わせるわよ!」 誠健は悪びれずに笑う。 「でもなあ、佳奈、お前も聞いてくれよ。朝っぱらから部屋に入ったら、服も着てない彼女に蹴り飛ばされたんだ。まだ腕が痛ぇんだよ」 佳奈は綿菓子を手に、知里を見て笑った。 「知里、厳しすぎない?」 知里は怒り心頭で誠健を指さす。 「何言ってんのよ!あいつがノックもせずに入ってきたんだから!私の体は誰にでも見せていいもんじゃないの!
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第485話

指輪ケースの中には、ペアリングが一組入っていた。 そのデザインは――まさに、かつて佳奈が彼にプロポーズしようとして選んだ、あの指輪だった。 智哉は、今の自分の気持ちをどう表現すればいいのかわからなかった。 信じられない思いで、そっと指輪のひとつを手に取り、じっと見つめる。 スマホを取り出し、当時カスタマーサービスから送られてきた写真と照らし合わせた。 ――まったく同じ。 つまり、この指輪は、あの時佳奈が自分にプロポーズしようと用意したもの。 それを、なぜここに埋めたのか――。 智哉の心臓は、その瞬間、鼓動を止めたかのように感じた。 頭の中はぐちゃぐちゃで、何ひとつ考えがまとまらない。 ――本当なら、簡単な答えのはずなのに。 それでも、信じることができなかった。そして、指輪の内側に視線を移した時――。 智哉は思わず数歩後ずさった。 指輪の内側には、こう刻まれていた。 ――「9911」 9911。 それは、彼と11号だけの番号。 ――なぜ佳奈が、これを知っている?智哉はその指輪をぎゅっと握りしめ、すぐさま隣の箱から二通の手紙を取り出した。 自分宛ての手紙――これは自分が話して、11号に代筆してもらったもの。内容には覚えがある。 だが、もう一通――11号からの手紙。 その文字を目にした瞬間、胸の奥を何かが鋭く貫いた。 流れるように美しい筆跡――まるで刺すような光で、彼の目を痛めつけた。 震える手で、その手紙を開く。 冒頭の一文を読んだ瞬間、智哉の視界は涙で滲んだ。【九お兄ちゃん、私は11号。名前は佳奈です】――九お兄ちゃん。佳奈。 ようやく、智哉は自分の疑念が確信に変わった。 佳奈こそが、自分がずっと探し続けてきた11号だった。どうして、こんなに明白な痕跡に気づかなかったのか。 佳奈が夢の中で何度も呼んでいた「九お兄ちゃん」 それは、智哉自身のことだった。 三年前からずっと――彼のそばにいた。智哉の視界は、完全に霞んでいく。 涙を拭いながら、手紙の続きを読み進めた。【私は、将来法廷に立ち、冤罪に苦しむ人たちを助けたいと思っています。そして、未来の生活の中で、九お兄ちゃんと一
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第486話

空から降り続く細かな雨に、智哉の服はすでにびしょ濡れだった。けれど、彼はまるで気にする様子もなく、ただ静かに楓の木の下に立ち尽くしていた。どれほどの時間が経ったのだろう。佳奈は一日中知里と遊んで、少しだけ心が軽くなっていた。夕食を終えた後、彼女は結翔に電話をかけた。「お兄ちゃん、お母さんのお墓ってどこにあるの?会いに行きたいんだ」結翔は数秒ほど黙り込み、やがてこう答えた。「今お腹に赤ちゃんがいるだろ。お墓は陰気が強いから、赤ちゃんにはよくない。もしお母さんに会いたいなら、家においで。お母さんの部屋がそのまま残ってる。今から迎えに行くよ」「うん、待ってるね」それから三十分後、佳奈は結翔に連れられて、初めて遠山家を訪れた。そこには、母がかつてピアノの練習をしていた場所があり、数々のトロフィーが並んでいた。そして、母が佳奈のために用意してくれたお姫様部屋まであった。すべてが、母の愛情を物語っていた。佳奈は母の部屋に入り、写真立てに微笑む母の姿を見つめた。そして、かすれた声で呼びかけた。「お母さん……」その一言で、目に涙があふれ、喉が詰まってしまった。しばらくして、ようやく絞り出すように続けた。「お母さん、ごめんなさい……私、あなたの仇の息子を好きになってしまったの。真実を知って、彼と別れようとも思った。でも、本当に彼のことが好きなの。しかも、今は彼の子どもまでお腹にいる……どうしても、子どもを片親で育てたくないの。お母さん、お願い……彼のそばにいてもいい?それは彼の母親がやったことで、彼自身には何の罪もないの。ずっと真実を探し続けてくれてた……玲子をかばったことも、一度もないの。お願い、彼を許してくれないかな……?」ぽたぽたと大粒の涙が美智子の写真立てを濡らしていく。その姿を見て、結翔はそっと佳奈を抱きしめた。低く優しい声で慰める。「お母さんはきっと分かってくれるよ。智哉のことも、佳奈のことも、責めたりしない。お母さんが一番望んでるのは、佳奈が幸せになることだ」佳奈は涙で潤んだ瞳で彼を見上げた。「本当にそう思う?」結翔は佳奈の頭を優しく撫でた。「このことは、君たちが結婚する前から知ってた。でも、あえて何も言わなかった。君の夢は、智哉と一緒になることだっただろう?できるこ
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第487話

水たまりが踏みつけられ、四方に飛び散った。 地面にも、彼のぴしっとした高級スラックスにも跳ねかかる。 智哉は今まで一度たりとも、こんなにも必死に佳奈を抱き締めたいと思ったことはなかった。 彼はまるで佳奈の青春を共に歩み、彼女のすべてを読み解いたような気がした。 そして、彼女への愛はますます熱く、骨の髄まで深く染み込んでいく。 彼は一気に佳奈の元へ駆け寄った。顔に流れるのは雨なのか汗なのか、もう分からない。 その深く澄んだ黒い瞳は佳奈を真っ直ぐに見つめ、喉から搾り出すように低くかすれた声が漏れた。 「佳奈……」 佳奈は目を真っ赤にしながら彼を見つめ、白く細い手でそっと彼の頬を撫でた。 震える声で言う。 「智哉……会いたかった……」 その一言に、智哉はこれまで必死に抑えていた感情が堰を切ったように溢れ出し、佳奈をぎゅっと抱き締めた。 「佳奈……ごめん、ごめん……」 彼は何度も繰り返した。 佳奈にあれほどの苦しみを与えてしまったこと、彼女が『11』号だと気づけなかったこと―― 彼は彼女の深い愛情を裏切り、傷つけてしまったことが悔やんでも悔やみきれなかった。 佳奈は彼の濡れた髪を優しく撫で、柔らかく語りかけた。 「お兄ちゃんの言う通りだったよ。 お母さんが一番望んでいるのは、私が幸せでいること。 そして私が幸せになれるのは、あなたと一緒にいるときだけ。 だから私は、玲子とあなたをちゃんと分けて考えたい。 彼女はお母さんを奪った仇。でもあなたは、私が愛する人で、子どものお父さんで、一生を共にしたい人なの……」 その言葉を聞いた瞬間、智哉の心臓はまるで矢に貫かれたかのように痛んだ。 佳奈は、どれほど彼を愛しているのだろう。 こんな短い時間で、ここまで考えを整理できるなんて。 「私、あなたと一緒にいることでしか幸せになれない」 「あなたと一生を共にしたい」 この恋愛の中で、ずっと佳奈の方が受け入れてきた。 彼が彼女を認識できなかったことも、彼女への厳しい要求も――すべてを。 今もまた、彼の過去と向き合い、彼の母親が仇であるという事実さえも包み込もうとしている。 最初からずっと、佳奈の愛こそが何よりも強かっ
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第488話

佳奈はすぐに彼の腕の中から逃れ、かすれた声で言った。「お兄ちゃんがいるんだから、ちょっとは恥ずかしがってよね」 智哉はチラッとそばで見物していた結翔を見上げ、にやりと笑った。「大丈夫、大丈夫。あいつメガネかけてないから、視力悪くて見えてないって」 さっきまで彼のことを心配していた結翔だったが、その一言にカチンときて、すぐさま怒鳴った。「俺の目が悪いって言いたいのか!?言いたいならはっきり言えよ、目が見えないって!忘れるなよ、俺は視力0.7だ!メガネかけなくても、お前みたいなクソ野郎くらいちゃんと見えてんだよ!」 智哉は佳奈の肩を抱き寄せながら結翔のそばに歩み寄り、満面の笑みでこう言った。「今日はありがとうな、お兄ちゃん」 幼なじみからこんなふうに呼ばれ、結翔は全身に鳥肌が立った。 思わず身震いしながら、すぐに言い返した。「やめろ、その呼び方は。名前で呼べ。お前のそのキモいノリは無理だわ」 智哉は佳奈を見下ろし、少し恨めしそうに言った。「ごめんね、俺がお兄ちゃんって呼ばないんじゃなくて、結翔が嫌がるんだ。だから俺のせいじゃないから、責めないでね」 その調子にどんどん乗る智哉に、結翔だけじゃなく佳奈まで耐えきれなくなって、小さな手で彼の口を塞いだ。 そして見上げながら言う。「もう呼ばないで、私も無理」 智哉は彼女の手にキスし、素直に頷いた。「分かった。じゃあ嫁さんの言うことを聞くよ。俺が無礼だなんて言わないでね」 二人が仲直りしたのを見て、結翔は嬉しそうな表情を浮かべた。「せっかくだし、佳奈は今日はここでご飯食べていけよ。遠山家に来たのは初めてだし、せっかくだからちゃんともてなしたいんだ」 智哉は自分のびしょ濡れの服を見下ろして言った。「でもこのままだと風邪ひくし、何か着替えを貸してくれない?俺が風邪ひいたら、うちの嫁さんが心配しちゃうからさ」 結翔は呆れたように睨みつけた。「はいはい、偉そうに。俺の部屋の上にあるから、勝手に探せ」 「俺、潔癖だから人の着た服は着ない。新品じゃなきゃ嫌だ」 「物乞いのくせに碗の大きさ選んでんじゃねぇよ。着たくないなら好きにしろ。どうせお前が風邪ひいたら、佳奈をここに引き取って面倒見るからな。うつされると困るし」
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第489話

この文字……彼女には見覚えがあった。子供の頃、奈津子おばさんが佳奈と晴臣を連れて、よく一緒に字の練習をしていた。この筆跡は、まさにあの頃の彼女のものとそっくりだった。佳奈は写真の裏に書かれた文字を指差して尋ねた。「これ、誰が書いたの?」智哉は写真を裏返し、ようやくその小さな文字に気づいた。【兄弟であり、同時に知己。苦楽を共にし、運命を分かち合う】筆跡は骨格がしっかりしていて、力強く、それでいて繊細な美しさがあった。文字だけでも、書いた人の気品と非凡さが伝わってくる。……ただ、今の彼女は、もうあの頃の面影すらなかった。智哉の目に、わずかな陰りが差す。小さく呟いた。「玲子だ」その言葉に、佳奈はふと考え込むような目で彼を見た。「それ、本当に彼女が書いたって確信あるの?」「あるよ。俺の目の前で書いたんだ。彼女がこの言葉を書いた意味は――俺たち四人が、ずっと助け合って生きていこうって……なんで?何かおかしい?」佳奈は写真の字をじっと見つめたまま言った。「玲子の字、奈津子おばさんの字にそっくりすぎるの。おかしいと思わない?」智哉は眉をひそめた。「字が似ることはあっても、そっくりそのままってことはない。誰かが意図的に真似したってことだろう」佳奈の脳内はすぐさま弁護士モードに切り替わった。「誰かの筆跡を真似るっていうのは、たいてい不正な目的がある時よ。たとえば財産、契約……もしくは身分の偽装。つまり、どっちかがどっちかの字を真似るってことは、その間に何かしらの利害関係があったってこと。玲子が奈津子おばさんの正体をずっと明かそうとしなかったのは、その正体が彼女にとって都合が悪いからよ。そう考えると……玲子が奈津子おばさんの筆跡を真似て、彼女のふりをして何か悪いことをしていた可能性が高いわ」その分析を聞いて、智哉は無意識に眉間に皺を寄せた。その可能性について、考えたことがなかったわけじゃない。玲子が偽者かもしれないと思ったこともあった。けれど、あの親子鑑定の結果を見て、その疑いは消えていた。彼は佳奈の頭をそっと撫でた。「この件の鍵は、奈津子おばさんの記憶が戻るかどうかだ。父さんには、すでに彼女を本邸に迎えるよう頼んである。記憶を取り戻す助けになるかもしれないし、君はもう心配しなく
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第490話

佳奈は彼の言葉の端々から、抑えきれない悔しさと無力感を感じ取った。 その瞳の奥には、どこか寂しげな影が浮かんでいた。 彼女は少し胸が痛んで、そっと背伸びして、そのセクシーな唇に軽くキスを落とした。 「雨が降らなきゃ、虹は見えないんだよ。 あんなに辛いことがあったからこそ、私がどれだけあなたを愛してるか分かったし、あなたも私が唯一無二の存在だって気づけたでしょ? 智哉、過去にあったこと、いいことも悪いことも、全部が私たちの絆を強くしてくれたの。 だから、今の私たちは誰にも代えられないんだよね?」 彼女の柔らかな手が智哉の顎を優しく撫でる。 その瞳には、隠しきれない輝きが溢れていた。 この瞬間の佳奈は確信していた。 これからどんな困難があっても、二人の絆は決して壊れないと。 この目の前の男を、彼女は一生、決して手放さないと誓った。 智哉の深い黒い瞳には、笑顔を浮かべる佳奈の顔が映っていた。 その笑顔も、優しさも、思いやりも、まるで蜜のように彼の心を包み込んでいく。 内側から外側まで、甘さで満たされていた。 智哉は腕を伸ばし、佳奈を抱き寄せた。 大きな手で彼女の後頭部をそっと押さえ、顔を近づけて唇にキスを落とす。 その声は抑えきれないほど低く、掠れていた。 「こんなに素敵な君を、どうやって愛さずにいられるんだよ」 熱を帯びた唇が、佳奈の口元に何度もキスを落とす。 熱い吐息が電流のように彼女の頬を撫で、瞬く間に全身へ広がっていく。 佳奈は顔をそらしながら、小声で言った。 「智哉、ちょっと落ち着いてよ……ここ、人の家だよ」 だが智哉はまるで聞く耳を持たず、むしろさらに激しくなった。 彼女の柔らかな唇を口に含み、唇と舌が絡み合う。 喉の奥から、低く甘い笑い声が漏れた。 「ここは君の家だろ?俺たちが婚約を交わした場所だよ。24年も待って、やっとここで君と再会できたんだ。祝うしかないだろ?」 最後の言葉は、吐息の中に溶けていった。 智哉は片手で佳奈の腰を抱き、もう一方の手で彼女の頭を支えながら、舌を深く差し入れてキスを深めた。 その時、彼の脳裏にふと、幼い頃の記憶が蘇った。 あの頃、彼はまだ四歳だった。
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