All Chapters of クズ男と初恋を成就させた二川さん、まさか他の男と電撃結婚!: Chapter 991 - Chapter 1000

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第991話

伊吹が「俺を足しても相手にはならない」と言ったのを聞いて、初芽は今度こそ本気で衝撃を受けた。相手が強いとは思っていたが、まさかここまでとは一度も考えたことがなかった。自分はずっと死の境目で跳ね回っていたようなものだ。これまで京弥を本気で怒らせなかったのは、ただの運にすぎない。もし少しでも踏み込んでいたら、今ごろ跡形もなく消されていたかもしれない。「本当に......?」分かってはいても、どうしても確認せずにはいられなかった。それに、なぜ紗雪という人間が、こんなにも運に恵まれているのか理解できなかった。まるで世の中の優秀な男たちが、こぞって彼女に心酔しているみたいだ。彼女は何もしていないのに、次から次へと人が命をかけて守ろうとする。そこまで思い至ると、初芽が納得できるはずもない。その表情を見て、伊吹には初芽の不満と諦めきれなさが手に取るように分かった。ここまで一緒に過ごしてきて、彼は彼女がどんな人間かをよく知っている。昔は自分を見失っていたが、今はまるで別人だ。自分に何が必要か、はっきり理解している。もし何かがその道を邪魔するなら、彼女は一瞬も迷わない。足を引っ張るものは、全部捨てて構わないと思っている。だからこそ伊吹には確信があった――初芽はもう鳴り城には残らない、と。その上で「一緒に鳴り城を出て、海外でやっていこう」と提案した。案の定、初芽は一応一日だけ考えるふりをしたものの、すぐにあっさり承諾した。説得なんて必要なかった。彼女自身がいちばんよく分かっていたからだ。海外と国内では、舞台がまったく違う。だったら、なぜわざわざここに留まる必要がある?将来のためにも、ここにしがみつく意味はない。「やっぱり先に加津也の方を断っておこう」初芽は鼻で笑い、決断のときだと理解した。加津也のことは、もう切り捨てるしかない。二川云々より、まずは自分自身が強くなることのほうが大事だ。地に足をつけてこそ、勝利の喜びを味わえる――この期間で得た答えだった。伊吹は彼女の頭を優しく撫で、「初芽は正しい判断をすると思ってた」と柔らかく言った。初芽もつられて微笑む。加津也のことなど、もう何ひとつ心残りはない。あのとき彼女を捨てたのは向こうだ。今さら何を埋
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第992話

残業になるときは、いつも彼が初芽に付き添っていた。彼女への向き合い方も真剣そのものだった。初芽は腹心の石橋(いしばし)に目を向けた。報告が終わっているのに、まだ立ち去ろうとしないので思わず声をかける。「まだいたの?報告はもう終わったでしょ?」少し不思議に思う。最近の石橋には、どこか妙なところがある気がしていた。石橋はようやく我に返り、言い換えるように口を開いた。「小関さん、本当に一緒に海外に行かなくて大丈夫なんですか?一人で行くなんて、正直心配で......」その言葉に、初芽の表情はようやく和らいだ。彼が心配しているのは純粋に自分の安全のためだと分かっている。「大丈夫よ、手配は全部済んでるから。石橋はここを守ってくれればいいの」石橋はまだ何か言いたげだったが、初芽は明らかに疲れている。彼女は片手を上げて制した。「今日はここまで。用件はないなら、もう下がっていいよ」二度も話を遮られて、石橋もさすがに大人しくなった。初芽が自分にまだ警戒しているのは理解していた。結局、自分はただの社員で、彼女は社長。立場は違うし、自分は何者でもないのだ。石橋は最後にぐっと感情を抑え込んで言った。「分かりました。では失礼します」初芽は「ええ」とだけ返し、それ以上何も言わなかった。こういうタイプには、余計な言葉はいらない。下手に優しくすると、裏を勘ぐられる。確かに石橋は少し神経質なところがある。だが能力は確かだ。でなければ、とっくに切っていたはずだ。その様子を腕を組んで眺めていた伊吹が、のんびりと言った。「あの部下はどうやら、俺のことが気に入らないみたいだな」初芽は気にも留めない。「伊吹はそんなに気にするタイプだったっけ?」彼女は話しながらも手元の作業を止めず、まともに目も合わせない。その瞬間、伊吹ははっきり違和感を覚えた。彼はもともと、初芽に「もっと広い世界」を見せるつもりでいた。そうすれば、誰が本当に自分を大事にしているか分かるだろうと。だが今、状況は彼の望まない方向へ進み始めている。昔の初芽なら、彼が来ているときに仕事をするなんてあり得なかった。なのに今は、彼が目の前に立っていても気にも留めず、集中して作業を続けている。伊吹は初芽の肩を
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第993話

「このところずっと疲れてたから、早く片づけてしまいたかったの。そうすれば海外に行けるし、早く伊吹と二人きりの時間が過ごせるでしょ?」初芽はそう言いながら、軽く相手の腕を揺らした。まるで人を惑わせる妖艶な女そのものだ。その様子を見て、ようやく伊吹の表情が和らいだ。正直に言えば、初芽の顔立ちは完全に彼のストライクゾーンだった。こういう女には、抵抗なんて最初からできない。それに深く関わるうち、この女が根っからの利己主義者だと分かってからは、むしろ征服してみたいという欲が湧いてきた。こういうタイプを屈服させて完全に自分に従わせたら......それはそれで相当面白いだろう。伊吹は初芽の腰に腕を回し、妖しく笑った。「初芽は、俺のことが好き?」初芽は目を細め、指先で彼の胸元を円を描くようになぞる。「もちろんだよ。わざわざ口に出して言わなきゃダメ?大人同士なんだから、察して分かることってあるでしょ」最後の一言は語尾が少し跳ね、眉に浮かぶ軽い挑発と相まって、まさに人を誘う妖精のようだった。今の彼女には、まだ伊吹が必要だ。このタイミングで怒らせる意味なんてないし、損にしかならない。ようやく納得したのか、伊吹は唇の端を上げ、彼女の腰を抱えてそのまま持ち上げた。何が起こるか、初芽には分かっている。拒む理由もない。むしろ最近、加津也の件で神経をすり減らされていたところだ。ちょうどいい気晴らしにもなる――そう思って身を任せた。流れはごく自然で、抵抗する間も理由もなかった。伊吹はその勢いのまま彼女を休憩室へ連れ込み、二人はそのまま深い「交流」に入った。その最中、石橋が扉を開けようと近づいたが、中から漏れる声を聞いて足を止めた。また始まったのだとすぐに分かる。この休憩室の防音は大したことがない。耳を近づければ、ある程度は聞こえてしまう。石橋には自分の気持ちがどういう状態なのか言葉にできなかった。ここへ残されたのは、つまり初芽に切り捨てられたということだ。彼女が海外へ行くと言ったときも、表向きはビジネス拡大のため。けれど実際はこの男と一緒に飛ぶつもりなのだろう。石橋から見れば、国内での発展は十分順調だった。地道に積み上げていくのが本当の前進で、そういうものこそ価値が
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第994話

彼らは正しい相手についてきた。悩む理由なんてどこにもない。方向さえ合っていれば、社長が稼がせてくれる。なら、むしろ喜ぶべきじゃないか。それに、初芽は普段から彼らに対して悪い態度を取ったことはない。特に石橋に関しては、実力さえあれば必ず評価してきた。この点について疑った者は誰もいない。だからみんな彼女についていく気でいる。オフィスで何をしていようと、それをあれこれ言うつもりもない。あれはボス自身の問題であって、自分たちには関係のないことだ。給料をきちんと払ってくれるなら、それだけでいい上司。それこそ、彼女についていく価値がある。今回も、海外について来たい人がいればちゃんと面倒を見ると言っていた。結局信用できるのは古参の社員たちだからだ。とはいえ、石橋をここに残したのも、捨てたわけじゃない。ただ、彼の能力が高いからこそ、国内で管理を任せようと考えた。言ってしまえば、このスタジオを丸ごと彼に引き渡すようなものだ。彼にとっては、より大きな挑戦でもある。その点に異論を挟む者はいない。彼の実力は誰が見ても明らかだし、これは初芽からの評価と信頼に他ならない。当然、給料も一段上がるはずだ。だから今、石橋がこんな恨みがましい顔をしているのは、周りには理解できない。何をそこまで思いつめる必要があるのか。そこまで悩むことなのか。そんな中、伊吹がオフィスから出てきたときには、明らかに機嫌が良くなっていた。彼は最後に、真面目な顔で初芽に念を押した。「二川グループには近づくな。もう関わる必要はないし、相手にするだけ無駄だ。初芽じゃ太刀打ちできない」初芽は、またしても彼が真剣に言ってくるのを見て、事態の深刻さを改めて理解した。そしてきちんとうなずく。「分かった。この件はもう心配しないで。どうせ私はもうすぐここを離れるし。こんな意味のない面倒ごとに、これ以上首を突っ込む気もないわ」ここ数ヶ月の経験で、彼女は身を守る術をよく分かっている。命あっての物種というやつだ。実力さえあれば、ああいう連中なんて怖くない。彼女のその返事に、伊吹もかなり安心したようだった。「ならよし。俺も準備で忙しいし、お前の件も見ておかないといけないからな。そろそろ戻るけど、一人で動くと
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第995話

石橋は、情事のあとで機嫌の良さそうな初芽の様子を見て、何があったかすぐに察した。大人なら察するところは同じで、わざわざ口に出す必要もない。むしろ言葉にするほうが余計というものだ。それでも石橋には、どう切り出せばいいか分からなかった。あくまで自分は彼女の部下に過ぎない。しかし、このまま彼女があの男と一緒に海外へ行ってしまうのを、ただ黙って見送ることにも抵抗があった。初芽は、石橋が黙って突っ立ったまま決めきれずにいるのを見て、せっかくの機嫌をすっかり削がれてしまった。心のどこかにあった好意も、もうほとんど消えかけている。「何か言いたいことでもあるわけ?」初芽はうんざりした声音で言う。「ないなら出てって。こっちはまだやることがあるの」石橋は目を見開き、がっと顔を上げた。初芽がここまで冷たく出るとは思っていなかったのだ。少し前までなら、彼女はもう少し自分と言葉を交わしてくれていた。なのに今は、顔すら見ようとしないのか。「小関さん、話があります」石橋はしばらく迷った末、それでも言わなければと思い至る。彼女がこのまま堕ちていくのを、黙って見たくはなかった。これが本来の彼女ではないと知っているからだ。そもそも石橋が彼女について行こうと決めたのは、初芽が情熱的で、前に進もうとする意志を持っていたからだ。頭の回転は特別良くなくても、勝負を仕掛ける気概があった。だからこそ彼女の未来に期待できた。だが今の初芽は、男の腕の中に浸りきっている。まるで男に惑わされているように見えて、思わずため息までこぼれる。その様子を見て、初芽の気分は完全にしぼんだ。手を振りながら言い放つ。「その様子じゃ、大した用事もなさそうだね。もう出てってくれる?疲れてるの」「駄目です!」言い終えるか終えないかのうちに、石橋が強く言い返した。その目には明らかに未練と苛立ちが混じっていて、白目には血管が浮き、今にも裂けそうな勢いで初芽を見据えている。まるで自分が裏切られたと訴えるような目だった。初芽は無意識に唾を飲み込み、そっと視線をドアに向けた。扉はしっかり閉じられている。石橋が何かしら別の感情を抱いているのは明らかだ。ただ、それが何なのかまでは軽々しく判断できない。「言いたいことが
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第996話

こんな相手と理屈をこねたところで、そもそも話なんて通じない。それに、心の中で何を考えているのかも分からない。「はいはい、分かったよ。別の話をしよう?」石橋は引こうとせず、初芽のデスクまで数歩の距離しかないのに、ずっとその「遠すぎず近すぎず」の距離を保っていた。その間合いが、かえって初芽を不安にさせる。普段どこで石橋を怒らせたのか、それとも変な期待を持たせてしまったのか、見当もつかない。石橋は初芽の怯えなどまるで気にせず、勝手に話を続けた。「初芽がオフィスで奮闘してる姿、業者とやり取りする時の真剣さ、生地を選んだりデザイン画を描いたりする時の集中した顔......どれも俺を惹きつけてしまいました。色々一緒に乗り越えてきたのに、初芽はあのヒモ男のことばかり。俺は納得できません!」石橋の頭の中では、二人が最後まで一緒に行く未来がまだ描かれている。あるいは、このまま鳴り城で服飾デザイン会社でも立ち上げて、一生ここでやっていくのも悪くないと思っているのだろう。でも明らかに、初芽の野心はそんなところに収まるものではない。自分が何を求めているかをよく分かっているからこそ、こんな所で終わるつもりなんてさらさらない。石橋に関しても、初芽はすでに心の中で答えを出していた。今日うまくオフィスを出られたら、今後この男はもう使わない、と。初芽はやわらかな笑みを浮かべ、最大限の忍耐で石橋に向き合った。「石橋がずっと私についてきてくれたこと、ちゃんと分かってる。一緒に頑張ってきた時間も、息の合い方も気持ちの通じ方も、他の誰にも比べられないものよ」懐かしむような笑みを浮かべて続ける。「あの頃のことは、今でも忘れられないよ」その様子を見て、石橋も昔を思い出し始めた。あの時期は、彼にとっても一番幸せだった時間だった。苦しくて大変だったけど、それでも確かに楽しかった。初芽と一緒に成長できていたから。今みたいに、初芽が邪道に走って、仕事への熱も前ほどじゃないように見えるのとは違っていた。石橋は思い出話を始め、初芽の言葉に合わせて語り出す。けれどその後の話は、初芽はほとんど聞いていなかった。今の自分がしていることは、ただ時間稼ぎに過ぎないと分かっていたからだ。視線は常に石橋の動きを追いながら、適当に相
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第997話

「いつ?」初芽には石橋の言う意味がよく分からなかった。「初芽が内線をかけようとしたのを、本気で気づかないとでも思った?」石橋はずかずかと近づき、初芽の手首を掴んだ。瞳には露骨な独占欲が滲んでいる。「初芽、もう諦めたらどう?俺に折れてくれればいいじゃないか。俺は本気で初芽を愛してるんだ。安心してよ。初芽さえいいと言ってくれれば、このスタジオも一緒にやっていくから」さらに石橋は指を四本立てて誓った。「約束するよ。このスタジオは絶対に良くなる。そしたら俺たち夫婦で強力タッグってやつだ」石橋のニキビだらけの顔を見て、初芽は吐き気が込み上げた。まるで寝言だ。あの加津也みたいな御曹司すら彼女は捨てる覚悟をしている。まして目の前の石橋など、見た目も格も比べ物にならない。こんな状況で、石橋の申し出を受けるはずがない。それに、彼女はこれから海外へ行く予定なのだ。国内の仕事は、これまでの顧客への恩返しのために残しているだけ。本当なら国内事業なんてすべて手放すつもりだった。初芽が黙り続けているのを見て、石橋は胸の奥がざらつくような不快感に襲われた。じわじわと距離を詰め、無理やり押し通そうとする。「初芽、お願いだから俺に応えてよ。俺たち二人のためだと思ってさ」電話線が抜かれているのを確認して、初芽は本当に打つ手がないと悟った。出口までも距離はあるし、むやみに動けば逆に危険だ。つまり、この部屋に閉じ込められているも同然。落ち着こうと必死で自分に言い聞かせるが、どうやっても冷静になれない。今の石橋はもう、人の話など聞く状態ではない。ここでうまく宥めない限り、この部屋から出ることはできない。ネットで見た似たような事件の例が頭をよぎる。石橋は初芽を力任せに抱き寄せ、反抗する余地を与えなかった。「もうやめようよ、抵抗なんてさ。何度も言ったろ?初芽のことを大事にするって。どうしてそこまで拒むの?」石橋は見た目も冴えず、背丈も中くらい。そこに歪んだ表情が加わり、初芽には恐怖しかなかった。もう心の制御が効かず、思わず声が出た。「誰か!誰か──」「助けて」の三文字は喉奥でかき消えた。この部屋、そこまで防音でもないはず。外に聞こえれば誰か来る――そう期待していた。
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第998話

石橋にとって、初芽が海外へ行くということは、あの男と一緒に行くのと同義だ。彼からすれば、それはもう浮気と何が違うというのか。そんな石橋を前に、初芽はふっと笑い声を漏らした。「あなたがそこまで言うなら、私も無神経にはならないわ。離して。やることがあるの」あまりにあっさりした反応に、石橋は一瞬うろたえた。「え?何の話?」「行くのをやめたんだよ」初芽は露骨に白い目を向け、少しくらい察しなさいと言わんばかりだった。「最初にそう言ったのはあなたでしょう?」石橋は初芽と室内を見比べて、どこか引っかかるものを感じていた。「行かないって......信じていいの?」初芽はまたしても大げさに目を回す。「もちろんだよ、今からあの人にメッセージ送るわ。海外には行かないって」石橋は半信半疑のまま初芽を放した。戸惑いの色が目元からこぼれ落ちそうだ。「本当に......本気で言ってるんだよな?」「当たり前でしょ。あなたを騙す理由なんてないわ。そんなことしても意味がないもの」初芽の頭には、とにかくスマホを取って伊吹に助けを求めることしかなかった。この石橋は完全に常軌を逸している。今の彼女にはもう抑え込むことができない。この先、どんな行動に出るかも分からない。一人でここで足止めしているなんて、危険すぎる。それは嫌というほど理解していた。石橋はまだ全面的には信じていなかったが、今は他に方法もなく、信じるしかない気がしていた。さもなければ初芽は海外へ行ってしまう。だが彼女を力ずくで縛りつけたところで、スタジオはどうなる?金を稼ぐ存在がいなくなれば困るのは自分だ。「どっちも欲しい」思考ではあるが、それなりに打算は働いている。初芽はそっとスマホを手に取った。案の定、石橋は警戒している。彼女は素早く伊吹にSOSを送り、そのまま文章を打ち始めた。内容は──海外には行かず、国内でやっていきたい。家を離れたくない。特にこのオフィスには思い出が詰まっていて、離れがたい。海外での事業拡大はやっぱりやめる、というもの。石橋は隣でじっと睨みつけていた。文章にどこか引っかかりを覚えながらも、決定的な違和感は掴めない。最後には小さく頷き、「送っていい」と示した。初芽は胸の奥
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第999話

石橋は最後にスマホをそこへ置くと、腕を伸ばして初芽を抱き寄せ、甘い言葉でも囁こうとした。だが初芽は、ひらりと身をかわして言った。「海外に行かないって決めたからには、片づけなきゃいけないことが増えたのよ」放り出して終わり、なんてできるわけがない。やるべきことは残っている。石橋もそれを聞いて納得し、ひとまずそれ以上は強引に迫らなかった。だが少し経つと、どうにも胸の奥がざわつき始める。最初はあれほど激しく抵抗していたのに、今の初芽は妙に落ち着いている。まるで「どうせ誰かが助けに来るはず」と確信しているような態度だ。違和感はあるものの、その正体までは掴めない。実際に彼女は黙って作業をしていて、海外行きを取りやめる準備をしているようにも見える。冗談を言っている様子もない。石橋は初芽のそばを離れず、彼女の行動を一つ一つ見張っていた。......同じ頃、別の場所では。加津也は画面に映るメッセージを見つめ、全身から怒りを噴き上がらせていた。スマホをベッドに放り投げ、胸を大きく上下させながら息を荒げる。よくもまあやってくれた。自分が病気だというのに、初芽は一目見に来ることすらしない。ここまでハッキリ伝えたというのに、それでも駆けつけないとか有り得るのか?介護士を探せだと?冗談じゃない。もし本当に介助が必要なら、わざわざ本人に連絡するはずがないだろう。この怪我だって、二川グループのことで出向いた結果じゃないか。階段から落ちた?そんな話、句読点ひとつ信じていない。自分がどんな男か、本人が一番よくわかっている。外で酒を飲んでこんな状態になるなんて、あり得ない。白い天井を見上げながら病床に横たわっていると、頭の奥に何かの断片がちらちらと浮かぶ。倒れる前、確か紗雪と食事をしていた。何かを話していたはずなのに、その先の記憶がすっぽり抜け落ちている。少しでも思い出そうとすると、頭痛が襲ってきた。ちょうどその時、年配の介護士が病室に入ってきた。彼を認めると、ぺこりと頭を下げる。「初めまして、西山さん。小関さんに依頼されて来た介護士です。何かご入り用があれば、遠慮なくおっしゃってください。付き添い用の簡易ベッドも持ってきていますから、ずっとお側にいられます」加津也
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第1000話

だが、そんなことは簡単じゃない。あれこれ考えているうちに、加津也はぼんやりしていた。そばに立っていた介護士が、どこか落ち着かない様子で口を開く。「何か私にできることはありますか?」初芽からかなりの額を受け取っている以上、突っ立っているだけでは気まずい。この介護士は真面目な性格らしく、少しでも動いていないと落ち着かないのだ。そこでやっと加津也も我に返る。質素で平凡なその女性の顔を見て、小さくうなずいた。「......水を汲んできてくれ」どうやら相手はじっとしていられるタイプではないらしい。もういい、来た以上は受け入れるしかない。体さえ回復したら、そのあとで一人ずつまとめて清算してやる。一方その頃。加津也を殴った紗雪には、罪悪感など一切なかった。京弥が後処理をうまくやることも、証拠を残さないことも分かっている。仕事の速さに関しては、紗雪も信頼していた。二川グループのオフィスへ向かうと、美月の使いに呼び止められ、会長室に来るよう伝えられる。紗雪は一瞬きょとんとして椅子に座り込んだ。行きたくないわけではない。ただ、どんな気持ちで美月と向き合えばいいのか分からない。あの別荘での一件以来、母娘がまた家族ごっこを始める光景を想像するだけで吐き気がする。一番傷ついたのは自分のはずなのに、誰も気にも留めないのかと考えるだけで胸が冷える。なのにまた会長室に呼びつけるなんて。どうせ緒莉もいるに決まっている。二人そろって仲睦まじい演技でも始められたらたまったものじゃない。紗雪は伝令役の社員に微笑みかけた。「会長には伝えて。こっちはまだ仕事が残ってて、すぐには席を外せません。片づいたらこちらから伺うって言っておいて」だがその社員は困った顔をする。後頭部をかきながら気まずそうに言った。「ですが、会長からの指示でして......どうしてもお連れするよう言われています。『用事があるなら、終わるまでオフィスで待ってる』とおっしゃっていました」紗雪は内心驚いた。まさか自分がどう断るかまで先読みしているとは。断り文句すら社員に言わせているのか。そして目の前の社員が本気で困っているのを見て、ため息をひとつ。立ち上がって言う。「分かった、行くよ。そんなに萎縮しなくていい
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