All Chapters of クズ男と初恋を成就させた二川さん、まさか他の男と電撃結婚!: Chapter 1021 - Chapter 1030

1114 Chapters

第1021話

辰琉は頭を垂れ、まるで悪いことをして叱られている子どものようだった。孝寛の背筋も、いつものようにしゃんと伸びることはなく、ずっと曲がったまま。その間、彼の胸中では、自分の顔を地面に押しつけられ、踏みにじられているような屈辱が渦巻いていた。こんなに時間が経っているのに、この女はまだ考えを決められないのか。その思いが積もるたび、孝寛の背中はさらに重く沈み、今度こそ二度と真っ直ぐには戻らない気がした。理由は分からない。ただ、胸の奥で確信に近い予感があった。隣の名津美も、歯を食いしばって堪えていた。彼女は決して、手に入れた栄華を手放したくはない。ようやく掴んだ安穏な生活を、いまさら昔の苦しい日々に戻せるわけがない。緒莉は、母親の意図を確かめるようにその横顔を見た。彼女には分かっていた。母の目的が最初から「辰琉」ただ一人だったことを。だが美月は何も言わず、黙って目の前で背を丸める二人を見つめていた。そして次に、まるで心ここにあらずのような辰琉を一瞥し、深くため息をつく。「もういいわ。そんなことしなくても。立ちなさい」美月の言葉に、二人は恐る恐る背を伸ばした。互いに顔を見合わせるが、彼女の真意は分からない。緒莉の胸中には、ある予感がよぎったが、それを確信することもできず、母の心を軽々しく推し量ることもできなかった。長年そばにいて分かっている。母は誰かに支配されるのを嫌い、自分のペースを乱されることを何よりも嫌う人だ。孝寛は逡巡ののち、おそるおそる口を開く。「それで......二川会長は......」「あなたたちを、そして安東グループを見逃してあげてもいいと言ってるの」その一言に、孝寛の顔がぱっと明るくなる。それはつまり、助かるという意味ではないのか。「ということは......今回は、これで水に流してくださるという......?」恐る恐るそう尋ねる声。その表情には媚びるような笑みが浮かんでいた。無理もない。今この局面は、安東家にとってまさに生死を分ける一線だった。もし美月が許してくれさえすれば、安東は再び立て直せる。彼はもうすぐにでも新しい取引先を探すと誓おうとした、その時。美月の冷たい鼻息が空気を裂いた。「水に流す?ずいぶん都合のいい話
Read more

第1022話

どうやら、息子はもう助からないらしい。安東家の二人の目には、ためらいの色が浮かんでいた。たった一人の息子だ。そう簡単に見捨てられるはずがない。特に名津美にとっては、その想いはひときわ強かった。十月十日、腹の中で育てて産んだ我が子。まさに自分の身体の一部をちぎって生まれた存在なのだ。どうして、痛まないはずがあるだろう。けれど今、自分の手でその子を切り捨てろと言われている。親として、どうしても心がついていかない。名津美は虚ろな表情を浮かべる辰琉をちらりと見た。その瞳の奥には、深い哀れみがにじんでいた。だが、最終的には顔を背け、何も言わなかった。その一瞬の視線で、辰琉はすべてを悟った。自分は捨てられる側だ、と。彼は俯いて、前髪の影に表情を隠しながら、空虚な笑みを浮かべた。――わかっている。自分は選ばれなかったのだ。会社か、自分か。その選択に迷うほどのことではない。むしろ、数分間も考えたこと自体、彼には偽善的に思えた。なぜもっと早く気づかなかったのだろう。緒莉は静かに腕の力を抜いた。まさか母がここまで冷酷になれるとは思わなかった。今まで、母の覚悟を甘く見ていたのだ。――やっぱり、母はすごい。緒莉の胸には満足感が広がった。辰琉を刑務所に送ってしまえば、すべてが終わる。あの秘密も、永遠に闇の中で腐り果てる。辰琉が本当に狂っているのか、演じているのか、もはや関係ない。中に入ってしまえば、生きるも死ぬも彼の意思では決められないのだ。そう思うと、緒莉の胸は興奮で高鳴った。傍らで立ちながら、爪が手のひらに食い込むほど握りしめる。この場にはまだ多くの人が見ている。今、感情を漏らすわけにはいかない。重い沈黙が続く中、美月はソファにゆったりと腰を下ろしていた。焦る様子など微塵もなく、むしろ余裕すら感じられる。選択権は相手の手にある。だが、主導権は常に自分の側にある。美月はそのことを誰よりも理解していた。だからこそ、一切不安を見せない。焦るべきは、向かいの者たちなのだ。「選びなさい。難しい話でもないでしょう?」美月の穏やかな声に、孝寛の肩がびくりと震えた。もう、決断するしかない。緒莉も横で見ていて悟った。今日、辰
Read more

第1023話

辰琉の胸の奥には驚きなどなかった。やはり、こうなることは分かっていた。いったい自分は何を期待していたのだろう。あの父と母が、金より息子を選ぶはずがない。二人にとって、金は命よりも大事なものだ。金さえあれば、息子などいくらでも作れるとでも思っているのだろう。胸の奥がひどく冷たくなり、辰琉の表情は虚ろに沈んだ。心の底で何を感じているのか、自分でも分からない。ただ一つ分かったのは――自分はもう大人になったというのに、親の目には金以下の存在でしかないということだ。自分は何なのだ?笑い話か?それとも、いらなくなった駒の一つか?美月の顔には、驚きの色など微塵もなかった。最初から、この選択には答えなどない。けれど、二人の結論はまったく予想通りだった。彼女は、相手が結局「金に縛られた人間」であることを最初から知っていた。だからこそ、何の感情も湧かなかった。一方で、緒莉は胸の奥でほっと息をついた。これで、ようやく終わる。辰琉が連れて行かれさえすれば、すべて片がつく。もうあの秘密に怯える必要もない。美月は冷ややかに言い放った。「これで、二川家と安東家の関係は終わりです。以後、一切の協力関係はありません。辰琉については......」その名を出した瞬間、安東夫婦は息を呑んだ。背筋がこわばり、目を伏せたまま動けない。たった一人の息子を、どうして簡単に見捨てられるものか。「警察には、私の方から連絡を入れておきましょう」そう言って美月は立ち上がり、部屋を出ようとした。だが、その背に名津美が縋るように声を上げた。「お願いです......数日だけ、時間をもらえませんか?」その顔には、もはや最初の傲慢さはなく、哀れなまでの懇願が浮かんでいた。美月はちらりと緒莉に目を向けた。彼女は静かに頷いた。「ええ」という合図だ。それを確認した美月の目に、一瞬柔らかな光が宿る。「......いいでしょう。娘の顔に免じて。三日だけ時間をあげるわ。その間に、全て整理なさい。でも、もしそれを守らないなら......安東家など、私の一言でどうにでもなるので」名津美は頭を下げ、何度も「ありがとうございます」と繰り返した。彼女も分かっていた。これが息子と過ごせる、
Read more

第1024話

もしここで奴らの思うままにさせたら、自分の一生は終わりだ。絶対に、このまま引き下がるわけにはいかない。緒莉のことも絶対に許さない。こんな状況になってまで、まだ自分を踏みつけようとするなんて。――どうしてそこまでして、自分を刑務所に送り込みたいんだ?気を失うふりまでしたのに、どうしてまだ放っておいてくれない?辰琉は大きく息を吸い込んだ。胸の奥まで冷え切っていくのを感じた。特に、緒莉のあの黒い一面を目の当たりにしてからは、もう完全に希望を失った。あの女には、何ひとつ期待なんてできない。――いったい、何を考えてるんだ。どうして、ここまで自分を憎む?前は、あんな人じゃなかったはずだろ。そのとき、辰琉の脳裏に真白の顔がよぎった。どうしても逃げ出さなければ。黙って捕まるわけにはいかない。今のあの刑務所に入ったら、十中八九、生きては出られない。両親にも、もう頼るつもりはない。二人の様子を見れば、最初から助け出す気なんてないのは明らかだ。――行けば、ほぼ確実に死ぬ。なら、分かっていてなぜ死にに行く?少しでも望みがあるなら、賭けてみるしかないだろ。どうせ結末が死だとしても、俺は新しい道をこじ開けてみせる。運命に屈してたまるか。辰琉は心の底で固く決意した。もう、誰にも止められない。今度こそ、自分のために生きる。緒莉――必ず後悔させてやる。名津美は、呆けたようにその場にしゃがみ込む息子を見つめていた。何を見ているのかも分からない。思わず駆け寄って抱きしめ、鼻をすすりながら泣き叫んだ。「可哀想な息子よ......ごめんなさい、ごめんなさいね。全部、私たちのせいよ」辰琉は心の中で盛大に白目をむいた。――両親のせいに決まってるだろ。自分の息子を犠牲にしてまで、会社の利益を守りたいなんて。どこまで腐ってるんだ。最初は、両親が利益を優先するだけで、まだ息子としての情はあると思っていた。だが、どうやら自分の存在価値を買いかぶっていたらしい。辰琉の顔には、もう焦点の定まらない虚ろな表情が浮かんでいた。まるで外の世界の音が、すべて遠ざかってしまったように。孝寛はその様子を見て、なんとなく違和感を覚えた。息子の目が、ずっと自分を見つめているよう
Read more

第1025話

最後は、ただうなずくしかなかった。彼女の栄華も富も、すべて夫と息子のおかげで得たものだ。今やその息子さえも失おうとしている。だから、彼女にできることは夫の言葉に従うことだけだった。その自覚が、今や名津美の脳裏に深く刻み込まれている。自分の贅沢が誰によって支えられてきたのかを分かっているからこそ、彼女はそれを必死に守ろうとした。辰琉は、抵抗することなく母に手を引かれて歩いた。その瞬間、彼の胸に浮かんだのは「偽善」という言葉だった。結局、自分を差し出すことに同意したのも、この女だ。それなのに今さら、美月に頭を下げて「時間をください」と頼むなんて。もう、何を考えているのか分からない。だが、そんなことはどうでもよかった。今の自分に必要なのは、ただ「自分のために生きる」ということだけだ。母に二階の部屋まで送られたあと、彼女はしばらくの間、部屋にとどまっていた。胸の奥には罪悪感があった。けれど、それ以上に「どうしようもなさ」が勝っていた。名津美は息子の手を握り、隣に腰を下ろして静かに言った。「辰琉......ごめんなさい。お父さんとお母さんが守れなくて。刑務所に行っても、自分のことはちゃんと守って」彼女は何度も念を押した。「心配しないで。あとでちゃんと人をつけて、必要なものは全部送らせるわ。できるだけ快適に過ごせるようにしてあげるから」辰琉は黙ったまま、ぼんやりと一点を見つめていた。何を見ているのか、母にも分からない。母の顔を焼き付けているのか、それともこの二十年過ごした家を惜しんでいるのか。だが、心の中では冷たい笑いが渦巻いていた。本当に、笑わせる。この家で二十年以上過ごしてきたのに、何ひとつ温かい記憶がない。昔、両親が言い争う姿を見たこともあった。けれど幼かった自分は、それを見間違いだと思っていた。ずっと、二人は仲がいいと思い込んでいた。だが今日、父が母に浴びせたあの罵声を聞いて、ようやく分かった。この家は最初から壊れていたんだ。母は離婚を望まず、父はDV男。そんな家で、何を守ろうとしているのか。辰琉は、母が黙々と荷物をまとめる姿を見つめながら、心の底で嘲った。刑務所に行くっていうのに、何をそんなに準備するんだ?母は手を動かしながら、ひ
Read more

第1026話

名津美は怪訝そうに眉をひそめた。「どういう意味?あの子、もうあんなふうになってるのよ。何が言えるっていうの?あなた、また変なこと考えてるんじゃないの」孝寛はそんな妻の様子を見て、何も知らないのだと悟った。結局、ただ首を横に振る。「......そうか」名津美がさらに問い詰めようとした時、孝寛は再び首を振り、意味深に口を開いた。「心配するな。あいつはそんな簡単に死ぬような奴じゃない。きっと、まだ何か考えてるはずだ......必ずな」その声音には確信めいた落ち着きが戻っていた。明らかに、彼は本気で辰琉を信じている。名津美にはよく分からなかったが、結局は従うしかない。夫が外で戦っているなら、自分は家を守る――それが妻としての役目。真実がどうであれ、彼の言葉が本当であってほしいと心の底で願っていた。なにしろ、自分たちにはもうあの息子しかいないのだから。――美月は緒莉の手を取って屋敷を後にした。車に乗り込むと、緒莉はそっと母の肩に頭をもたせかける。「お母さん。これで全部、終わるんだよね?」その言葉に美月の胸が締めつけられた。腕を伸ばして娘の肩を抱き寄せ、優しく答える。「馬鹿ね、もちろんよ」その声には、深い憐れみが滲んでいた。「つらかったでしょう。もう大丈夫。お母さんがいる限り、二度と緒莉を苦しませたりしないわ。どんなことがあっても、お母さんに話してね」緒莉は目を潤ませ、小さくうなずいた。「うん......ありがとう、お母さん」その素直な様子に、美月の心は少しだけ安らいだ。だが脳裏には、どうしても紗雪の姿が浮かんでしまう。自分は現場には行っていない。けれど、伊藤からの報告を聞いただけで胸が張り裂けそうだった。かつてあれほど自信に満ちていた娘が、あんな姿で一ヶ月も寝たきりだったなんて。もし本当に緒莉が関わっていたとしたら......?そう思うだけで、息が詰まった。目を閉じる。――分かっている。娘に問いただしても、答えはきっと一つしかない。「自分じゃない」と。もしくは「故意じゃない」と。あるいは「辰琉に騙された」と。頭ではすべて理解している。なのに、なぜ自分はまだ緒莉を庇おうとするのか。その理由が、自分でも分からなかった。
Read more

第1027話

彼女はやはり、最近少し疲れすぎているのだと思った。美月は緒莉の腕を軽く叩きながら言った。「緒莉がそばにいてくれると、お母さんはとても安心するわ。しばらくしたらパーティーを開こうと思うの。安東グループとの件を正式に発表するつもりだから、その時はあなたも一緒に出席して」緒莉は驚きと喜びが入り混じった声で尋ねた。「本当?」これまで、こうしたパーティーに母が彼女を連れて行ったことは一度もなかった。体調が悪い彼女に、母がいつも言っていたのは「家でゆっくり休んでなさい」という言葉だけ。それ以外のことは、何もなかった。一方、紗雪は彼女のように話上手ではないが、知識が広く、どんな話題にもついていけた。だから、誰もが紗雪と話したがった。そうしているうちに、人々の記憶から彼女の存在は徐々に薄れていった。だから今回のことは、本当に意外だった。自分はもう母に見限られたと思っていたのに、まさか再び選ばれるとは。美月は、驚きで目を輝かせる緒莉を見て、胸の奥が少し痛んだ。自分は知らず知らずのうちに、二人の娘を傷つけていたのだ。それならば、これからはちゃんと償おう。もう二人を不公平に扱うことはしない。「もちろん本当よ」美月は、自分がこれまでどれほど酷いことをしてきたかをようやく理解した。彼女は微笑みながら言った。「緒莉も紗雪も私の子どもよ。何をするにも、あなたの気持ちもちゃんと考えるわ」緒莉は思いもしなかった。まさか辰琉の件が、こんな形で状況を好転させるなんて。彼女は母の胸に身を預け、笑顔でうなずいた。だが、その笑みは次の瞬間、凍りついた。「それから、紗雪を会社の後継者として正式に発表するつもりよ」その一言で、ようやく築きかけた母への好感が一気に崩れ去った。つまり、自分が出席するのは紗雪の「後継発表のパーティー」ということ?それが何を意味するのか。自分はただの笑い者なの?嫌いな相手が、自分の前で得意げになる姿を見せつけられるだけ?緒莉の表情はもう保てなくなっていた。だが美月は、それに気づかぬように話を続けた。「でも安心して。緒莉のことも、ちゃんと考えているわ。体のことを考えて、会社の配当や持株はあなたにもきちんと分けるつもりよ。だから何もしなくても、毎月安
Read more

第1028話

彼女を飼い殺しにしてしまえば、もう紗雪と家産を争う必要もない。緒莉の瞳の奥に、次第に恐ろしい色が宿っていく。なるほど、母の中では自分はそういう存在なのか。だが、彼女はその思いを口にはしなかった。ただ胸の奥に、静かに憎しみの種を埋めた。一方で、美月は何も気づいていなかった。彼女にとっては、この「段取り」は至極当然のことだった。長女の身体は弱い。何もせずに毎月お金が入ってくる生活――そんなの、他人がどれだけ望んでも手に入らない贅沢だ。しかし、彼女は緒莉の野心を完全に見落としていた。緒莉にとって、「家に閉じ込められる」ことは、殺されるよりも屈辱だった。彼女は夢を持ち、野望を抱く人間だ。少しの安逸で満足するような女ではない。凡庸に埋もれることを、彼女は絶対に許せない。だが美月はそんなことを知らない。自分が与えるものこそが「最善」だと信じて疑わなかった。いつからだろう。美月はいつの間にか、誰よりも強権的な人間になっていた。自分の決めたルール、自分のペースを絶対視し、他人にはそれに従うことを求める。リズムを乱されることを、何よりも嫌った。長い年月の中で、ただ一度だけその流れを崩した存在があった。紗雪。数年前の、あの賭け。けれど結果的に、紗雪は完全に敗北した。それもまた、美月の計算の内だった。ひと通りの話を終えた後、美月は座席に身を預け、目を閉じた。このところ、確かに心身ともに疲れていた。だが結果としては上々。あとは、辰琉をうまく始末してしまえばいい。だが隣で、緒莉の瞳はどんどん深く沈んでいった。......同時刻、病院。加津也はベッドに横たわり、介護士が次々と食事をテーブルに並べていた。一通り終わると、彼はようやく上体を起こした。並んだ料理を見つめた瞬間、胸の奥で何かが揺れた。見覚えのある料理ばかりだった。彼は慌てて介護士の腕を掴み、問いただした。「これ......誰に聞いて作った?」彼は昨日の会話をはっきり覚えている。「何が食べたいですか?」と聞かれて、「なんでもいい」と答えたはずだ。ここ数日、病院のベッドに縛られたまま、紗雪たちにも手を出せず、苛立ちと退屈で、すっかり気力を失っていた。それに加え、この状態にな
Read more

第1029話

だが加津也を退院まで世話すれば、もう一筆報酬が入る。それだけが、この介護士がここまで我慢している理由だった。それがなければ、とっくに心が折れていた。どれくらい時間が経ったのか、ようやく加津也はぼんやりと頷き、理解したように見せた。それを見て、介護士はしぶしぶ口を開いた。「それじゃあ。先に食事をどうぞ。食べ終わったら、私が片づけますから」そう言い残して、彼女は自分の仕事へと戻っていった。金のためだ、我慢できる。ただ気性の荒い患者を相手にしてるだけ。それだけのこと。「大丈夫、大丈夫......お金さえもらえれば何でもない」彼女は自分にそう言い聞かせ、心を落ち着かせた。結局、人を一番動かすのは金だ。一方、加津也は料理を二口ほど食べたところで、もう箸が止まった。この数日、病院のベッドに縛りつけられ、体を動かすこともできない。当然、食欲も湧かない。初芽が一度も顔を見せないことを思い出すたび、胸の奥が締めつけられる。それなのに、彼女は介護士に自分の好物を作らせている。これは、どういう意味だ?彼の瞳が徐々に陰を帯び、とうとう我慢できずにスマホを手に取った。画面に残っているのは、彼が初芽に「看病に来てくれ」と送ったままのメッセージ。その日以降、何日も連絡を控えていた。「甘やかしすぎたから、あいつが図に乗ってるんだ」と思っていたのだ。だが、今は違う。彼女は自分を覚えていて、自分の好きな料理を用意させた。そう思うと、胸の奥が温かくなった。勝手に疑っていた自分が、急に恥ずかしくなる。通話ボタンを押すと、「プルルル......」という音が、やけに長く感じられた。一秒ごとに、心臓を握り潰されるような焦燥。「着信音ってこんなに長かったっけ......?」と、妙なことまで考えてしまう。ようやく電話がつながる。少し疲れたような声が聞こえた。「......どうしたの?」加津也は一瞬言葉に詰まった。昼間なのに、どうしてそんなに疲れてるんだ?「邪魔だったか?」初芽は一瞬、驚いて画面を見つめた。確かに、表示された名前は「加津也」。あの傲慢な男が、こんな殊勝なことを言うなんて。珍しいこともあるもんだ。思わず笑いが漏れた。「ううん、別に。加津也
Read more

第1030話

きちんと世話をした、それで最後の情分は果たしたつもりだった。だが、どうやら加津也の考えはそうではなかったようだ。彼は不満げにそうに言った。「これまで初芽が俺にしてくれた全部、ちゃんと心に刻んでおきたいんだ。そんなふうに、軽く言わないでくれ」加津也は理解できないというように眉を寄せた。もし以前の初芽なら、きっと甘えてきたはずだ。だが、彼女の声は冷たく、どこか疲れていた。「話っていうのはそれだけなら、もう切るね。病院にいる間、自分の体も大事にして。必要なことがあれば、介護士さんに言って」そう言って、初芽は電話を切った。真っ暗になった画面を見つめながら、加津也はしばらく呆然とした。いつからだろう。自分が初芽にとって、特別じゃなくなったのは。確かに、彼女は自分の好きな料理を用意してくれていた。だが、それも彼女が直接来てくれるのとは違う。その「重み」がまるでなかった。ため息をつきながらベッドに横たわり、スマホで二人の過去のチャットを遡る。そこには、かつての親密さが残っている。なのに、今はすべてが変わってしまったように感じられた。一方そのころ、初芽は伊吹の別荘にいた。電話を切ったあと、彼女の顔にはあからさまな軽蔑の色が浮かんでいた。さっきの電話、意図が見え見えだった。ようやく気づいた。彼は自分を、ただの「便利な存在」としてしか見ていない。それ以上でも以下でもない。肩に頭を預けてきた伊吹が、心配そうに彼女を見上げる。初芽は首を振り、何でもないと答えた。「変わったとしても、結局は考えが浅いままね」そう呟いてスマホを置くと、初芽は腕を伸ばして伊吹の首を抱き寄せた。二人の距離はすぐに縮まり、頬が触れるほど近づく。伊吹は感じていた。彼女は救い出してから、本当に変わった。以前よりもずっと、自分に寄りかかってくる。今の初芽の瞳には、ほとんど自分しか映っていない。加津也の話題も、もうほとんど出てこない。そんな彼女を、伊吹はたまらなく愛しく思った。彼は認めざるを得なかった。この女に、心を奪われていることを。好きという感情には、もともと独占欲がつきものだ。しかも、彼女を狙う男は自分だけではない。ならば、手を使ってでも繋ぎ止めなければなら
Read more
PREV
1
...
101102103104105
...
112
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status