All Chapters of クズ男と初恋を成就させた二川さん、まさか他の男と電撃結婚!: Chapter 101 - Chapter 110

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第101話

そう言うが早いか、俊介は素早く手を振り上げ、紗雪の頬を強く叩いた。女性へのいたわる気など微塵もなかった。傍らで見ていた林檎は、その光景に溜飲を下げる思いだった。紗雪の唇の端から、一筋の血が滲む。彼女は美しい瞳を上げ、怒りを宿した視線で俊介を睨みつけた。俊介はその視線を受け、内心ぞくりとしたが、それでも強がりを見せて口を開く。「なんだ?不服か?」そう言いながら、彼は再び手を振り上げ、もう一度紗雪を叩こうとした。だが、その腕は突然、大きな手に掴まれた。力強く振り払われたかと思うと、次の瞬間、彼は強烈な蹴りを受け、床に弾かれた。「死にたいのか」低く響く声。紗雪は、その聞き覚えのある声に目を見開いた。逆光の中、男の姿が浮かび上がる。目が合った瞬間、彼の黒い瞳には、彼女を案じる想いが宿っていた。その一瞬で、紗雪の心は安らいだ。京弥は、紗雪の乱れた衣服、血の滲む唇、そして周囲に群がる男たちを一瞥した。それだけで、ここで何があったのかを察するには十分だった。次の瞬間、彼の目の端に怒りの赤が差し、安堵の視線を紗雪に投げかけた後、一気に彼女を囲んでいた男たちを次々と蹴り倒した。地面に転がった男たちのうち、ようやく状況を理解したリーダー格の男が叫ぶ。「なんだこいつ!ひるむな、相手は一人だぞ!」その言葉を聞いた京弥は、冷淡な目を向け、無言のままその男の前に立つと、無慈悲に彼の下半身へと蹴りを繰り出した。先ほどまで強気だった男は、一瞬にして声を失い、転がるように身をかわし、間一髪で致命傷を避けた。その様子を見た他の男たちは、京弥の鬼神のごとき戦闘力に圧倒され、一歩も動けなくなった。「お前は誰だ?なぜここに.....」俊介はなおも喚く。「この女は俺が目をつけたんだぞ!ここは俺の縄張りだ、この若造が!」彼の虚勢など、京弥にとっては無意味だった。返事をすることもなく、彼は無言のまま、再び俊介の腹部に強烈な蹴りを見舞った。今度は容赦などしない。その威圧的な光景に、残った二人の手下は黙って後ずさり、手を振って降参の意を示す。「兄貴、俺たちは雇われた者だ!深く関わるつもりはねえ!」「そうだ!しかもこの女が手強すぎて、俺たちも何もできなかったんだ!」男が必死に弁解するが、その瞬間、彼も
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第102話

匠が警察を引き連れて入ってきたとき、ちょうど京弥が紗雪を抱えて歩き去るところだった。その女性の肩には、彼のジャケットが掛けられている。彼女は小柄で、京弥の胸にそっと身を寄せる姿は、二人が完璧なカップルであるかのように見えた。この事実を、匠は認めざるを得なかった。「社......椎名さん、警察を連れてきました」京弥の腕の中にいる紗雪を見て、匠は急いで報告した。案の定、京弥は満足げな眼差しを向け、微かに頷くと、低く命じた。「中の連中、一人も逃がすな」そう言い終えるや否や、彼は紗雪を抱いたまま、大股でその場を後にした。腕の中の紗雪の衣服はすでに着られる状態ではなく、何より彼女自身も、ここに長く留まりたいとは思っていないはずだ。京弥の予想は的中していた。紗雪は、すっかり顔を京弥の首元に埋めていた。まさか、あんな男に頬を叩かれるなんて。こんな屈辱、二度とごめんだ!「わかってるよ、さっちゃん。心配するな。ゆっくり休んだら、しっかりと落とし前をつけさせよう」京弥の低く優しい声が、紗雪の頭上から降り注ぐ。彼は、紗雪の体が緊張しているのを感じ、それを和らげるためにこの言葉をかけたのだった。紗雪は心の中で感心した。この男は、想像以上に細やかな気遣いをする。「......うん」小さく返事をすると、そのまま彼の腕の中で静かに身を任せた。俊介が目を覚ましたとき、すでに警察署の中だった。林檎もまた、一緒に連行されていた。しかし、取り調べの結果、彼女はただの共犯未遂と見なされ、結局、十数日間の拘留で済んだ。俊介と林檎は、最終的に法の裁きを受けることとなるだろう。その知らせを家で聞いた加津也は、怒りに震えながら携帯を床に叩きつけた。「この役立たずめ!」ちょうどそのとき初芽が訪れ、息を荒げる加津也の様子を見て、そっと彼の胸元に手を添えた。そして、何気ない口調で尋ねる。「どうしたの?そんなに怒って......」初芽の優しい声と仕草に、加津也の苛立ちはいくらか収まる。「......いや、大したことじゃない。商売のことだ。俺がどうにかする」そう言って、彼は初芽の手を軽く払いのけた。初芽の表情が、一瞬固まる。彼が......彼女を遠ざける?まさか、こんな日が来るなんて。
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第103話

京弥は紗雪を助手席に優しく座らせると、自分も運転席に乗り込んだ。彼の視線は紗雪に向けられていた。その眼差しは柔らかく、しかしその奥には、深い痛みが滲んでいた。二人の距離は近すぎた。この男は、まるで妖のように整った顔立ちをしている。紗雪は、ほんのりと頬を染めた。「な、なんでそんなに近づくの!離れてよ」だが、京弥は聞き入れず、さらに身を寄せてきた。彼の体は、ほとんど紗雪の上に覆いかぶさるようになっていた。「ごめん、さっちゃん......君にこんな思いをさせて」彼の声には、深い後悔が滲んでいた。今回、紗雪を傷つけたのは、間違いなく自分の不注意のせいだ。彼が部屋に踏み込んだ瞬間、数人の男たちに囲まれ、血の滲んだ唇をしている紗雪を目にしたとき、その場で奴らを全員地獄へ送ってやりたかった。彼のさっちゃんは、どんな気持ちで彼の到着を待っていたのだろうか。なぜもっと早く来られなかったのか。もし、あと少しでも早ければ、紗雪はあの一撃を受けずに済んだのではないか?「私はもう平気よ?だから、そんなに自分を責めないで」紗雪はそう言って、小さな手を伸ばし、京弥の頭をぽんぽんと撫でた。京弥は驚いたように顔を上げ、紗雪と視線を交わす。彼女は、こんなにも優しい。紗雪自身はただ慰めようと思っただけだったが、こうして見つめ合うと、急に気恥ずかしくなってしまう。咳払いをして手を引っ込めようとした瞬間、京弥は彼女の手首を掴み、そのまま唇を重ねた。今回のキスは、いつもとは違っていた。彼の唇は優しく、じっくりと外側をなぞるだけで、すぐには深めようとしない。紗雪は、ゆっくりとその甘い感触に溶かされていく。思わず唇をわずかに開いた。京弥はこの一瞬を逃さず、深く入り込んできた。手首を解放し、代わりに彼女の腰をしっかりと抱き寄せる。紗雪の鼓動は、不安から安心へと変わっていった。二人の心が、ゆっくりと、しかし確実に近づいていく......家に帰ると、紗雪は京弥に抱えられたまま車から降ろされた。「ちょっと、歩けるってば......!」小さな声で抗議するが、「俺は、自分の妻を抱きしめるのが好きなんだ」京弥は満足げに微笑む。紗雪はふくれっ面になったが、特に何も言い返さなかった。歩かなくて済むなら、それも悪くない。京弥は紗雪をベッドにそっと降ろすと
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第104話

紗雪は、それが自分がもがいたときに擦れてできた痕だと気づき、少し気まずそうに手を引いた。「大したことないわ、ただのかすり傷よ」そう言いながら、もう一度京弥を追い出そうとする。「いいから、出て行って。一人で大丈夫だから」京弥の目がわずかに暗くなった。こんな時まで、紗雪は本当のことを話そうとしない。なぜ、彼に心を開こうとしないのか?なぜ、ちゃんと彼に話してくれないのか?「これが、かすり傷?」紗雪はまだ京弥の低い声の中に滲む怒りに気づかず、気楽そうに言う。「そうよ、だから気にしなくていいわ。寝ればすぐに良くなるから」早くお風呂に入りたかった彼女は、再び京弥を追い払おうとしたが、ふと目を上げた瞬間、深い瞳と真正面からぶつかった。「......どうしたの?」紗雪はきょとんとした表情を浮かべる。京弥は静かに彼女を見つめ、落ち着いた口調で言った。「さっちゃん......これからは、無理をしないでほしい」彼の言葉には、優しさと哀しみが入り混じっていた。「俺がいる。だから、そんなに強がらなくてもいいんだ」紗雪は一瞬、呆然とした。こんな言葉を、誰かにかけてもらうのは初めてだった。幼い頃から、母親に厳しく育てられ、甘えたり頼ったりすることは許されなかった。愛情を求めることすら、許されなかった。だからこそ、彼女は独りで生きる強さを身につけた。ずっとそうやって生きてきたのに、こんな風に、誰かに「頼ってもいい」と言われたのは、生まれて初めてだった。紗雪はどう返せばいいのか分からなかった。「......わ、分かったわ。でも、先に出て行ってくれる?」彼女は視線をそらし、ぎこちなく答えた。浴室はもともと狭い空間だ。二人でいると、呼吸が詰まりそうになる。紗雪は、肺いっぱいに広がる京弥の香りに、なんとなく落ち着かなくなった。京弥は、彼女の体に残る汚れや傷を見て、胸が痛んだ。少しだけためらったが、最後は折れた。「......分かった。ゆっくり入ってくれ。何かあったら呼んで」そう言い残し、京弥は浴室を出た。彼がいなくなった途端、紗雪はようやく大きく息を吐いた。そのまま浴槽に身を沈め、天井をぼんやりと見上げる。今日一日、本当に疲れた。まさか、こんなことまで
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第105話

京弥の細やかな気遣いを感じるたびに、心が揺れないわけがなかった。だが——紗雪の脳裏には、彼のメモ帳と「初恋」の存在が浮かぶ。途端に、理由もなく気分が沈んでいく。この感情がどこから来るのか、自分でも分からない。彼女は、かつて胸の奥にひっそりと秘めていた淡い恋心を思い出した。それは決して口にすることのない、誰にも知られない想いだった。京弥は視線を落とし、彼女の髪を静かに見つめる。まるで、貴重な宝物に触れるかのように、慎重で優しい手つきだった。契約額が何百億にも及ぶプロジェクトをまとめる彼の手が、今こうして紗雪の髪を乾かしている。匠が見たら、きっと「お天道様が西から昇りそうだ」と冗談を言うに違いない。ようやく髪が乾いた頃には、紗雪の心の整理もついていた。何があっても、今の京弥は彼女の「夫」だ。彼があまりにも分別を欠くようなことをしない限り、紗雪は彼と他の人の関係には干渉しない。だが、最低限の体面だけは守ってもらう必要がある。そう考えていた時、ふと疑問が湧いてきた。「そういえば......どうやって私を見つけたの?」あの男たちに囲まれ、身動きが取れなくなったとき、本当に、全てが終わるのではないかとさえ思った。だが、その瞬間、まるで神のように京弥が現れた。京弥は少し黙り込んだ後、昼間のことを思い出しながら口を開く。「会社の下で待っていたんだ。受付に聞いたら、紗雪はとっくに帰ったと言われた」「電話をかけても繋がらなかったから、嫌な予感がした」その瞬間のことを思い出し、京弥は無意識に拳を握りしめる。あの男たちを、決して許さない。紗雪は納得したように頷いた。「なるほどね」それなら、彼がどうやって見つけたのかも納得がいく。「......で?あの連中はどうするつもり?」彼女は京弥の顔をじっと見つめた。彼がどんな答えを出そうと、彼女の一言で全てが決まる。京弥が手を下せば、奴らは二度と外の世界に戻って来られないだろう。紗雪は少し考え、最終的に決断した。「警察に引き渡して、あとは法の裁きに任せましょう?」結局何もされなかったし、普通の手続きで進めればいい。ただし、刑務所で楽な暮らしができるとは思わないでほしい。自分は聖母マリアじゃなんだから。京弥は微
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第106話

いい夢を見たような気がした。翌朝。紗雪が目を覚ますと、いつものように京弥が用意した朝食が待っていた。昨日の出来事があったせいか、紗雪は今では京弥と自然に向き合えるようになっていた。余計なことを考えることも、もうない。誰の心にも秘密や隠しておきたいことの一つや二つはある。それを深く追求したところで、何になるだろうか。皆、大人なのだから、それぞれのプライバシーは、尊重すべきものだ。「今日の目玉焼き、すごくきれいにできてるね」紗雪は、ごく自然にそう褒めた。京弥は一瞬驚いたようだったが、彼女の明るい笑顔を見ると、すぐに口元を緩ませる。「気に入ったなら、次もこの焼き加減で作るよ」「じゃあお願いしようかな」二人の関係は、以前よりもずっと穏やかで心地よいものになっていた。紗雪は食事を終えると、そのまま車で会社へ向かった。京弥は送るつもりだったが、彼女がすでに車のキーを手にしているのを見て、それ以上は何も言わなかった。紗雪は、籠の中で飼われる鳥ではない。彼女は自由を求める。自分の意志で羽ばたき、堂々と生きる人間だ。だからこそ、京弥は彼女を縛りたくなかった。手を差し伸べるよりも、彼女自身の力で経験し、成長する方がずっと意味があるのだから。紗雪が会社に着くと、受付を通りかかった際に軽く会釈をした。受付の女性たちは、その姿を見て好奇心を抑えきれない様子だった。彼女がエレベーターに乗り、姿が見えなくなると、「やっぱり二川さん、めちゃくちゃ綺麗だよね。あの人があんなに焦ってたのも納得......」「ほんと、それ。二人とも美男美女すぎて、もう完璧カップルって感じ!」「もうダメ......私、尊すぎて頭が爆発しそう......!」紗雪は、そんな彼女たちの盛り上がりを知る由もなく、デスクへ向かい、すぐに仕事に取り掛かった。椅子に腰を下ろして間もなく、円がこそこそと近寄ってきた。「紗雪、昨日のことはもう聞いた?」「何のこと?」パソコンの電源を入れながら、紗雪は怪しげな円に目を向ける。「あの浅井のことよ!」円は憤った様子で声を潜める。「やっぱり悪事を働くと天罰が下るんだね」「彼女がどうかしたの?」紗雪は、少し驚いたふりをしながら尋ねた。自分が知っていること
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第107話

紗雪は目の前のパソコンを見つめながら、ひとつひとつの企画やアイデアを頭の中で整理していった。そんな中、紗雪が進めている企画と林檎に関する件は、緒莉と二川母・美月の耳にも入っていた。同時刻、二川家。この日、美月は会社に行かず、緒莉と家で過ごしていた。前回、辰琉の件で緒莉は怒って家を飛び出した。そのため、こうして美月と二人きりになるのは、どこか気まずさが残る。緒莉は、目の前で優雅にコーヒーを飲みながら本を読んでいる美月の顔をじっと見つめた。手入れが行き届いており、年齢を感じさせないその顔には、何の感情も浮かんでいない。彼女は拳をそっと握りしめた。前回の件については、すでに辰琉が美月に説明している。しかし、そのとき美月は表向きには何も言わなかったものの、緒莉にはわかっていた。たとえ彼女が辰琉を許したとしても、美月が納得するにはまだ時間がかかるだろう。なにせ紗雪の手元には録音があるのだ。それを考えると、美月の立場としても簡単には流せないはずだった。「お母さん、聞いたんだけど、紗雪が会社で誰かをクビにしたらしいわ。浅井林檎っていう人」緒莉がそう言うと、美月はコーヒーを飲む手を一瞬止め、彼女に目を向けた。かけているメガネのチェーンが、わずかに揺れる。「そう......その話なら、少しだけ耳にしているわ」「ええ、それなら特に言うことはないけれど......」緒莉は何か言いたげに言葉を濁し、不安げな表情を浮かべた。その様子を見て、美月は少し興味を引かれる。「どうしたの?緒莉、気になることがあるなら遠慮せずに言いなさい」美月は、生粋の女実業家だ。これまでの人生で、ありとあらゆる人間を見てきた。緒莉のような人間など、珍しくもない。だが、彼女は娘を甘やかしてきた自覚があるため、あえて口を挟まず、ただ話を促した。すると、緒莉は少し躊躇った後、ため息混じりに口を開く。「ただ、ちょっと気になったの。紗雪が会社でああいうことをするのって、少し目立ちすぎじゃないかしら」「何しろ、彼女は二川家の次女よ?そんなことをしたら、『二川家が権力を振りかざしている』なんて噂が立つかもしれないわ」彼女の言葉に、美月はすぐには同意しなかった。むしろ、静かに考え込むような表情を見せる。彼女は、
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第108話

しかし、緒莉は幼い頃から体が弱かった。だからこそ、美月も緒莉にはより一層の気遣いを持って接してきた。加えて、緒莉という子は......そう思いながら、美月はそっと唇を引き結ぶ。そして緒莉に向かって静かに言った。「緒莉の気持ちはよくわかったわ。紗雪のことは、ちゃんと話しておく」「あなたが言ってることも一理あるわ。人を従わせるには、下の者たちの意見も重要。ただ強引に物事を進めるだけではいけない」緒莉は、ぱっと笑顔を浮かべる。「お母さんがちゃんとわかってくれて、本当によかった。私も、紗雪のことを思って言っただけだから」「緒莉はいい子ね」美月は緒莉の手の甲を軽く叩きながら、話題を変えた。「緒莉のこと、わかるつもりよ」「だけど、辰琉の件について、どうするつもりなの?」美月の心の中には、いまだにこの件に対するしこりが残っていた。何しろ、どちらも自分の娘なのだ。それなのに、一人の男をめぐってここまで揉めることになるとは、世間に知られたら、二川家の恥を晒すことになるだろう。緒莉はスカートの裾をきつく握りしめ、僅かに顔を曇らせた。「......お母さん。辰琉は前回、ちゃんと説明したはずよね?」やっぱり、母はまだこの件を気にしていたのだ。「彼は、ただお酒を飲みすぎて、紗雪のことを私と間違えただけ」美月が何か言いかけたが、それを遮るように緒莉が続ける。「それにお母さん。私たちはもう婚約しているのよ?いまさら何を言っても、意味がないわ」「二川家の体面こそが、一番大切なことじゃない?」その言葉を聞いた美月は、再び沈黙した。緒莉の顔には、決意の色が濃く浮かんでいる。彼女は、もう迷いもしないのだろう。結局、美月もそれ以上何も言わなかった。彼女が言うことにも、一理あった。現在の二川グループには、無数の目が注がれている。もしも何か悪い噂が立てば、それは即座に株価に影響を及ぼすことになる。美月はため息をつき、緒莉の手を優しく握った。「......わかったわ。辛い思いをさせて、ごめんなさい」緒莉は微笑んだ。「辛くなんてないよ、お母さん」「私は体が弱いから、お母さんの手伝いもできないし、ずっと申し訳ない気持ちでいた」「それに、辰琉は私が選んだ人よ。彼のことで辛い思
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第109話

紗雪には、ずっと厳しく接してきた。だが、緒莉に対しては、むしろ心が痛むことの方が多かった。この子は、幼い頃から体が弱かったうえに、とても物分かりのいい子だった。何をするにしても、常に母である自分の立場を考えてくれる。だからこそ、紗雪と緒莉の間で、彼女は無意識のうちに緒莉の方を贔屓してしまっていた。彼女は口下手な人間だ。日々、会社のことで頭を悩ませるだけで精一杯で、他のことを考える余裕などなかった。そのせいで、子供たちの間で何が起こっているのか、時に気が回らなくなることもある。「緒莉。いつでもいいわ。何か辛いことがあったら、必ず私に言いなさい。お母さんは、いつだって緒莉の味方よ」緒莉は小さく頷き、穏やかに微笑む。「お母さん、ちゃんと分かってるよ。いつもありがとう」「いい子ね。もう行っていいわ」緒莉はようやく美月の腕の中から離れる。そして、母に別れを告げた後、自室へと戻った。部屋に入るなり、彼女は手元の水の入ったコップを払い落とす。床に砕け散ったガラスの破片、彼女の胸は、大きく上下に波打っていた。幸い、この部屋の防音はしっかりしている。これくらいの音では、階下の美月に気づかれることはない。それにしても、納得がいかない。母は、どうしても自分を二川グループに入れようとしない。紗雪が会社で活躍する姿を見るたびに、胸がざわつく。その輝かしい姿が、ひどく目障りだった。「紗雪。調子に乗らないで」深く息を吸い込み、スマホを手に取る。そして、素早くメッセージを打ち込んだ。少し待つと、相手から返信が届く。その内容を確認した緒莉の表情は、ようやく落ち着きを取り戻した。視線を落とせば、床にはまだ散乱したままのガラスの破片。不機嫌そうに眉を寄せると、すぐさま使用人を呼びつけた。使用人は、恐る恐る部屋に入るなり、ガラスの破片を片付け始める。終始、緊張した様子だった。二川夫人は気づいていないかもしれないが、この屋敷で長年働いている彼女には、よく分かっていた。このお嬢様の機嫌は、まるで天気のように変わりやすい。機嫌が悪い時には、こうして物を投げつけることも少なくない。それは、彼女にとって日常的なことだった。聞いた話では、以前、若い使用人たちの中には、
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第110話

前回の対面以来、次女と一度も会っていない。それが、加津也を焦らせた。部下たちに二川家の次女の行方を探らせても、まったく情報が入ってこない。「使えない連中ばっかりだな」苛立ちを隠せず、思わず悪態をつく。部屋の中を行ったり来たりしながら、最近起こったことを整理する。その中で、紗雪の存在が、やけに引っかかった。付き合っていた頃の紗雪は、あれほど従順に振る舞っていたのに、別れた途端、本性を露わにし始めた。「紗雪、このクソ女が!」「いいだろう。お前がその気なら、俺も遠慮しない」「最後に笑うのがどっちか、見せてやるよ」スマホを強く握りしめたせいで、手の甲に青筋が浮かぶ。加津也の脳裏には、一つの策がよぎった。椎名と親しい、とある人物、そいつは、会社の中でもそれなりの地位にいる。彼を利用すれば、紗雪に痛い目を見せることができる。「このプロジェクトだけは、絶対に渡さない」すぐさま、その人物に電話をかけた。内容は単純、紗雪が提出した投票書を、白紙とすり替えろというものだった。電話の向こうの相手は、一瞬ためらった。「......いや、それはさすがにまずくないか?」「温泉開発のプロジェクトは、うちの社長がかなり重視してる案件なんだぞ」「こんなことしてバレたら、俺の首が飛ぶよ......」だが、加津也は、冷静な声で言い放つ。「心配するな。あいつはただの貧乏学生だ。二川グループに実習生として入ってるだけで、大したコネもない」「仮に騒がれても、会社のトップ層まで届くことはない」その言葉を聞いた相手は、ようやく安心したようだ。「なら、まあ、やってやるよ」その一言を聞いた瞬間、加津也の目に宿っていた険しい光が、ほんの少しだけ和らいだ。これでいい。紗雪、お前に勝ち目はない。......一方、二川グループ。紗雪は、椎名グループの過去のプロジェクトデータを研究していた。彼らが求めるスタイルをより深く理解するために。時間をかけて分析するうちに、確かな手応えを感じ始める。円は、そんな彼女の様子を一日中そっと見守っていた。あまりにも真剣に取り組んでいたので、邪魔するのをためらっていたのだ。日が傾き、退勤時間が近づく頃、紗雪はゆっくりと背伸びをした。その小
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