All Chapters of 私が去った後のクズ男の末路: Chapter 251 - Chapter 260

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第251話

舞がふと俯くと、京介の視線が目に入った。優しくてどこか切ない。けれど、彼女の心はもう動かなかった。ただ、深い哀しみだけが胸に広がった。少しだけ顎を上げ、涙を堪えながら、かすかに掠れた声で言った。「京介……どうすれば、許せるの?もう、私たち夫婦には戻れないと思うの。毎晩毎晩、泣いて、心がバラバラになって……自分でもどう繋ぎ止めたらいいのか、わからない。あの時、あなたに夢中にならなければ、お婆さんは——お婆さんは、まだ元気だったかもしれないのに……」舞の視線が落ちた。瞳には、光る涙が浮かんでいた。その姿に、京介の心がふっと緩んだ。——彼女の想いが、ようやくわかった気がした。舞は自分を責めていた。すべての過ちを、自分のせいだと思っていた。だからこそ、彼女は許すことができなかった。京介は少し荒れた指先で、そっと舞の涙を拭った。だが、彼女の肌はあまりにも柔らかく、たちまち目尻が赤く染まり、見る者の胸を締めつけた。京介は堪えきれず、そっとその赤くなった肌に唇を寄せた。そのせいで、目元はさらに痛ましいほどに紅く染まる。二人の距離はもうほとんどなかった。どちらの肩も震えていて、過去に縛られ、もはや抜け出せない。最初は——京介の一方的な未練だったはずなのに。「もう泣くなよ……子どもたちに見られたら、俺がいじめてると思われるじゃないか」京介は低く優しい声で囁いた。舞は怒ろうとしたが、もう泣きすぎてしまって顔を作る余裕もなかった。その姿が、京介には愛しく思えて仕方がなかった。「昔のお前は、こんなんじゃなかったのにな……今じゃ、涙がぽろぽろ、お水の人形みたい」舞は何も言わず、そっと背を向けた——ちょうどその時、扉をトントンと叩く音。次の瞬間、澪安が勢いよく入ってきた。部屋に入るなり、真っ赤な目をした母の顔に気づいた澪安は、手を精一杯伸ばして言った。「澪安が、ママの涙ふいてあげる!」舞はその小さな体をぎゅっと抱きしめ、澪安の首元に顔をうずめるようにして、嗄れた声で言った。「ママ、泣いてないよ。泣いてなんか、いないよ……」澪安も、細い腕で一生懸命ママを抱きしめ、「ママとぴったんこ」と、頬を寄せた。その光景に、京介の胸がじんわりと熱くなった。シャツに腕を通し
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第252話

九条は眉をひそめた。「縁だのなんだの、そんなもん、俺は信じねえ」彼は本当は、舞に聞きたかった。——お前、俺のこと好きかと。でも、彼女の目に浮かぶ涙を見て、その言葉は喉元で止まった。……彼は、この女性をこんなに追い詰めてしまったのだ。そんな状態で、何を「好き」などと言えるというのか。九条は無言でテーブルのコーヒーを手に取り、一気に飲み干した。そして、強く彼女を見つめながら言った。「もし、あいつがまたお前を裏切ったら——その時は、俺のところに来い」舞は微笑んでそっと頷いた。——でも、本当はもう、行くことはない。彼女と九条の間に「縁」はなかった。……舞が車に戻ると、すでに車は走り出していた。京介は後部座席にもたれかかりながら、片手でスマホを操作していた。何気ない風を装いながら、ふと尋ねた。「……あいつのこと、そんなに好きなのか?」その声には、かすかな緊張が混じっていた。舞は窓の外に視線を移したまま、淡々と答えた。「あなたには、関係ないわ」京介はそれ以上何も言わず、再びスマホに視線を落とした。だが、五分も経たないうちに、突如、彼は舞の手を強く握った。その力強さに、舞は思わず声を上げた。「ちょ、京介!」車内は薄暗く、京介の目は深く、何かを抑え込むように光っていた。その声は、掠れたように低く、そして震えていた。「……他の男を、好きになるな」言ってはいけないとわかっていた。でも、それでも、彼は言ってしまった。「舞、お前は——俺の女だ」舞は勢いよく手を振りほどいた。言葉は容赦なかった。「は?昼間っから何、盛ってんの?……もう満足?」京介の目に一瞬赤い色が宿った。——満足なんか、するわけがない。彼は、彼女を想うあまり、胸が張り裂けそうだった。……三十分後、車は立都市医療センターの外来棟に到着した。舞のアシスタントが、事前に予約を入れていた。診察室では、婦人科の名医・西原先生が病歴ファイルを確認しながら、二人を見比べて言った。「パートナーがいないのであれば、できれば自然妊娠をおすすめしますよ。体外受精にはいろいろとリスクがありますから……もう一度、よく考えてみてはいかがですか?」舞は首を振った。「私たちは、すでに離婚して
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第253話

舞が目を覚ましたとき、そこはもう白金御邸ではなかった。栄光グループの本社ビル、その最上階にある社長室の休憩スペースだった。彼女がここに来たのは、これが初めてだった。かつて夫婦だった頃ですら、この場所で共に過ごしたことはなかった。約60平方メートルの空間は、黒とグレーを基調にした無駄のない洗練された設計。まさに、京介の美意識そのものだった。舞が身を起こすと、いつものスーツは脱がされ、代わりに黒のシャツとメンズのスポーツショートパンツが身につけられていた。数年前に京介がここに置いていたものだろう。ウエストが少しゆるく、紐で締めてようやく形になったが、着心地は悪くない。誰が着替えさせたかなど、今さら詮索する気にもなれなかった。ベッドを降り、窓際に歩み寄ると、一つの本棚からフォトフレームを取り出した。舞と京介のツーショットだった。もう、あれから四年が経つ。澪安と澄佳を身ごもっていた頃、遊園地の観覧車前のベンチに座っている彼女を、宴の帰りに立ち寄った京介が見つけ、膝をついて彼女の腹にそっと手を添えた。遠くから撮られた一枚だったが、その時の二人の表情は——間違いなく穏やかだった。お腹にいる小さな命を、二人で大切に見つめていた。……だが、その夜、彼女はお婆さんを失った。背後で、扉が静かに開く音がした。京介が近づいてくる。「中川が車の中から撮ってくれてたんだ。いい写真だろ?」舞は指先でそっとフレームをなぞる。表情はやわらかく声も穏やかだった。「あなたがどれだけ償ってくれても、努力してくれても……お婆さんは、もう帰ってこないの」京介の瞳は、深く沈んだ。そのとき——休憩室の扉が勢いよく開かれ、男の声が響いた。「周防京介!副社長を勝手に外すなんて、どういうつもりだ!あいつは俺が使うって言ってただろ?雲城市に俺一人残して、何させたいんだ!」声の主は——輝だった。彼は室内の舞に目を向け、京介のシャツと短パン姿の彼女を見て、ふっと薄く笑った。——なるほど、子づくりの真っ最中ってわけか。輝はふと目に含みを宿し、舞を見つめて静かに微笑んだ。「舞もいたのか」舞は何も言わなかった。彼女はもう、言い訳をする年齢でも立場でもなかった。京介も同様だった。軽く眉をひそめ、短く
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第254話

輝はその名を聞いた瞬間、表情を凍らせた。——赤坂瑠璃?遠い記憶の底から、名前だけが浮かび上がった。彼女とは、出所してから一度も会っていない。その後、どこで何をしていたのかも知らない。いや——そもそも、自分は本当に彼女を愛していたのだろうか。京介は静かに表情を引き締め、輝をじっと見つめながら言った。「雲城市の副社長職は、俺が彼女に約束したポジションだ。お前が雲城市にいたくないなら、他の人を送る。立都市に戻って、昔みたいに遊び回る生活に戻ってもいい。ただし——言っておく。赤坂は、お前の娘を産んでいる。情と道理を考えれば、あの子を連れてお爺さんの墓前に行き、頭を下げるのが筋ってもんだろう」……その言葉に、輝は目を見開き、唇を噛みしめた。京介のことは、誰よりも輝がよくわかっている。彼は出所してからというもの、これまで一言も余計なことを言わなかった。だが今、急に動き出したということは——必ず何かを察したということだ。必ず、何かを潰そうとしている。——邪魔者を排除しようとしているのだ。輝は、白い歯を剥き出しにしながら、怒りを込めて言った。「……周防京介、お前は相変わらず最低だな!」京介は微笑みを浮かべた。その笑みは、まるで春の風のように柔らかく、そして冷ややかだった。「お兄さんがもう少しマシだったら、俺だってこんなに苦労しなくて済んだんだがな」輝は舌打ちし、すぐにその場を去った。最短の便を予約し、雲城市へ飛ぶことを決めた。一方の京介は、革張りの椅子に体を沈め、眉間を指で揉みながら、小さくため息を漏らした。「……周防の名を背負うのは、簡単じゃない」京耀は——やはり、荷が重すぎた。……昼食の時間になると、京介は再び休憩室へと足を運んだ。舞はすでにスーツに着替え、窓際に立っていた。背筋を伸ばし、凛とした立ち姿は、かつて栄光グループの副社長として活躍していた頃の彼女そのものだった。京介は、しばし時が止まったような錯覚を覚えた。まるで、何もかもが元に戻ったかのような気さえした。そのまま、舞の背後にそっと近づき、彼女の腰に両腕を回して囁いた。「さっき輝に言われたよ。『昼間っから女とヤってる』ってな。でもさ、舞。俺たち、結婚してた頃だって、昼に
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第255話

キッチンの中は静寂に包まれていた。音を立てているのは、まな板の上で刻まれる野菜の音だけ。京介が流しの前に立ち、食材を丁寧に下ごしらえしている。黒のシャツに、黒のスラックス。広い肩幅と引き締まった腰つき。高く、気品のある男の背中。その背は、女性が思わず寄り添いたくなるような、安心と魅力を纏っていた。かつての舞は、その背中に強く憧れていた。だが、今はただ、切なさとため息だけが胸を占めていた。舞はキッチンの入口に寄りかかり、黙って男の背を見つめた。彼はどうやら洋食を作っているらしい。サラダ、パスタ、イタリア風のポークロースト。片手での作業にもかかわらず、手際は完璧だった。きっと、澪安に何度も料理を作ってきたのだろう。伏せたまなざしは穏やかで、数年前の彼とはまるで別人のようだった。いまの京介には、出世欲も名声もない。まるで家庭を大切にする、温かな男の姿だった。舞は邪魔をせず、そっとその場を離れた——が、京介は彼女の気配に気づいていた。ふと顔を上げると、優しい声音で言った。「もう少しでご飯できるよ」あまりにも優しすぎて、逆に居心地が悪かった。舞は一呼吸置いて、静かに切り出した。「無理しなくていいわよ。シェフに任せればいいのに……それに、私に優しくする必要なんてない。私たちは仮の夫婦なんだから」戸籍上、結婚すらしない。ただ、澪安のために一緒に住んでいるだけ。京介の目元に、淡い影が落ちた。灯りが京介の睫毛にやわらかな影を落とし、その影が彼の言葉にさえ滲んでいた。「わかってるさ。でも、せめて少しでも楽をさせたい。妊娠も出産も——苦しむのは、いつだって女のほうなんだ」澪安と澄佳を出産したとき、舞は命を懸けていた。京介にとって、その記憶はいまも深く心に刻まれている。もし、どうしてもという理由がなければ、もう一度彼女に同じ苦しみを背負わせたくはなかった。京介は再び包丁を取り、声のトーンを落とした。「……それに、舞。俺たちは夫婦じゃなくなっても、家族なんだ。だから、俺はお前を支えたい。少しでも、笑っていてほしい」舞はそれ以上、何も言わなかった。ショールを整えると、静かにキッチンを後にした。外は夕焼けに染まり、紫雲が空を埋め尽くしていた。まるで天
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第256話

「赤ちゃんがほしいと思ったから——妊娠したの」舞のその言葉に、京介はまるで澪安のように——救われた。胸の奥が優しく熱くなっていく。こんな気持ちは、いつぶりだっただろう。きっと「家」という感覚を、久しぶりに思い出したから。その温もりが、彼の心に再び火を灯していた。内室では、舞が子どもたちを寝かしつけていた。子供達がぐっすり眠ったのを見届けてから、静かにベッドを離れ、舞は自室へと戻った。部屋の扉を閉めようとしたその瞬間——ふと、立ち止まった。——京介が、帰ってきた?京介はスーツケースを静かに床に置き、コートを脱いでそれに引っかけた。そして、すぐに内室へと向かう。「全部終わった。子どもたちの顔が見たくて、夜通しで戻ってきた……今から様子見てくる」舞は頷き、ソファに身体を預けながら育児書を手に取ってページをめくった。しばらくすると、足がしびれはじめ、ふくらはぎがつるような鈍い痛みに顔をしかめる。そのとき、子どもたちを見終えた京介がちょうど戻ってきて、彼女が足を揉んでいる様子に気づいた。彼は隣に腰を下ろし、舞の足を膝に乗せて、優しく揉みはじめた。「……今日、注射受けたんだな」舞は「うん」と小さく返しながら、足をそっと引いた。「数日後には手術になる……その日、時間あけておいて。あと、禁煙と禁酒。できれば」……京介は無言だった。淡い照明が彼の黒い瞳に静かに反射する。しばらくして、彼は低く囁くように言った。「……もし今回うまくいかなかったら、自然妊娠にしよう」男と女。たった二人きりの部屋で、この話題はあまりにも……生々しい。舞は目を逸らし、わずかに身を引いた。だが京介の目には、深くて穏やかな愛情があった。彼はズボンのポケットから、小さなベルベットの箱を取り出した。蓋を開けると、そこには一対の真珠のピアスが入っていた。「急だったから、何を選べばいいのかわからなくてさ……でも、お前のあのワンピースに合うと思って……つけてあげてもいい?」舞は拒もうとした。これ以上、関係を曖昧にしたくなかった。だが、彼の手のひらに目を落とした瞬間、言葉が喉の奥に引っかかった。皮手袋はしていなかった。滑らかな真珠が、傷だらけの掌に乗っている。その対比が、痛々しい
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第257話

「……放して」舞はかすかに抗おうとした。だが——男はもう止まれなかった。その黒い瞳に宿っていたのは、濃密な情愛と抑えきれない執着。片手で彼女の頬を包み、まるで彼女を一滴残らず飲み干すようにキスを重ねてくる。彼女の手を取り、自らの首に回し、強く抱きしめながら——「ちゃんと、俺がどうやってお前に触れてるか……見てて」すべてが、混沌と情欲の渦に飲み込まれた。胸に沈めてきた愛と憎しみが、とうとう一線を越え、激しくぶつかり合う。外では、細い雨がしとしとと降り続いていた。……しかし、最後の一線は越えなかった。舞は京介の肩にもたれ、かすれた声で言った。「……周防京介、私はまだ……あなたのこと、許せてないの」京介のシャツははだけ、舞の細い体を腕に包み込みながら、濡れた声で囁いた。「わかってる……舞、それでもいい。わかってるから」熱い涙が、舞の頬を伝った。舞はその顔を見せたくなかった。それは、彼女の中でいちばん脆く、惨めな姿だったから。……その夜遅く、京介は主寝室へ戻った。スーツケースはそのままクローゼットに放り込まれたまま。彼はまずバスルームへと向かい、熱いシャワーで身体を流す。濡れた髪をかき上げながら、右腕に視線を落とす。さっき、舞が触れた場所——その温もりが、まだ残っている気がした。長い夫婦生活の中で、彼女が少しずつ心を解かしているのは確かに感じていた。けれど——それでも、彼女の心の奥にある「結び目」は、まだほどけていなかった。その日以降、舞は明らかに京介を避けるようになった。昼間は会社にいるから問題ないが、夜になると彼が子ども部屋に様子を見に行くたび、彼女は洗面所に籠もり、スキンケアを理由に距離を取った。その夜も、すでに子どもたちは眠っていた。京介がふと立ち上がると、クローゼットの奥の照明がついていた。厚手のカーペットが足音を吸い込む中、彼は静かに歩み寄った。舞は、無言で保湿クリームを肌に伸ばしていた。どこか上の空で、視線も動かない。京介はドレッサーの前に立ち、並んだアクセサリーを指先でいじる。その中に、例のピアスがあった。静かに、冷たく置かれたままになっている。京介はそっと、低い声で訊いた。「……最近、つけてるところ見てない
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第258話

「……一日ぐらい、子どもと一緒にいてやれないのか?」九郎は眉をひそめ、静かにそう言った。紗音はわずかに視線を逸らし、淡々と返した。「今日は大事な接待があるの。この案件が取れれば、私は——」九郎は、まるで目の前の女性を初めて見るかのように、沈黙のまま妻を見つめていた。長い間、何も言わず——やがて、低く呟いた。「……真緒には、ママが必要なんだ」すると紗音は、ごく自然な口調で切り返した。「だったら、パパだって必要よ。九郎、なんであなたは仕事を辞めて子育てに専念しないの?どうして、犠牲になるのはいつも私なの?」九郎はそれ以上言葉を返さなかった。そのまま、夫婦はすれ違ったまま別れた。彼は真緒をしっかりと抱きしめながら、紗音が颯爽と車に乗り込む姿を見送った。まるで、何もかも割り切ったかのような、その後ろ姿を。だが、九郎にはわかっていた。紗音は、ずっとそう思い込んでいる——「九郎は、私のことなんて愛していない」と。けれど……どうして、愛していないなんて言えるのか?彼は、ただ待っていただけなのに。彼女が大人になるのをただ静かに見守っていたのに。その抑えてきた感情もすべてを受け入れてきた忍耐も——それが愛でなくて、いったい何だというのか。しばらくして、九郎は真緒を抱きしめ、そっと頬を寄せて囁いた。「……パパが、ずっとそばにいるからね」真緒は軽度の自閉症を抱えており、常に大人の付き添いが必要だった。だが、紗音は仕事を辞めて子どもに付き添うことを望まなかった。九郎もまた多忙を極めていたが——真緒は彼にとって唯一の子どもだった。だからこそ、彼は迷わず決めた。——キャリアを犠牲にしてでも娘のそばにいると。その日の午後——【上原法律事務所】の代表が交代した。その一週間後、九郎は真緒を連れて世界一周の旅へと出発した。訪れた国は三十カ国を超え、帰国したのは——ちょうど一年後のことだった。……その瞬間、舞はあのふたりの怨みを抱えた夫婦を見つめていた。かつてあれほど仲睦まじかった夫婦がこんなふうになってしまうなんて……——幸せって、こんなにも壊れやすいものなの?それとも、最初から手に入れることすら難しいものなの?本当の「普通」って、いったい何なのだろう
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第259話

温かな肌、そしてふわりと立ちのぼる柔らかな香り。そのすべてが、彼の胸にぴたりと寄り添ってくる。そんな舞を前にして、京介がどうして平静でいられようか。——それでも、彼は抑え込んだ。そっと抱き寄せながら、穏やかな声で彼女を宥めた。「澪安には、まだ時間がある。今は無理しない方がいい。お前は、今日体外受精の手術をしたばかりなんだ。今は、休むべき時だよ」彼のその言葉に、舞の呼吸も少しずつ落ち着いていく。窓の外では、橙色の夕陽がガラスに映っていた。まるで揺らめく炎が静かに部屋を舐めていくように。寝室はあたたかな光に包まれ、二人の体を柔らかな琉璃のように照らしていた。舞は珍しく彼を突き放さなかった。その腕は、いまだ京介の首元に回されたまま——実のところ、彼女は怖かったのだ。親である以上、誰だって不安になる。何年も連れ添った夫婦であれば、京介にもわかる。舞は確実に泣いたあとだった。彼はその細い体をしっかりと抱きしめ、背中を優しく撫でながら囁いた。「……俺がいるから。大丈夫。澪安には絶対に何も起こらない」舞は見上げた。その瞬間の彼女は、まるで少女のように素直で柔らかく——長年連れ添った夫婦であっても、こんな彼女を見るのは初めてだった。京介は一瞬、抑えきれなくなった。彼は舞の頬を両手で包み込み、そっと口づけた。その唇は長く深く、やがて目尻を辿り、顎先から赤く潤んだ唇へとゆっくり滑り落ちていく。舞はただじっと見つめるだけで、拒むことはなかった。だからその口づけは、次第に切なく絡み合うものへと変わっていった。彼がわずかに身をかがめると、肩と背筋の筋肉が硬く張り、腕のラインが浮かび上がる。ベッドサイドの壁には、重なり合う二人の影が揺れていた。やがて、キスが終わると舞は我に返ったように顔をそらした。京介はそれ以上を求めず、ベッドに膝をついたまま、そっと彼女の頬を撫でた。「……もう、泣くなよ。な?」舞は、ただただ恥ずかしかった。ちょうどそのとき、寝室のドア越しにノックの音が響いた。「旦那様、中川秘書が参りました。急ぎのご相談があるとのことです」中川?京介は眉を寄せたが軽く身を起こし、それでも視線はまっすぐ舞を見つめたまま。口を開いたのは、外の使用人に向け
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第260話

中川は心の中で毒づいた——そんなもん、気持ちってやつか。……夜——瑞風苑。九郎は子どもと遊んでいた。ちょうどその時、アシスタントから電話がかかってきた。「上原さん、あの持ち株三〇パーセント、一社が即決で買い取りました。交渉なしの一括です」電話の向こうで、アシスタントは驚きを隠せなかった。「九百億って、簡単に支払えるなんて、すごい会社ですよ!」スマートフォンを耳に当てながら、九郎は黙っていた。彼の脳裏に浮かんだのは——一人だけ。京介だった。立都市でこれほどの即断即決ができる人物など、そうはいない。そして彼がなぜ買ったかも察しがついた。当時の借りを返すためだろう。アシスタントは続けた。「明日、支払いの小切手をお届けします」「……了解」電話を切った、そのすぐあと——白のスーツを着た紗音が玄関から入ってきた。一日中働き詰めだったのだろう、玄関でヒールを脱ぎながら尋ねた。「電話してたの?真緒、今日どうだった?」九郎はスマホを置き、積み木を積んでいた真緒の隣に座った。真緒は、ふてくされたように顔を伏せ、母を見ようとしない。紗音が近づき、そっと頭を撫でた。「……ママに怒ってるの?」真緒は、か細い声で答えた。「怒ってない」「じゃあ、ママと遊ぼうか?」紗音は笑顔でそう言ったが——九郎はその光景を見つめながら、突然口を開いた。「紗音……俺、事務所の株を売った。それで——真緒を連れて海外に行こうと思ってる」「……え?」一瞬、紗音は言葉を失った。彼が持ち株を手放し、子どもを連れて世界旅行に?まるで信じられないという表情で彼を見つめる。「なんで……私に相談もなしに?」九郎は真っすぐに彼女を見ながら答えた。「今、してる。これが相談だよ。紗音、仕事はまた始められる。でも——真緒は一人だけだ。唯一の娘なんだ。俺、秘書に頼んでオーストラリア行きのチケットを三枚取ってある。一緒に考えてみてくれないか。真緒には今両親が必要なんだ」三枚……紗音は子どもを見つめた。真緒は明らかに、母を慕いながらも距離を取っていた。普段のふれあいが足りなかったのだ。心は求めているのに、それを言葉にできず、ただ母を見つめている。その視線に、胸が締
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