All Chapters of 私が去った後のクズ男の末路: Chapter 261 - Chapter 270

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第261話

紗音は呆然とした。そんな質問——これまで考えたこともなかった。九郎と結婚してからというもの、彼を愛することは呼吸のように当たり前のことだった。彼を中心に、自分の世界を回してきた。けれど。彼をいまも「愛している」のか?そんな問いに、答えが出せなかった。……一週間。紗音はずっと悩み続けていた。本当に会社を辞めて、海外へ行くべきなのか?金曜日、午後二時。ホテルでのビジネスランチの席。紗音は白のドレスを身にまとい、上司・時枝尋美(ときえひろみ)の隣で応対していた。途中、彼女はスマートフォンをこっそり開いた。九郎からのメッセージが届いていた。【真緒と空港で待ってる】……その一文に、彼女の心は揺れた。時枝は彼女の様子に気づき、柔らかく微笑んだ。「何か急ぎの用でも?」「いえ、大丈夫です」「このプロジェクトは、ほぼ合意を取りつけました。来週の朝会で、あなたを副責任者に推薦するつもりです。しっかり頼みますよ、紗音」シャンパングラスを軽く合わせた。時枝は彼女のことを心から評価していた——紗音は美しくて若くしかも才能もある。ただ一つ残念なのは、その若さで早々に結婚してしまったことだ。社内でもすでに噂は広がっており、同僚たちが次々と祝福に来た。その場は華やかで、まさに彼女にとっての成功の瞬間だったはずだった。けれど、彼女は落ち着かなかった。ガラス窓に映る自分の姿をじっと見つめる。——これが、私の「選んだ人生」なの?キャリアを選び、九郎との海外行きを断れば、結婚生活を失うかもしれない。迷いの中、ふと大きなガラス窓に見覚えのある男の姿が現れた。京介。紗音が驚いて振り返った「京介お兄ちゃん?」彼はビジネススーツをまとい、場の空気を静かに見渡していた。「ちょうど近くを通ってね」彼は微笑みながら言い、すぐに視線を紗音へ戻した。「……いまごろ、九郎は空港にいるはずだ。お前は……残ることを選ぶのか?」紗音の目に、迷いが浮かんだ。「……会社を辞めるべきなんでしょうか?次にこのポジションに戻れる保証なんて、どこにもないのに」京介は淡く笑った。まるで、かつての舞を思い出すような顔で——「……紗音。俺が人生で一番後悔してること、わかるか?
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第262話

舞は散らばった資料を拾い上げると、偶然一枚の買収書類が目に入った。それは、ある持株会社による上原法律事務所の株式取得契約書だった。思わず二度見してしまう。驚きとほんの少しの違和感。彼女は無言のまま、その書類をそっと元の場所に戻した。それを見ていた京介は、察しがついたのか、軽く口を開いた。「紗音が飛行機に間に合わなかったらしい。追いかけても見つからなくて……夕方は、電話越しに鼻をすすってたよ」舞の顔色は変わらなかった。京介は声を少し落とし、柔らかな口調で尋ねた。「……まだけじめを気にしてる?」舞はその言葉に苛立ちを見せた。「気にするわけないでしょ——私たちはもう、法的には他人よ」男はじっと彼女を見つめた。しばらくして、微笑を浮かべながら静かに謝った。「……俺の言い方が悪かった。気を悪くしたら、ごめん。許してくれるか?」「別に、怒ってなんかないわ」そう言い捨てると、舞は浴室へと姿を消した。……このところ、二人は同じベッドで眠ることはあっても、それ以上の関係にはならなかった。夜に抱き寄せることすらない——まるで、境界線を守るように。だが今夜は、避けようのない夫婦の営みがある。舞は長めにシャワーを浴びた。その後も、スキンケアに時間をかけていた。すべてが終わるころには、もう夜の11時を回っていた。寝室に戻ると、京介はすでに入浴を終え、ベッドの上で財務報告書を読んでいた。舞の足音に気づいた彼は、ふと顔を上げ、静かに彼女を見つめる。舞は上下セパレートの、肌をほとんど見せないパジャマを選んでいた。男が無用な想像を抱かないように。京介はそれに気づいていたが、何も言わず、そっと手を伸ばして照明を落とした。部屋は、静寂とともに闇に包まれた。その中で、舞は黙って彼の隣に横たわった。やがて、衣擦れの音が微かに響いた——男の抑えた息遣い。女の息を潜めたような気配。音もなく、静かに始まり、静かに終わった。やがて、舞の指先が触れたのは傷跡の残る京介の腕。彼はじっと舞を見つめ、一方の手でそっと頬を包み込むと、ゆっくり唇を重ねた。そこに技巧や戯れはなく、ただ、命を授かるための行為が淡々と繰り返されるだけだった。舞は拒まなかったが、彼女の心には何かがぽっ
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第263話

朝食の席で、舞はあえて京介との距離を取っていた。その顔色が冴えないのを見た周防夫人は、気遣うように白ごまの豆乳スープを差し出した。「昨晩、よく眠れなかったんじゃない?子どもの世話が大変なら、もう二人ほど使用人を増やしましょうか」舞が口を開く前に、小さな手がピンと上がった。小さな声が元気よく答えた。「この問題、私わかる!パパが言ってたよ。ママは昨日、夜遅くまで本を読んでて、すごく疲れてたから、ぐっすり眠ったんだって。だから、今度からママには本を読むのを少しにして、早く寝てもらうの」その隣で、澪安は黙々とご飯をかき込んでいた。——ママが頑張ってるなら僕も頑張る。だが、大人たちは沈黙したままだった。礼、寛、そしてその妻も、無言で箸を進めるだけ。輝が京介を一瞥した。その眼差しには、どこか悪戯っぽい色が浮かんだ。一番困っていたのは、周防夫人だった。話の流れを変えようと、そっとオートミールパンを孫に差し出す。「ほら、これ持って。おばあちゃんが学校に送ってあげるから、ママには少し休んでもらおうね」再び、沈黙が流れた。そのとき、京介がそっと白ごまの豆乳スープを舞の前に滑らせた。「潤いを与えてくれるから、女性にはいいらしいよ」舞は黙ってうなずき、そのまま静かに飲み干した。……白金御邸に戻ってからというもの、毎晩のように二人は身体を重ねていた。だが、それはどこか形式的で、感情のない営みだった。終わった後、舞は子ども部屋に移って、子どもたちを見守るようにして眠る。触れ合いの後の温もりや言葉は、ほとんど交わされなかった。——その抑えた関係が、逆に男を夢中にさせていた。秋が深まり、露が霜となる頃。一ヶ月経っても、舞は妊娠していなかった。その不安が、日増しに彼女を追い詰めていく。後部座席で、京介は彼女の手首をそっと握り、囁いた。「そんなに焦らなくていい。きっと、うまくいくさ」舞は軽く手を引き、鞄から一冊の本「妊娠率を高める生活習慣」を取り出して読み始めた。彼女の真剣さに、京介は思わずため息をついた。だが、どう声をかけていいのか分からなかった。車窓の外では、朝の陽ざしが街を照らし始めていた。そのとき、京介が突然、運転手に指示を出した。「……あのアパートへ行ってくれ」
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第264話

夕暮れ、寝室に西日が差し込んでいた。橙色の残光がカーテン越しに広がる中、舞は疲れ切って眠っていた。男は長ズボンを履き、シャツのボタンは二つだけ留めていた。片腕の火傷跡は痛々しかったが、それでもなお、その姿はどこか色気を漂わせていた。禁煙中の周防京介は、ゆっくりと舞の黒髪を撫でながら、さきほどの激しさを思い返していた。やがて、舞が静かに目を覚ました。今までと違って、彼女は背を向けず、京介の胸に身を寄せたままだった。ふと、彼女の目が彼の傷だらけの腕に留まる。しばらくじっと見つめたのち、ぽつりと尋ねた。「……あのとき、どうしてあんなことを?」京介は一瞬、言葉を失った。だが、すぐに彼女の問いの意味を悟った。音瀬の名を出すこともなく、彼女があの出来事を口にしたのは、再会して以来初めてだった。静かに彼女を見下ろし、そして低く答えた。「……舞、多分……後悔もあった。でもそれ以上に、愛してたからだ」舞を、澄佳を、命よりも大事に思っていた。だから、あの瞬間に迷いなどなかった。彼女に背負わせたくなかった。舞が罪悪感に縛られて、自分のもとに残ることは望んでいなかった。あの三年は、たしかに過酷だった。けれど、澪安がいた。舞はそれ以上、何も聞かなかった。そっと彼のシャツをはだけ、傷だらけの腕を見つめる。「リハビリはしてる?」「ずっと続けてる。最近は、握力も少し戻ってきた」京介の声は、どこか掠れていた。「けど、この傷は一生残る。植皮しても、綺麗にはならないってさ」夕日の光が彼の身体に落ちた。その光に照らされて、傷さえも少し柔らかく見えた。前腕のいくつかの瘤のような傷跡に、舞の細い指が触れた。その瞬間、京介の身体がわずかに震えた。そして、意味深な眼差しに変わる。次の瞬間、彼は彼女を抱き寄せ、口づけを落とした。静かに、だが確かに、熱を持ったキス。やがて、彼は彼女の後頭部を抱えながら、低く囁いた。「……もう、そこには触らないでくれ」舞は何も言わなかった。その夜、京介は彼女に無理を強いなかった。シャワーを浴びたあと、彼はキッチンに立ち、夕食の支度を始めた。このアパートは、まるで二人だけの秘密の空間だった。まるで、恋人たちのように。舞は二杯分のコ
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第265話

「違う!離して!」「騙せないよ、舞。俺たち、何年も夫婦だったんだ」京介は彼女の目をじっと見つめながら、ゆっくりとその頬を撫でた。その眼差しには、憐れみと未練が深く滲んでいた。手はやがて彼女の下腹部へと滑り——低く、熱を含んだ声で囁いた。「覚えてるか?澪安と澄佳ができたのも、このソファだった」舞は仰向けに寝転び、黒髪がクッションに広がる。その姿には、儚げで美しい哀しみが漂っていた。京介の視線は熱を帯び、男の欲望が静かに滲んでいた。そして彼は、その紅い唇に唇を重ねた。「……試してみようか」試す?何を?問い返す暇も与えず、京介は動いた。これまでにないほど激しく、そして貪るように。夜は濃墨のように深く、果てしなかった——……季節は移り、冬の訪れ。周防家の広い邸宅には、かぼちゃの煮物と柚子の香りが静かに満ちていた。台所では、使用人たちが手際よく夕食の支度をしており、湯気が立ちこめていた。舞は書斎で子供たちに絵を教えていた。澄佳は、得意げに絵を見せた。澪安はしばらく見つめたが、どうにも誰か分からない。「……これは誰?」「パパだよ!」澄佳は胸を張った。だがその絵には大きなまさかりをかつぎ、「金」の字が書かれた前掛けをつけた金太郎が描かれていた——舞が絵を覗きこみ、ふっと笑みがこぼれた。「……ほんと、似てるわ」その言葉に、澄佳はますます誇らしげになった。ちょうどそのとき、書斎の扉が開き、京介が入ってきた。「何の話?」澄佳は絵を掲げた。「見てパパ!ママが似てるって!」京介は絵を見て、そして舞を見る。「……うん、似てるな」澄佳は今度は澪安を描くと宣言するが、澪安は涙目で首を振った。「ぼく、ひげはイヤ……」子どもたちの騒ぎをよそに、京介は舞の描いた絵に目を留める。そこには、ある男の姿が描かれていた。彼はわざとからかうように言った。「……これ、九条に似てないか?」舞は小さく鼻を鳴らした。「くだらない」京介は笑い、それ以上は突っ込まず話を変える。「ご飯の時間だ。たこ焼き、できたってさ。下においで」澄佳はお腹をさすりながら、元気に言った。「わたし、8個食べる!」澪安はちょっと照れながら、でもはっきりと答えた。
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第266話

鏡の中で、ふたりはじっと見つめ合っていた。しばらくして、舞が小さく頷いた。「……大丈夫、もう終わったわ」はっきりとは言わなかった。ぬか喜びだったら怖かったからだ。それでも胸の奥は高鳴っていて、たこ焼きを食べているあいだも、どこか上の空だった。京介が彼女の皿にいくつかたこ焼きを取り分けた。「好きだろ?いっぱい食べな」舞は控えめに微笑み、静かに箸を動かした。その様子を見ていた寛の妻が、ふたりの仲睦まじい雰囲気に思わず見惚れ、隣の輝にそっと言った。「あんたも早く瑠璃とお子さんを連れて帰ってきなさいな。私もお父さんも、孫を抱っこしたいわよ」輝はぼそりとつぶやいた。「向こうが嫌がってるんだから、しょうがないだろ」「そんなの、誠意を持って粘ればうまくいくって。舞みたいな奥さんを見てごらん?あんたも京介に習いなさい。気高い女もしつこい愛にはほだされるって言うでしょ?」一瞬で食卓が静まり返った。寛が脂の多い肉を妻の皿に入れながら言う。「いいから食え、喋りすぎだ」妻はむっとして言い返す。「京介に学べって言っただけよ?あんたいつも家族は仲良くって言ってるでしょ、私、それを守ってるだけじゃない!」それっきり、誰も何も言わなかった。……夕方、京介は家族を連れて白金御邸へ戻った。車の中で、澄佳がぴょんぴょんしながら尋ねた。「パパ、気高い女もしつこい愛にはほだされるってなに?」京介はちらりと舞を見てから、優しく答えた。「パパがママのことをずっと好きで、毎日追いかけたでしょ?それが気高い女もしつこい愛にはほだされるってことなんだよ」舞は呆然として何も言わなかった。澄佳は手を打ちながら、「わかった!澪安と慕美みたいなことね!澪安、慕美のこと好きなんだよね?」京介は息子を見下ろしながら、「ほう、そんな話が?」伏し目がちに頬が陰り、整った横顔が車内の灯りに照らされて、美しく浮かび上がる。澄佳は目を丸くした——パパって、ほんとにかっこいい……!澪安は顔を真っ赤にして言い返した。「好きなんかじゃない!」慕美は背が高くて綺麗だけど、ちょっと怖いし、ケンカも強いし……だが、父親はというと、どこか楽しそうに舞へ話を振った。「将来、澪安が彼女をお嫁さんにしたいって言ったら、どうする?ちょうど九条とも親しいし、親戚が
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第267話

「……その話は、あなたの部屋にしましょう」舞はそう口にしたが、まさかそのあとで京介からプレゼントを渡されるとは思っていなかった。それはある高級ブランドの限定プラチナバッグ。全世界でたった50個しかない逸品で、立都市ではまだ一つも流通していないという。柔らかな灯りの下、京介は少し照れたように目を伏せて微笑んだ。「気に入った?女性って、こういうの好きだろ?」確かに、舞もこうしたものが嫌いではない。けれど、執着しているわけでもない。それでも、そっと受け取り、静かに礼を言った。満足げな舞の顔を見つめながら、京介は喉を鳴らし、目を細めた。「明日は会議も接待もないんだ。アパートに行かない?食べたいものがあれば、中川に先に準備させておくよ」舞はふと顔を上げた。柔らかな表情で語りかけてくる京介の目を見つめ、ほんの一瞬、言葉を失った。「……どうした?さっきの伯母さんの言葉が気になった?」舞は首を横に振った。そして、じっと京介の目を見て低く告げた。「京介、私……妊娠してるの」京介の表情が一瞬で止まった。舞は、もう一度、はっきりと繰り返した。「妊娠してるの。おそらく、もう五週目くらい。出産予定日は、来年の九月頃になるはず……」ほんの五秒、静寂が流れた。次の瞬間、京介は彼女を片腕で抱きしめていた。頬が彼の肩に寄り添い、薄いシャツ越しに伝わる体温に、舞の声がわずかに震える。「京介……私たちは、もう、これ以上は……」言葉が終わる前に、京介の声がそっと遮った。「これ以上、夫婦のふりはやめるべきだとか。親密な関係も、もうやめようとか。アパートで一緒に過ごすことも……全部やめるってことか?」「……そう」舞の声は肩越しに届き、かすかに揺れていた。「京介、子どもが生まれれば……澪安の病気は治るはずなの」京介は彼女を見下ろし、静かに問いかけた。「澪安だけか?俺たちのことは?……俺自身のことは、もう必要ないのか?」夜の静けさが部屋を包み込む。舞は彼の肩に身を預けたまま、ぽつりとつぶやいた。「京介……お願い、もう私を困らせないで」その一言で、京介の胸がふっと緩む。かつてなら、どれだけ涙を流されても、自分の意志を押し通していた。けれど今の彼は、舞の涙を見ているともう何も言えなか
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第268話

……翌日、京介は舞に付き添い、産婦人科へと足を運んだ。検査の結果、胎児はとても健康だった。この知らせに、周防夫人の心は喜びで満たされた。急いで書斎へ駆け込み、礼に報告した。けれど、礼はすでにその報を耳にしていたようで、骨董の花瓶を布で磨きながら、いつも通りの穏やかな様子だった。周防夫人は思わず苛立ち、声を荒げた。「そんなガラクタばっかり磨いて!孫のこと、ちっとも気にしてくれないのね!」礼は妻に目を向け、落ち着いた口調で返した。「ガラクタでも、お前ほど古くはないだろう?」周防夫人はその場に腰を下ろし、ぽろぽろと涙をこぼした。「……わかってるわよ、自分がもう年寄りだって。若くて綺麗な秘書には敵わないし、私が昔、あの件で愚かな選択をしたことも、あなたが今も責めてるのもわかってる。でもね、私だって、つらいのよ。京介は、十月十日このお腹で育てた私の子なのよ?あんなに立派に育ったのに、今では片腕が……そのことが、私の心にどれだけ刺さっているか……わからないの?あなたがどれだけ私を責めても、冷たくしても、限度ってものがあるでしょう!私、自分の命と引き換えにでも、京介の腕を元に戻してあげたいの」……礼は手から花瓶を静かに置き、妻を見つめた。この数年、確かに彼は彼女を遠ざけていた。今こうして泣いている姿を見て、心の奥がほんの少しだけ揺れた。だが、それでもすぐに赦せるほど、彼の心の傷は浅くなかった。——そう、京介の右腕のこと。それは彼にとって、いまだ癒えない痛みだった。「赦し」という言葉はときに残酷すぎる。周防夫人はひとしきり涙を流したあと、気を取り直して栄養食品を用意し、舞のもとを訪ねに行った。……年の瀬が迫る頃、今日は会社の仕事納めの日だった。栄光グループ本社、最上階の社長室。京介は机に向かい、静かに決裁書類に目を通していた。そのとき、ドアがノックされ、中川が静かに入ってきた。顔を上げず、彼は淡々と尋ねた。「あのボーナス、もう全員に支給されたか?」四年前から、栄光グループは忘年会を取りやめ、その予算を全額社員へ還元する制度に切り替えていた。中川は小さく頷いた。「はい、ただいま経理部が順次振込中です」そして、中川は一瞬ためらった後、控えめに尋ねた。「……
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第269話

南郊の湖面には、金色の光がゆらゆらと揺れ、見えない再会が静かに浮かんでいた。一つの灯りが水に漂いながら、心の奥へと波紋のように広がっていく。舞は岸辺に立ち、その灯が遠くへ、どこまでも遠くへ流れていくのをじっと見つめていた。きっと——あの先に、お婆さんがいる。おばあちゃん、舞、戻ってきたよ。わたしね、根津坂町にも行ってきたの。昔一緒に住んでたあの場所、いまじゃ高層ビルだらけで、もうあの頃の面影はなかった。でもね、百年も経ってる銀杏の木は、まだそこにあったよ。あの木の前が私たちの家だった。あの通りで、春雨と野菜の煮込みを頼んで食べたんだけど……やっぱり、おばあちゃんの味にはかなわなかった。澪安も澄佳も大きくなったよ。そしてね、澪安のために、わたし……もう一人、赤ちゃんを授かったの。名前は、周防願乃。おばあちゃん……舞は、ずっとずっと、あなたに会いたかったよ。……舞は、ずっと湖のほとりに佇んでいた。夜空に雪が舞いはじめ、ようやく身体を返したとき、そこに京介がいた。男も黒いコート姿で、静かな眼差しには、かつての記憶が静かに沈んでいた。しばらくして、彼が歩み寄り、そっと彼女を抱き寄せた。かすれた声で舞に言った。「……冷える。帰ろうか」けれど舞は彼の腕をそっと握り、空を仰ぐようにして、ひらひらと降る雪を見つめながらぽつりとつぶやいた。「京介……人に魂って、あると思う?」京介には答えられなかった。けれど、ひとつだけ確かにわかっていた。——自分は、永遠に舞に償いきれない。……別荘に戻ると、京介は舞を連れて二階へ上がり、使用人に生姜湯を頼んだ。窓の外には細かな雪が舞い、室内は春のようなぬくもりに包まれていた。今日は特別な日——舞の表情は終始沈んでいた。ほとんど何も話さなかった。京介はソファの前で片膝をつき、彼女の手をそっと握る。「……これから、もし昔を思い出して苦しくなったら、俺がそばにいる。ずっと一緒にいるから、いいだろう?」舞は顔を伏せていたが——やがて、ゆっくりと彼を見つめ返した。目と目が合った瞬間、言葉にはできない苦さが胸を走る。京介は微笑んだ。ああ、彼にはわかっていた。舞の愛も憎しみも迷いも、全部。そっと涙を拭ってやりながら、低く語りかける
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第270話

今、京介が望んでいるのは——舞の愛。そして、彼女に幸福を与えること。年末、最後の出勤日。栄光グループ、社長室。京介は、最後の書類にサインを終え、それを中川に手渡した。「これ、処理してくれたら、今日はもう上がっていいよ」中川は受け取り、笑顔で応じた。「では、社長——どうぞ、良いお年を」「……うん、良いお年を」京介は頷きながら、引き出しから赤い封筒を取り出した。「お前へのお年玉だよ。受け取って」中には、なんと千二百万円の小切手。中川はもちろん嬉しかった。これだけもらえるなら、365日フル稼働でも文句はない。だが——彼女がドアへ向かいかけた、そのとき。京介の意識がふっと遠のいた。一瞬、頭がグラつき、目の前がぐにゃりと歪んだ。整った眉が寄せられ、彼は頭を軽く振った。中川が振り向いた。「……どうなさったんですか?」京介は、まっすぐに彼女を見つめたまま、しばらく呆然としていた。数十秒の沈黙。やがて、彼は低く絞り出すように言った。「……脳神経の診察、午後三時までに予約しておいてくれ」中川はすぐに動いた。……午後五時、白鳳医館。空に沈む夕陽が、金のように光り、暮れの雲と重なり合って美しい。京介は、外来棟の出口から静かに歩き出してきた。脳内では、医師の言葉がぐるぐるとリフレインしている。——周防さん、以前の交通事故で、脳内に小さな血腫が残っていました。その血腫が大きくなってきています。視界のぼやけ、記憶障害が出始める可能性があります。放置すれば、命にも関わります。ただし、場所が悪くて……手術の成功率は、三割しかありません。……中川は、彼の後ろを歩きながら涙をこらえきれずにいた。この診断が、どうしても信じられなかった。駐車場に着いても、京介はすぐに車に乗らなかった。車体のそばに立ち、タバコに火をつけた。彼には冷静になる時間が必要だった。これからの未来をどう考えるべきか。だが、手元はひどく震えていた。彼は死を恐れていなかった。何年も前、仏前で誓いを立てた。舞のためなら、子どもたちのためなら、貪・瞋・痴も手放せる。命すら惜しくないと思っていた。けれど。彼の舞は、まだ若く、美しく、これからの人生がある。三人
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