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第475話

Author: 風羽
琢真の瞳が、真っ直ぐに瑠璃を射抜いた。

「おばさん、僕はあなたにもう一つの選択肢をあげたいんだ」

その一言で、瑠璃はすべてを悟った。

この小さな少年の胸の奥に隠されてきた、静かな優しさを。

胸は複雑に揺れた。罪悪感も、安堵も、言葉にできない感情も——最後には、ひとつの抱擁に変わった。

大きくなった彼を抱きしめることは滅多になかった。もう少年であり、子どもではないから。

けれど、その瞬間、彼を強く胸に抱いた。

女性の温もり。母が幼子に与えるような優しさ。

彼がそんな温もりに触れるのは、本当に久しぶりだった。

琢真の顔が彼女の胸に埋もれると、喉が詰まった。言葉が出ない。

「おばさん」

長い沈黙のあと、少年は掠れる声で囁いた。

「行かせてよ。僕は学んで強くなる。そして帰ってきて、家を支えて、妹たちを守るんだ。彼女たちに苦労なんてさせない。一生、安心させてやる」

せめて——おばさんのように、苦労させないために。

母代わりの愛を享けてきただけではない。今度は自分が大人になって、その肩を支えたい。

瑠璃は腕を解かなかった。

月が西へ傾く頃になって、ようやく喉の奥から絞り出す。

「でも、琢真。私はまだ心配なのよ」

だが、一度決めた少年の気持ちは止められない。

その夜、瑠璃は輝に相談した。

聞いた瞬間、彼は苦笑した。

「やれやれ……こいつ、本気で飛び立つつもりか。十年も行ってたら、帰ってきた時にはすっかり一人前だな」

輝は直接、琢真とも向き合った。

反抗心に燃えた眼差しは、自分の若い頃にそっくり。結局、彼は頷いたのだ。

「あなた……賛成したの?」

瑠璃は理解できなかった。

応接室を行ったり来たりし、立ち止まって彼を睨む。

「正気じゃないわ!もし何かあったら、私、何て顔して雅彦に詫びればいいの」

輝はソファに優雅に腰かけていた。深夜にもかかわらず三つ揃えのスーツを崩さず、背筋は凛然。対照的に、瑠璃は羊毛のルームワンピースに、黒髪を解き下ろしたまま。柔らかな姿。

その眼差しを見て、彼は面白そうに目を細めた。

「私は真剣に話してるのよ!」

輝は茶を一口含み、低く答える。

「分かってる。だが、琢真はいずれ留学することになる。やがては家庭を持ち、妻や子の面倒を見るようになるんだ。ずっとお前の傍に置くつもりか?そのときまで手をかけ
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