All Chapters of 私が去った後のクズ男の末路: Chapter 621 - Chapter 630

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第621話

翔雅は一瞬たじろぎ、本能的に真琴を突き放した。女はよろめき、危うく倒れそうになる。篠宮が薄笑いを浮かべる。「一ノ瀬社長、もう少し女性に優しくして差し上げてもいいんじゃないの?」翔雅が口を開く前に、真琴が無垢な顔つきで口を挟んだ。「篠宮さん、誤解です。ただ、助けていただいたお礼に……抱きしめたかっただけなんです」篠宮は容赦なく切り返す。「あなたを助けたのは葉山社長よ。葉山社長が一億円を持って、あの畜生と交渉したの。相沢さん、感謝を間違えないでね」さすが場数を踏んだ女、言葉には一切の情けがない——相当に手練れだ。真琴はすぐに身を低くし、慌てて取り繕った。「本当に……誤解なんです」そのとき「相沢強志」の名を耳にして、翔雅の胸に鋭い痛みが走る。篠宮の言葉は真琴だけでなく、自分にとっても深く刻まれた過去を抉るものだった。声を低くして告げる。「あのクズは、雪崩に巻き込まれて死んだ」篠宮が手を叩く。「それは良かったわ。これで相沢さんの秘密は、永遠に埋もれたままね」「篠宮、そこまで言わなくてもいいだろう」「まあ、一ノ瀬社長が庇うのね」篠宮は皮肉げに笑い、踵を返した。残された翔雅は、誤解を深めたくなくて追いかけようとしたが、真琴に腕を取られた。「翔雅……私、汚れた女よ。何も悪くないのに、皆、色眼鏡で私を見るの。外では葉山さんもにこやかに接してくれるけど、裏では篠宮さんみたいに冷たい態度。あなたも見たでしょう?」翔雅は短く言った。「澄佳は、お前を救ったんだ」真琴の目に激情が宿る。「それは、私に利用価値があるからよ。用が済めば捨てられる。私が死のうが生きようが、彼女にとってどうでもいいの。あの人は常に利益優先の商売人でしょ?」その言葉は、かつて澄佳自身が口にしたことでもあった。だが翔雅には、澄佳がそんな人間だとは思えない。彼女の心の奥には、清流のような澄明さがあるはずだ。……夜八時。澄佳はソファに身を預け、ニュースを眺めながらスマホを弄っていた。そこに真琴の投稿が流れてくる。【ディナー】画面には高級な仕出し膳の写真。清都でも屈指の料亭の器と料理で、真琴の日常にそぐわない代物だった。供給主はただ一人——翔雅しかいない。澄佳はじっと写真を見つめ、胸に重苦しいものを抱えた。
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第622話

ドキュメンタリーの撮影が終わったのは、年の瀬が迫る頃だった。その日、清都の山々を覆っていた風雪がようやく止む。市内最高級ホテルでは、スタッフへの労をねぎらう「打ち上げ」が開かれていた。篠宮が最上階の特別室を押さえ、一面のガラス窓からは清都の夜景が一望できた。厳冬の夜、外は凍えるような寒さだが、個室の中は火鍋の湯気でぽかぽかと暖かい。大きな丸卓に鍋が並び、牛肉が煮え立つと、香ばしい匂いが立ちのぼり、皆が袖をまくって食らいついた。額や鼻先に汗をにじませながら、夢中で箸を動かす。篠宮は二号卓に座り、落ち着いた調子で食事を進めていた。最近少し体重が増え、数キロは落とそうと決意しているところだ。そんな中、真琴がグラスを手にして近づいてきた。「篠宮さん、この間はいろいろお世話になりました」微笑みを浮かべるが、篠宮は軽くグラスを上げただけ。真琴は戸惑い、思わず訊ねる。「篠宮さん、私に何かご不満でも?あの日のことは誤解です。ただ一ノ瀬さんに感謝を伝えたかっただけで、葉山社長を裏切るようなことはしていません。葉山社長が、私を誤解して……だから今日いらっしゃらないんですか?」篠宮は心の中で嘲笑した——なんと見事な清純ぶりだろう。声は柔らかいが、言葉は鋭い。「考えすぎよ。葉山社長が来なかったのは、出席する必要がなかったから。彼女には山ほど仕事があるわ。星耀エンターテインメントには千人以上の社員がいて、皆が彼女を頼りにしてる。暇じゃないの」その一言に、真琴は顔色を失った。——所詮は一つの撮影チーム。まさか自分が澄佳と同じ地位に並べると思ったのか。会いたいと願えば、簡単に会える存在ではない。真琴の表情は幾度も変わり、最後は無理に笑みを作った。「誤解されていないなら、よかったです」篠宮は静かに告げた。「誤解かどうか、自分が一番よく分かってるでしょう?」真琴は唇をかみ、言葉を飲み込んだ。心は焦りでいっぱいだった。翔雅が清都を離れてから、一度も連絡がない。秘書の安奈に尋ねても口を閉ざされ、電話もつながらない。——でも察しはつく。翔雅と澄佳の間に、何か亀裂が走ったに違いない。真琴の胸に、淡い笑みが浮かぶ。——二人が壊れれば、自分にも「一ノ瀬夫人」になるチャンスが残されている。その夜、雪はやみ、月が澄ん
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第623話

華やかな灯りがともる頃、翔雅は約束のレストランへ向かった。立都市で最も評判の高い、五十二階の回転式レストラン。窓一面に広がる夜景を一望できる場所だ。支配人が丁寧に案内しながら告げる。「一ノ瀬社長、葉山社長がお待ちです」店内を見渡せば、客は他におらず、完全に貸し切られていた。水晶のシャンデリアが眩く輝き、窓辺には翠のドレスを纏った澄佳の姿があった。背後から足音が近づく。彼女は振り返らず、夜景を見下ろしながら静かに言葉を落とした。「ずっと昔、両親もここに来たの。別れるために。食事をしたあと、二人はそれぞれの道を歩いた。まさか今日、私たちも同じ場所で同じ結末を迎えるなんて」……翔雅は細い背中を見つめ、声を掠れさせる。「どうしてだ?あの意味のない抱擁のせいか?言っただろう、真琴とは何もない」澄佳はゆっくりと振り返り、静かに彼を見据えた。しばしの沈黙ののち、痛みに満ちた声がこぼれる。「何もない?だったらどうして、彼女に五つ星ホテルのディナーを用意したの?どうして安奈に世話をさせていたの?どうして空港で彼女を家まで送ったの?どうして、私たちが寄り添っている時でさえ、彼女がドアの外に立っていたの?翔雅、彼女の狙いに気づいていないはずないでしょう。あなたたち、初恋だったんでしょう?初恋は一番美しい、忘れがたいって言うものね。しかも彼女は実の父親に追い詰められた。あなたが心に引っかかるのも分かるわ。だから私は譲るの」……翔雅は強く睨みつける。やがて低い声で問うた。「誰から聞いた?真琴か?」澄佳は真っ直ぐ答える。「相沢強志よ。あの日、私が全体のためにあなたに彼女を連れて先に行かせたとき、もう分かっていたの。私たちの関係は終わっているって」そして彼を射抜くように見つめた。「あなたたちの関係、吐き気がするほど嫌悪感しかない」翔雅の喉仏が大きく上下する。「俺は彼女を受け入れてない。澄佳、彼女は惨い過去を背負ってるんだ。それでもそんなに冷たいのか?」——冷たい。澄佳は淡く笑った。「じゃあどうすればいいの?彼女を庇い、契約して、あなたの後悔を埋め合わせろと?翔雅、笑わせないで。私たちは終わりよ」「たったそれだけの過去で?」「そうよ。その過去と、あなたの隠し事のせいで」澄
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第624話

澄佳は苦く笑った——自分は冷たいだろうか?そうは思わない。もし心を許してしまえば、真琴は隙あらば彼女の生活に入り込み、結局は翔雅との関係も惨めに終わる。彼女は顔を上げ、外の暗んだネオンを眺めながら、さらに低い声で言った。「翔雅……あのネオンがどんなに輝いても、いずれは消えていく。私たちも同じよ。最初から合わなかった」翔雅はしばし黙り、ふいに問う。「じゃあ……桐生智也とは、合うのか?」澄佳は呆れたように目を伏せた。「私たちのことに、智也は関係ない」翔雅は鼻で笑う。自分がそこまで罪深いとは思えなかった。裕福な家に生まれ、強気な性格で妥協を知らない。澄佳に突き放されれば、当然ながら苛立ちも募る。結局、二人は食事もせず、不快なまま席を立った。翔雅が去ったあと、澄佳はひとり窓辺に立ち、街を見下ろした。——今夜、実は花火を手配していた。孤独なときに、夜空に咲く火花を見上げたかったから。美しく舞い上がる花火に、胸は痛む。本当に翔雅を想っていなければ、どうしてこんなに苦しいのだろう。最も大きな火花が散る瞬間、澄佳は長い指でガラスに【一ノ瀬翔雅】と記した。……夜更け、澄佳は車を走らせて周防家の屋敷に戻った。駐車場では、すらりとした影が芽衣を抱いて待っていた。幼子は寒さに鼻を赤くしながらも、母を待ち続けていた。澄佳の姿を見つけると、両手を広げて甘えるように呼んだ。「ママ!」澄佳はぎゅっと抱きしめ、頬に口づけた。「外は寒かったでしょう?」芽衣は母の首にしがみつき、甘える。「ママの匂いがないと眠れないの」澄佳の心は柔らかくなり、娘を抱いて母屋へと歩む。背後には澪安がゆったりとついてきた。子どもを寝かしつけたあと、澄佳が居間に戻ると、澪安がソファに凭れて雑誌をめくっていた。彼は顔を上げて訊ねる。「寝た?」「ええ」澄佳は水を注ぎ、向かいの席に腰を下ろした。「兄さん、まだ起きてたの?」澪安は単刀直入に切り込む。「翔雅と何があった?」澄佳はカップを弄びながら答えた。「相沢真琴は翔雅の元恋人よ。彼女の過去は兄さんも耳にしたことがあるでしょう。でも翔雅は黙っていた。私が真琴の実父から真実を聞いたとき……もう耐えられなかった。だから別れたの」「じゃあ、子どもは?」
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第625話

翔雅は車から降りなかった。ただ、ガラス越しに外の女性を見ていた。雪はフロントガラスに舞い落ち、すぐに溶け、やがて薄く積もり始める。やがて真琴が歩み寄ってくる。窓を半分下げ、翔雅は煙草に火をつけて深く吸い込み、かすれた声で言った。「真琴……相沢強志はもう死んだ。過去は過去だ。俺の言いたいこと、分かるな?」真琴は身を震わせながら小さく声を絞り出す。「写真……あの時の写真が……流出したの」翔雅は動きを止めた。真琴は震える手でスマホを差し出した。そこに映っていたのは、かつて彼女が無理やり撮られた忌まわしい写真だった。粗末な柵に縛り付けられ、口には布を詰め込まれ、肌もほとんど覆われず……その瞳には恐怖しか映っていなかった。さらに記事の見出しは——【相沢真琴、耀石グループ社長の元恋人】あまりにも扇情的なタイトル。「あの人、死んでもまだ私を許さないの……翔雅、お願い、助けて。今の私にはあなたしかいない。放っておかれたら、私は終わり。もう仕事も、交際も、全部……全部失う」真琴の全身は止めようもなく震えていた——あの頃と同じだ。かつて相沢強志の件のあと、彼女は重いうつ病を患い、翔雅が医師を呼んで治療を受けさせたこともある。そのため翔雅は彼女の病状をよく理解していた。いまも雪の降る中で真琴が震え続けているのを見れば——どう考えても、翔雅には傍観することなどできなかった。ドアを開き、翔雅は冷たく言う。「乗れ」真琴は恐る恐る助手席に腰を下ろした。「どこへ……?」「精神科医だ」……三十分後、立都市の名医がいるクリニック。診察を受けた真琴は薬を処方され、「絶対に勝手にやめないように」と厳しく言い渡される。真琴はうなずき、診療室を後にした。この医師は、あの時と同じ人物だった。真琴を送り出す際、思わず感慨の吐息を漏らした。その夜、真琴の過去は瞬く間に世間を騒がせ、SNSの検索ランキングを席巻した。星耀エンターテインメントの名まで巻き込んで炎上する。篠宮から電話が入った。真琴は車内で茫然と座り込んだまま、応答する気配もない。結局、翔雅が受話器を取ると、耳に飛び込んできた声に思わず息を呑んだ。「篠宮さん?」電話口の声は驚きに満ちていた。「一ノ瀬社長、まさか相沢真琴と一緒にいるの?」
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第626話

翔雅はほとんど反射的に駆けつけた。だが、すでにパパラッチの姿はなかった。その男はただの金目当てではない。名を残したいという渇望にも突き動かされていた。一度このスクープをものにすれば一躍有名になり、次からは高値でネタを売れる。業界で絶対的な一番手となれるのだ。人気のないマンションの廊下には、ときおり雪片が吹き込んでくる。翔雅は立ち止まり、安奈に電話をかけた。夜更けにもかかわらず、彼女はすぐに緊急対応に走ったが、もうどうにもならない。写真が出回った瞬間、ネットは大炎上したのだ。眠れぬ夜。耀石グループだけではなく、星耀エンターテインメントまでもが渦中に巻き込まれた。澄佳と翔雅はかつて夫婦であり、今は恋人同士。そして二人の子どもの親でもある。新年を前にした、不眠の夜。翔雅は会社へ駆け戻り、広報部と緊急会議を開いた。真琴という特異な存在に関わった以上、簡単には抜け出せない。世論の炎は人を焼き尽くすほど激しい。もし翔雅が彼女との関係を否定すれば、「女を弄んだ」という汚名を着せられるだろう。事実がどうであれ。真琴は巧みに姿を隠し、「病気だから刺激しないで」とだけ告げた。夜は更け、雪はますます激しく降りしきる。午前二時、積雪はすでに十センチ近く。街灯に照らされた雪面は淡い青に光っていた。翔雅は最上階のオフィスで、ガラス越しに外を見つめる。心に浮かぶのはただ一つ。——澄佳はあの写真を見て、どう思ったのか。今、彼女は星耀エンターテインメントにいるのか。彼は本当に真琴と関係していると思われているのか。煙草に火をつけ、ゆっくりと紫煙を吐き出す。そこへ安奈が夜食を持って入ってきた。「一ノ瀬社長、少しでも召し上がりませんか?広報部は対応策を練っています」彼はスマホを弄びながら、低く尋ねた。「星耀エンターテインメントは何と言っている?」安奈は答えを濁し、逆に問いかけた。「一ノ瀬社長は、葉山社長にどう反応してほしいのですか?『男なら誰でも過ちを犯す』と言って許すと?でも、私の知る限り葉山社長はそんなこと言いません。そんな返しをすれば彼女のイメージは崩れ、ネット世論が彼女を許さないです」翔雅は目を上げ、再び窓外を見やった。——行き場のない袋小路。——だが、澄佳よ。たった一枚の歪んだ写真で、俺たちの結末
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第627話

雪が一片、また一片と舞い落ちる。まるで失恋の痛みそのもの、まるで一つの愛の終わりそのものだった。澄佳はもう言い争う気力もなく、静かに口を開いた。「翔雅、私はずっと冷静よ。最初から、ずっと」もし真琴が翔雅の宿命だというのなら、彼女は自分と子どもを巻き添えにするつもりはなかった。彼が真琴を憐れみたいのなら止めはしない。それは彼の自由だ。だが、線を引くのもまた彼女の自由。雪は止まず、立都市は一面の銀世界に閉ざされていた。翔雅は長い沈黙ののち、声を落として言った。「澄佳、俺と彼女の間には何もない。あの写真は偶然撮られただけだ。関係なんかないんだ。どうか、一度だけ俺の話を聞いてくれないか?会ってくれないか?」澄佳は首を振った。「もう必要ないわ、翔雅」いまさら何を説明するというのか。本当に彼女や子どもたちを思うなら、どうして真琴と二人きりになり、あんな写真を撮られる隙を与えたのか。しかも今になっても、彼は真琴を疑うことなく哀れみ、庇おうとさえしている。——可笑しい。こんな状況でなお、彼女に理解を求めるなんて。男の「救済願望」など一生の業かもしれない。だが澄佳は、その狂気に付き合う気はなかった。「もういいの、翔雅」その声は遠ざかるように淡かった。すべて終わり。彼女は公表文を出すつもりだ。それは他者のためであり、自らのためでもあった。電話を切る直前、受話器の向こうで翔雅が荒ぶる声をあげた。「澄佳!」だが、彼女は振り返らなかった。冷ややかに通話を切った。翔雅の手から力が抜け、スマホが滑り落ちそうになる。彼は顔を伏せ、やがてコートを掴んで外へ出た。向かう先は——星耀エンターテインメント。澄佳があんな声明を出すなど、絶対に許せなかった。たとえ破滅しても、彼女と縁を断たれることだけは耐えられない。安奈が廊下で彼を見て驚き、思わず声をかけた。「社長、どちらへ?広報部が会議でお待ちです」「星耀エンターテインメントへ行く」彼はコートを羽織り、足早に去った。安奈が止めようとしても、その背を止められるはずがなかった。吹雪を切り裂く黒のベントレー。二十分後、ビル前に着いた時には、すでに遅かった。澄佳の声明は世に出ていた。【感情は容易ではない。歩みながら、大切に】——その短い言葉の中で
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第628話

朝の光はまだ弱く、かすかに白む空の下。澄佳は目の前の男を見つめ、コートをぎゅっと合わせながら低く言った。「翔雅……そんなことを聞いて可笑しいと思わない?感情が終わる時、誰一人として無傷でいられるはずがないわ。もし無傷な者がいるとすれば、それは新しい恋を手にした方よ」彼と過ごした恋は、二度。一度目は香坂との関係で終わり、二度目は真琴。澄佳は何度も自問した。翔雅に抱いていた想いは、ただの気まぐれだったのか——いいえ。最初は重圧に屈して始まった関係。それでも二人の子どもが生まれた今度こそ、真剣に考え、真剣に感じたからこそ共にいたのだ。想いを注ぎ込んだからこそ、傷つかないはずがない。彼女のやつれも、痩せ細った頬も、その痛みの証だった。だが、その痛みで決意が揺らぐことはなかった。翔雅の声はかすかに震えていた。「澄佳……俺には新しい恋なんてない」有ろうとなかろうと、もう澄佳にはどうでもよかった。真琴への気遣い、あの写真——それだけで十分だった。彼女は、この壊れた関係に留まるつもりはなかった。「そうかもしれないわね」淡く笑い、マフラーを整える。その小顔は布に埋もれ、まるで大病を患ったかのように細く見えた。彼女は身を翻し、立ち去ろうとする。だが翔雅の手が彼女を掴み、そのまま胸に引き寄せる。強く抱きしめなければ、もう二度と戻らないと分かっていたからだ。髪に顔を埋め、必死に囁く。「あのキスは誤解なんだ。そんなつもりじゃなかった。澄佳、どうか簡単に終わりにしないでくれ。頼む」しかし澄佳の心は動かなかった。「もう遅いのよ、翔雅。もっと早く言うべきだった」苦しげに彼を振りほどき、朝の光の方へ歩き出す。空は明け始め、淡い陽光が地を照らした。翔雅の手は虚しく空を切り、彼女の背を追おうとしたその時、スマホが鳴る。画面に映るのは真琴の番号。通話を取ると、消防の隊員の声が響いた。——真琴が飛び降りようとしている。現場に駆けつけると、人垣の向こうで彼女は三十八階の屋上に腰掛け、薄衣のまま虚ろに遠くを見つめていた。周囲の消防が必死に声をかける。「真琴!」翔雅の声に、彼女が振り返る。赤く滲んだ瞳で。「翔雅……ごめんなさい。あなたまで巻き込んで。もう放っておいて。私は生きる価値のない人間なの。こんな
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第629話

翔雅と真琴の関係が、ついにトレンド入りした。【翔雅と初恋、離れず寄り添う】——一時は、感天動地とまで言われた。あのドキュメンタリー映画『暗渠』の話題性も最高潮に達し、真琴は翔雅の存在によって価値まで塗り替えられていった。過去の汚点は、まるで彼女自身の光輪に変わったかのように。その日の午後には、すでに一流のマネジメントチームが真琴に契約を持ちかけてきた。しかし真琴は病院のベッドに横たわり、精神は不安定なままだった。翔雅は水を一杯注ぎ、ベッドサイドのテーブルに置いた。「どう考えている?もし契約したくないなら、個人事務所を作ればいい。安奈を手配してサポートさせる」真琴はじっと翔雅を見つめる。「誰かに預けたくない。翔雅……私が信じられるのは、あなただけ」翔雅が口を開こうとした、その時。窓の外から、かすかなはしゃぎ声が聞こえてきた。子供たちが雪合戦をしているらしい。翔雅が窓辺に歩み寄ると、案の定、小さな兄妹らしき二人が庭で雪を投げ合っていた。年の頃は章真や芽衣と変わらない。厚手のダウンに身を包み、マフラーで顔まで覆い、真っ赤な頬を輝かせながら無邪気に笑っている。翔雅は黙ってその光景を見つめた。胸の奥に、章真と芽衣の姿がよみがえる。もうどれほど会っていないのだろう。抱きしめることさえできていない。窓の下の楽しげな声は途切れず響き続け、男の瞳は赤く潤んでいった。——子供たちが恋しい。ポケットから携帯を取り出しかけた時、不意に背中から抱きしめられる。耳元で、真琴のかすれた声。「翔雅……さっき夢を見たの。あの年のことを、また……翔雅、私にはもう何も残っていないの。お願い、見捨てないで……」翔雅の手は携帯を握りしめ、緩めては強くしめ直す。「お前の病気がよくなるまで、そばにいる」低くつぶやいた言葉に、真琴は涙をあふれさせて彼を強く抱きしめた。翔雅の心もまた、湿った重みで言葉にできない感情に包まれる。視線を戻すと、あの子供たちの姿はもうなかった。雪原には、小さな足跡だけが残され、かつての歓声を証明していた。夕暮れが近づく頃、空からはまた細かな雪が舞い落ちた。硝子に触れては溶け、やがて薄い氷膜を作る。外の景色はぼんやりと滲み、先が見えない。——年の瀬は、刻一刻と迫っていた。真琴への注目は徐
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第630話

一ノ瀬夫人はソファに腰かけ、悠が持参した小物を指先で丁寧に眺めていた。孝心からの贈り物を、大切にしているのだろう。そこへ翔雅が入ってくると、彼女は手にしていた物を置き、冷ややかに言った。「やっと帰ってきたのね?」翔雅はカシミアのコートを脱ぎ、背もたれに投げかけると、母の隣に腰を下ろした。「母さん……どうして正月の準備が何もされてないんだ?」一ノ瀬夫人は冷笑を漏らす。「正月?あんたの父さんと私は、もう怒りで病気になりそうよ。翔雅、どうしてあの相沢真琴と絡み合うの?あの女に何の魔力があるというの。顔も姿も、澄佳には遠く及ばない。感情だって子供のままごとみたいなもの。澄佳は正式にあんたと結婚し、双子まで産んでくれた。普通の家なら、それだけで大きな福だって喜ぶわよ。それをあんたは大事にしない。いいこと?過ぎた好縁は二度と戻らないのよ。澄佳の才色、立都市ではどれだけの男が望んでいるか。あの相沢と絡み合うなんて、泥に沈むだけ」翔雅はソファに身を預け、深く息を吐いた。「母さん……俺は彼女と一緒になるつもりはない。真琴に対するのは男女の情じゃない」「男女の情じゃない?じゃあ、どうして自分で看病までするの。自分の子供を放って、あの女に入り浸るの。あの人は泥の中の女よ!翔雅、相沢真琴がこの家の敷居をまたぐことがあるなら、それは私と父さんの屍を踏んだときだけだわ」翔雅が口を開きかけたその時、平川が階段を下りてきた。手にはスマートフォンを握り、スピーカーホンのままだった。電話口から、芽衣の幼い声が響く。「おじいちゃん、ママと一緒にいるよ。ママは病院にいるの。病気なんだって」翔雅は凍りついた。——澄佳が、病気?先日の弱々しい姿が脳裏に浮かぶ。あれは、やはり病のせいだったのか。平川は電話を切り、険しい目で翔雅を見下ろした。「で、お前はその愛人の傍にいるのか?」「父さん、違う!俺と真琴はそういう関係じゃない」「ほう、そう呼ぶ割には随分と親しげだな。『真琴、真琴』と……関係ないなら、新聞で大騒ぎになった時に否定すればよかった。黙っていたからこそ、世間は次の一ノ瀬夫人に迎える気だと思ったんだ。いいさ。お前が望むなら、私も母さんも布団をまとめて出て行く。あとは好きにしろ。目を閉じた後のことなど、もうどうでもいい」
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