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私が去った後のクズ男の末路 のすべてのチャプター: チャプター 801 - チャプター 810

1090 チャプター

第801話

宴会の件は、結局そのまま立ち消えになった。澪安は相変わらず多忙で、慕美も仕事が軌道に乗り始め、ようやく社会人らしい毎日が回っていくようになった。彼女はまるで乾いた海綿のように、知識をぐんぐん吸収した。栄光グループにいた頃とは違い、こぢんまりした会社の空気が意外と肌に合う。同僚も気さくで、特に詩は本当に優しい。定時で帰れる日は、二人でタピオカミルクティーを飲みに行った。四月。日差しは柔らかく、空気は澄んでいて、春そのものの匂いがした。慕美の心も、ふんわり晴れやかだった。同僚へのお礼の食事のことは、特に澪安には言っていなかった。だが、彼女がレストランを予約しているのを聞いた澪安は、軽く訊ねただけで事情を悟り、珍しく時間ができたのか、ソファで新聞をめくりながら穏やかに言った。「時間が決まったら教えて。都合つけられるかもしれない」慕美は、その言葉が素直に嬉しかった。彼が、彼女の生活に参加しようとしてくれていることが。けれど、つい意地を張って聞いてしまう。「ほんとに、大丈夫なの?」澪安は彼女の後ろ髪をそっとつかみ、ぐいと引き寄せ、鼻先に軽く噛みついた。「多分、大丈夫だよ」慕美はすぐに予約を確定した。「じゃあ、火曜の18時半。三福レストランね」その名を聞いた瞬間、澪安にはどうせ有名店じゃないのだろうと察しがついたのか、わざとスマホでナビを開きながら言う。「どこのミシュランだろう。シェフ、俺の知り合いかな?九条さんになら割引してくれるかも」慕美は背中にしがみつき、彼の耳を引っ張った。澪安は声をあげて笑った。その笑い声は階下のリビングまで響き、家事をしていた使用人たちは澪安様と慕美様、本当に仲睦まじいわね……と微笑み合った。……火曜日。出社した慕美に、詩がすぐ駆け寄ってきて、小声で囁いた。「本当は例の魔女が残業って言いだしたんだけどさ、全員で全力拒否したよ。うちは『脱・無駄な頑張り』が社是だからね、最下位を守り抜くの!」慕美は思わず笑い、小声で聞き返した。「その最下位って、誰のこと?」「慕美に決まってるじゃん!今やうちの期待の星だよ!!」「えっ……」慕美は気まずそうに席についた。詩はまたひょいと近づいてきて、にっこり笑う。「最下位はね、年末にみんなからご馳
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第802話

慕美は落ち込んではいたが、同僚たちの楽しい空気まで壊すつもりはなかった。個室へ戻ると、できるだけ明るく笑ってみせた。「彼氏、残業になっちゃって……今日は来られないって」「え~~」同僚たちが一斉に残念そうな声を上げる。すかさず詩が肩をすくめて助け船を出した。「働く大人って大変だよね~。うちみたいに『脱・無駄な頑張り』の会社じゃないんだから。うちは江原さんが甘やかしてくれてるんだよ」軽くフォローしながら、しっかり玲子へのヨイショも忘れない。玲子は詩の頭を小突き、「慕美を変な方向に育てないでよ。慕美は真面目でいい子なんだから」慕美はぎこちなく微笑み、皆に食事を促した。そして、持ってきた1982年の赤ワインを開けた。他の社員は価値を知らなかったが、玲子はひと目でわかった。――この一本、どう安く見積もっても三百万円はする。普通の事務員が買える代物ではない。となれば、彼氏は相当な人物なのだろう。玲子は表情を崩さず、しれっと半瓶ほど飲んだ。百五十万円に値する赤ワインが喉を通っていく。宴会はにぎやかで、慕美の心も少しずつほぐれていった。食事の後半、女性社員に腕を引かれ、「立都市のランドマークビルをバックに写真撮ろう!」と窓際へ連れていかれた。みんなで賑やかに写真を撮ったあと、同僚たちは窓の外の建物を眺めて言った。「いつかお金に余裕ができたら、ミシュラン五つ星の泰洋レストランで食べてみたいね。一人五万円くらいなんでしょ?」社長が笑いながら言う。「慕美と仲良くしてれば、食べられるかもよ」言われた意味が分からない子もいたが、詩は気づいた。――慕美の彼氏、多分相当な人。その瞬間だった。慕美の視線が、ふと止まった。そこには――澪安の姿があった。泰洋レストラン。ここから一通り先の、全面ガラス張りの店内。照明に照らされる澪安の横顔は、誰よりも端正で、すぐに見分けがついた。彼の隣には恬奈。向かいには六十代ほどの学者風の男性。三人は和やかに談笑していた。時折、澪安が恬奈のほうへ顔を向け、柔らかく笑う。――その表情を、慕美は知っている。かつて、自分だけが向けられているのだと思っていた。けれどそれは、彼が誰といても向けられる顔なのだと、この瞬間理解した。
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第803話

「うん。やっぱり、出ていこうと思う」慕美がもう一度そう告げると、澪安の表情が一瞬で冷たくなった。幼い頃から誰にも逆らわれず、恋愛でも常に追われる側だった男。そんな彼に、ここまで正面から反抗する女はほとんどいない。澪安にとって、社交の範囲を守っている限り、自分は十分誠実だという自負があった。恬奈との付き合いも礼の一環。一線を越えるなんて、ありえない。なのに。――なぜ、そこまで理解しようとしない?苛立ちのまま、彼は慕美の手首をつかみ、強引に立たせた。そして低く問い詰める。「じゃあ教えろ。お前は一体何がそんなに不満なんだ?あの二兆円規模の案件――お前に取れるか?できるのか?できないなら……」汚い言葉を吐きそうになったその瞬間。慕美は、彼を遮った。「もう、ぐだぐだ言わないでくれる?」わざと、荒い言葉を使った。澪安は、信じられないものを見るように目を見開いた。「本気で出ていくつもりか?」彼の声は、驚きと怒りと、少しの焦りで震えていた。慕美は、枯れた声で答えた。「うん。本気」澪安は乾いた笑いを漏らした。「へぇ……たいした根性だな。いいぞ。じゃあ出ていけ。出て行くなら――二度と戻ってくるな」「つまり……別れようってことだよね?」「ああ」「分かった。じゃあ、別れよう」……威嚇したのは澪安のほうなのに、最後に追い込まれているのは彼のほうだった。けれど一度吐いた言葉は、もう引っ込められない。プライドがそれを許さない。慕美は二階へ向かっていった。澪安はクリスタルのシャンデリアの下で立ち尽くした。華やかな光の中にいても、胸の奥がひどく空虚だ。――何を望んでいるんだ?――どうして、こうなる?追いかけたい。腕をつかんで引き留めたい。好きだと、言ってしまえばいい。しかし、男のプライドが喉を塞いだ。……二階の部屋で、慕美は黙々と荷物をまとめた。持っていく物は少ない。周防家の人々が贈ってくれた高価な品も、澪安が選んでくれた服やアクセサリーも、すべて置いていった。彼女が詰めたのは、自分で買った服と日用品だけ。最後に、澪安から渡されたプラチナカードを、そっと枕元に置いた。全部合わせても、小さなスーツケースひとつだ。階段を降りる
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第804話

さすがに、いつまでも一緒にはいられない。男女には、越えてはいけない一線がある。京介はテーブルに鍵を置くと、それ以上部屋には留まらず、静かに出て行った。だがその足で周防本邸に戻ることはせず、まっすぐ息子の住む別荘へ向かった。夜更けの訪問に、別荘の使用人たちは大慌てで出迎える。京介は片手を軽く振った。「もう休んでいい。澪安と、ちょっと話すだけだ」使用人たちは顔を見合わせながらも、ぞろぞろと下がっていった。リビングは明るく照らされている。澪安はグラス片手にソファに沈み、いかにも機嫌の悪い男の背中をしていた。京介は向かいのソファに腰を下ろし、空になったボトルを手に取って軽く揺らしながら、息子を見て笑った。「ずいぶん落ち込んでるな。そこまで落ちるってことは、本気で惚れてるんだろ。なのに、どうして自分で追い出すんだ?お前の母さんなんか、さっき電話でちゃんとしないなら離婚するって怒鳴ってたぞ。澪安、お前のせいで離婚なんかになったら、マジで許さないからな」澪安はグラスの酒を飲み干し、ソファの背にもたれかかった。見上げた先には、天井から下がるクリスタルのシャンデリア。「俺は、追い出してなんかない。自分で出ていくって言ったんだ。父さん、俺には本当に分からない。俺、そんなにひどかったか?十分大事にしてきたつもりだ。なんでいちいち仕事のやり方にまで口出しされなきゃいけない?なんであんな些細なことで責められる?もし俺が恬奈に気があったなら、とっくに結婚してる。今まで独身でいるわけないだろ」京介はくすっと笑った。「やっぱり、原因は恬奈か」澪安は黙って視線を落とした。京介は自分のグラスにワインを注ぎ、ひと口飲んでから口を開いた。「芸能界くぐってきた人間は、見るところが違うんだよ。慕美は、まっすぐな子だ。いい意味で不器用でな。一方で恬奈は、一見おとなしくて可愛い顔してるが……ああいう子ほど、場の流れを操るのがうまい。冷静に考えてみろ。あの喧嘩、恬奈が絡んでなかったら起きてたか?それに、栄光グループの仕事に、本当に恬奈が不可欠か?昔のやり方が抜けてないだけじゃないのか。はっきり言うぞ。お前はまだ、慕美を自分の女として心の真ん中に置ききれてない。その自覚がないまま、昔どおり女たちと付き合ってる。お前
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第805話

十分ほど待ってみたが、画面には相変わらず何の通知もなかった。そして、澪安はゆっくりと起き上がり、顔を洗い、いつものように会社へ向かった。だが、胸の奥は空洞のまま。彼のプライドは、慕美に連絡することを許さなかった。そして慕美も連絡してこない。――このまま、本当に別れてしまうのか。そんな予感だけが、冷たい霧のように張り付いていた。その日の午前。珍しく、恬奈が会社に現れた。智朗がノックして知らせた時、澪安は眉をひそめた。「彼女と、何か約束してたか?」智朗はわざとらしく間を置いた。「てっきり、桂木様には予約など不要かと。予約が必要なのは九条様のほうだけかと」澪安の黒い瞳が細くなった。数秒の沈黙のあと――「お前、半月分のインセンティブ、減給な」智朗は痛がる顔をしながらも、心の奥では妙にすっきりしていた。……ほどなくして、恬奈が軽やかにドアを押し開けた。淡いバターイエローのワンピース。清楚で可憐、その上計算の匂いをうっすら纏っている。「澪安さん、今日の夜はどこで食事する?三和の新しい店なんてどう?」慣れ慣れしい声音。いつの間にか恋人のような距離感。澪安は書類に目を落としたまま、夕陽が差し込む窓辺で淡く光を浴びている。沈む陽に照らされた横顔は、ガラス細工のように整っていて、恬奈は目を奪われた。――H市で深く接触して以来、彼にハマってしまった。もちろん、彼には恋人がいる。しかも結婚前提の。だが、関係ない。あの女には家柄も学歴もない。手腕もコネもない。綺麗な顔だけで男が守る価値にはならない。――自分なら、彼にふさわしい。慕美が出て行ったと聞き、絶好の機会だと踏んだ。「澪安さん?」呼びかけに、澪安はようやく書類を閉じた。一呼吸置いてから、静かに言った。「恬奈。今夜は無理だ。お前と二人で食事するのも、もう控えたほうがいい」一瞬、空気が止まった。恬奈は恋愛経験が多い。だからこそ、これは拒絶だとすぐ分かった。だが引き下がりたくなかった。「でも、まだ結婚しないなんだし……選択肢は多いほうがいいよ?だって昨日は志水さんのこと、私のために」「俺はお前に好意はない」澪安は、真正面から切り捨てた。恬奈の唇が震えた。「
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第806話

夜更け。黒く艶めく車が、静かに住宅街へ滑り込んだ。周囲に並ぶ普通のマンションとは、どこか異質な存在感を放っている。車が止まり、運転手が降りて後部ドアを開ける。長い足がすらりと現れ、澪安が車外へ降り立った。彼はふと顔を上げる。高層にある一室――その窓に灯りがともっている。慕美が帰ってきているのだろう。今頃シャワーを浴びているのか、髪を乾かしているのか、それとも机に向かって英文単語でも覚えているのか――そんな光景がふと脳裏をよぎる。澪安は軽く瞬きをした。そういえば、彼女と最後に会ってからもう半月が過ぎていた。電話もなし、メッセージもなし、家にも戻らない。澪安が知っている情報といえば、澄佳と数回お茶をしたらしい、というどうでもいい一言だけ。――あの裏切りものめ。思わず心の中で毒づく。彼がわざわざ立都市から連れ戻してやったというのに……なぜ澄佳の方が先に懐かれている?そんな彼の胸中など知らぬまま、隣で運転手が意味深にニヤリと笑った。「澪安様。会いたいなら、上に行けば?」澪安は横目で鋭く睨む。「余計なことを言うな」口ではそう吐き捨てながら、体は正直だ。彼の黒い影は、すでにエントランスへ向かっていた。明るい照明が、彼の長い影を床へ伸ばしていく。まるで過去と現在が重なるようだった――この場所を、かつて歩いたのは京介。探していたのは舞。あれは、彼の父と母の物語。そして今、同じ場所で、同じように、彼は失いかけた恋を取り戻そうとしている。澪安はエレベーターではなく、階段を選んだ。数段上るたびに、胸の奥がざわつく。部屋の前に辿り着くと、扉は固く閉ざされていた。その向こうに、彼の愛しい人がいる。――たった一回、ノックして――ほんの少し、素直になればいい。だが、澪安にはその「少し」が、誰より難しい。手を上げては下ろし、拳を握っては開き、数度繰り返したそのとき――カチャ。突然、扉が開いた。細い手。白いルームワンピース。洗い立ての髪から漂う微かな甘い香り。柔らかい光に照らされたその姿は、夜に咲くローズマリーのようだった。慕美はゴミ袋を提げたまま、呆然と澪安を見つめていた。澪安はゆっくり目を細める。部屋の灯りを背負った彼女のシルエット越
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第807話

慕美は一度、必死に身を捩った。だが、男女の距離というものは――抗えば抗うほど、かえって余計な熱を生む。震える声で、彼女は押し出すように言った。「離して」もちろん、澪安が手放すはずもない。ようやく捕まえた相手だ。腕に抱き込んだ瞬間、彼は自覚した――自分は彼女が欲しくて、気が狂いそうなくらい恋しかった。触れたい、感じたい、聞きたい。そんな飢えた本能が、喉奥で低く唸る。彼はそっと耳元へ唇を寄せ、抑えきれない欲望を、我慢も理性も忘れた声音で囁いた。男という生き物は、こういうとき妙に雄弁になる。慕美は唇を噛み、聞くたび頬が熱く染まる。心臓は落ち着かず、指先まで震えてしまう。短い時間の身体の攻防だけで、澪安はすでに臨界点近く。欲望は理性を押し流しそうになっていた。だが、思い出してしまうのだ。二人は喧嘩したままだ。だから彼は、ぎりぎりのところで体裁を取り戻す。耳に触れる距離で、甘く低く求める。「いいだろ?なぁ、いいって言えよ」「だめ」声は震え、拒否の言葉なのに、どこか弱く揺れている。だが、この状況で「ダメ」が通じるほど、男は出来ていない。そのまま抱き上げると、彼女の身体を軽々と寝室へ運び込む。灯りの消えた室内。それでも澪安はスイッチを次々点け、部屋を白く照らした。まるで、彼女のすべてを目で抱きしめるために。深いグレイのシーツの上。慕美は薄いナイトドレス一枚。布の存在など意味を成さない距離。彼の呼吸は荒く、指先は衿元へ――ボタンを外そうとした瞬間。慕美が彼の首に腕を回し、小さく囁いた。「ちゃんと、持ってきてる?」澪安は手を止め――数秒、意味が落ちてこなかった。そして理解した。避妊具のことだ。次の瞬間、彼の喉から漏れた声は、理性と欲望の狭間で震えていた。「買ってくる」そこでだけは、彼は迷いなく彼女を尊重する。彼女が一度、流産を経験したことを知っているから――どれほど求めても、無理はさせたくなかった。未練がましく彼女にキスを落とし、やっとの思いでシャツのボタンを留め、部屋を出る。……一階。運転手は車にもたれ、煙草をふかしていた。澪安の姿を見るや、慌てて火を消す。「澪安様、もう戻られるんですか?」――何
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第808話

澪安はすぐには立ち去らなかった。薬局の袋を指先で軽く揺らしながら見下ろし、次の瞬間、そのまま玄関前に腰を下ろした。長い脚を無造作に伸ばし、背中をドアにもたれかける。思えば、自分がこんな場所で座り込むなんて、今まで一度もなかった。だが今夜ばかりは――体裁も、余裕も、どうでもよかった。ポケットからタバコを取り出し、一本くわえる。火をつけると、紫煙がゆっくり宙へ溶けていく。煙の向こうで、彼の端正な横顔がかすみ、ぼやけた。静かなマンションの中から、微かに音がした。小さな足音のような、戸口の向こうで息を潜めている気配。――聞き耳を立てている。そう確信した瞬間、澪安は苦笑しながら指先で「コツ」と扉を軽く叩いた。中の気配がぴたりと止まる。まるで本当に、小動物が慌てて巣へ隠れたみたいで。その可愛さに、彼はさらに気だるそうに笑った。追いかけるつもりはなかった。無理強いも、格好悪い。彼女が望まないなら、それは本当に「望まない」ということだ。焦る必要はない。時間なら、いくらでもある。恋愛らしい恋愛をしてこなかった澪安にとって、女の部屋の前でこうして夜を過ごすのは不思議なほど、悪くなかった。むしろ、胸の奥がじんわり満ちていく。ここはかつて、父と母が暮らした場所。その記憶が混じるせいか、胸の内が妙に落ち着き――そして、温かい。――ビールでもあれば完璧だな。そう呟きながら、彼はスマホを取り出し、短いメッセージを送る。【ドアの前にいる】【煙草2本だけ吸ったら帰る。先に寝ろ】もちろん既読も返信もない。だが、それでいい。これは、返事を期待したものじゃない。ただ、「お前に会えたことが嬉しい」――それだけを伝えた、一方通行の報告だった。扉の向こうでまた、小さくスマホの通知音が鳴る。まるで、小動物が驚いて跳ねたような音。澪安の唇に柔らかい笑みが浮かぶ。その表情は優しくて、少し不器用で、どこか少年のようだ。もしもっと恋を知っていたなら、彼は気づいていた。これはもう、恋じゃなくて、惚れている。だが経験のない彼には、それが分からない。今までの恋愛は、身体が先で、飽きたら終わりだった。心が動く恋なんて、ほとんどなかった。だから比較も基準もなく、これが特
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第809話

それからというもの――澪安は時々、慕美のマンションへ姿を見せた。けれど、部屋に入れてもらえることはほとんどなく、彼ができるのは玄関前で煙草を一本吸い、中の気配を静かに聞くことだけだった。慕美は、頑なに許してくれなかった。……金曜日。午後六時。慕美はデスクを片付け、ゆっくりバッグを肩にかけた。隣の席で椅子を揺らしていた詩が、声を潜めて寄ってくる。「ねえ、今日あの新しくできたスイーツ店行かない?みんな美味しいって言ってる」慕美は少し考え――こくりと頷いた。退勤時間になると、社員たちはぞろぞろとエレベーター前へ向かう。複数の会社が入る複合ビルのため、乗り場は人で溢れ返っていた。そのとき、ソフトウェア会社のような雰囲気の若い二人組が慕美の前に割り込み、にこやかに言い出した。「ねえ、ライン交換しません?ほら、これ」スマホはすでに差し出されている。周囲の視線が集まり、断りにくい空気が漂う。しばらくの攻防。ついに慕美は折れ、しぶしぶ画面を差し出した。エレベーターに乗り込むと、幸い彼らは一番奥。慕美は壁に寄り、バッグを胸に抱えて前を見つめた。会社は二十八階にある。エレベーターは途中で止まり、揺れ、また動く。ふわりと身体が浮くような感覚に、気分が悪くなりそうだった。手を壁に添えた瞬間――大きな手が彼女の腰を掴み、そのまま引き寄せた。咄嗟に声を上げようとした。だが、すんでのところで息が止まる。知っている匂いだった。淡いシダーの香り。いつかの夜に、何度も肌で覚えた香り。慕美の身体が硬直する。その一瞬を逃さず、腰を抱く腕がさらに強くなる。耳元で、掠れた声。「人気だな、九条慕美」頬が一気に赤くなる。まさか会社まで来るなんて――この男、暇なのか。栄光グループ、倒産寸前なのか?そんな考えがよぎったのだろう。澪安は鼻で笑い、低い声で返す。「会社は順調だ。社長が少し時間を割いて恋人を迎えに来るくらい、問題ない」そして、わざとらしく間を置く。「ただ……恋人が新しい男を増やしてるのは問題だな。予備か?」「そ、そんなのいない!」「じゃあ――俺ひとりに忠実ってことでいい?」言葉と同時に、慕美のスマホが器用に奪われた。片腕で慕美を抱
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第810話

慕美は店内をちらりと覗いた。席の奥には、願乃と彰人。その視線が自然と澪安へ向く。澪安は片手で彼女のうなじを支え、柔らかく言った。「別に……嫁入り前の挨拶ってわけでもないだろ。何をそんなに怯えてる?」慕美は瞬きを二度。返す言葉は喉で止まった。――本当は分かっていた。願乃と彰人の関係は、自分と澪安と「似ているようで、決定的に違う」願乃は若いが、慈善事業で知られており、人脈も評価もある。彼女には「立場」も「役割」もある。自分は――ただの平凡な女。彼と出会うまでは、そんなこと考えたこともなかったのに。澪安と一緒にいると、ふとした瞬間に胸が縮こまる。勉強して、努力して、追いつきたいと思った。けれど、「今さら追いかけても意味ない。育ちも環境も、もう埋まらない差だ」――そう言ったのは、他でもない、澪安だった。自分は、彼に美しさだけで選ばれた。それがどれほど不安定な基盤か、考えれば考えるほど足元が揺れる。美しさは、いつまで保てる?恋人は、体だけでは続かない。……そのとき、願乃が顔を上げ、ふわっと笑った。「お兄ちゃん、慕美さん」笑うと覗く小さな八重歯は、無邪気で眩しい。彼女は曇城市で暮らしているため、二人の事情を知らないらしく、自然な声音で手を振った。慕美の足は動かない。だが澪安は迷わず彼女の手を取り、テーブルへ向かった。視線は重なり、周囲の空気が少し波立つ。しかし手は――握られたまま、振りほどけなかった。席につくと、願乃は楽しげにメニューを広げ、彰人に相談していた。低く穏やかな声が返り、二人の距離感は静かで水のようだ。近すぎず、遠すぎず。けれど確実に幸福が滲む。それは、見ているだけで胸が温かくなる景色だった。思わず見入っていた慕美の耳元に、澪安の声が落ちる。「何にする?」「え?」「さっき、スイーツ食べたいって言ってただろ。いや、違ったか?あの眼鏡でも眺めに来たのか?あの小柄な女と似たタイプだったな」言葉に刺があった。慕美は眉をひそめ、口を結んだ。返事がないと、澪安の視線はさらに濃くなる。慕美は観念して、メニューを指差した。「これ」澪安はそれを受け取り、願乃に渡す。「これ、お義姉さんに」――お義姉さん?
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