All Chapters of 私が去った後のクズ男の末路: Chapter 751 - Chapter 760

804 Chapters

第751話

翔雅は芽衣の頬をそっとつまんだ。「パパはね、すごく遠くへ行って『鬼を退治する桃太郎』になったんだよ」芽衣が元気よく手を挙げた。「わかった!パパはお姫さまを助けに行ったんでしょ?」翔雅は小さな額に口づけを落とす。「違うよ。お姫さまじゃなくて、芽衣と同じくらい可愛い子どもを助けに行ったんだ。その子はもう家族のもとに帰ったんだよ」芽衣の目が潤む。「その子、すごくつらかったの?いっぱい苦しいことがあったの?パパ、お菓子を買ってあげた?」横で章真もじっと父を見つめていた。翔雅は胸の奥が複雑にざわめき、思わず二人を抱きしめた。心の底から澄佳に感謝した。子どもたちをこんなにも澄んだまま育ててくれたことに。「もちろんだよ。これからは毎日お菓子が食べられるはずさ」芽衣は小さくうなずき、「それならよかった。ママが言ってたの。世界がもっと良くなったら、みんなの子どもが幸せになれるって」……翔雅の鼻の奥がつんと痛んだ。言葉にならない感情が胸を満たす。若い頃、彼は真琴に出会い、その後、澄佳に出会った。手にした幸せを自ら壊してしまったこともあったが、最終的には澄佳と二人の子どもを得た。これほどの幸運があるだろうか。その時、外からノックの音。「奥さまがお電話を受けました。お子さまを周防邸にお連れするそうです。旦那様はご自宅で召し上がりますか?それともご一緒にいらっしゃいませんか?」翔雅は顔を上げずに答えた。「一緒に行くよ」芽衣は「やったー!」と声を上げ、父の腹の上で跳ね回った。危うく命を落としそうな勢いだったが、翔雅はそんな娘を見て嬉しくなり、起き上がって頭を撫でる。「さあ、着替えよう」芽衣が甘えるように言った。「パパ、朝ごはんも作って」「よし、パパが作ろう」清都から戻ったばかりで一睡もしていないはずなのに、翔雅の体には新しい力が満ちていた。一刻後、二人の子どもを連れて階下へ。高い襟のセーターにスチールグレーのパンツ姿。静かな気品を纏った男が台所に立つ。芽衣と章真は小さな影のように後を追い、パパの朝ごはん作りを見守った。使用人が慌てて止めに入る。「旦那さま、我々がいたします」しかし芽衣が胸を張った。「ダメ!パパが私と章真に作るの!」翔雅の胸に誇りがあふれる。澄佳と自分の子ど
Read more

第752話

H市、栄光グループ支社。澪安は通話を切り、表示された秒数を見て小さく首を振った。側に控える秘書の新堂智朗(しんどう ともあき)がそっと声をかける。「澪安様、西園寺社長が夜八時にクラブでご一緒にどうかと尋ねてきましたが。もし気が進まれなければ、私が断っておきますが」澪安はソファに腰を下ろし、マグカップに入った琥珀色の酒を揺らしながら淡々と答えた。「行くさ。せっかくの話だ。西園寺社長の条件も申し分ない、無粋に断る筋合いはない」「承知しました」智朗は頭を下げ、部屋を出て行った。残された澪安はソファにもたれ、退屈そうにスマホを弄ぶ。アドレス帳をめくるうち、ふとある人物のことを思い出す。渡した名刺――電話が来るはずだったが、彼女は一度もかけてこなかった。九条慕美。彼女は澪安にとって特別な存在だった。少年の頃、彼女はよく彼をからかった。体が弱かった自分はその度に悔しい思いをした。そして成長したある日、夢に見た――慕美を押し倒し、男なら誰もが知る行為に及ぶ夢を。目覚めてみれば荒唐無稽な妄想に過ぎなかった。――あれを叶えたいと思った時期もあったが、慕美は転校してしまった。その後、クラブで偶然再会したが、立都市に戻ってからは見かけなくなった。今度行ったら訊ねてみるか――そんな取りとめのない思考は、一本の業務電話で途切れる。ここ数年で栄光グループは規模を倍に広げた。業務は山積みで、女に費やす時間はほとんどない。慕美も所詮は旧知の仲にすぎないのだ。……夜の帳が降りる頃。36階の支社ビル前に、黒塗りのロールス・ロイス・ファントムが停まった。澪安が降りてくると、運転手が恭しくキーを差し出す。「澪安様」キーを受け取り、彼は車内に身を沈める。次の瞬間、黒い高級車は流星のごとくH市の街を駆け抜けた。ガラス越しに見える横顔は、鋭く整った顎のライン。神の彫刻としか思えぬほど完璧だった。三十分後、車はH市随一の高級クラブへ。西園寺の趣味とあって、ここには街で最も美しい娘たちが集められているという。立都市から来ても敵わないほどだ、と噂される。澪安はこれまで数々の美女を見てきた。今さら驚くこともないが、西園寺がそこまで執着する女とはどんな顔か。興味を惹かれた。クラブの玄関ではすでにスタッフが待ち構えていた。「
Read more

第753話

所詮、男の腹の内を読むのは男だ。西園寺は一目で悟った――澪安は慕美に目をつけたのだと。自分もその娘は気に入っていた。だが権勢には抗えない。所詮は遊びの相手、情が尽きればただの知人に戻るだけ。西園寺は即座に天秤を傾け、にこりと笑った。「なんと澪安様のご友人とは。久々の再会なら、ゆっくり語らうべきですな。我々は席を外しましょう」居並ぶ者たちはその潔さに驚愕した。せっかく準備した舞台を、丸ごと澪安に譲ったのだから。だが西園寺は理解していた。――澪安様が自分に損をさせるはずがないと。女など、また探せばいい。旨みのある話なんてそう転がってはいないが、綺麗な娘ならクラブにいくらでもいる。感嘆とざわめきの中、人影はすっかり消えた。広大な室内に残されたのは、澪安と慕美だけ。男は扉を閉め、振り返る。その声音はわずかに和らいでいた。「何か弁解は?」慕美は静かに問い返す。「弁解って、何を?私たち、特別な関係じゃなかったはずでしょ」澪安は鼻で笑い、ゆっくりと歩み寄った。鋭い視線を落としながら身を屈め、耳もとで囁く。「俺は名刺を渡したはずだ。困ったら連絡しろと。それが今の仕事か?身を売ることなのか?」慕美は彼を強く突き放した。「私と西園寺社長は本気よ!」澪安は喉の奥で乾いた笑いを洩らす。「ほう?あの豚面に口づけできるんだな」ふと、冷たい疑念が胸を刺した。肩を掴み、低い声で問う。「もう寝たのか?」「頭おかしいんじゃないの?」慕美は振り払い、出口へ駆け出した。だがすぐに腕を取られ、細腰を引き寄せられる。強く抱きすくめられ、男の胸に押し込められた。澪安は強情だ。慕美もまた、引かない。もつれ合い、ついにはソファに倒れ込んだ。女は押し伏せられ、必死に抗う。「私はあんたの妻じゃないわ、干渉しないで!」その一言に、二人は同時に息を呑んだ。「なら、あの男より俺の方がましだろ」「やっぱり頭おかしい!」罵声を無視し、澪安は顎をつかんで唇を奪った。数多の女はウサギのように従順だった。だが慕美だけは違う。名刺を渡したというのに、電話一本寄こさない。挙げ句の果てには、H市でクラブ暮らしをし、男から金を稼ぐ。――俺を死んだ者扱いしているのか。唇が触れた瞬間、稲妻のよ
Read more

第754話

破られ、強引に唇を奪われた慕美は、怒りで震えた。――周防澪安に、そんな資格があるものか。乾いた音が響く。パシン!張り手が澪安の頬を打った。一瞬、二人とも固まった。これまで女が澪安に手を挙げたことなど、一度もなかった。刹那、彼の御曹司としての矜持が剥き出しになった。表情は氷のごとく冷え、声は鋭い刃と化した。「九条慕美……俺は昔のよしみで目をつぶってきただけだ。いい気になるな。俺がどうしてもお前じゃなきゃ駄目だとでも思ってるのか?」彼の数々の浮名は、慕美の耳にも届いていた。だからこそ、彼女は避けてきた。二人は不快なまま決裂する。澪安は彼女の上から身を起こし、皺の寄ったスラックスを軽く払うと、振り返りもせずに部屋を出た。個室の扉を開けると、西園寺が外で待ち構えていた。「澪安様、もうお帰りですか?」何かを伺うような口ぶり。澪安は薄く笑った。「物は元の持ち主に返すだけだ」その言葉に込められたのは、侮辱と苛立ち。西園寺は思わず個室を覗き込み、慕美がどうやって澪安を怒らせたのか首を傾げる。だが気づけば、澪安の姿はもうなかった。「澪安様!」呼び止める声も虚しく、彼は一度も振り返らずに去った。西園寺は深呼吸し、個室に戻る。慕美を前にして、胸を撫で下ろした。――幸い、彼女に指一本触れていない。澪安を怒らせはしたが、男というものは得られなかったものにこそ心を乱す。直感が告げていた――澪安は必ずまた彼女を求める。同じ場所で、同じ女を前に。西園寺はもはや彼女を庇う存在ではなく、必要以上に卑屈な立場へと変わっていた。「慕美、澪安様の身分はご存じだろう?俺ひとりの西園寺など、十人分束ねても敵わない。H市では多少は顔が利くが、立都市に行けば澪安様の靴を持つのがせいぜいだ。お前と澪安様の間にどんな因縁があろうと、逆らわず、その情を受け止めるべきだ」西園寺の胸中には、すでに答えがあった――金を払ってでも、慕美を澪安に差し出す、と。その意図を察した慕美が、冷ややかに口を開く。「いくら出すの?」西園寺は即答した。「二千万円でどうだ?」その言葉の直後、真紅のワインが容赦なく顔に浴びせられた。「ぐっ……!」顔を拭った西園寺は怒りをこらえ、唸るように言った。「澪安様のベ
Read more

第755話

慕美は淡々と笑みを浮かべた――本気にしてはいない。欲しいのは二千万円。叔母の命をつなぐ、その金だけだ。西園寺に身を差し出すのであって、澪安のためではない。すべてが終われば、背を向けて立ち去るつもりだった。もちろん、屈辱はある。だが今回、彼女は――澪安に売られたのだ。……夜更け。慕美は病院に足を運んだ。叔母は眠っており、痛みに耐えた後の疲労が顔に刻まれている。起こさぬよう、脱ぎ捨てられた衣を手に取り、共用の洗面所で黙々と洗う。深夜、月光が白く射し込む。疲労は骨の髄まで沁みていた。だが叔母が倒れて以来、彼女には「疲れた」と口にする資格すらなかった。――あの時、叔母は恋愛詐欺師に騙され、父の全財産を失った。挙げ句、男は彼女をも奪おうとし、叔母は命懸けで立ちはだかった。七度八度刺されながらも、慕美を抱きしめ離さなかった。慕美はかつて叔母を憎んだ。男を信じなければ、いまも裕福に暮らせたはずだ。だが同時に、命を賭して守ってくれたのも叔母だった。互いに許せず、互いに支え合う年月。慕美は腎臓をひとつ差し出した。腹の中には、いま片方しかない。どうしようもなく、クラブに足を踏み入れた。学歴も技もなく、あるのは外見だけ。本来、男を相手に立ち回れる人間ではない。幾度も身体を弄ばれ、幾度も酒瓶を叩きつけられた。腰には煙草の火で焼かれた痕が残り、それを後に刺青で覆い隠した。歩んできた道のりは、傷跡だらけだ。だから澪安の甘言など信じはしない。彼に希望を託すこともない。西園寺が金を出し、こちらが肉体を渡す。それ以上でも以下でもない。澪安に軽蔑されても構わない。――金がないことこそ、本当の絶望なのだから。慕美は衣服を洗い終え、隅に干した。預り金は五百円。胸が締めつけられる。財布を探り、最後の十万円をカードで入金する。残る現金はもうない。だが明日には二千万円が入る。叔母の病は治せない。だが、苦痛を和らげ、個室で安らかに過ごさせることはできる。金はそのためにしか意味がない。夜、彼女は廊下の片隅で横になった。病室の匂いは馴染めない。死を孕む空気が、ただ恐ろしかった。……朝。看護師に起こされた。薬の処方が終わると、預り金は底をついた。「お金を払ってください」看護
Read more

第756話

昼下がりの陽射しが強く差し込む頃、慕美は病室へ戻った。看護師が叔母を個室へ移してくれていた。といってもVIP病室ではなく、簡素な個室だった。叔母は目を覚ましていたが、痛みに耐えきれず身を縮めていた。本当に痛いのか、それともただ口癖のように痛いと訴えているのかは分からない。ただ、誰かと会話すれば必ずこう尋ねるのだ。――あの裏切り男は帰ってきたのか?悔い改めたのか?今でも私を想っているのか?だが、あの男はとうに外で金をすってしまい、その後刑務所に入り、中で争いに巻き込まれて命を落とした。あの年、慕美は二十二歳だった。彼女はその事実を叔母には告げなかった。叔母が彼を恨みながらも、同時に心のどこかで想い続けていることを知っていたからだ。慕美にとってそれは裁くべきことではなかった。ただ良心に従い、変わり果てた叔母を最後まで見届けるだけだった。早春の陽射し、温かな布団、清らかな空気。それらすべては金で買ったものだ。慕美は後悔していなかった。父が亡くなってから流転の生活を送り、味わってきた苦しみは積み重なって屍の山となり、彼女の心はすでに麻痺していた。だからこそ、叔母を見送った後は、この稼業をやめ、ごく普通の仕事に就こうと考えていた。選択肢は多くないにせよ。ベッドの上で身をよじっていた叔母は、ふいに顔をこちらに向け、じっと彼女を見た。しばらくして、急に険しい顔になり、吐き捨てるように言った。「あんた……彼を探しに行ったのか?私に会わせたくないんだろう?心の底では、まだあの時のことを恨んでいるんじゃないのか?」慕美は悟った――また症状が出ている、と。すでに専属の介護士を手配してあり、月六十万円。高い出費ではあるが、それで叔母が少しでも体面を保てるなら惜しくはなかった。言葉を返そうとした瞬間、叔母は手に取った受話器を、彼女めがけて力任せに投げつけてきた。一瞬の衝撃。白い額にぱっと血がにじみ、皮膚がわずかに陥没していた。目を覆いたくなるほどの傷跡だった。薬盤を手にした看護師が入ってきて、その光景を目の当たりにして凍りついた。慌てて荷物を置き、駆け寄りながら叫んだ。「どうして避けなかったの?こんなことになって……はあ、ややこしいわね。精神科病院でも引き取ってくれないのに」慕美は苦く笑った。
Read more

第757話

夜は静かに更けていた。今夜のクラブには客が少ない。景気が冷え込み、このまま数か月で閉店になるかもしれないと、リーダーから聞かされていた。慕美はグラスを磨きながら、その話を黙って聞いていた。数か月――それで十分だった。本来なら西園寺の取り計らいで、彼女はもう雑用をしなくてもいい立場にあった。だが働いている姿を見たリーダーの紅音は、少し困った顔で声をかけてきた。「慕美、ちょっと話があるの」慕美は手を止め、廊下へ出た。賃金の減額かと思ったが、紅音の口から出たのは事実上の解雇通告だ。「知っての通り、この一年景気が悪くて、店はずっと厳しいの。オーナーも閉めたいと思ってたんだけど、なんとか数人の常連に支えられてきたの。でも昨夜、西園寺社長と別れた上に、立都市の澪安様を怒らせたでしょう?オーナーはこれ以上の騒ぎを恐れてね、慰労金を渡してあなたには新しい仕事を探してほしいって。慕美、あなたは若くて綺麗だし、変な癖もない。別の世界でやり直した方がいいと思うの」紅音は普段から面倒を見てくれる人だった。さらにこう付け加えた。「店を辞めた後に澪安様に会うことがあれば、きちんと謝っておきなさい。あの方の条件は西園寺社長よりずっといいわ。聞けば家のグループは兆単位の資産を持っているそうよ。普通の女の子が絶対に手にできないチャンスなんだから」慕美は薄く笑って「わかりました、紅音さん」と答えた。要するに澪安を怒らせたせいで、オーナーは責任を取れず、彼女を切ったということだ。紅音はなおも気遣い、財務に連れて行ってくれた。慰労金は五十万円――通常より十五万円多かった。別れ際、紅音は肩を軽く叩いた。「困ったことがあれば電話しなさい。力になれることがあれば必ず助けるから」慕美は小声で礼を言い、小箱を抱えて夜の街へ出た。背後ではクラブの灯りが彼女の装いを照らし、かつての同僚たちの嘲笑が追いかけてくる。「小鳥のくせに、鳳凰になりたいんだとさ」「見た?まだ身の程知らずに夢見てる顔してる」「自分をどこかのご令嬢と勘違いしてるんじゃない?」……ひとしきりの笑い声のあと、紅音の叱責が飛び、女の子たちはしぶしぶ散っていった。エレベーター前に立つ慕美は、淡く笑った。そんな言葉は、彼女にとって何でもない。エレベーター
Read more

第758話

しばらくして、澪安が小箱に手を伸ばした。「俺が持つ」慕美はぎゅっと抱きしめて、「いらない」と拒んだ。だが次の瞬間、バスが水たまりに乗り上げて大きく揺れ、ハイヒールの彼女は体勢を崩し、そのまま背後の男の胸へと真っ直ぐ倒れ込んだ。二人の体がぴたりと重なる。厚いコート越しにも互いの熱が伝わってくる。澪安がふと視線を落とすと、白く柔らかな耳と、くっきりとした横顔が目に飛び込んだ。幼い頃から大きく変わってはいないが、丸みを帯びていた顔立ちはすっかり削げ落ち、骨格の美しさが際立ち、そこに女としての艶やかさが加わっていた。男はたいてい自分の本能に忠実だ。澪安も分かっていた。慕美に執着するのは、生理的な欲望に近いものだった。手に入らなければ、一生引きずるかもしれない――そんな執念。腕の中の彼女は驚くほど小さく、細い腰は片手で包めるほど。車体の揺れが二人をさらに密着させ、ひどく艶めかしい空気を醸し出していた。どこからともなく流れてきた切ない曲が重なり、二人はまるで恋人のように見えた。――一枚目の写真……俺たち二人だけの、寄り添えず、君は左に、俺は右に…………やがて慕美が顔を上げ、澪安を見た。今回は刃を交えるような視線ではなく、複雑に揺れる湿り気を帯びた眼差しだった。澪安は何も言わず、静かに見返す。緊張が極まった刹那、彼はゆっくりと顔を近づけ、唇を求めた。だが慕美はわずかに顔をそらし、触れたのは口角だけだった。二人は同時に視線を外し、何事もなかったかのように装う。外は雨上がりで、街は湿り気を帯びていた。――まるで初めて心が震えた瞬間のように。だが二人は気づかなかった。その心の震えこそが恋であることに。恐れゆえに現実から目を逸らし、欲望で心を覆い隠した。片や計算を胸に、片や流されるままに。そしてその曖昧な時が終われば、二人は再び別々の人生へ帰っていくのだった。澪安にとっても異例だった。女を口説くときは金をばらまくだけで、時間を割くことなどほとんどない。ましてや一緒にバスに乗るなど。「おい、背の高いの!運賃払ったか?」運転手の怒声に、車内の視線が一斉に澪安へ注がれた。途端に顔をしかめる澪安。生まれて初めてバスに乗った彼に、カードの使い方など分かるはずもない。そのと
Read more

第759話

澪安はドアにもたれ、室内を一通り眺めてから、じっと慕美を見据えた。「どういうつもりだ?」慕美の唇がわずかに震える。「分かりやすいでしょ?」黒い夜に、沈黙が落ちる。やがて澪安は低く問うた。「つまり……そういうことか?束縛のない関係。夜が明ければ終わり、できれば札束を置いていく。そういう話か?」声音には厳しさが混じっていた。慕美はゆっくりとコートを脱ぎ、黒のドレスを露わにした。薄いシフォンの袖が清らかさを漂わせながらも、妖しい色気を含んでいる。彼女は自分の身体を抱きしめるように腕を回した。澪安の視線が鋭さを増す。「本気か?」慕美は答えず、彼の元へ歩み寄ると、黒いコートのボタンに指をかけた。冷たさが残る布地に触れ、指先が凍えるように震える。それでも止まらず、一つひとつ外していく。コートが滑り落ち、逞しい体躯が露わになる。固く留められたシャツのボタン、隆々とした喉仏、鋭く刻まれた顎のライン。そこからは否応なく男の色気が溢れ出ていた。クラブで働いてきた慕美だが、男に触れたことはなかった。小さなボタンに指が震え、うまくつまめない。やがて澪安がその手を包み込み、二つだけを一緒に外した。シャツの隙間から小麦色の肌が覗き、艶やかに光を返した。澪安は、輝かしい家柄を持つだけでなく、その身一つでも十分に人を圧する存在だった。伏せた黒い瞳が鋭く光り、声はなおも容赦ない。「百万か。百五十万か」慕美は俯き、小さく震える声で答えた。「二百万」次の瞬間、彼女は強く抱き寄せられた。身を締めつけられるほどの力で、顔を掴まれ、目を逸らすこともできない。やがて彼女は軽々と抱き上げられ、唯一のソファに投げ出された。「周防澪安」震える声に、鼻先まで熱を帯びる。彼は立ったまま彼女を見下ろし、ゆっくりとベルトに手をかけた。……深夜。すべてが静まり返った後。慕美は澪安の胸に身を横たえていた。体を起こして風呂へ行きたいと思うのに、力が入らず動けない。濡れた黒髪が広がり、彼女は妖艶な水の精のように見えた。澪安は意外だった。経験豊富だと思っていた彼女が、実は初めてだった。反応も、痕跡も、何より血がそれを物語っていた。男として複雑な思いに駆られる。二百万など払えない。――いや、そんな価
Read more

第760話

慕美が首を振った。「なんでもないわ」澪安は煙草をもみ消し、真剣な眼差しで問いかけた。「これからどうするつもりだ?立都市へ戻るのか、それともこのH市に残るのか?まだ家族はいるのか?」彼は、彼女の父が亡くなっていることを知っていた。慕美は首を横に振る。「もう、誰もいない。私はこの街に残りたい」彼と自分は、ただ短く会ったことで、未来などない。だから叔母のことを語る気にはなれなかった。話したところで同情を買うだけだ。慕美にとって、最も不要なものは同情だった。言葉を聞いた澪安は小さく頷いた。「そうか。じゃあ部屋を一つ用意する。仕事は、したければすればいいし、しなくてもいい。家にいればいい」店舗の話はしなかった。別れ際に切り出す方が都合がいい。慕美は小さな声で言った。「働きたい」澪安は即答した。「なら栄光グループの支社に入れ。俺が手配する」その言葉に、慕美はじっと彼を見た。澪安はふと気づく。彼女の学歴では、栄光グループでは受付すら難しい。清掃くらいしかできないだろう。言葉を失い、重苦しい沈黙が落ちた。しばらくして彼は口を開いた。「どうして勉強を続けなかった?」「やりたくなかったから」慕美は短く答え、心の扉を閉ざした。彼女ははっきりと感じていた。二人の間に横たわる埋めようのない差を。そして、澪安の思惑も。――自分がこのH市に残ることを容認したのは、長く付き合うつもりがないからだ。ただの一時の相手として。旧知のよしみで、彼は少しばかり優遇しているにすぎない。それを悟った慕美は、静かに心を引き締めた。重い沈黙。それは事後の甘さではなく、初対面の男女がいきなり関係を持った後のぎこちなさに似ていた。ちょうどそのとき、チャイムが鳴った。慕美が立ち上がろうとすると、澪安が先に鋭く問う。「誰だ?」「頼んでいた薬」ドアを開けると、配達員が袋を渡し、足早に去っていった。中には小さな箱が一つ。澪安は怪訝そうに眉を寄せる。「薬?体の具合でも悪いのか?」慕美は水を注ぎ、錠剤を飲み下してから振り返った。「アフターピルよ」澪安は一瞬、言葉を失った。そのとき澪安は思い出した。――そうだ、今夜は確かに何の対処もしなかった。これまで一度も怠ったことのないこ
Read more
PREV
1
...
7475767778
...
81
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status