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第631話

深雪は延浩を見つめ、しばらく何も言えなかった。周囲の取締役たちはその様子を目にし、誰もが羨望の表情を浮かべた。深雪が卓越した能力を持つだけでなく、これほどまでに優れた男性に寄り添われているとは、誰も予想していなかった。「行こう。家に帰ろう」延浩は深雪の手を取り、静かに言った。深雪はうなずき、彼に手を引かれるまま、会議室を後にした。「松原商事をコントロールできたお祝いも兼ねて、少し気分転換しないか。温泉リゾートに二日ぐらい行こうと思うんだが、どうだ?」車を運転しながら、延浩が提案した。「いいね」深雪は快く頷いた。ここまで長いあいだ張り詰めていたのだ。心身ともに休みが必要だった。車は市街地を抜け、郊外の温泉リゾートへと向かう。道中の景色は美しく、深雪の心も次第に解きほぐされていった。リゾートは静かで、澄んだ空気と花の香り、鳥のさえずりが心地よい。二人は露天風呂付きの豪華なスイートルームに案内された。「とても素敵な場所ね」深雪は大きな窓の前に立ち、外の景色を眺めて感嘆した。「気に入ってくれてよかった」背後から延浩がそっと抱き寄せ、囁いた。「延浩......ありがとう」深雪は振り返り、真剣な眼差しで言った。「何が?」延浩は笑って尋ねた。「私のためにしてくれた、すべてに」延浩は彼女の鼻先を軽くなぞり、愛おしそうに言った。「温泉に入ろう」彼は深雪の手を取り、温泉へと導いた。温かな湯が肌を包み込み、連日の疲れが静かに溶けていく。深雪は縁に身を預け、目を閉じて、久しぶりの静けさを味わった。延浩は隣に座り、優しく彼女の肩をほぐした。「子どもの頃の、何か面白い思い出はある?」延浩がふと尋ねた。「子どもの頃?」深雪は目を開け、懐かしそうに微笑んだ。「昔はガキ大将だったのよ。みんなを連れて木に登って鳥の巣を探したり、川で魚を取ったり......」懐かしむように語るその声には温もりがあった。延浩は耳を傾け、微笑んで聞いた。夕方になると、リゾートではキャンプファイヤーが催された。二人はカジュアルな服に着替え、焚き火のそばへ向かった。燃え盛る炎が人々の笑顔を照らし、歌と踊りで賑わいを見せていた。延浩はステージに招かれ、ギターを手にラブソン
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第632話

深雪が起き上がると、パジャマが肩口からすべり落ち、白い鎖骨があらわになった。薄手の羽織を一枚手に取り、寝室を出て、延浩がどこへ行ったのか確かめようとする。リビングにも人の気配はない。バルコニーへ向かうと、そこに立つ延浩の姿が目に入った。背を向けたまま、携帯電話を手に、低い声で誰かと話している。深雪の位置から見えるのは、わずかに寄せられた眉だけ。いつもの柔らかな微笑みとはまるで違っていた。今の延浩は表情が硬く、どこか冷ややかで、別人のように見える。深雪は足音を殺し、もう少し近づいて話の内容を聞こうとした。しかし一歩踏み出したその瞬間、延浩は突然通話を切り、素早く振り向いた。深雪の姿を見た途端、彼の顔に明らかな動揺が走った。それは、静かな湖面に石を投げ込んだような、ほんの一瞬の波紋だった。だが、その乱れはすぐに消え、延浩の顔には再び穏やかな笑みが戻った。「おはよう」延浩は歩み寄り、自然な仕草で深雪の肩を抱いた。「起こしちゃったか?」深雪は彼を見つめ、さきほどの違和感に気づいていないかのように、静かな目をしている。「ううん、私も今起きたところ」淡く笑ってから、何気なく問い返した。「誰と電話してたの?ずいぶん真剣そうだったけど」延浩の笑顔はいっそう柔らかくなり、陽だまりのように、深雪の胸に浮かんだ小さな疑念を包み隠そうとした。「会社のことだよ。仕事の段取りを少し」軽く肩をすくめ、あっさりと続けた。「最近案件が多くてね」深雪はそれ以上追及せず、理解したというようにうなずいた。延浩は彼女の手を引いてダイニングへ向かった。テーブルには、深雪の好みに合わせた朝食が並んでいた。「朝食を作った。君の好きなものだよ」椅子を引き、優しく促した。「さあ、食べよう。食べ終わったら、少し散歩でもしようか」深雪は席に着き、ナイフとフォークを手に取った。動作はゆったりとして上品で、料理を味わっているようでもあり、何かを考え込んでいるようでもあった。延浩は向かいに座り、穏やかな視線で彼女を見守りながら、パンやミルクをさりげなく差し出した。その気遣いはいつもと変わらない。すべてが温かく、甘やかな日常そのものだった。もし先ほど、バルコニーで電話をしていたときの延浩の表
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第633話

深雪の鼓動が、突然激しく跳ね上がった。下瀬社長?下瀬産業の、あの下瀬社長?なぜ下瀬社長が延浩にメッセージを?しかも、さきほど延浩が電話をしていた様子からすると、どうやら下瀬産業絡みの話だったようにも見える。不安と、そして言葉にできないほど微かな期待を胸に、深雪はその未読メッセージを開いた。文面は驚くほど短かった。たった一行。だが、その数文字は、雷のように深雪を打ち据え、彼女をその場に凍りつかせた。「若旦那、ご指示どおり、すべて手配しております」若旦那?その三二文字は、稲妻のように深雪の脳裏を貫いた。ぼんやりとしていた疑念が、一瞬で、くっきりとした輪郭を帯びた。若旦那。下瀬社長が、延浩を若旦那と呼んでいる?これまでの記憶が、一気によみがえた。下瀬産業との数々の提携。不自然なほど順調に進んだ案件。松原商事のプロジェクトに、度を越した支援。そして何より、延浩が一度でも、自分と一緒に下瀬産業関連の場に表立って姿を見せなかったこと。散らばっていた無数の断片が、見えない一本の糸に引き寄せられ、つながっていく。そして指し示したのは、深雪が到底信じたくなかった事実。延浩は......自分の本当の身分を隠していた。頭の中が真っ白になり、手にしていたスマホが、指先から滑り落ちそうになった。深雪はゆっくりと顔を上げた。少し離れた場所で、花を眺めている延浩を見た。陽光が彼の横顔を縁取り、整った輪郭を際立たせていた。唇には、いつもと変わらぬ優しい笑み。完璧で、あまりにも、現実感のない姿。自分は彼のことをよく知っていると思っていた。二人の間には、隠し事などないと疑いもしなかった。それなのに、彼はこれほど重要なことを、胸の奥にしまい込んでいた。衝撃、疑念、戸惑い。さまざまな感情が一気に押し寄せ、深雪の心は激しく波立つようになった。それでも彼女は、必死に動揺を押し殺した。何事もなかったかのように振る舞うことにしたために。スマホを元の場所へ戻し、深く息を吸うった。表情を整え、平静を装ったまま、延浩のもとへ歩いていった。「何を見ているの?」深雪は彼の隣に立ち、穏やかな声で聞いた。まるで、先ほどの出来事など、何一つなかったかのように。延浩
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第634話

ふと、目の前にいるこの人が、少しだけ以前よりも遠い存在になったような気がした。昼食のあと、延浩は午後に温泉へ行こうと提案した。深雪は断らなかった。頭を冷やし、考えを整理する時間が、どうしても必要だった。温泉は白い湯気に包まれ、やわらかな熱気が空気に満ちている。深雪は縁にもたれ、目を閉じ、湯の温もりを静かに味わった。隣に腰を下ろした延浩が、そっと彼女の手を握った。「どうした?なんだか元気がないように見えるけど」その声には、変わらぬ優しさと気遣いがあった。深雪は目を開け、延浩を見た。複雑な眼差しで、唇をわずかに動かした。問いかけたいことは山ほどある。でも、どう切り出せばいいのかわからなかった。結局、彼女は沈黙を選んだ。今の穏やかな時間を壊したくなかったし、何より、自分の異変を彼に悟られたくなかった。まだ、確かめる時間が必要だった。「何でもないわ。ちょっと疲れてるだけ」深雪は淡く微笑み、落ち着いた声で言った。「温泉に浸かれば、よくなると思う」延浩は疑う様子もなく、やさしくうなずいた。「それなら、ゆっくり休もう」語りかける声は、相変わらず穏やかで思いやりに満ちている。深雪は再び目を閉じた。一度芽生えた疑念は静かに根を張り、やがて大きく育っていく。光を遮り、進むべき道を見失わせるほどに。自分と延浩の間に、目に見えない亀裂が生じ始めていることを深雪は感じていた。「下瀬産業が最近、城東で進めている新規プロジェクト、かなり規模が大きいみたいね」何気ない口調を装いながら、深雪は彼の顔から目を離さず、わずかな表情の変化も見逃すまいとした。延浩は急須を手にしたまま、一瞬だけ動きを止め、視線を上げる。そして、優しい笑みを浮かべた。「そうなの?僕はあまり詳しくないな。下瀬産業のことは、ほとんど関わっていないから」口調は自然で、表情も穏やか。まるで本当に、何も知らないかのようだった。「そう?」深雪は語尾をわずかに上げ、ほとんど気づかれない程度の探りを入れた。「てっきり、下瀬産業の下瀬社長と親しいのかと思って。この前のパーティーで、ずいぶん話が弾んでいたでしょう?」延浩はお茶を注ぎ、深雪に差し出してから、ゆっくりと口を開いた。「ビジネスの場では、誰と
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第635話

夜になり、二人は部屋へ戻った。深雪がシャワーを終えて出てくると、延浩は床まで届く大きな窓の前に立ち、電話をしていた。彼女は声をかけず、そっと近づいた。延浩は彼女の気配に気づいていないようで、そのまま低い声で話し続けている。数歩の距離まで近づいたところで、深雪は足を止めた。断片的に聞こえてくる会話はどうやら下瀬産業に関する内容のようだった。深雪の胸が、ずしりと沈んだ。延浩は通話を切り、振り返った。背後に立つ深雪を見た瞬間、彼の顔に驚きが走った。「......いつから、そこに?」その声はわずかなぎこちなさを帯びていた。深雪は答えず、ただ黙って彼を見つめた。その複雑な視線に、延浩は落ち着きを失い、彼女のそばへ歩み寄った。「僕は......」「説明はいらないわ」深雪は静かに、しかしきっぱりと遮った。「さっき、あなたのスマホのメッセージを見たの」延浩の顔色が、一瞬で青ざめた。あのメッセージを見られていた。深雪は噛みしめるように問いかけた。「下瀬社長は、どうしてあなたを『若旦那』と呼ぶの?」空気が凍りついたように、部屋が静まり返った。延浩の笑みはそのまま固まり、優しかった瞳に、かすかな動揺が走った。沈黙は、認めと同じだった。深雪は彼を見つめ、失望と痛みをにじませた。「答えて。どうして、下瀬社長はあなたを若旦那と呼ぶの?」声は震え、知らず知らずのうちに強くなっていた。「説明するから......」延浩が言いかける。「聞きたくない!」深雪の声は鋭く、切り裂くようだった。「欲しいのは言い訳じゃない。私は......真実が知りたいの!」彼女は、欺かれることに耐えられなかった。それが、最も信じていた相手からであれば、なおさらだ。延浩は深雪を見つめ、苦悩と葛藤に満ちた表情を浮かべt。もう、隠し通せないと悟ったのだ。「......申し訳ない」彼はうつむき、低い声で言った。「僕は......下瀬産業の後継者なんだ」その言葉は、雷のように深雪を打った。彼女の身体が大きく揺れ、数歩よろめいて壁にもたれかかった。それでも、ようやく立っている状態だった。「......何、言ってるの......?」信じられないというように、震える声で尋
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第636話

延浩は追いかけて外へ飛び出したが、深雪の車が夜の闇の中へ消えていくのを、ただ呆然と見送ることしかできなかった。部屋へ戻った延浩は、力なくソファに腰を落とした。心は乱れ、何一つ考えがまとまらない。彼はスマホを取り出し、何度も何度も深雪に電話をかけたが、呼び出し音が虚しく響くだけで、応答はなかった。メッセージも数え切れないほど送った。だが、返事は一通も返ってこない。今回は、本当に怒らせてしまった。深雪はそう簡単に自分を許すはずがないと延浩ははっきりとわかっていた。脳裏に浮かんだのは、下瀬社長の顔だった。すべてのきっかけは、あの一通のメッセージ。あれがなければ、深雪に正体が知られることはなかった。延浩は強く歯を食いしばり、下瀬社長に電話をかけた。「......よくもやってくれたな!」突然の怒声に、下瀬社長は息をのんだ。何が起きたのかわからず、慌てて問い返した。「......どうかされたんですか?」「どうしたもこうしたもあるか!」延浩は怒鳴りつけた。「君が送ったあのメッセージ、深雪が見たんだ!」その言葉を聞いた瞬間、下瀬社長は血の気が引いた。「そ、そんな......若旦那、私は......わざとでは......深雪さんが目にするなんて、思いもしなくて......」「今さら言い訳しても無駄だぞ!」延浩は荒々しく遮った。「あの一通のせいで、深雪は僕と別れたんだ!」「別れた?」下瀬社長は思わず声を上げた。「そんなに深刻なことに?」「見ればわかるだろう!」延浩は低く唸るように言った。「今すぐ動け。何が何でも、深雪を探し出せ!」「はい! 若旦那、すぐに探します」下瀬社長は慌てて応じた。電話を切っても、延浩の胸のざわめきは収まらない。彼は立ち上がり、部屋を飛び出し、車を走らせた。目的地もなく、ただ街を彷徨っていた。深雪の会社にも、彼女の自宅にも、そして、二人で訪れたことのある場所すべて。それでも、彼女の姿は見つからなかった。胸の奥が、どんどん重く沈んでいった。もう、どこを探せばいいのかもわからない。そのとき、ふと一つの名前が頭をよぎった。寧々。延浩は最後の望みを胸に、車を墓地へと走らせた。墓地は夜の静寂に包まれていた
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第637話

夜も更けた頃になって、深雪はようやくホテルへ戻った。しかし、その夜、彼女は一睡もできなかった。ベッドの上で膝を抱え、虚ろな目で窓の外を見つめていた。頭の中では、延浩と過ごした日々の断片が、何度も何度も再生されていた。どうして、彼は私を騙したの?その答えは、いくら考えても見つからなかった。翌朝。深雪は、赤く腫れた目をしたまま、会社へ向かった。オフィスに足を踏み入れた彼女から、かつての輝きは失われていた。顔色は悪く、全身から疲労が滲み出ている。大介は松原商事を離れて以降、深雪に強い敬意を抱き、彼女の誘いを受けてこのまま残っていた。莫大な報酬を受け取ったこともあり、今では完全に彼女に敬服している。その大介が深雪の様子を見て、思わず息をのんだ。「......どうされたんですか?」声には、隠しきれない心配が滲んでいた。深雪は答えず、ただ淡々と言った。「大丈夫よ」そう言ってデスクに向かい、無言で書類に目を通し始めた。オフィス全体に、重苦しい空気が広がっていた。一方、延浩は深雪を直接訪ねることをためらいながらも、どうしても会いたいという思いを抑えられず、南商事の休憩室で一夜を明かしていた。深雪が出社したと聞いた瞬間、延浩は立ち上がり、休憩室を飛び出した。彼は深雪のオフィスの前に立ち、深く息を吸ってから、ドアをノックした。「どうぞ」中から聞こえた声は、冷たく、距離を感じさせるものだった。延浩は扉を開けた。深雪はデスクに座り、書類から目を離さなかった。人を寄せつけない、冷え切った空気。「深雪......」延浩は彼女の前に立ち、静かに呼びかけた。声には不安と後悔が滲んでいる。深雪は顔を上げ、延浩を見た。その視線には、情も温度もなかった。「何かご用でしょうか?」言葉遣いは丁寧だが、完全に他人行儀だった。その一言が、延浩の胸を鋭く突き刺した。「......まだ怒っているのはわかっている。でも、どうか話を」「話すことは、もうありません」深雪は静かに、しかしはっきりと遮った。「あなたは身分を隠し、私の気持ちを欺きました。それが事実でしょう?」「僕は......」延浩は言葉を探したが、続けられなかった。深雪の目にあるのは、深い失望と痛
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第638話

延浩の声には、抑えきれない焦りが滲んでいた。「愛している......君がいないと、僕は生きていけない!」「愛?」深雪は冷ややかに笑った。その声には、痛烈な嘲りが込められている。「愛なんて、重すぎます」「深雪......」延浩はなおも言葉を重ねようとしたが、深雪はすでに立ち上がり、ドアへ向かっていた。「大介?」振り返ることもなく、冷たく告げた。大介は延浩の前に立ち、静かに手を差し出した。「こちらへどうぞ」延浩は、決然と背を向ける深雪の後ろ姿を見つめ、胸を締めつけられるような痛みと絶望に包まれた。「......深雪......」彼女の名をかすかに呟きながら、重い足取りでオフィスを後にした。窓辺に立つ深雪は、去っていく延浩の背中を見送り、再び涙をこぼした。唇を強く噛みしめ、嗚咽を必死に押し殺した。それでも、胸の奥に広がる痛みだけは、どうしても抑えきれなかった。延浩を見送った大介が戻ってくると、深雪が窓際で静かに涙を流しているのが目に入った。「......大丈夫ですか?」慎重に、心配そうに声をかけた。深雪は振り返らず、淡々と答えた。「大丈夫だわ」涙を拭い、彼女はゆっくりと向き直った。「今、各部門の責任者に連絡して。十分後、緊急会議を開くと伝えて」「承知しました」大介は一礼し、オフィスを出ていった。深雪はデスクに戻り、腰を下ろした。感情を押し殺し、無理やり冷静さを取り戻しながら、仕事に意識を集中させた。十分後、南商事の緊急会議が招集された。深雪は会議室に座り、表情は厳しく、眼差しは鋭い。「本日、皆さんをお集めしたのは、重要な決定を伝えるためです」冷えた声が、室内に響いた。「本日をもって、南商事は下瀬産業とのすべての提携を、全面的に解消します」「えっ?」「どういうことですか?」「下瀬産業は、当社最大のパートナーではありませんか!」会議室は一瞬でざわめいた。各部門の責任者たちが、戸惑いと疑念を隠せず声を上げた。深雪は彼らを見渡し、静かに言った。「理由は単純です。下瀬産業の責任者は、私を欺いたのです」「欺いた?」「何か誤解があるのでは?」「下瀬産業の社長は、これまで当社にとても協力的でしたが......」なおも食
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第639話

「違う!」延浩は必死に否定した。「深雪、確かに身分を隠していたことは認める。でも、君への想いは本物だ!最初から最後まで、僕が愛したのは君だ。深雪という人間そのものであって、君の立場や背景とは一切関係ない!」深雪は彼を見つめた。その瞳に、感情の揺れは一切ない。まるで、稚拙な役者が滑稽な芝居を演じているのを眺めているかのようだった。「演技力が随分と上がったようですね」淡々とした声が、容赦なく突き刺さった。「深雪......」延浩がなおも口を開こうとした瞬間、深雪は引き出しから一通の書類を取り出し、署名済みのまま大介に差し出した。「今後、会社の話しはすべてメールでのやり取りにしなさい。オフィスに来る必要はない」大介は書類を受け取り、深く一礼した。「承知しました」「そんな!」延浩の声は、もはや悲鳴に近かった。「深雪、こんな終わり方はないだろう!たったこれだけのことで......僕たちは、本当に終わりなのか?」深雪はその問いに答えなかった。ただ、大介に向かって静かに告げた。「疲れたわ。少し休みたい。今日からしばらく在宅勤務に切り替える。日常業務は任せたわ」そう言い残し、彼女は踵を返し、オフィス奥の休憩室へ向かった。大介は一瞬、延浩に視線を向け、そして控えめに手を差し出した。「どうぞお引き取りください」延浩は、決然と歩き去る深雪の背中を見つめ、胸をえぐられるような痛みに襲われた。今回は、本当に彼女の心を壊してしまった。彼は力を失ったように立ち尽くし、深雪が休憩室に入るのを見届けた。バタン、と重く閉じられる扉。その音が、二人の間に引かれた決定的な境界線のように響いた。延浩は扉の前にしばらく立ち尽くしていたが、やがて、すべての力が抜けたように、その場を離れた。深雪は休憩室に入ると、ドアを閉め、背を預けたままゆっくりと床に座り込んだ。膝を抱え、顔を埋めた。声を殺したまま、涙だけを静かに流した。かつて信じていた幸福は、今や泡のように弾け、無残に砕け散っていた。延浩はついにその場を去った。南商事を出ると、彼は立ち止まり、空へと突き刺さるようにそびえる高層ビルを見上げた。胸の中は空虚だった。大介は深雪が消えた方向と、失魂落魄の延浩を交互に見やる。
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第640話

「......それも、深雪さんのことを思ってのことだったのでは......」雅弘は必死に慰めようとした。「彼女のため、だって?」延浩は自嘲気味に笑った。「僕が彼女のためだと思ってやったことが、結果的に彼女をずたずたに傷つけた」「若旦那、そんなふうに言わないでください」雅弘はなおも言葉を重ねた。「深雪さんは、今はただ怒っているだけです。少し時間を置いて、きちんと説明すれば、きっとわかってくれます」延浩は、静かに首を横に振った。「......彼女は、僕を許さない」「そんな......若旦那、悲観しすぎです」雅弘は食い下がった。「深雪さんは、若旦那のことを深く愛しています。そう簡単に、離れられるはずがありません」さらに何か言おうとした雅弘を、延浩が制した。「もういい」疲れ切った声だった。「今は......休みたい」「若旦那......」雅弘は言いかけて、やがて小さく息をついた。「......わかりました。ゆっくりお休みください。何かあれば、いつでもお呼びください」雅弘が去ったあと、延浩は一人、オフィスに残された。深い自責と痛みの中で、ただ座り込んだまま、身動きが取れなかった。一方、深雪は自宅へ戻ると、部屋に閉じこもった。食事も取らず、眠りもせず、外界との接触を断った。感情に向き合う代わりに、彼女は仕事に没頭した。仕事で自分を麻痺させ、心の痛みから目を逸らそうとしていた。南商事の案件。松原商事に関する諸問題。そして、数え切れないほどの提携プロジェクト。忙しくなればなるほど、考えずに済む。そう信じて、彼女は自分を追い込んでいった。「......もう丸一日、何も召し上がっていません。このままでは、体を壊してしまいます」ドアの外から、大介の心配そうな声が響いた。深雪は応じなかった。視線はモニターに固定されたまま、指先だけがキーボードの上を走り続けた。「開けてください。中に入らせてください」大介は声を低くして続けた。「煮込み料理を持ってきました。少しでも......」返事はない。「深雪様......」大介の声は、次第に切迫していく。「これ以上、開けていただけないなら......ドアを破ります!お願いです、開けてく
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