All Chapters of 3年間塩対応してきた夫は、離婚の話をされたら逆に泣きついてきた: Chapter 61 - Chapter 70

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第61話

じゃあ、昨夜八雲が言っていた家庭料理屋の話、本当に嫌味じゃなかったの?「優月、お母さんの言うことを一つ聞いてちょうだい。八雲くん、本当にあんたに優しくしてくれてるじゃない?感謝の食事会の件にしても、うちの対応にも確かに至らないところがあったわ。八雲くんが帰ってきたら、ちゃんと謝って、仲直りしなさい、ね?」昨夜の険悪な別れの場面が脳裏をよぎった。ベランダに置かれた開運竹を見つめながら、喉の奥で言葉が詰まった。お母さん、今回ばかりは本当見誤ったのよ。この結婚を守りたくないのは、私じゃない。夜の6時、私は時間通りに協和病院に到着し、麻酔科インターンとして初めての夜勤に入った。担当の指導医、あの豊鬼先生と一緒に。夜通し働いたが、日中と特に変わらない気がした。ただ、深夜12時を過ぎると、体が自然と睡眠モードに入り、さすがに眠気には抗えなかった。そんな中、気配りのある看護師長がコーヒーを差し入れてくれた。「お医者さんの仕事って、こうやって昼夜逆転するのよ。慣れるまでは大変だけど、少しずつね」確かに医者の家族として、八雲の残業にはある程度理解していたつもりだった。でも、実際に自分がやってみると、夜勤は想像以上に過酷だった。それでも看護師長は明るい人柄で、診療科の面白い出来事なんかも話してくれて、眠気はいつの間にかどこかへ消えていった。そのときだった。産科の若い看護師が血相を変えて駆け込んできた。「オペ室にいる妊婦さん、胎盤剥離ですぐに麻酔して手術しないといけません!でも家族が署名拒否してて、『男の麻酔医は絶対ダメ!』って豊岡先生が止められてるんです。水辺先生、早く来てください!」看護師長と一瞬視線を交わし、私はすぐに産科の手術室へ走った。到着すると、やはり豊鬼先生が家族に遮られていた。「病院ってのは金儲けが目的でしょ!私なんか、五人も産んだが、麻酔薬なんて一度も使ったことないわ!」かすかにそんな怒号が聞こえてきた。私はそれを無視して、豊鬼先生の視線と軽い合図を受け、手術室に入った。妊婦の状態を確認した私は、事態が想像以上に深刻であることを悟った。胎児の心拍がどんどん下がっている。このままでは、母子ともに命の危険がある。即時の手術が不可欠だ。一瞬思案し、麻酔説明同意書を持って手術室を出た。背後では、妊婦の陣痛の叫び声が
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第62話

そのとき私は、赤い綿入りの上着を着たおばさんに髪を引っ張られ、服も乱れて、まるでボロ雑巾のような姿になっていた。よりによって、こんなみっともない姿を八雲と葵に見られてしまった。情けなくて、恥ずかしくて、どうしようもない気持ちだった。だけど、手術室で必死に苦しんでいる妊婦のことを思えば、そして今も看護師長と口論している家族の姿を見れば、どこから湧いた力なのか、私は八雲の腕を振り払って前に少し踏み出し、叫んだ。「いい加減にしなさい!」その一言で、騒がしかった空気が一瞬にして凍りついた。聞こえるのは、手術室からかすかに漏れる妊婦の呻き声だけだった。私はさらに一歩踏み出し、妊婦の夫の前に立って、毅然とした声で言った。「麻酔なしで産むなんて、そんなのは20年前の話です。今は緊急事態です。『碧海国アクシデント対応マニュアル』第23条に基づき、緊急時には医療措置を即時に実施できます。それに......よく考えてください。もしあなたの奥さんとお子さんが、あなたのためらいで命を落とすことになったら、後悔してもしきれませんよ!」「彼女に騙されちゃだめだよ!」さっき私の髪を引っ張ったあのおばさんが、またしても口を挟んできた。彼女は自信満々に、懐からお守りを取り出しながら叫んだ。「これは観音様の安産祈願のお守りよ!うちの嫁と孫は、絶対に無事に決......」「水辺先生、大変です!」若い看護師の悲鳴がおばさんの言葉をかき消した。「胎児の心拍、もう60まで下がってます!」その瞬間、私の心臓は止まりそうになった。もう迷っていられない。麻酔説明同意書を看護師長に託すと、髪を一つにまとめて手術室に駆け込んだ。心拍モニターに映るギザギザの波形。その音が、まるで砂時計の砂が逆流するかのように、命の危機を知らせていた。私は何も考える暇もなく、注射器を手に取り、第1管のロピバカインを脊椎に注入した。その直後、若い看護師の声が響いた。「水辺先生、ご家族がサインしました!」それから1時間後、手術室に赤ちゃんの産声が響き渡った。私は大きく息を吐き、ようやく、ようやく肩の力が抜けた。その瞬間、背中がびっしょりと汗で濡れているのに気づいた。でも、あの騒動を思い返すと、まだ胸がざわついていた。もし、あのとき私が即断できなかったら。もし、家族がもう少し躊躇っていたら。この手
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第63話

まさか葵が、八雲の車で送ってもらうよう私に提案するために来ていたなんて。それを知った瞬間、私は目の前の少女をじっと見つめた。彼女の澄んだ瞳の奥に、何か隠された感情がないかを探るように。でも、なかった。短い視線の交差のあと、彼女は気まずそうに両手を擦り合わせながら言った。「水辺先輩、ほんとに他意はないの......変に思わないでくださいね......」その声には、少しの不安と、少しの遠慮、そしてそれ以上の真心が込められていた。その瞬間、私の中の疑念は自然と消えていった。そのとき、突然チャラチャラした着信音が鳴り響き、思考が途切れた。葵は首をかしげ、私の前でスマホを取り出して画面を一瞥した。「八雲先輩からだ。先輩、よかったらもうちょっと考えてみてくださいね。必要だったら、電話して」そう言うと、彼女は軽やかに足音を立てながら小走りで去っていった。去り際に、電話のジェスチャーまでして。私は、そのはねるような足取りを見送りながら、胸の奥に小さな棘が刺さるような気持ちになった。送ってもらうなんて、絶対無理。ましてや、八雲の車なんて。午前5時半、私は定時で夜勤を終え、始発の地下鉄に乗って帰宅した。その頃の東市は、まだぼんやりとした灰色に包まれており、人気のない通りには、街灯以外に何も見当たらなかった。冷たい風が吹き抜け、肌を刺すような寒さが身体に染みた。なぜか、あのとき葵が言った「女の子が一人で帰るのは危ないから」という言葉が頭に浮かび、私は自然と歩調を早めた。そして、予想外のことが起きた。帰宅すると、キッチンから食器がぶつかる音が聞こえてきたのだ。八雲が、私より先に帰ってきていた。短い視線のやり取りだけで、彼は黙々と食器をいじり続けた。私も何も言わずに、そのまま寝室へ向かった。もう、疲れ切っていた。言い争う気力すら残っておらず、そのままベッドに倒れ込んだ。どれくらい眠ったのか、けたたましいスマホの音で目を覚ましたとき、すでに夕方になっていた。画面には、看護師長の名前が表示されていた。今週夜勤だったことを知っている看護師長が、この時間に電話をしてくるというのは、きっと何かがあったに違いない。嫌な予感が胸をよぎった。電話を取ると、看護師長は声を潜めて言った。「優月ちゃん、大変なことになったよ......」ま
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第64話

この一連のやりとりを聞いて、私は完全に呆然としてしまった。手術を受けたのは産婦で、麻酔をかけたのも彼女と胎児の命を救うため。それなのに、最終的に私が賠償しなければならないなんて――そんな話、聞いたこともない。「おばさん、落ち着いてください。ちゃんとお話を――」「水辺優月っていうのよね?あんた、明け方にうちの嫁と孫を呪ってたのよ。厚生労働省に行ったら、あんたが言ったこと全部話すから!」そう吐き捨てると、おばさんは悪態をつきながら出て行った。豊鬼先生はすぐに追いかけたが、数分もしないうちに険しい顔で戻ってきた。私の顔を見ると、彼はため息混じりに言った。「水辺ちゃん、言いたくないけどな......こんなことが起きたら、黙って謝っとけばいいんだよ。ほら、案の定、産婦の家族を怒らせて、厚生労働省にまで訴えられたらさ、処分で済めばまだいいけど、最悪、お前のインターン生活はここで終わりだぞ」私は信じられない思いで彼を見つめた。目が合った瞬間、彼は続けた。「俺の言うことを聞いて、今日は何か買って産婦を見舞って行ってくれ。おばさんたちにもちゃんと謝れ。頭下げて、低姿勢でな」「じゃあ私は、母子の命を救ったのに、それでも間違いだったって認めなきゃいけないんですか?」鼻の奥がつんとして、もう少しで涙が落ちそうになった。「豊岡先生......先生は、私に非がないって分かってるじゃないですか?」「頑固な奴だな」彼は明らかに苛立っていた。「処理の仕方は教えた。あとはお前がどうするかだ」その部屋を出た私は、自分のデスクに戻った。理不尽な状況を思い出すたびに、涙が止まらなくなった。私は麻酔医だ。手術室に入ったら、私たちの責任は「安全」と「快適さ」。あの夜中の手術でも、私はただ自分の職務を果たしただけなのに。どうしてこんな目に遭うの?泣きたくなんかなかった。誰にも見られたくなかった。でも涙は止まらず、胸の痛みも次第に鋭くなっていった。ちょうどそのとき、看護師長がやってきて私を慰めてくれた。「心配しなくていいのよ。仮に調停になっても、ちゃんと監視カメラがあるし、証拠もある。私たちに非はないもの」証拠という言葉を聞いて、私は一気に目が覚めた。「そうだ!あのおばさんが私の髪を引っ張ったとき、周りのみんなが見てた!看護師長、私、黙ってなんかいられません!」看
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第65話

八雲が車のドアを乱暴に閉めた音は、遠く離れていてもはっきりと聞こえた。気のせいかもしれないけれど、彼が去っていく背中には、怒気が溢れていたように見えた。今日こんな目に遭って、私はすでに心身ともに限界で、他のことを考える余裕なんてなかった。帰ろうとした矢先、浩賢に呼び止められた。彼の目を見て初めて気づいた。その瞳の奥には、ほんのわずかな「申し訳なさ」が宿っていた。「水辺先生が巻き込まれたこと......高橋看護師長から聞いたよ」浩賢は私を見て、照れたように頭をかきながら言った。「本当は八雲と個人的に話して、どうにか手助けできないかと思ったんだけど......うまくいかなかったみたいだね」肩をすくめる彼の姿に、そして八雲が私に投げた冷たい視線を思い出し、私はようやく全てを察した。きっと彼は、私のために八雲に頼んでくれたんだ。でも結果は見た通り。「そんな暇そうに見えるか」と、たったそれだけで追い返された。申し訳なさで胸がいっぱいになった私は、彼にこれ以上迷惑をかけたくなかった。それで、少し距離を置いた声で言った。「藤原先生のお気持ちはありがたいが、この件は私自身でなんとかするので、どうかご心配なく」言い終えると、彼の穏やかな顔がほんの一瞬だけこわばった。そして、低く沈んだ声で呟いた。「......俺が悪かった。水辺先生の私事に口を出すなんて、出過ぎた真似をした」彼の伏せたまぶたを見つめていると、胸の奥が重い石で押しつぶされるように痛んだ。一つ一つの鼓動が、罪悪感でずっしりと重かった。ごめんなさい。心の中で、そっとそう呟いた。1時間後、自宅に到着した。意外にも八雲は、また家にいた。ただし今回はキッチンではなく、ソファにもたれかかり、目を閉じて疲れ切った表情を浮かべていた。私は自然と足音を殺し、そっと寝室に向かおうとした。だが次の瞬間、背後から八雲の低くて魅力的な声が響いた。「勝手に判断することはできても、問題が起きたら自分じゃ何も解決できないのか?」その皮肉めいた口調に、私は足を止め、できるだけ穏やかに言い返した。「紀戸先生、ご安心を。あんたに迷惑をかけるつもりはないよ」「俺に迷惑かけるつもりがなかったら、朝っぱらから浩賢を呼びつけたりしないだろう?」彼の声が急に鋭くなり、冷たさが滲んでいた。「水辺優月、まった
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第66話

私は口を開きかけたが、それより先に加藤さんが鼻水と涙を交えて泣き叫んだ。「あんたって子は、どうしてこんなにも思い詰めちゃって......もし何かあったら、私たちはどうやって生きていけばいいのよ!」ぼんやりとした目を擦りながら、これは夢か現実か分からずにいると、彼女がまた呟いた。「もうすぐ協和病院に着くっていうのに、八雲くんの電話はまだ繋がらないし......ああ、うちの優月がこんな目に遭ってるのに、夫だっていうのに何の音沙汰もないなんて......」私はガバッと身を起こし、周囲を見渡した。現実だ。夢じゃない。その直後、救急車が停まり、扉が開いて医療スタッフが駆け寄ってきた。見慣れた制服に、私はここが自分の職場であることを確認した。慌てて手を振りながら説明した。「大丈夫です、私は......」加藤さんは真っ赤に腫れた目をこすりながら、悲痛な声で言った。「どれだけ睡眠薬を飲んだか分からないのよ......いくら呼んでも起きないから、もうどうしていいか分からなくて......先生、胃洗浄とか必要なんですか?」私は昨夜飲んだメラトニンを思い出し、すぐに言い訳を始めた。「誤解です、ただその......」「水辺先生はどこ!?いや、水辺優月という患者さんはどこだ!?」怒鳴り声が会話を遮った。重たいまぶたを開けると、息を切らしながら慌てふためいた浩賢の姿が見えた。加藤さんも彼の存在に気づき、車の扉に近づいて手を振った。その瞬間、浩賢は全力疾走のような勢いで車に駆け寄り、私を見て上下からじっと観察した。「水辺先生、大丈夫?どこか具合が悪いのか?」私は加藤さんにちらりと目をやりながら、メラトニンのことを正直に打ち明けた。5分後。私たち三人は病院のロビーに立っていた。加藤さんは涙でぐちゃぐちゃになった化粧を見て、少ししょんぼりしながら言った。「あのとき、どんなに呼んでも起きなかったのよ......心配しない方が無理でしょ?」浩賢は片手を口元に当て、笑いをこらえながら言った。「おばさんの気持ちも分かりますよ。心配するあまり、冷静ではいられなかったんですね」まったく、私がもし少しでも有名な医師だったら、この騒動は絶対に同僚たちの噂のネタになっていたに違いない。私は時間を確認し、加藤さんに気を遣って言った。「そろそろ出勤の時間だ。
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第67話

葵の問いかけは、まさに核心を突いていた。協和病院の同僚からすれば、私と浩賢の関係のほうが、八雲との関係よりもはるかに親密に映っている。だから浩賢に連絡がいったのは納得できるが、八雲に連絡したとなると、話は別だ。気のせいかもしれないが、このときの葵の声色には、ほんのりとした嫉妬が混じっていたように思えた。私たちの「隠された婚姻関係」を除けば、どう考えても葵のほうが八雲と親しいのは事実だ。だから、母がわざわざ八雲に連絡を取ったのは、第三者の目から見れば、どうにも不自然だった。加藤さんもそのことに気づいたのか、少し口ごもりながら言った。「いやね、あのとき優月をどんなに呼んでも起きなくて......おばさんはてっきり娘が何か思い詰めたんじゃないかって......他に知ってる医療関係の人もいなかったから、浩賢くんと、あと前に診察してくれたやく......紀戸先生に頼るしかなくて。とっさの判断だったのよ、もしご迷惑をかけたならごめんなさいね」その言葉を聞いた葵は、ようやくほっとしたように息を吐き、柔らかく微笑んで言った。「おばさん、よければ後で連絡先を交換しましょう。これから何かお困りのときは、私にも頼ってくださいね」加藤さんは少し驚いたように目を見開いた。こんなに親切な反応は予想外だったのだろう。「まあ、この子は見た目も可愛いけど、心根も優しいのね。優月があんたみたいな同僚を持てたなんて、本当に幸運だわ」葵ははにかんだ笑顔を浮かべて言った。「水辺先輩が無事で本当に良かったです。それに、あのクレームの件も病院でちゃんと対処されてますし、私たちで一緒に乗り越えましょう!」「......クレーム?」加藤さんは眉をひそめて警戒心を露わにし、声のトーンも変わった。葵はハッと口を押さえ、小鹿のような瞳に慌てた色が広がった。私の方を見て、助けを求めるような目をした。彼女も、自分が余計なことを言ったと気づいたのだろう。私は動揺を隠しながら平然とした声で言った。「ちょっとした誤解よ。心配しないでいい」加藤さんは私を疑わしそうに見たが、それ以上は何も言わなかった。そのとき、これまで黙っていた八雲が口を開いた。「次からはちゃんと状況を確認してから救急要請してください。医療資源を無駄にしないように」まるで正義の味方をして、冷たく言い放った。
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第68話

浩賢の照れくさい様子を見て、私はあっさりと言った。「いいよ、そのうちに作ってあげる」その言葉を言い終わるか終わらないかのうちに、彼の目が嬉しさで輝いたのが見えた。まったく、ほんとに食いしん坊なんだから。彼の言葉に励まされたおかげで、胸に重くのしかかっていた石のようなものも、少しだけ軽くなった気がした。そうして静かな夜を過ごした。翌日の午後、私は豊岡先生と看護師長たちと一緒に、調停室へと向かった。よく考えてみると、インターン期間中にここへ来るのは、これが二度目だというのも、なんだか滑稽だった。調停室には産婦の義母と夫、それに数名の見慣れない顔ぶれがすでに座っていた。服装からして、どうやら産婦側の親戚らしい。看護師長が小声で私にささやいた。「どうやらあのおばさん、本気でこちらを悪者に仕立てる気よ。親戚まで呼びつけて、これはなかなかの強敵ね」私は産婦の義母の堂々たる態度を見て、落ち着いていたはずの心がまたざわつき始めた。案の定、調停が始まるやいなや、産婦の義母は以前に豊鬼先生のオフィスで演じた「悲劇の被害者」を再演し始めた。「私たち一般人がどれだけ大変か、分かる?やっとの思いで子どもを産んだってのに、お医者さんに恥をかかされるなんて......こんなの、あんまりだわ!」涙を浮かべて、まるで被害者かのように語る姿に、親戚たちも次々と声を上げて同調した。まさに「芝居」だった。彼女の訴えが終わったあと、調停委員が手術室内の監視映像を再生し、当時の緊迫した状況を説明した。さらに、二人の産科看護師が証言した内容も添えられ、あの義母が私の髪を引っ張る場面が映像に残っていたことも示された。その上で、私の判断が正当だったことが丁寧に解説された。ほんの一瞬の沈黙の後、あの義母は突然、椅子から立ち上がり、私を指差して怒鳴りつけた。「これは隠蔽だ!私は今すぐメディアに連絡して、厚生労働省にも訴えるわ!」その言葉に親戚たちも一斉に立ち上がり、誰かはテーブルを叩き、誰かは怒鳴り声をあげた。あっという間に、調停室はまるで市場のような騒がしさに包まれた。怒号、反論、調停委員の声が入り乱れ、まるでカモを追い回すような混乱で、私は頭が割れそうになった。そう、まさに混沌。しかしそのとき、調停室の扉が勢いよく開き、厳しい声が響いた。「全員、静かに!」
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第69話

産婦の答えは、確かな「はい」だった。なんと、今朝の4時か5時頃、八雲と葵が産婦の病室を訪れていたらしい。「お二人が、先生のことを話してくれました」伏し目がちに産婦は言った。「本当は、義母が最初に騒ぎ立てた時から全部知っていました。でも......私が弱かったんです。家庭の平和を守りたくて、見て見ぬふりをしてしまった......でも紀戸先生が、目を覚ませって叱ってくれて......水辺先生、本当に、ごめんなさい」産婦が去った後、看護師長が私の肩を叩いて、嬉しそうに言った。「だから言ったでしょ、うちの病院はちゃんと結束があるって。藤原くんはこっそり監視映像を手配してくれたし、あの紀戸先生も産婦のところまで行ってくれたし......優月ちゃん、よく頑張ったわね」私は驚いて看護師長を見つめた。「監視映像って、病院が調べたんじゃないですか?」「病院も調べたが、ちゃんと審査を通さないといけないし、手順もあるからね。あれは藤原くんが裏で色々手を回したのよ」と、看護師長は声を潜めて言った。「かなり頑張ってたわ」昨日の午後、浩賢と話していた場面が脳裏をよぎった。なるほど、だからあんなに早く情報を知っていたのか。「ともあれ、今回の件はこれで一件落着ね。優月ちゃん、本当に危なかったけど、無事で何よりよ」看護師長は慈愛に満ちた表情で続けた。「でもね、あの二人、特に紀戸先生。普段は仕事しか見えてないタイプなのに、時間を割いてまで口を開いてくれたんだから、感謝の気持ちはちゃんと伝えなさい。せっかくだから、ご飯でもおごって」確かに、名義上の夫という関係はさておき、同僚として助けてもらった以上、礼は欠かせない。「でも今日中に行っても、もう遅いんですかね?」看護師長は呆れたように私を睨んだ。「早ければ早いほど、誠意が伝わるの。相手が応じてくれたら、それはそれで人脈の一つになるし、仮に応じてくれなくても、私たちはやることやったって胸張っていられるでしょ?わかる?」言われてみれば、確かにその通りだ。八雲が助けてくれたのは事実だし、感謝を表すのは当然だ。私は素直にうなずいて言った。「じゃあ、後で神経外科に行きます」すると、看護師長はクスッと笑って、私の額を軽く弾いた。「いい子ね」30分後、私は一人で神経外科へと向かった。思いがけず、廊下の角で葵に
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第70話

そうそう、これこそが協和病院の首席執刀医、八雲だ。夫婦だなんていう関係は、彼にとっては塵ほどの意味もないのだろう。がっくりと肩を落として麻酔科へ戻ると、看護師長は特に驚いた様子もなく言った。「紀戸先生が簡単に誘いに乗るような人なら、もう紀戸先生じゃないでしょ。まぁいいじゃない、今日はもう遅いし。それより優月ちゃんは料理上手なんでしょ?明日、私たちに何か家庭料理でも振る舞ってくれたら嬉しいわよ」横にいた桜井さんも同意するように頷いた。「そうですね、最近のお店って冷凍食品ばっかりで、体に良くないですし」とはいえ、職場に手作り料理を持ってくるなんて、ちょっと気が引ける。でも看護師長があっけらかんと言い切った。「何気にしてるのよ、どうせ皆身内みたいなもんでしょ?」その調子に乗せられて、私もあまり深く考えず答えた。「じゃあ、明日の晩ご飯、任せてください」ただ、一つだけ看護師長の言ったことで、ちょっと違うなと思ったことがある。私、本当はもともと料理が得意じゃなかった。ただ八雲のために、少しずつ腕を磨いてきただけなのだ。五品一汁、そしてもちろん、浩賢がリクエストしたスペアリブの甘酢煮も忘れずに。いつも八雲にお弁当を届けていたから、弁当箱も家に一通り揃っていた。出来上がった料理を持って職場に着いたのは、ちょうど退勤のタイミングだった。皆が一つのテーブルを囲み、丁寧に盛り付けられた料理を見て、目を輝かせた。看護師長はみんなを動きを止めた。「ちょっと待って、藤原くんがまだ来てないよ。皆、お箸を下ろして、涎は飲み込んで!」看護師長の冗談に、私は思わず笑ってしまった。5分後、科室のドアが開いた。てっきり浩賢が一人で来たのかと思ったら、なんと隣には葵もいた。彼女は礼儀正しく挨拶した。「藤原先生が水辺先輩が手料理を作ってくれたって言ってたので、ちょっと図々しいかと思いましたが、お邪魔しちゃいました。よろしくお願いします」「なんだ、神経外科の松島先生じゃないの。遠慮しないで、もう顔なじみでしょ」看護師長がすぐに場を和ませてくれた。そうして葵は遠慮なくテーブルへとやってきて、料理を見た瞬間、目を見開いた。「うわっ、見た目も香りも最高......まずはインスタ映えだわ!」そう言って、スマホを取り出してパシャパシャと撮り始めた。彼女は年も
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