All Chapters of 碓氷先生、奥様はもう戻らないと: Chapter 101 - Chapter 110

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第101話

それを聞いて、妊婦はようやく安心した。綾は病室の入口に立ち、ベッドに横たわっている妊婦を見ていた。彼女の瞳の奥に沈んでいた深い闇が、少しずつ薄れていくようだった。そして彼女は自分の病室に戻っていた。輝は、彼女が服を取り、洗面所に向かうのを見て、何が何だか分からなかった。「どうしたんだ?」綾は立ち止まり、振り返って輝を見て、優しく微笑んだ。「着替えて、退院します」輝は一瞬呆然とし、切の長い綺麗な目が大きく見開かれた。「え、つまり君は......」綾は唇を曲げ、穏やかながらも毅然とした声で言った。「手術はしないことにしました」「し、しないのか?」輝は驚いたが、同時に彼女のために喜んでいた。「本当にしないのか?」「ええ」綾は言った。「お腹の子供たちの存在を知ってから、ずっと諦めようとしていまして、今日を含めて、3回も手術を予定していましたがすべて行えずじまいでした。それに、北城のような都会で、急に地震が起きるのは本当に珍しいってみんなが言っていますし、もしかしたら、子供たちが母親である私から離れたくなくって、神様も味方してあげているのかもしれません」この世には、科学では説明できないことがたくさんあるものだ。輝は運命とかを信じるタイプではなかった。だが今、彼は、この二人の子供が綾の心の支えとなり、孤独に蝕まれかけていた彼女の心を癒してくれていることだけは確信できるのだ。二人の子供のおかげで、これから彼女の人生もきっともっと生き生きとしていくだろう。これこそが、もしかしたら命の存在する意味なのかもしれない。「私はこの子たちを産みます。彼らは私だけの子供で、誠也とは関係ありません」綾はお腹を撫でながら言った。「でも、誠也に子供たちの存在を知られたら、奪われてしまうかもしれません。ですから、もう少しご協力いただけませんか?」「任せろ!」輝は彼女を見て、眉を上げた。「私は子供たちの名付け親だぞ!この私が守ってやる。あのクズみたいな父親には、絶対に奪わせるもんか!」それを聞いて、綾は安心して浴室に入った。彼女が着替えて出てきた時には、星羅は仕事が終わって戻ってきていた。輝も、綾が子供を産むと決めたことを、すでに星羅に伝えていた。星羅は当然喜んだ。彼女は綾の手を取り、「名付け親なら、私もなりたいな。私も
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第102話

「何を説明するのよ!」星羅は綾の前に出てきて誠也を睨みつけた。「もう離婚するんだから、綾があなたの子を産むはずないでしょう。いい加減にして!」輝も誠也を冷ややかに見て言った。「碓氷さん、今更こんな真似をするのは恥をかくだけなんじゃないか」誠也は2人を無視して、鋭く沈んだ視線を綾に注ぎ続けた。星羅は怒りで顔が真っ赤になり、輝に誠也を引き離してもらおうとした時、後ろから慌ただしい足音が聞こえてきた――丈が数人の医療スタッフを引き連れて駆けつけてきた。彼は、誠也の腕を掴んだが、無理やり引き離すことはできなかった。その状況に普段は温厚な丈だが、今は怒りで顔が青ざめていた。「肋骨が折れてるのに、何してるんだ!ここで死んでもいいのか!」誠也は眉をひそめて丈を突き放そうとしたが、体を動かすと胸の痛みがひどくなり、さらに顔が青白くなった。それでも、彼は一歩も引かなかった。「放してくれ......」「放すべきは綾さんの手だ!」丈は綾の手を握っている誠也の手を剥がそうとしたが、どうしても引き離すことができず、焦って叫んでしまった。「手を離せ!肋骨が折れてるんだぞ!これ以上動いたら、折れた骨が胸膜を突き破って命に関わるかもしれないんだ!」しかし、そう言われても誠也は譲らなかった。彼は綾を見つめ、頑なに彼女の答えを待っていた。「綾、答えてくれ。妊娠してるのか?」綾は眉をひそめ、答えようとしなかった。丈は、今は綾が妊娠しているかどうかを気にする場合ではないと分かっていたが、誠也の様子を見る限り、綾の答えを聞かないと諦めないだろうと思った。彼はため息をつき、綾の方を見た。「彼は重傷なんです。本当のことを......話してくれませんか」綾は冷淡な表情で言った。「彼の生死は、私には関係ありません」その態度に丈は言葉を詰まらせた。「綾、安心しろ。死にゃしないさ」誠也は彼女を見ながら冷笑した。「どうなろうと、お前のお腹の子は、俺の子だ!」綾は眉をひそめ、心の中では緊張が走ったが、表情は平静を装っていた。誠也が自分の妊娠を疑ったのは、これが初めてではなかった。明らかに、今回は前回よりも彼は確信しているようだった。誠也という男は、一度何かを思い込むとなかなか考えを変えない性格なのだ。だから前回のようにきっぱりと否定した
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第103話

星羅はさりげなく後ずさりながら、端の方に寄ってスマホを取り出した。そして、ラインでこっそりメッセージを編集し始めた......「お前がそう言ったからって、俺が信じるとでも思ってるのか?」誠也は綾を睨みつけ、呼吸がさらに荒く速くなった。「綾、お前はそんなことを絶対にしないはずだ。できないはずだ......ゴホッ!ゴホッ!」誠也は言葉を言い終わらないうちに、突然激しく咳き込み始め、次の瞬間、口から血が噴き出してきた――「碓氷さん!」丈は驚きの声を上げ、愕然として倒れ込む誠也の大きな体を支えた。「ストレッチャーは?早く、救命室へ――」騒然とした中、誠也は救命室へ運ばれていった。誠也が救命措置を受けているこの時間は、綾にとって大きなチャンスとなった。その間星羅はすでに斉藤主任にラインで連絡し、綾の診察記録の変更を依頼していたのだ。するとちょうど、星羅は斉藤主任から電話が掛かってきた。「診察記録がないんですか?」星羅は電話で話されたことに驚いた。「システムの不具合ですか?」「確認したところ、システムメンテナンス中に何らかのエラーが発生したようで、ここ数日修復作業を行っているとのことです」斉藤主任は言った。「それは、偶然ですね」星羅は少し間を置いてから、こう言った。「でも、それならそれでよかったです。これでわざわざ病歴を改ざんする必要もなくなりました」電話を切り、星羅は状況を綾に伝えた。それを聞いた綾は、深刻な表情で言った。「記録が全くないのも駄目だ。それじゃあ、誠也はきっと信じないはず」「じゃあ、どうすればいいの?」星羅は目を瞬きながら言った。「中絶手術の病歴でも偽装したらいいわけ?」「いいや、そうじゃないよ」綾は口角を上げながら「別の手術にした方が、もっと説得力があるってこと」と言った。「なんの手術にすればいい?」綾は輝を一瞥し、星羅に手招きした。「こっちに来て。教えてあげる」星羅が近寄ると、綾は彼女の耳元で何かを囁いた。それを聞いた星羅は目を見開き、しばらくして、綾に親指を立てた。「綾、すごい!」輝は目を細め、目の前でこそこそ話をする二人を見て、警戒されているようで不愉快な気分になった。「おい、二人ともひどいじゃないか。私に聞かれないように話すなんて、私の気持ちをじっとも考えてないじゃ
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第104話

丈は、誠也が少しばかり大げさだと感じた。というのも、今の綾は誠也のことを心底憎んでいる。もし本当に妊娠していたとしても、今の二人の状態では、彼の子供を産むとは思えないからだ。それでも誠也は、とことん調べようと頑固だった。丈は、また誠也が取り乱すことを恐れて、仕方なく調べに行った。院長室。丈は、誠也の意図を清沢に伝えた。清沢は話を聞き終えると、軽く眉を上げた。「碓氷さんは、あの二宮さんに随分入れ込んでいるのか?」丈は、まぶたをビクっとさせながら答えた。「それは碓氷さん本人に聞いてください。彼は口が堅い男なので、長年の付き合いではありますが、私にも本音を話したことがないんです」「確かに。正直、私は妹の結婚相手として、彼があまり好きじゃないんだけど、遥が好きだっていうから、兄として黙認するしかないんだよ」丈は言葉を失った。なんて奇遇だ、あなたのその義理の弟も、実はあなたのことをあまり気に入っていないようだ。だが、清沢はそれ以上何も言わず、すぐに技術部に内線電話をかけた。「後で佐藤先生が行くから、資料の調査を手伝ってやってくれ」そして電話を切ると、彼は丈に向かって「これでまた一つ、私に借りを作ったなと碓氷さんに伝えてくれ」と言い残した。丈は、口元をひきつかせながら「はい」と答えた。ことを終え、院長室を出た丈は大きくため息をついた。これぞ、笑顔の裏に隠された本性というものだ。一方執務室では、清沢は引き出しを開け、中から一枚のカルテを取り出した。その患者名欄には、【二宮綾】と書かれていた。清沢はタバコに火をつけ、数回吸ってから携帯を取り、遥に電話をかけた。数回コールの後、電話が繋がり、遥の優しい声が聞こえてきた。「お兄さん」「遥、碓氷さんが交通事故に遭った」「交通事故!」電話口の遥の声は、ひどく焦っていた。「どうして?彼は、今はどうなの?」清沢は、彼女を落ち着かせるように言った。「慌てるな。すぐに病院に運ばれてきたから、命に別状はないさ」「お兄さん、彼が入院している病室を教えて。今すぐに行くから」「いいよ」電話を切ると、清沢は誠也の病室の番号を遥に送った。送信した後、彼は携帯を置き、金縁眼鏡を押し上げた。そのレンズの奥の瞳は、冷たく鋭かった。「碓氷さん、遥を裏切らないでくださ
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第105話

「わかった」遥は、心の中の不満を押し殺し、唇を尖らせて頷いた。バッグを持ち、何度も後ろを振り返りながら病室を出て行った。病室のドアが閉まると、誠也は目を開けた。窓の外を眺め、暗い表情をしていた。-帰りの途中で遥は丈に会った。「丈さん」遥は彼を呼び止めた。丈は近づいてきて、彼女に挨拶し、「碓氷さんに会ってきたのか?」と尋ねた。「ええ」遥は頷いたが、どこか気分が落ち込んでいるかのように見えた。丈は眉をひそめ、「どうしたんだ?」と聞いた。「誠也はなんだか不機嫌なの」遥は丈を見つめながら、心配そうに言った。「何かあったのかしら?」確かに何かあった。しかし、丈はこのことを......遥に言えるはずもなかった。彼は唇を噛み、「怪我をして体が辛いんだから、機嫌も悪くなるさ。考えすぎないで、数日休めば良くなるよ」と言った。それを聞いて、遥は頷いた。「じゃあ、ここ数日は、あなたに面倒をかけるけど、よろしくね。本当は私がここに残って看病したかったんだけど、誠也が悠人のことを心配してて、家で悠人と過ごすように言われたの。でも、どうしても彼が心配で。わかるでしょ?誠也は仕事人間なんだから。さっき病室に行ったときも、電話しっきりぱなしだった。きっと仕事の話だろうけど、本当に困っちゃう」丈は、彼女の話を聞いても、大して心に響くものを感じなかった。綾こそが、誠也と5年間隠れて結婚していた合法的な妻だと知った今、丈は遥を見ると、どうしても違和感を覚えた。だから彼は淡々とした声で、「ああ、もっと休むように言っておくよ。安心しな」と答えた。遥は微笑んで、「じゃあ、私は帰るわ。何かあったら、いつでも電話してね」と言った。「ああ」丈は軽く微笑み、「気をつけて帰るんだぞ」と言った。「うん、じゃあね」遥と別れた後、丈は直接誠也のところへ向かった。しかし、彼が振り返った後、遥は引き返し、こっそりと彼の後に付いてきたことを、彼は気づかなかった。丈は病室のドアを押して中に入った。ドアの外で、遥は足を止めた。「調べたが、診療記録に問題はなさそうだ。だが、絶対とは言い切れない」丈はベッドの脇まで来て言った。それを聞いて誠也は険しい表情をして、黙り込んだ。丈はため息をつき、椅子を引いてベッドのそばに座った。「さ
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第106話

すると誠也は黙り込んだ。丈は彼の煮え切らない態度に苛立ち、立ち上がってこう言った。「もう好きにしろ。本当に二股をかけるつもりなら、絶交だ!私はまだ結婚もしていないのに、あなたみたいな二股をする友達がいたら、私と結婚してくれる相手もいなくなるだろう?!」ドアの外で、そこまで聞いた遥は眉をひそめ、踵を返し立ち去っていた。-綾がアトリエに戻ってまず最初にしたことは、断捨離だった。オフィスの休憩室には、まだ悠人の物がたくさん残っていた。彼女は丁寧に片付け、梱包し、宅配で南渓館に送った。輝は彼女のその潔さに感心し、惜しみなく褒めた。「いいぞ。厄介な子供とは縁を切るんだ。これから私たちにも自分たちの子供が出来る。しかも二人だ!」綾は彼を一瞥した。「実はとっくに片付けたかったのですが、最近色々あって、ずっと先延ばしにしていました」「大丈夫だ。今まとめて捨てるのがちょうどいいタイミングだ!」そう言われ、綾も吹っ切れたの様にスマホを取り出し「ちょっと、先生に電話します」と言った。「わかった。じゃあ、私は外で犬とでも遊んでくるよ」そう言って、輝は気を使ってオフィスを出て行った。残された綾は史也に電話をかけた。彼女は自分の状況と決断を史也にすべて話した。史也は話を聞き終えると、少し沈黙した後、大きくため息をつき、こう言った。「君が決めたことならそれでいい。私も文子も応援する」綾は少し驚いた。実は彼女、電話をかける前に、先生に叱られる覚悟をしていたのだ。「先生、怒らないんですか?」「君は私の生徒だが、それ以前に君は自分自身でもあるのだ」史也は言った。「私は仕事を教える立場として、仕事の力は伸ばしてあげられる。だが、人生という道はあまりにも長い。今は私と文子が君と一緒に立ち向かうことができても、この先は?人生には無数の分かれ道がある。自分で進んでみなければ、正しい選択をしたのか、間違った選択をしたのかは分からない。綾、これは君の人生だ。どんな決断を下すのも君自身の自由だ。そして、その結果に対して責任を負うのも君だ。私の言いたいこと、分かるか?」綾は鼻の奥がツンと痛み、声を詰まらせて答えた。「先生、分かりました」「分かったなら、次は仕事の話だ......」綾は史也と30分も話した。彼女がオフィス
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第107話

綾は悠人の声を聞き、足を止めた。振り返ると、悠人がこちらに向かって走ってくるのが見えた。彼女が反応する間もなく、悠人は両腕を広げて飛びかかってきた――悠人はすごい勢いで走ってきたので綾は片手で腹部を守りながら、もう片方の手を伸ばして彼を止めようとしたが、輝が彼女よりも早く動いた。輝は綾を脇に引っ張り、大きな手で悠人の頭を止めた。悠人は無理やり止められ、顔を上げて憤慨した様子で輝を睨みつけた。「放して!母さんのとこに行くんだから!」「どこに行っても君がいるな!」輝は悠人を見て眉をひそめ、嫌そうに言った。「君は、態度変わるの早すぎだろう?昨日約束したことを忘れたのか?少しおバカなんじゃないのか?早く遥母さんのところ戻って、何か食べさせてもらえよ!」「この悪者!放して!僕はあなたに会いに来たんじゃない!」悠人も負けじと、腕を振り回して輝を叩こうとしたが、あんまりにも小さすぎるので、輝に触れることすらできなかった。ましてや、叩くことなんてもっと無理だったのだ。綾は少し離れた場所で立ち上がった遥に視線を向けてから、悠人の方を見た。「悠人、遥母さんのところに戻って」悠人はハッとして綾を見ると、さっきまで威勢が良かった表情にすかさず悲みが浮かんだ。「母さん、まだ怒ってるの?」「怒ってない。でも、言ったことは覚えといてほしいの」綾は悠人を見て、穏やかだが真剣な声で言った。「もう母さんと呼ぶのはやめなさいって言ったでしょ」「だって......」悠人は唇を尖らせ、目に涙が浮かんだ。「あなたは母さんじゃないか!僕が生まれた時からずっとあなたが面倒を見てくれたんだ。あなたに育てられたんだ。話すのも、食べるのも、絵を描くのも、あなたが教えてくれたんだ。あなたは、ずっと僕を愛してくれるって言ったじゃないか!だからあなたは、僕の母さんなんだよ!」綾は眉をひそめた。悠人の言葉を聞いて、心が痛まないわけにはいかなかった。悠人は全て分かっていたんだな。彼も自分は綾に育ててもらったのだと分かっていたのだ。それなら、なぜあんなに冷たい言葉を自分に投げかけられたのだろうかと、綾は思わず心が凍りつく思いだった。「あなたはまだ小さいから分からないこともあるの。もっと大きくなれば分かるよ」綾は優しい声で言ったが、態度は毅然としていた。「いい子だか
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第108話

こういう高級レストランは評判をとても気にするものだ。悠人がこんな風に泣き叫ぶと、他の客の食事の邪魔になる。支配人は慌てて近づいて説得した。「申し訳ございませんが、当店では他のお客様もお食事をされております。他のお客様へのご迷惑となりますので、お子様を落ち着かせていただけますでしょうか?」「それは誤解だよ!」輝は少し離れたところにいる遥を指さした。「あちらがこの子の本当の母親だ」支配人は遥の方を向いた。「桜、桜井さん?」支配人は首を横に振り、全く信じられないといった様子だった。支配人は輝を見て、営業スマイルを浮かべて言った。「冗談でしょう?確かにお子様は桜井さんと一緒に来られましたが、ずっと桜井さんのことを『遥おばさん』と呼んでいましたよ。むしろお連れの方を、お子様は『母さん』と呼んでいます。どちらが本当の母親か、一目瞭然でしょう!」輝は疑問に思った。この子、外では遥を「遥おばさん」と呼んでるのか?ふん、面白いな。輝は綾を見て、片眉を上げた。「産んだくせに認めようとしないのか?サブアカウントで暴露したら、彼女はスキャンダルに追われるだろうな」綾は遥を見つめた。遥は相変わらず動かず、明らかに悠人を自分の子供だと認めるつもりはなかった。それを綾は特に驚かなかった。遥はこの数年、芸能界で「国民的初恋」「清純派女優」のイメージを築き上げてきた。その彼女が5年も前に未婚の母親になっていたなんて、ファンに知られたら大変なことになる。ただでさえ、前回の熱愛報道から、遥の男性ファンはひどく落胆し、SNSのフォロワーは1000万人近く減るなどと、ファンの離脱が激しかったのだ。それ以来、遥はSNSやメディアの前では恋愛についての話題に触れなくなったのだ。またフォロワーが減るのを恐れているんだろう。遥は自分の仕事をとても大切に考えているのが分かる。女性が好きな仕事を持つこと自体は、何の問題もないと思う。だが、なにかを得るためには何かを失うのも当然のことだ。遥は仕事も息子も欲しいくせに、リスクは一切負いたくないという。そんな都合のいい話があるわけがない。そう思うと、綾はますます滑稽に感じた。誠也が遥を愛し、彼女のために尽くすのは彼の勝手だ。だが、自分までどうして遥の身勝手さに付き合わされなければならないん
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第109話

「お父さんが言ってた!お父さんと綾母さんはまだ離婚してない!綾母さんは今でもお父さんの妻!僕の母さんなんだ!」悠人は綾に抱きつき、輝を睨みつけ、負けじと反論した。「僕は綾母さんに育てられたんだ!彼女は僕をすごく愛してる!あなたはただの通りすがりの人だ!もうすぐそんなに偉そうにしていられないぞ!」輝は唖然とした。子は親の背中を見て育つとは、まさにこのことだ。駄々をこねて嫌われるところが、まるで瓜二つだな。輝は苛立ち、頭を掻きながら綾を見た。「どうする?」「連れて行きます」綾はそう言って、悠人の手を引いた。だが、綾が振り返った瞬間、遥はサングラスをかけ、バッグを手に取り、出口へと歩き出していた。足早に、まるで誰かに追いつかれるのを恐れているかのようだった。綾は立ち止まり、彼女の背中を見送り、眉をひそめた。「ほら見ろ!」輝は怒り、遥の背中を指差して悠人に言った。「これが、君のことをすごくかわいがっていると言っていた遥母さんだ!結局、人前で君が息子だってことさえ認められないんだ!」悠人は、立ち去る遥の背中をじっと見つめていた。入り口の外で、遥を迎える車が到着した。ドアが開くと、遥はすぐに車に乗り込んだ。そして、車は一目散に夜の闇へと消えていった。その間、遥は一瞬たりとも振り返らなかった。涙で濡れた悠人の顔には、戸惑いが浮かんでいた。片手で綾のコートの裾を握りしめていた。「こんな母さん、いらないだろ」輝は悠人の頭を撫で、追い打ちをかけるように言った。悠人はようやく我に返り、「わーん」と再び泣き出した。瞬時に、不満と嫌悪の視線が注がれた。遥は去り、悠人は置き去りにされた。悠人は綾を母親だと主張し、店長は綾に解決してもらうしかなかった。綾は仕方なく、悠人を連れて行くことにした。食事の時、悠人は目の前の子供用ステーキを見つめ、隣の綾を見た。「母さん、ステーキ切れない。切ってくれる?」綾は言った。「あなたは5歳、もう大きいんだから、ステーキを切るくらい自分でできるようにならないと」悠人は唇を尖らせ、うつむいて、小声でつぶやいた。「でも、遥母さんはいつも......」言葉を途中で止め、自分を置いて行った遥の姿を思い出し、鼻の奥がツンとして、涙がこぼれ落ちた。だけど、今回は大声
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第110話

「悠人、あなたのお父さんと私はもう離婚したのよ」「違う!」悠人は眉をひそめ、真剣な顔で言った。「お父さんが言ってた。離婚届を出してないなら、まだ夫婦だって。僕たちはまだ家族だって!」綾は眉をひそめた。誠也の子育てに、彼女はイライラしていた。屁理屈ばかり言って、まるでチンピラみたいだ。今、悠人の真剣で無邪気な顔を見て、綾は何を言っても無駄だと思った。輝が車で来たので、綾は後部座席のドアを開けて「乗って」と言った。悠人は喜んで車に乗り込んだ。綾は安全のため、悠人と一緒に後部座席に座った。ドアが閉まり、レンジローバーは走り出した。輝はバックミラー越しに綾を見て「この子、どうするんだ?」と尋ねた。綾が何か言おうとした時、携帯が振動した。誠也からだ。悠人のことだろうと彼女は思った。電話に出ると、すぐにスピーカーフォンにして、悠人に携帯を渡した。「お父さんよ」それを聞いて、悠人はすぐに嬉しそうに「お父さん!」と呼んだ。「悠人、今どこにいるんだ?」「母さんと車に乗ってる」悠人は前の輝をちらっと見て、「お父さん、今夜は母さんと一緒に寝るから、迎えに来なくていいよ!」それを聞いて、綾は眉をひそめながらすぐに言った。「誠也、あなたと桜井さんの間のことには干渉したくないけど、桜井さんに伝えて。悠人の身元がバレるのが怖いなら、あまり外に連れ出さないように。もし連れ出すなら、最後まで責任を取って!」「遥から電話があった。今夜のことはわざとじゃないんだ。パパラッチに写真を撮られて、仕方なく悠人を置いて行ってしまったそうだ」誠也の声は低かった。「清彦はもうお前のアトリエの下に来ている」それを聞いて、綾は何も言わずに電話を切った。彼女は悠人を見て、「お父さんの言ったこと、聞こえた?」と尋ねた。悠人は頷いた。少し残念だけど、父の言うことは何でも聞かなきゃだから。今夜は母と一緒に寝られると思ったのに。悠人は少し落ち込んで、綾を見上げて「母さん、次はいつ母さんのとこに泊まりにこれるの?」「私はこれからずっと忙しいの」綾は彼を見て言った。「悠人、あなたはもう5歳。私の言うことが理解できるはずよ。これからは、あなたとお父さんと桜井さんの3人が家族なの。私は、ただの他人よ」悠人は眉をひそめた。「どうして他人
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