碓氷先生、奥様はもう戻らないと のすべてのチャプター: チャプター 81 - チャプター 90

誠也は、何も言わずに綾の前に立ち塞がった。綾は立ち止まり、ゆっくりと顔を上げた。綾は、虚ろな目で誠也を見つめていたが、彼女の目には、何の感情も見えなかった。綾の様子を見た誠也は、胸に鋭い痛みを感じた。「捜索隊を手配する......」パンッ！乾いた音が、誠也の言葉を遮った。誠也は頬を叩かれ、顔を横に向けた。しばらく呆然としていたが、それから眉をひそめ、綾を見た。綾は、誠也を叩いた手を、だらんと下げていた。何度か握り締めようとしたが、手が震えてうまく力が入らない。綾は、持てる力のすべてを込めて、誠也を叩いた。そのせいで、今はもう、力が入らなかった。しかし、綾は誠也の前で弱みを見せたくなかった。彼女は、冷ややかに誠也を睨みつけ、「消えて」と吐き捨てた。誠也の顔色が曇った。丈が慌てて間に入り、誠也を制止した。「落ち着いてください、碓氷さん。彼女は今、まともな精神状態ではありません。これ以上、刺激するのはやめてください」誠也は薄い唇をきゅっと結び、漆黒の瞳には何とも言えない暗い色が宿っていた。いつもはすべてをコントロールできる彼が、初めて無力感を感じていた。綾に平手打ちをされて、誠也は怒りを感じると同時に、憎しみに満ちた彼女の瞳を見て、どうしていいのか分からなくなっていた。綾は誠也に背を向け、自分の車へと歩き出した。冷たい風が吹く中、彼女の後ろ姿は、小さく、か弱く見えた。誠也は喉仏を動かし、胸が締め付けられるのを感じながら、綾の腕を掴んだ――綾は足を止めたが、振り返らなかった。「離して」綾の声は嗄れていて、生気がなかった。誠也は綾の腕を掴んだまま、うつむいている彼女をじっと見つめていた。彼の黒い瞳には様々な感情が渦巻いていたが、口を開くことはなかった。丈は、二人の様子を見て焦っていた。「謝りたいなら、早く謝ってくださいよ！」星羅は綾を支えながら、振り返って誠也を睨みつけた。「綾をこれ以上苦しめるつもり？離してよ！」誠也は綾をじっと見つめ、口を開きかけたが、しばらくしてようやく「申し訳ない」と呟いた。誠也の声は低く、真剣だったが、今の綾には届かなかった。丈も星羅も、何も言えなかった。綾はそれでも振り返らなかった。もう、誠也の顔を見たくなかった。「誠也、もう一度言うわ。

綾は夢を見ていた。夢の中では、母親と二人で、大晦日の夕食を囲んでいた。母親は、彼女の料理を褒めてくれた。綾は微笑んだ。しかし、目尻から涙がこぼれ落ちた。「母さん......」広いベッドの上で、綾は眉をひそめ、涙で枕を濡らしていた。彼女は何かを呟きながら、胸元の服を握りしめ、苦しそうにもがいていた。夢の中で、母親は言った。「母さんはもう疲れたわ。これからは、一人で生きていくよ......」綾は泣きながら母親を引き留めようとしたが、母親は霧のかかった川面に消えていき、二度と戻ってこなかった。「母さん！」綾は、ハッと目を覚ました。見慣れた天井を見て、彼女は少しの間、ぼんやりとしていた。「母さん！」ベッドの足元で遊んでいた悠人は、綾が起きるのを見ると、おもちゃを放り出して駆け寄ってきた。「母さん、怖い夢でも見たの？」綾は悠人を見て、混乱していた頭が徐々に整理されてきた。ここは、南渓館だ。でも、どうして自分はここに？綾は体を起こし、こめかみを揉んだ。川辺に行ったこと、柵を乗り越えたことまでは覚えている......でも、その後のことは、思い出せなかった。「母さん？どうして泣いてるの？」悠人は顔を上げて、綾の濡れた頬を触りながら言った。「寝てる時も、ずっと涙を流してた。それに、『母さん』って、何度も呼んでたよ」綾は悠人の顔を見つめた。子供の純粋な心配は、嘘偽りないものだった。しかし、眉をひそめる悠人の表情は、どことなく遥に似ていた。遥のことを思い出すと、綾は強い拒否感を覚えた。綾は悠人の手を優しく外し、布団を捲ってベッドから降りた。立ち上がると、まだ少しめまいがした。体もだるく、力が入らない。しかし、この場所にはもう一秒もいたくなかった。綾はふらつく足で寝室を出て、階段を下りていった。「母さん！」悠人が追いかけてきて、綾の手を掴んだ。「母さん、また行っちゃうの？」綾は悠人を見下ろし、手を離しながら冷淡な声で言った。「悠人、もう『母さん』とは呼ばないで」悠人は驚いて固まった。綾は悠人の方を見ずに、階段を下りていった。1階に着くと、ちょうどキッチンから出てきた誠也に鉢合わせた。誠也は手にお粥の入った茶碗を持っていた。綾の姿を見ると、彼は少し動

新年の午前1時過ぎ、悠人は救急処置室に運ばれた。診察した医師は、深刻な顔で言った。「傷が深いです。骨に達しているかもしれません」綾は救急処置室の前で、険しい顔で電話をかける誠也を見ていた。彼の目に、動揺と焦りが浮かんでいるのが、綾にはよく分かった。こんなことになるなんて、綾は思ってもみなかった。確かに誠也に憎しみは感じていたが、悠人を傷つけたいと思ったことは一度もなかった。5年間、悠人の面倒を見てきて、風邪を引いたり熱を出したりすることはあったが、大きな怪我をしたことはほとんどなかった。悠人が生まれてから、これほどの大怪我をしたのは初めてだったので、綾は心を痛めていた。5年間、大切に育て、「母さん」と呼んで慕ってくれていた子供が、自分のせいで大怪我をして、救急処置室に運ばれたのだ......遥と誠也が悪いとしても、悠人はまだ子供で、何の罪もない。綾は思わず自分のお腹に手を当てた。悠人には優しくできるのに、自分のお腹の子供には、冷たくしてしまう。彼らの存在を知った時から、ずっと、彼らを拒絶し続けている......悠人が罪のない存在なら、自分のお腹の子供たちは？彼らもまた、罪のない存在ではないか？綾は苦しみに目を閉じ、胸が締め付けられるのを感じた。母は逝ってしまった。そして、もうすぐ、この子たちも、自分から離れていってしまう。この世に、自分の家族は、もう誰もいない......綾がゆっくりと体を反転させようとした時、誰かに腕を掴まれた。「行くのか？」男の低い声は、怒りに満ちていた。綾は眉をひそめ、振り返ると、非難の眼差しを向ける誠也の顔があった。綾の顔色は悪く、目は生気を失っていた。誠也の顔色はさらに険しくなり、「悠人は、お前のせいで、あんなことになったんだぞ！まだ、処置中なんだ！」と言った。綾は、悠人が危険な状態であるうちは、帰るつもりはなかった。ただ、疲れていたので、座って待っていたかっただけだ。しかし、そんなことは、誠也に説明するつもりはなかった。無駄なことだから。綾は手を振りほどこうとしたが、誠也は、黒い瞳で綾をじっと見つめていた。綾は誠也を見ずに、近くの椅子に座った。腕を組み、うつむいていたので、彼女の視線がどこに向けられているのか誠也には分からな

「綾、あけましておめでとう。このメッセージを聞いている頃には、私はもうこの世にいないと思う......ええと、あなたに伝えたいことはたくさんあるのに、何から話せばいいのか分からないわ......まずは、ごめんね。こんな形であなたに別れを告げることになってしまって......私は弱くて、何もできなくて、逃げることしかできなかった。すべての後悔を、あなたに背負わせてしまって......私は、いい母親じゃないあわね。あなたが小さい頃、私はあなたを守ってあげられなかった。あなたが立派に成長した今も、私はあなたを支えるどころか、足手まといになってしまって......綾......私は本当にダメな母親ね。この世に生まれてきた中で、唯一の救いは、あなたという娘に巡り会えたこと......この前、あなたのダウンジャケットのポケットから、検査結果を見つけてしまったの。綾、あなたももうすぐ母親になるのね。エコー写真には、双子の赤ちゃんが写っていた。あなたが誰にも話していなかったということは、きっと、あなたなりの考えがあったんだろう。でも、私はどうしても気になってしまって、検査結果に書いてあった斉藤先生に会いに行ったの。先生は、あなたが中絶手術を受けようとしていること、そして、もし手術を受けたら、あなたはもう二度と子供を産めなくなるかもしれないって、教えてくれたわ......綾、子供のことについては、あなたが自分で決断して。もし、産むと決めたなら、私は二人の名前を考えたわ。「紬」と「優」。穏やかな人生を歩めるように、という願いを込めて。もし、手術を受けると決めたなら、私が神様に祈って、手術が無事に成功するように祈る。北城の明源山に、とても利益のあるお寺があるらしいから、手術の前に、お参りに行って......綾、あなたが準備してくれた家は、とても温かくて、素敵だったわ。こんな素敵な家を、事故物件にしたくない。梨野川は海に繋がっているそうね。私は今までずっと、家族や結婚に縛られて、自由なんてなかった。でも、今はもう自由なの。梨野川を下って、広い世界を見てみたい。綾、泣かないで。悲しまないで。そして、私を探さないで......綾、母さんは、もう行かなくちゃ。これから先は、自分のことを一番に考えて。お金を稼ぐことも大切だけど、自分のためにも、もっとお金を使って、素

「悠人！」誠也が近づいてきて、悠人に真剣な表情で言った。「その態度は良くない。謝れ」「だって、僕は何も間違ってないもん！」悠人は反論した。「遥母さんが怪我してるのに、母さんが遥母さんに八つ当たりするなんて、おかしいよ！」誠也の顔が険しくなった。「悠人、謝れ」悠人は唇を尖らせた。彼は誠也のことが怖かったので、これ以上何も言えなかった。でも、謝りたくない。遥は立ち上がり、足をひきずりながら悠人のそばに行き、彼の顔を撫でながら優しく言った。「悠人、失言よ。早く綾母さんに謝りなさい」悠人はうつむいたまま、何も言わなかった。綾は、冷ややかにその様子を見ていた。悠人が遥をかばった時から、綾の心は冷え切っていた。怒る気力も失せていた。綾の頭の中には、明源山のお寺の住職が教えてくれた、母のための吉日のことしかなかった。綾は視線を戻し、母親の遺影を元の位置に戻した。振り返って、綾は静かに誠也に言った。「故人の前で、騒ぎ立てるのはやめて。もう、帰ってくれていいわ」「葬儀の手配は、すべて済んでいるのか？」誠也は尋ねた。「何か困っていることがあれば、いつでも言ってくれ」「あるよ」綾は誠也を見て、ドアを指差しながら言った。「その女と子供を連れて、出て行って」誠也の顔色が曇った。しかし、彼は何も言わず、ただ綾をじっと見つめていた。しばらくして、彼は悠人の手を引いて言った。「悠人、帰るぞ」それを聞いて、遥は慌てて悠人のもう片方の手を握り、綾に「二宮さん、私たちはこれで失礼します。お悔やみ申し上げます」と静かに言った。そう言うと、遥は綾に軽く頭を下げた。綾は吐き気がするほど嫌だったが、何も言わずに背を向けた。誠也に手を引かれて帰る悠人は、何度も後ろを振り返った。しかし、綾は背を向けたままだった。悠人は、母親が前と変わってしまったように感じた。母は、もう自分のことを心配してくれていない。どうして、前はいつも自分を一番に考えてくれていた母が、今は、自分のことを見てくれなくなったんだろう？三人が出ていくと、綾はズキズキと痛むこめかみを押さえた。星羅が近づいてきて、心配そうに言った。「綾、大丈夫？辛かったら、少し休んだ方がいいわよ」綾は首を横に振り、時計を見て言った。「そろそろ時間ね。スタッフに