All Chapters of 碓氷先生、奥様はもう戻らないと: Chapter 261 - Chapter 270

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第261話

「悠人!」悠人は車から降りた瞬間、遥に名前を呼ばれたのを聞いて、思わず小さく体をこわばらせ、この前遥に叱られた時のことが頭に浮かんだ。「お父さん」悠人は誠也の後ろに隠れ、両手で彼のスーツをぎゅっと掴んだ。「お父さん、抱っこ!」誠也は悠人を抱き上げた。遥は一瞬たじろいだ。明らかに自分を避けている息子を見て、彼女は傷ついた。「悠人、お母さんだよ?どうしたの?」悠人は誠也の首に抱きつき、顔を彼の肩にうずめ、遥を見ようともしなかった。そんな息子の様子に、遥の心の中で怒りがさらに増していった。「悠人......」遥は涙を流し、細い体は今にも倒れそうだった。誠也は静かに言った。「この前、お前が発病した時、悠人を怖がらせてしまったから、お前に抵抗を感じるようになったんだよ」遥は驚いた。この前......あの食事の時、悠人が綾を褒めたから、自分が感情を抑えきれずに悠人を叱った時のこと?たった一度のことなのに......悠人は自分を恨むようになってしまったの?遥は俯き、声を殺して泣いていたが、目には抑えきれない憎しみが浮かんでいた。誠也は悠人を抱えたまま家の中に入った。遥は涙を拭い、彼の後を追った。ちょうど使用人たちが夕食の準備をしていた。誠也はそのまま悠人を抱えてソファに座った。遥は、悠人が以前好きだったおもちゃを取り出した。「悠人、この前お母さんが怒ったのはわざとじゃないの。病気のせいで、自分をコントロールできなかっただけなの。許してくれる?」悠人は遥が持っているおもちゃをちらっと見て、ゆっくりと顔を上げて彼女を見た。遥はずっと彼を見ていて、彼が自分の方に目を向けてくると、彼女は優しく微笑んだ。彼女はさすが女優として成功しているだけあって、その顔で澱みのない美しい表情を作るのはお手の物だ。悠人は瞬きをした。「じゃあ、母さんの病気はもう治ったの?」「お母さんは最近、井上先生に言われた通りに治療を受けて、毎日きちんと薬を飲んでるから、もう治ったの。だから、悠人、もうお母さんを怖がらないでくれる?」悠人は誠也の方を見た。誠也は何も言わず、彼の頭を優しく撫でた。「わかった」悠人は遥の方を見た。「母さんがわざとじゃなかったなら、許してあげる!」それを聞いて、遥は嬉し涙を流しな
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第262話

「誠也、復帰することにしたの」遥はそう切り出した。煙草を吸っていた誠也の手は一瞬止まり、彼は彼女の方に目を向けて「決めたのか?」と聞いた。「ええ」遥は頷いた。「先週、記憶が戻ったの」誠也は眉を上げ、黒い瞳で彼女を見つめた。遥も彼を見つめていた。互いの目はその瞬間合った。しかし、その一方は冷たく、探るような視線だった。もう一方は隙だらけで、屈託のない態度を見せていた。「今までは記憶を失っていたから、今記憶も戻ったことだし結婚式を挙げてほしいっていうお願いはなかったことにしよう。あなたは航平の親友でしょ、お世話になっているだけでも十分感謝しなきゃなのに、さすがにあなたの幸せを犠牲にするわけにはいかないよね」遥は彼を見つめて、少し微笑みながら言った。誠也は眉間に少し皺を寄せた。航平。もう何年も口にしていない名前だ。「お前は悠人の母親なんだから、面倒を見るのは当然だ」誠也は少し間を置いてから言った。「でも、今復帰するのはあまりいいタイミングとは言えないな。お前の病気はまだ......」「兄が前に海外で見つけてくれた薬がすごく効いてるの。先週検査を受けたら、腫瘍は抑えられてるって。信用できないなら、丈さんに聞いてみて。彼は私の担当医だからきっとわかるはずよ」それを聞いて、誠也は何も言わなかった。「今は腫瘍は抑えられてるけど、手術をするにはまだ少し難しいみたい」遥は微笑んだ。「だから、まだ動けるうちに、スクリーンに私の物語、私の姿をたくさん残しておきたいの。たとえ将来、私が本当にいなくなってしまったとしても、悠人は映像で私の姿を見ることができるでしょ」彼女がこんな風に精いっぱい強気で微笑む姿はあんまりにも痛々しく見えた。誠也は少し黙ってから言った。「よく考えたことならお前の意思を尊重するよ。直哉さんからまた付きまとわれるようなことがあったら、いつでも俺に言え」「ええ、ありがとう、誠也」遥は鼻をすすり、涙ながらに笑った。「明後日には撮影に入るかもしれないから、悠人は、よろしくね」「ああ、安心しろ。ちゃんと面倒を見るから」「あなたに悠人を任せるのは、ずっと安心してたのよ」遥は頭を下げ、小声で言った。「この5年間、あなたと二宮さんは悠人の面倒をよくみてくれてた。最初から、私は戻ってくるべきじゃなか
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第263話

この日、文子、史也、そして輝は、揃って綾の付き添いで病院に来ていた。双子の胎児ドックは、単胎よりもずっと複雑だった。たっぷり30分かけて、胎児ドックの超音波検査がようやく終わった。「はい、これが報告書だよ。井上先生に見せて」「はい」綾は報告書を受け取ると、超音波検査室を出て行った。外で待っていた3人は、綾が出てくるのを見ると、すぐに駆け寄った。文子は尋ねた。「綾、先生は何て言ってた?」綾は首を横に振る。「何も。井上先生に見せるようにとだけ言われたの」「じゃあ、まず井上先生に診てもらおう」史也が言った。3人は綾に付き添って、井上主任の診察室へと向かった。井上主任は報告書を受け取り、目を通すと笑顔で言った。「報告書を見る限り、胎児の発育は全て正常だ」それを聞いて、綾の張り詰めていた神経は完全に解きほぐされた。「良かった!」文子も胸を撫で下ろしたように言った。「赤ちゃんに問題がなくて本当に良かった!」史也は井上主任に尋ねた。「これで、以前の強い放射能が胎児に影響を与えた可能性は排除できるということだろうか?」「胎児ドックは、主に胎児の基本的な構造、各臓器、脳や顔などを検査し、発育状態を評価するものだ。妊娠後期にもう一度簡易な胎児ドックを行う。予定では30週から32週頃だね。これは主に、妊娠後期に先天性心疾患、側脳室拡大、水頭症などが発生するのを防ぐために行うものだ」井上主任のこの言葉を聞いて、一同がほっとしたのも束の間、再び不安が募った。「つまり......」綾はお腹に手を当てた。「大掛かりな胎児ドックで問題がなくても、胎児の奇形を全部排除できるわけじゃないってことなの?」井上主任は頷いた。「そういうことだ」一同は、しばし黙り込んだ。その様子を見た井上主任は、再び口を開いた。「あまり心配しないで。今のところ、お子さんの発育はとても順調だ。普段通りに過ごして、あまり不安にならないように。特にあなたは、できるだけリラックスした気持ちでいることが大切だ。双子を妊娠している母親は負担が大きいから、自信を持って落ち着くことが大事だ」「はい、わかってる」綾は頷いた。「ありがとう、井上先生」......北城。晋也はスポーツカーを庭に停めると、ドアも閉めずに急いで家の中へと入って行った。家に入
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第264話

電話の向こうで、遥の声は少し緊張している様子だった。「何か分かったの?」「父の書斎で携帯を見つけた。番号は1つだけで、名前は【蘭】だった」「やっぱり......」遥の声は詰まった。「ごめん、晋也。実は母を説得したんだ。見栄に惑わされて、他人の家庭を壊すことはしないで欲しいと。でも、全く聞いてくれなかった。少し反論しようものなら、殴られることもあった......」「お前のせいじゃない」晋也は遥の泣き声を聞いて、胸が締め付けられた。「遥、電話したのは、もしお前のお母さんに何かしたら、お前は俺を責めるかって確かめたかったんだ」「あなたを責める資格なんて私にないはずよ」遥は泣きじゃくりながら言った。「悪いのは私の母なんだから、あなたが私の顔をたてて、逆に私を責めないだけでも、感謝しなきゃいけないくらいよ」「遥、もう泣かないで」晋也は言った。「お前とお母さんは違う人間だって分かってる。お前は桜井家で沢山辛い目をあってきたんだから、俺はお前のことが心配で堪らないのに、お母さんのことでお前を責めたりするわけないだろ。電話したのは、お前の気持ちを聞きたかっただけだ」「晋也、あなたが何をしても、私は理解できるから」「分かった。じゃあ、安心して撮影に戻って」「ええ」電話を切ると、晋也は探偵に連絡した。......3日後、国境付近にいる武は、写真と動画を受け取った。開いて見てみる。写真の中の女性は蘭だ。蘭が写真の中で男と親密そうにしているのが映っていたのだ。男の顔は写っていないが、服装と腕時計からして、どうやら身なりが良さそうな人物だ。次に動画を開く――男の顔にはぼかしが入っていたが、蘭の顔は隠されていなかった。武は動画の中の蘭を見て、目が赤く染まり、激しい怒りを覚えた。......北城、夜10時。五つ星ホテル、地下1階。エレベーターのドアが開き、蘭はハイヒールを履いてバッグを持ち、腰をくねらせながらエレベーターから出てきた。晋と別れたばかりの彼女のバッグには、1億円のカードと高価な宝石のネックレスが入っていた。蘭は上機嫌で、細いハイヒールを踏みながら鼻歌を口ずさみ、自分の車の場所へと向かった。しかし、彼女が車のドアノブに手をかけた瞬間、背後から黒い影が飛びかかってきた――蘭は驚いて叫
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第265話

でも、武は一体どうやって晋のことを知ったんだ?「誤解しないで。私と晋さんは......」蘭は唇を噛み締め、深呼吸をした。「仕方なく彼に頼っただけなの。武、あなたを裏切るつもりなんてないの。でも、今の私じゃあ桜井家で生き延びるのが本当に辛くって......」武は冷笑した。「焦ることはないよ、蘭。今回はお前に説明をしてもらおうと思って戻ってきたんだ。どこか場所を探して、じっくり話そう」蘭は武が怒っているのだとわかった。こんな時こそ、慌ててはいけない。蘭は車を郊外へと走らせた。そこには廃棄工場や倉庫が多く、監視カメラも少ない。そうすれば、少なくとも誰かに見つかるリスクは、いくらか減るはずだ。郊外に着くと、蘭は廃工場の外に車を停めた。車を止め、室内灯をつけると、蘭は武の目の前で服を脱ぎ、背を向けた――すると、目の前の光景に武の瞳孔が収縮した。蘭の背中一面に、大小さまざまな鞭の跡があった。新しい傷跡が古い傷跡に重なり、見るも無残な状態だった。「これは一体どういうことだ?」「武、あなたに恨まれて、責め立てられても仕方ないと思う......」蘭はうつむき、悲しげに泣いた。「私が悪かった。でも、直哉が毎日のように私を殴るの。こんな生活にはもう耐えられない。晋さんに頼ったのは、助けてほしかったから......」武は蘭を抱きしめ、心を痛めたように言った。「なぜ、俺に教えてくれなかったんだ?」「あなたは指名手配されている。私のために、また危険を冒してほしくなかった......」「お前のためなら、何度危険を冒しても構わないさ」武の殺気は一瞬にして消え失せ、蘭を抱きしめながら何度も念を押した。「蘭、安心しろ。直哉は俺が始末しておく。もう二度とお前を傷つけさせない!待っててくれ。直哉を片付けたら、お前は俺と一緒に来てくれ。いいか?」蘭は頷いた。「ええ」武は驚きながら喜んだ。「本当に俺と一緒に来てくれるのか?」「ええ。長年経って、やっと分かったの。私に本気で優しくしてくれるのはあなただけだって。だから、武、あなたと一緒に行くわ。あなたなら私に苦労をさせないって信じてるから」武は喜びのあまり、蘭を抱きしめながら、手が好き勝手に動き始めた。「蘭、愛してる。本当に愛してる......」蘭はこみ上げる吐き気をこらえ、目を閉じ
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第266話

桜井家の放火事件は、上流階級に再び衝撃を与えた。警察が捜査に乗り出したところ、直哉と使用人たちの他に、身元不明の焼死体が見つかった。DNA鑑定の結果、この焼死体はなんと、最近逃亡中の指名手配犯、武だと判明した。その後、監視カメラの映像から、放火犯が武であることが確認された。しかし、武と桜井家に恨みはないはずだ。なぜ放火したのか?桜井家の放火事件は、ここ数日、上流階級の間で最大の話題となった。直哉が亡くなった今、桜井家の当主は間違いなく柏だ。柏は桜井家の当主の座を継ぎ、わずか2ヶ月の間に、誰からも知られていなかった隠し子から桜井家の実力者へと上り詰めた。そのため、柏は只の人間ではない、桜井家の最近の出来事は全て柏が仕組んだことだと言う者もいる。こうした噂は北城の上流階級に広まり、ビジネス界でも柏は警戒されるような相手となっていた。その影響で、柏は今や警察の重要捜査対象にもなっていた。しかし、1週間の捜査でも、柏には何の問題も見つからなかった。武は常習犯であることから、警察は彼が金目当てで放火したと判断した。ただ、火の勢いが予想以上に強くなってしまい、武自身も火の海に沈んだのだろうと推測していた。こうして、桜井家の放火事件は終結を迎えたのだ。柏は桜井家の当主として、直哉のために盛大な葬儀を執り行った。葬儀当日、蘭は泣き崩れ、気を失って病院に運ばれるほどだった。蘭が病院で目を覚ました時、遥はちょうど検査結果を取りに行ってきたところだった。「遥」蘭は演技で気を失ったわけではなかった。本当に倒れたのだ。悲しみは演技だが、リアルに泣くにはかなりの体力が必要なのだ。この時も意識は戻ったものの、まだ頭がぼーっとして、体にも力が入らない状態だった。ベッドに横たわる彼女は顔色が悪く、泣き腫らした目は赤く腫れ上がっていた。こうして見ると、ようやく年老いた女性らしくなった。遥はそれを見て、気分が良かった。彼女は蘭に検査結果を手渡した。「お母さん、これ見て」蘭は眉をひそめ、無理やり体を起こして検査結果を受け取った。【エイズ】の文字を見て、彼女は信じられないという顔で目を丸くした。「そんな、そんなはずはない――」蘭は首を振り、遥を見て平静を装って笑った。「遥、検査結果を間違えたん
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第267話

道中、彼女は晋にメッセージを送った。ホテルに到着後、蘭が部屋に入って5分も経たないうちに、晋も到着した。二人は部屋の前で抱き合って熱烈なキスを交わし、そのままよろめきながら部屋の中に入って行った。ドアが「バン」と閉まった。それを、見えないところに隠れていた高解像度カメラがすべて捉えていた。そして、映像を納めた男は携帯を取り出し、番号をダイヤルした。「撮れた。正面だ、はっきり映っている」......一週間後、遥は星城市に到着し、無事に撮影現場に入った。彼女が星城市に着いた途端、清彦は知らせを受け、すぐに誠也に報告した。誠也はそれを聞き、唇を噛み締めてしばらく沈黙した後、尋ねた。「綾は最近、何をしている?」清彦は言った。「文化庁には行っていないようです。最近はずっと文子先生の家にいるようで、先週は文子先生と史也先生と一緒に絵画展を見に行ったそうです。あと、文子先生は綾さんに作曲をさせようとしているらしい」「作曲?」誠也は眉を上げた。「綾は作曲ができるのか?」「それはよく分かりません」清彦は少し間を置いてから、また尋ねた。「もしご存じになりたければ、すぐに人を手配して調べさせますが......」「大丈夫」誠也は言った。「仕事以外に、彼女の体調はどうだ?」「胎児ドックは済ませていて、問題ありませんでした」清彦は携帯を取り出し、写真を開いた。「これは隠し撮りしたものですが、綾さんの様子は良さそうです」写真は綾が絵画展を見に行った時に隠し撮りされたものだった。彼女はマタニティドレスを着ていて、お腹はすでに膨らんでいた。髪は少し短くなったようで、顔も以前よりふっくらとしていた。誠也はそれを見て、視線を深めていった。「碓氷先生、桜井さんの側に人を配置する必要はありますか?」誠也は我に返り、携帯を清彦に返した。「遥は撮影で行ってるんだ。それは彼女の仕事だから、干渉するな」清彦は頷いた。「承知しました」......遥は本当に撮影のために現場に入っていたのだ。それを証拠に丸一ヶ月、彼女は撮影現場を離れることはなかった。演技に関しては、遥は確かに優れていた。今回の復帰で、彼女は自立した大人の女性というイメージを意図的に売り出そうとしていたので、撮影現場での彼女の態度は非常に熱心だった。秘
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第268話

遥は掌に深い傷を負い、十数針縫合し、厚い包帯を巻かれていた。監督はそれを知ると、顔を曇らせた。遥はこのドラマの撮影のために事前に準備をしており、劇中には修復のクローズアップシーンがいくつかあり、遥はそのために事前に練習していたのだ。今、遥の代わりになる人を探すのは、少々時間が厳しかった。病室で、遥は自ら監督に電話をかけた。彼女は監督に綾を推薦した。「二宮さんはとても専門的な修復師なの。それに、彼女の先生である史也先生と、私たちの撮影指導の山下先生は同窓生よ。先日、山下先生から、彼女も今星城市にいると聞いたので、山下先生から史也先生に頼んでみてはどうでしょう」監督は言った。「史也先生の生徒なら、きっと優秀だろう。ところで、あなたは二宮さんと知り合いなのか?」「何度か会ったことはあるが、二宮さんは私のことがあまり好きではないようなので、山下先生から史也先生にお願いをするときは、私から紹介したって言わない方がいいと思うの。修復のクローズアップシーンの撮影を手伝ってほしい、とだけ伝えるのがいいと思うよ」「わかった。すぐに山下先生に聞いてみる」電話を切り、遥は携帯を美弥に渡した。「ホテルに戻って地味な服を取ってきて。出かけたいの」美弥は眉をひそめ、心配そうに言った。「桜井さん、怪我をしているんですから、もっとお休みになったほうがいいですよ!」「心配しないで。ちょっと個人的な用事があるだけなの」遥は美弥に微笑んだ。「早く用意してきて」「わかりました」美弥は頷き、振り返って出て行った。......綾は妊婦健診を終え、全て正常だった。胎児の推定体重は1人1.5キロ、もう1人は1.6キロで、どちらも正常範囲内だった。帰る途中、綾は史也から電話を受けた。史也は言った。「同窓生の知り合いから、彼らの劇団の俳優がちょっとした事故に遭って、最後の重要なシーンが残っているらしいんだ。こういうちょっとしたことなら輝にやらせればいいんだけど、あいにく輝はこの2日間、渡部先生たちと海外出張に行っているんだ」「わかった」綾は尋ねた。「いつ撮影する?」「今すぐ行えるそうだよ。文化庁の修復室で、ジンバル撮影をするだけだから、順調に行けば30分ほどで終わるらしい」「ちょうど文子さんと今病院を出たところだから、これからそちらに向か
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第269話

「どういう意味?」「二宮さん、よくもまぁ、そんなおめでたい考えでいられるわね。呆れてしまうよ」遥はポケットから携帯を取り出した。「実は、誠也はずっと前から、あなたの妊娠に気づいていたのよ。星城市に来れば彼と縁を切れるとでも思ってた?この録音、聞いてみて」遥は録音を再生する――誠也の声。「子供が流れてよかったんだ」丈の声。「おい、ショックで頭がおかしくなったのか?何を言ってるんだ!あなたの子供だろ!誠也!もう一度そんなことを言ったら、絶交だぞ!」誠也の声。「俺は事実を言っているだけだ」丈の声。「誠也!もう一度言ってみろ!殴るぞ!あなたの子供だろ!綾さんに愛情がなくても、そんなことを言うべきじゃない!」録音はそこで止まった。遥は顔面蒼白の綾を見て、満足げに唇を歪めた。「二宮さん、聞こえた?」綾はお腹を抑え、耳にはまだ誠也の言葉が響いていた。あの吹雪の午後の、彼の言った言葉――「妊娠してなくてよかった」を思い出した。最初から最後まで、彼は自分の妊娠を望んでいなかっただけでなく、自分自身をもこんなにも嫌悪していたのだ。「子供が流れてよかったんだ」なんて言葉が出てくるほどに。「誠也は言ってたのよ。彼の人生には悠人という子供だけいればいい、他の子供が悠人を脅かす存在になってほしくないんだって。だから、あなたが子供を堕ろしたと思った時、彼はホッとしたのよ。でも、その後、あなたが彼を騙していたことに気づいたの」遥は一歩前に出て、綾の赤くなった目を見つめ、さらにお構いなしに笑った。「二宮さん、あなたが苦労してまで産もうとしている子供は、実の父親からすれば、認められない存在でしかないのよ。星城市に逃げれば、誠也があなたに無事子供を産ませるとでも思ったの?」綾は呼吸がすこし膠着し、脈の鼓動が速くなったのを感じた。あまりにも衝撃的で怒りがこみ上げてきたためか、お腹の中の双子が動き始めた。彼女はお腹をさすり、冷静にならなきゃ、影響されては駄目だと自分に言い聞かせた。遥は明らかにわざと自分を刺激しようとしているのだ。それに乗ってはいけない。「こんなことを言って、私が影響されるとでも思ってるの?」綾は遥を睨みつけ、冷笑した。「勘違いしないで。私がこの子を産むのは、この子が私の子供だから。私の家族だからよ。
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第270話

遥は美弥に車を文化庁の外で待たせるように言った。出てきた後、遥は美弥に空港へ直行するように言った。美弥は驚いて、「桜井さん、海外へ行くんですか?」と尋ねた。後部座席に座った遥は、あらかじめ用意しておいたワンピースを取り出し、着ていた服を脱ぎながら言った。「撮影はもう終わったから、少し研修をしにいこうと思ってるの。事務所と話もつけてあるし、1、2年は帰って来ないと思うよ」「そんなに長い間行かれるんですね!」突然の知らせに美弥は少し動揺した。「じゃあ、私はこれから......」「優里のところへ行って」ワンピースを着ながら遥は言った。「取り合えず他の芸能人の付き人になれるようにもう優里には話しておいたから。私が戻ってきたら、また一緒に仕事しよう」「よかった!」美弥は遥が好きだった。これからも一緒に働けるのだとわかって、すっかり気分が晴れた。遥は着替えた服を袋に入れた。空港に着くと、遥は美弥に別れを告げ、空港の中へと入っていった。専用通路には、克哉の側近、松浦進(まつうら すすむ)がすでに待機していた。「桜井さん」進はお辞儀をしてから、「綾辻さんより専用機が手配されておりますので、このままK国へ直行いたします」と言った。遥は進に服の入った袋を手渡しながら、「誰かにこれを処分させて」と言った。進は袋を受け取り、「承知いたしました」と言った。遥はバッグからサングラスを取り出し、掛けた後「行こう」と言った。進は遥を行き先へと案内した。10分後、プライベートジェットは無事離陸することができた。機内では、遥がグラスの中のワインを揺らしていた。彼女は唇をあげ、冷酷な笑みを浮かべた。そして、綾が流した血の方が、このグラスのワインの色よりも美しかったなと思いに更けていた。飛行機は上空を安定して飛行していた。遥はグラスの中のワインを飲み干し、グラスを置いた。そして、バッグから心理学の本を取り出した。座席に深く腰掛け、本を開き、悠然と読み始めた。-誠也と清彦は飛行機を降りた途端、情報屋から電話を受けた。「綾さんと文子先生が文化庁に行った。桜井さんの手が怪我をして、最後のクローズアップシーンを綾さんが代役で撮影するそうだ」清彦は言った。「わかった。しっかり見張ってて、何かあったらすぐに報告する
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