All Chapters of 碓氷先生、奥様はもう戻らないと: Chapter 511 - Chapter 520

「ええ、安人がここにいるから、私も残ることにしたの。そうすれば、子供たちもいつでも両親に会えるでしょ」「やっぱり、子供の事しか考えてないのね！」星羅は呆れた口調で言った。「蒼空はまだ小さいからかな？私はまだ母親としての自覚が薄い気がして......最近、母乳を辞めたいって真剣に考えてるの。綾、専業主婦にはなりたくない」「母乳で育てるのって、大変よね」綾もそれはよくわかってた。「本当は大変かどうかという問題じゃないの」星羅は言った。「実際、私は蒼空にミルクをあげるのと、たまに抱っこしてあやす以外は、ベビーシッターと丈が全部やってくれてるの。蒼空が生まれてから、私はオムツすら一度も替えたことがないから、多分今やらされても、うまくできないはず」「佐藤先生は、とても良い父親よ」綾は星羅のおでこを指で軽く叩いた。「だから、いつも怒鳴らないであげて。あなたが彼のことを好きなの、分かってる。甘やかしてくれるからって、ワガママ言ってるだけなんでしょ」「そんなの彼の自業自得よ！」星羅は強がった。「私がいくら彼を好きだったとしても、ただの恋愛相手としか見られなかったはず。結婚するつもりなんてなかったのに、彼は私が記憶喪失をいいことに、母とグルになって私を騙したのよ！」「なんでまた、あなたの母のせいにしてるの？」「それはそうでしょ」星羅は母親の話をすると、頭に血が上った。「あなたは知らないでしょうけど、母は私が結婚した後妊娠してからというもの、何にでも口出しするようになったのよ。妊娠初期はつわりが酷くて、何も食べられなくって、屋台の食べ物が無性に食べたくなったの。だけど、母は許してくれなかった。そんなの丈も何も言わなかったのに。母がいない隙にこっそり連れて行ってくれたこともあったけど、母にバレると、子供のために我慢することを知らないだの、母親らしくないってだのって叱られたの。言い返そうとすると、昔話を持ち出して、私を妊娠した時はどれだけ苦労したとか......」星羅はそこで大きくため息をついた。「もうこれ以上話せない。話すと、また気分が悪くて、胸がつっかえるようになっちゃう！」「彼女は心配しすぎなのよ。一人娘だし、あの事件で相当ショックを受けたから、あなたの事となると過敏になってしまうのよ」「とにかく理解できない！」星羅は綾の方を向き、腕を

柏は音々の細い腰を抱き、ドアを開けた。個室の中には誰もいない。テーブルの上には果物と酒のボトルが置かれていた。重厚なドアが閉まり、外の騒音を遮断した。音々は柏に壁際に押し付けられ、片方の手で腰を掴まれ、もう片方の手で顎を掴まれた。そして、彼の唇が迫ってきた――「待って」白い指先が柏の唇に触れ、音々は赤い唇で微笑んだ。「桜井社長、焦らないで。時間はたっぷりあるから」柏は目を細めた。「碓氷さんは、あなたが夜通し帰ってこないことを許してくれるのか？」「彼は......」音々は柏のネクタイを弄びながら言った。「もう役に立たないのよ。寝ている時間の方が起きている時間より長いもの。私が帰っても帰らなくても多分気が付いてないでしょうから」それを聞いて、柏は眉を上げた。「彼は本当に重病なのか？」音々は軽く笑い、彼を見つめた。「あなたも噂を聞いたんでしょ？どうして私を信じないの？」「信じがたいな」柏は笑い、眼鏡が冷たく光った。「北城の経済を握る男だろう？俺は彼と商売でやり合うのを楽しみにしていたんだが、まさか死にかけとはな？」音々はため息をつき、少し残念そうに言った。「そうなのよ。私も彼とこんなに早く婚約したのは、彼の家柄と権力に惹かれたからなのよ。なのに、彼は多分この夏をも越せないとなると、私も早めに自分のことを考えなきゃいけないでしょ」「俺の知る限り......」柏は音々の滑らかな肌を指で撫でた。「彼は元妻との間に双子がいるらしい。しかも、男の子はもう跡取りとして碓氷家に連れて戻されているそうだ」「そうなのよ！」音々は眉をひそめ、不満そうに言った。「その話になると余計腹が立つのよ。誠也には後継ぎがいるっていうのに、私はまだ婚約者でしかない。彼が死んだら、私は何も手に入らないじゃない！」「そう言うことなら、俺が子供を片付けてやろうか？」音々は眉をひそめた。「桜井社長、冗談でしょ？」柏は音々を見つめ、唇を上げて尋ねた。「どうした？怖いのか？」音々は彼を強く突き放した。「怖いに決まっているじゃない！私はお金が欲しいだけよ。人殺しなんてしたくないし！」「女も度胸がないと、立場を確立させられないからな」柏はソファに座り、お酒を2杯注ぎ、1杯を音々に渡した。音々はグラスを受け取り、別のソファに座った。長い足を組み、体

輝は背が高く、彼に支えられている男はやや痩せ気味に見えた。そして今、酔っ払った男は輝の肩にもたれかかり、泣きじゃくりながら「俺を愛してない、どうして愛してくれないんだ」と呟いていた。音々は眉を上げ、唇を尖らせ、口笛を吹いた――それを聞いた輝は歩みを止め、顔を上げた。目が合うと、輝は眉をひそめた。そして目の中には、夜の闇ですら隠しきれないほどの音々への嫌悪感が浮かんでいた。音々はそれを見て取ったが、全く動じなかった。彼女の視線は酔った男の顔から輝の顔へと移った。美しいアーチ眉を少し上げ、輝を見て、意味深な視線を送った。「岡崎先生、男にも女にもモテるんですね？」輝は「......失せろ」と吐き捨てた。「あら、怒らせちゃったかした！」音々はもう一度口笛を吹き、車のドアを開けて乗り込んだ。運転席の窓を下ろし、輝に向かって大声で歌った。「愛は確かに勇気がいるのよ、噂や中傷に立ち向かうには！」その光景に輝は何も言えずに立ち尽くしていた。くそ、頭がおかしいんじゃない。一方で、音々は何事もなかったかのようにエンジンをかけ、ゆっくりと駐車場から車を走らせた。そして、バックミラー越しに輝を一瞥し、唇の端を少し上げ、車内から細い手を出し、「岡崎先生、また会えるといいですね！」と言った。ブロロロ――高級車はまるで剣のように大通りに飛び込み、あっという間に夜の闇に消えていった。輝は心の中で誠也の人を見る目に舌打ちをしながら、風早を支えて車に乗せた。そして、風早を家に送り届けてから、輝が雲水舎に戻ったのはもう午前1時だった。深夜の雲水舎は静まり返っていて、輝はそのまま寝室に戻って眠りについた。......翌朝午前6時、隣の部屋から赤ちゃんの泣き声が聞こえてきた。母性愛とはなんと不思議な力があるのだろう。かつての寝坊助の星羅は、子供を産んでからというもの、体内時計が完全にリセットされたのだ。星羅は目を開け、隣でまだ眠っている綾を見ながら、そっとベッドから降りた。静かにドアを開けて出て行き、また静かに閉めた。ドアが閉まる音を聞いて、綾はゆっくりと目を開けた。実は3時過ぎに寝て、5時前に目が覚めてから、ずっと眠れずにいたのだ。しかし、星羅に心配をかけさせたくなくて、寝たふりをしていた。眠れ

「誠也！」丈は我慢できずに彼に向かって怒鳴った。「まだ諦めるな！中島先生が言ってたじゃないか。S国で治療を受ければ、まだチャンスはあるって......」「わずか5％のチャンスだ」誠也は丈を見つめ、暗い瞳で言った。「低すぎる。丈、もう説得するのはやめてくれ。最後は、静かに過ごさせてほしい」丈は呆然と彼を見つめた。「静かに死にたい。もし最期が苦しいなら、S国で安楽死を申請する。清彦が葬儀の手配は全部してくれた。葬式はなしだ。火葬にして、灰は梨野川に撒いてほしい。綾の新居に近いから......」「誠也、黙れ！」丈は激しく怒鳴った。「バカなこと言うな。こっちのことが片付いたら、すぐにS国に送り返して中島先生に診てもらう。大人しく治療を受けろ！」誠也は丈を見つめ、薄い唇を少し曲げた。まるで、彼の態度にあきれ返ったようだった。「丈、これが俺にとって一番穏やかな最期なんだ。頼む、最後の願いくらい聞いてくれ」丈は驚愕し、信じられないといった様子で誠也を見つめた。かつて冷たく傲慢だった誠也は、今や重い病に侵され、誇りは後悔に打ち砕かれていた。あんなに堂々とした男だったのに、今は大きなベッドに横たわり、弱々しく無力に見えた。丈の記憶では、誠也が誰かに頼みごとをする姿は見たことがなかった。彼はあんなに誇り高い男だった。佳乃に裏切られ捨てられたあの忌まわしい夏でさえ、誰にも頭を下げなかったのに......しかし今、誠也は彼に頼んでいる。5%の生存の可能性に賭けることを、諦めてくれと。そして、彼に手伝ってくれと。穏やかな最期を、迎えることができるように。丈は、はっと我に返った。誠也の目を見つめ、何かを尋ねようとしたが、先に涙がこぼれそうになった。「あなたは......本当は、もう生きる気力がないのか」誠也は目を閉じた。この質問に答える気がないようだった。しかし丈は、まるでテストの模範解答を見つけたかのように、確信を持って尋ねた。「綾さんに公海で刺された時、あなたはわざと避けなかったのか？あの時......もう生きるのを諦めていたのか？」誠也は答えなかった。丈の目は真っ赤になった。彼はこの事実を受け入れることができなかった。「誠也、そんな考え方は間違っている。綾さんに対して申し訳ないと思うなら、償うべきだ。諦めるな..

「家庭内暴力っていうのは一度あると、何度も繰り返されるものなんです。彼にはその後も何度か暴力を振られたから、このままじゃダメだって気づいて、家にこっそりカメラを設置したのです。それで、子供が7ヶ月の時、私は彼に肋骨を折られて病院に運ばれました。その時の診断書と監視カメラの映像のおかげで、やっと解放されたんです」綾は唇を噛み、少し沈黙してから言った。「母親であることは、あなたの強みであるべきで、弱点ではないです」清子は一瞬たじろいだ。「あなたの元夫は子供を隠そうとしています。そして、あなたの言葉から察するに、彼は怒りっぽく、腹いせに子供を傷つける可能性もあります。だから、一刻も早く子供を見つけ出す必要があります」「でも、今は......」清子は鼻をすすり、後悔の念に駆られた。「どこを探せばいいのかも分からないのです。警察に通報したけど、まだ何も情報がないのです」「私を信じてくれるなら、力になれます」「助けてくれるんですか？」清子は信じられないという顔で綾を見つめた。「どうしてですか？」「もちろん、私にも理由があります」綾はバッグから契約書を取り出した。「あなたはかつてH市で大人気だった女性のアクション俳優でした。結婚後家庭内暴力を受け、離婚後は息子を元夫に連れ去られてしまったのです。話題性十分だし、ちょうど『パープルリボン運動』についての公益ドキュメンタリーを制作する予定なのです。あなたのように苦しんでいる母親はたくさんいます。このドキュメンタリーを公開すれば、社会の関心を集められるはずです」清子は綾を見つめた。「効果があるのですか？私も同じ境遇の母親たちのグループに参加していますけど、何年も子供が見つからない人もいます......」「それは、この問題が社会の注目を集めていないからです」綾は契約書をテーブルに置いた。「二三日ほど考えてから返事をくれるといいです」清子は契約書を見つめ、悩んでいるようだった。綾は立ち上がった。「会計は済ませてあります。奥山さん、決めたらいつでも連絡をください」......綾がアトリエに戻ったのは、夕方4時半だった。初から電話がかかってきた。優希が南渓館にいる間、初はこっそり様子を見守っていた。特別なことがない限り、初は綾に電話をかけることはなかった。綾は電話に出た