All Chapters of 碓氷先生、奥様はもう戻らないと: Chapter 631 - Chapter 640

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第631話

綾は若美をちらりと見て、冷たい視線を向けた。人前では、彼女は若美に至って冷たかった。「どうしたの?がっかりした?」若美も、綾に冷たくされて慣れている様子で、厚かましくも近寄ってきた。「あなたが良くなって私は嬉しいんです。綾さん、見ての通り、北条先生はあなたにとても優しくしてます。ですから、もうこれ以上、わがまま言って彼を困らせないでください。N国は一夫多妻制ですし、これからは、仲良くしていきませんか?」綾は冷たく笑い、彼女から最も遠い席に座った。それを見た若美は、がっかりしたように俯き、とても悲しそうな顔をした。明美は綾に特別に栄養価の高い食事を持ってきてあげた。要は言った。「体内の毒素はほぼ排出された。これからは栄養価の高いものを適切に摂取する必要があるからな」綾は冷笑した。「どんなに栄養をとっても無駄よ。あなたが機嫌を損ねたら、また毒を盛るんでしょ?北条先生、私を実験台にしてみた感想はどう?」要は皮肉を言われ、表情が曇った。それを見た若美は慌てて言った。「綾さん、そんな言い方しないでください。北条先生はあなたのことを愛していますよ」綾は冷たく笑い、何も言わず食べ始めた。若美は要の方を見た。「綾さんのことは気にしないでください。彼女は悪気があったわけじゃないですから......」「俺たちのことには今後口出しするな」要は彼女を見て言った。「あなたの任務は自分とお腹の子の世話をすることだ」若美は唇を噛み締め、頷いた。気まずい雰囲気の朝食は、三人ともあまり食べなかった。綾も食べ終えると、先に二階へ上がった。彼女が二階に上がると、要も家を出た。若美だけが、ゆっくりと自分の朝食を食べていた。全部食べ終えるのは、30分後だった。若美は口を拭き、お腹を擦りながら立ち上がり、あくびをしながら言った。「ちょっと眠くなったから、井上さん、片付けて。私は部屋に戻って少し寝るね」明美は「かしこまりました!」と答えた。しかし、二階に着いた若美は、自分の部屋に戻らなかった。彼女は外の小さなサンルームへ向かった。綾がそこで待っていた。「綾さん」若美は小さく彼女を呼んだ。綾は振り返った。二人の目が合った。「若美、私、北条先生と結婚式を挙げることにしたの」若美は驚いた。「本当ですか?」
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第632話

結婚式は次の月の8日に決められた。あと1ヶ月しかない。要がプロのチームを雇ったおかげで、ウェディングドレスの写真撮影から披露宴まで、すべて手配ずみだったので、綾は何も心配することはなかった。そもそも、綾はこの結婚式をあまり挙げたくなかったので、要も彼女が結婚式の準備に熱心に取り組むとは思っていなかった。ウェディングドレスの写真撮影当日、要は一日中予定を空けていた。撮影はN国のある古い教会で行われた。要は事前に会場を貸し切っていた。会場の外は要の部下によって包囲されていた。かなり厳重だった。教会の中に仮設されたメイクルームで、綾はメイクを済ませ、スタイリストの助けを借りてウェディングドレスに着替えた。今日は10着のウェディングドレスを着て撮影する予定で、かなりの大仕事だ。「二宮さん、スタイル抜群で、お肌も白くて、どのドレスも本当にお似合いです。まるで女神が舞い降りてきたようです」とスタイリストは褒めた。綾は全身鏡の前に立ち、鏡に映る自分を見つめた。純白のウェディングドレスには、小さなダイヤモンドが散りばめられている。結婚を控えた女性なら、誰もが憧れる美しさだろう。しかし、綾の表情は冴えない。心の中にもトキメキはなかった。彼女はふっと、G国での離婚式を思い出した。4年以上経って、再びウェディングドレスを着ることになったが、またしてもこんなにも辛い状況だ。子供の頃に占ってもらった占い師の言葉は、本当に当たっているのかもしれない。もしかしたら、自分は本当に不幸を呼ぶ人なのかもしれない。自分に近づく人は皆、試練や危険にさらされる運命なのかもしれない。母親もそうだった。星羅も巻き込まれた。さらに今、自分の子供たちが......そして今度は、いよいよ自分の番だ。「どうして笑わないんですか?」スタイリストは鏡に映る美しい女性を見て、尋ねた。「緊張していますか?」綾は長いまつげを震わせ、唇をあげた。それは笑顔だったが、自嘲的な笑みだった。「きっと、辛すぎるからでしょうね」運命があまりにも過酷で、笑えるはずがなかった。スタイリストは驚き、花嫁の顔に浮かぶ場違いな冷笑を見て、思った。要のようなハンサムでお金持ちの男性と結婚できるなんて、多くの女性が夢見ることなのに、どうして喜ばないんだ
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第633話

要は4年以上も前のことを、ここまで詳しく調べ上げていた。ということは、誠也の周りの人間関係や出来事について、既にすべて把握していたことになる。古雲町での生活で、もし要が少しでも凶暴な男だったら、自分と子供たちはとっくに命を落としていた。「北条先生、そんなに誠也を憎んでいるなら、どうして優希の体質改善を手伝ったの?」要は眉を上げ、綾がそんな質問を突然投げかけてきたことに驚いた様子だった。彼は綾を見つめ、軽く唇をあげた。「綾、古雲町で過ごしたあの2年間は、俺の人生で最も幸せな日々だった」彼は手を伸ばし、大きな手で彼女の細い首筋を撫でながら、優しげな瞳で綾を見つめた。その瞳に宿る深い愛情は、嘘偽りのないものだった。「もしあなたが優希と一緒に古雲町で静かに暮らしてくれるなら、俺も足を洗って、医師として、平凡な町で一生あなたと生きていこうと思っていた」そう言うと、男は突然手を強く締め、綾の首を掴んだ。彼は力を込めたが、殺すつもりはなかった。綾は眉間に皺を寄せたものの、抵抗はしなかった。彼女は要を見つめていた。その瞳には恐怖はなく、冷たさと強い意志だけがあった。要は身を乗り出し、頭を下げて、彼女のおでこに自分の額をくっつけた。「綾、あなたに家族がいても、子供がいても、友人がいても、俺は我慢できる。しかし、誠也があなたの人生に現れることだけは、どうしても我慢できない」要の吐息には、強い攻撃性があった。綾は彼を突き放そうと、胸に手を当てた。しかし、要は突然激昂し、顔を傾けて口を開き、彼女の耳に噛みついた――激しい痛みが走った。綾は叫び声を上げ、彼を強く突き飛ばした。要は口を離した。綾は彼に平手打ちを食らわせた。「頭がおかしいんじゃないの!」要は口元の血を拭い、彼女の耳から流れ落ちる血を見て、満足そうに笑った。「綾、あなたは俺の世界から見てあんまりにも清らかだ。そんな白紙のようなあなたを見ると、俺はいつも劣等感を抱いてしまうのだ。そして、心の中である声が聞こえてくるんだ。俺たちは住む世界が違うと、何度も、何度も繰り返されて」耳の一部を噛みちぎられたような激痛に、綾は思わず耳に触れた。手は血で濡れていた。ウェディングドレスに血が滴り落ち、広がっていく。綾の脳裏に、クルーザーで誠也が同じよ
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第634話

要は、もう片方の手で優しく綾の頭を撫でた。「それはあなた次第だ。俺は誠也とは違う。最初から最後まで悪い人間だ。今まで殺した人の数は、自分でも覚えていない」綾は、彼の服の襟を掴み、全身を激しく震わせた。そんな綾の様子を見て、要は失望した。「綾、自分が無実だなんて思わないでくれ。あなたのおかげで、俺は報われない愛というものを知った。俺はあなたに好かれたくて、いい人を振りをして、あなたに近づき、あなたに媚びへつらついてきた。なのに、なぜ俺の気持ちを受け入れてくれない?なぜ、俺に心を許してくれないんだ?」「北条先生、お願い。何でもするから、私の家族や友達にだけは手を出さないで......」綾は、恐怖に満ちた目で彼を見つめた。涙で顔が濡れ、その姿は見ているだけでも不憫に思えた。要は、胸にチクチクとした痛みを感じた。こんなに愛しているのに、なぜ彼女は自分を悪くしか思わないんだろう、どうして自分の優しさに気づいてくれないんだ?「綾、本当は俺を恐れる必要なんてないんだ。あなたを殺したりしない。そんなこと、できるわけない」彼は優しく彼女の頭を撫でた。「俺は誠也とは違う。碓氷家の後継者という肩書もない。父は変人で、母は操り人形だった。欲しいものは、全て自分の力で手に入れてきた。M国にいた頃は、一番下から這い上がってくるために、多くの裏切りや殺し合いを経験して、やっと今の地位まで辿り着いた。だが、上に上がれば上がるほど、命を狙われるようになった。綾、俺の苦し紛れの人生にあなただけが、唯一手を差し伸べてくれたんだ」綾は首を振り、歯を食いしばった。もし彼がこんな人だと知っていたら、あの夜、絶対に助けたりしなかった。絶対に。「綾、俺が今ここにいられるのは、あなたのおかげだ」要は身を乗り出し、綾の耳元で唇を歪めた。そして悪魔が囁くように言った。「あなたが俺を助けたおかげで、俺は生き延びれた。だが、そのおかげで俺が殺した人間の数もそれだけ増えたというわけだ。だから、綾、あなたもそれに加担しているということになるじゃないのか」「違う!」綾は激しく抵抗し、両手で彼を乱暴に突き飛ばした。そして後ずさりし、地面に倒れ込んだ。要は、上から冷ややかに彼女を見下ろした。「綾、もう一つ秘密を教えてやろうか?」綾は耳を塞ぎ、泣き叫んだ。「聞きた
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第635話

それは、綾には想像もつかない世界だった。そして、世間には永遠に認められることのない世界でもあった。......二人の服は、血で染まっていた。要は、スタイリストを呼んだ。スタイリストは部屋に入るなり、その光景を見て呆然とした。「妻に新しいウェディングドレスを着させてくれ」要は冷たく言い放ち、何か言いたげなスタイリストを睨みつけた。「余計なことは言うな。自分の仕事に集中しろ」「はい」スタイリストは要の視線を避け、綾を控室に案内した。間もなくして、別のスタイリストが救急箱を持って入ってきた。「二宮さん、北条さんが傷の手当てをするようにとおっしゃっていました」綾は化粧台の前に座り、両手を固く握りしめていた。動揺が激しく、今も体が震え続けていた。スタイリストの言葉は、何も耳に入ってこなかった。「二宮さん?」再びスタイリストの声が聞こえ、綾はまつげを震わせ、救急箱を持ったスタイリストを見上げた。スタイリストは彼女を安心させるように微笑んだ。「傷の手当てをさせていただきます。少し痛いかもしれませんが、我慢してくださいね」綾は小さく返事した。傷は浅くない。おそらく傷跡が残るだろう。傷の手当てをしている間、別のスタイリストは2着目のウェディングドレス用のアクセサリーを用意していた。「瞳さん、2着目のドレスのアクセサリーはどこに置いましたか?」スタイリストの宮崎瞳(みやざき ひとみ)は、ヨードチンキをつけた綿棒で綾の傷口を消毒しながら言った。「アクセサリーケースの中に入っていなかったですか?」「ないんです。あれ全部本物で、北条さんの秘書の方が持ってこられたんですよ。どれもこれも、とんでもない値段なんです!」「車の中に忘れてきたんじゃないですか?」瞳は言った。「早く見に行ってきてください」「はい、すぐ行きます!」あのスタイリストは急いで控室を出て行った。瞳は控室のドアが閉まるのを見届けると、綾の耳の傷をよく見るふりをして、小声で言った。「二宮さん、松本さんに言われて来ました」綾は驚いて振り向こうしたのだが、瞳が続けるのを聞いた。「こっち見ないでください。この部屋には監視カメラがあるかもしれません」それを聞いて、綾は体を強張らせた。「これから私が話すことをよく聞いてください」瞳は
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第636話

結局、ウェディングドレス10着の撮影は終わらなかった。3着目を撮影している時、綾は突然気を失ってしまった。要が彼女を抱きとめた時、彼女の体が熱いことに気が付いた。彼は綾を抱きかかえ、キャンピングカーへと向かった。キャンピングカーの中で、要は綾の脈を診た。綾は彼の腕の中で静かに眠っていて、高熱のため頬は赤くなっていた。脈拍を診て、要の顔は曇った。そして、大急ぎでS市の邸宅に戻った。到着すると、要は意識を失っている綾を抱えて家の中に入った。リビングでは、若美がテレビを見ていた。その様子を見てすぐに立ち上がり、出迎えた。「綾さん、どうしたんですか?」要は彼女を見向きもせず、何も言わずに2階へ上がっていった。若美は綾が心配で、後を追って2階へ上がった。要は綾をベッドに寝かせると、振り返って若美を見て、冷たい顔で言った。「井上さんに来てもらってくれ」「はい」若美は明美を呼んだ。明美が来ると要は言った。「ウェディングドレスを脱がせてあげてくれ」「かしこまりました!」要は部屋を出て行った。若美は綾が心配で、「手伝います。綾さんは今、意識がないので、井上さん一人では大変だと思います」と言った。要は難しい顔をして、急いで電話をかけようとしているようで、若美のことは気に留めなかった。若美は部屋に入り、ドアを閉めた。綾は高熱で意識を失っていた。二人は苦労して、ウェディングドレスを脱がせた。「熱が高すぎる。井上さん、ぬるま湯を持ってきて体を拭いてあげて」明美は言われた通りにした。......2階の書斎。要は電話をしていた。「結婚式は中止できない」男の断固とした声に、電話の相手は少し苛立った。「北条さん、私は長年あなたに従ってきました。あなたの決断に疑問を持ったことはありません。しかし、今回は本当に危険すぎます。二宮さんは碓氷さんの奥さんで、子供もいます」「誠也はもう死んだ」要は強い口調で言った。「俺は、彼が車で事故死するのを見た。だから、彼らの結婚生活はもはや過去のことだ。子供たちのことだって、俺と綾の子供がもうすぐ生まれるし、新しい子供ができたら、彼女も自然と他の子供たちのことは忘れていくさ」「もし本当に結婚式を挙げるのであれば、規模を縮小して、控えめにした
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第637話

要は綾の手を握り、「俺がいる。あなたを死なせはしない」と言った。綾は手を引き抜きたい衝動を抑え、平静な顔で言った。「北条先生、あなたは神様じゃない。誰にだって運命ってものがある。だから隠さなくてもいいわよ。これも運命なら私は受け入れるから」要の声色は少し沈んだ。「言ったはずだ。あなたを死なせはしない」綾は軽く唇をあげた。「そんな風に言われると、本当に余命いくばくもないみたいね」要は一瞬固まり、そして強く唇を噛み締めた。綾は要の医者としての技術を認めていた。古雲町では、多くの人が彼に診てもらおうと訪ねてきた。栗原先生の最後の弟子であり、秀でる才能を持つ彼は、多くの難病を治してきた。綾の心には、ある憶測が浮かんだ。しかし、それ以上は聞かなかった。「結婚式は延期するの?」綾は手を引き抜き、要を見ながら言った。「私はもう長く生きられないと思う。あなたは結婚してすぐに奥さんを死なれたことになるかもしれない。なんだか縁起でもないね。北条先生、式は中止した方がいいんじゃない」「中止はしない」要は彼女をじっと見つめた。「綾、そもそもあなたを死なせたりはしない。そして、仮にあなたが死んでも、必ず【北条】の姓を名乗ってもらうから」綾は冷たく笑った。そして、心の中で、死んでからも安らかに眠れないなんて皮肉なもんだ、と思った。「中止したくないならそれでもいい。でも、結婚式の準備は自分でやって。疲れているし、そんなことに構っていられない」「大丈夫だ。結婚式の準備は誰かに任せる。あなたは体を休めていればいい」綾は口を覆い、あくびをした。「もう眠いから、寝るね」要は彼女に布団をかけた。「寝てていいよ。もう薬草を探しに行かせたから。すぐに良くなるさ」綾は返事をすることなく、目を閉じ、すぐに眠りに落ちた。彼女の症状は急激に現れ、鍼治療による解熱も一時的なものだった。2時間も経たないうちに、また熱が上がってきた。要は、こんな短時間で再び綾に鍼を打つことはできなかった。まずは解熱剤を飲ませるしかなかった。解熱剤を飲んだ後、綾の体温は少し下がったが、完全には下がらず、ずっとぼんやりしていた。若美は妊娠中だったため、要は彼女に綾の部屋に入ることを許さなかった。病気がお腹の子にうつるといけないからだ。彼がお腹の子をそん
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第638話

「ただ、抑えているだけなのね」綾は要を見つめながら言った。「でも、治せないんでしょ?」要は唇を固く結んだまま、何も言わなかった。「もういいわ」綾はズキズキと痛むこめかみを手で押さえた。「水を飲みたい」「ああ」要はすぐに立ち上がり、水を注ぎに行った。彼は片手でグラスを持ち、もう片方の手で綾を抱き起こし、自分の胸に寄りかからせた。綾は彼に寄りかかりたくなかったが、体が全く力が入らなかった。要は綾がむせないように、ストローを用意した。綾は水を飲むと、乾いて痒かった喉がだいぶ楽になった。「うどんを食べたい」綾はそう言った。何か食べたいと思うのは良い兆候だ。要は綾をベッドに戻すと、立ち上がってグラスをテーブルに置いた。「井上さんに作ってもらうよう頼んでくる」「北条先生、少し外に出たいの」「まだ回復したばかりだから、外に出るのは良くない」「今すぐじゃない」綾は落ち着いた声で言った。「外に出て、街をぶらついたり、散歩したりしたいの。一日中、部屋に閉じこもっていたくない」要は綾を見つめ、その表情を読み取ろうとした。「ここは国内と違って安全じゃない」「ボディーガードをつけてくれればいいでしょ?」綾は毅然とした態度で言った。「もしかしたら、もう長く生きられないかもしれないのに、この程度の自由もくれないの?」要は唇を固く結んだ。彼は綾を見つめ、葛藤と罪悪感が入り混じった表情をしていた。綾は彼の視線を受け止め、そして、ふいに口角を上げた。「北条先生、分かっているの。私の体が突然こんな風になったのは、おそらく、あなたが前に私に毒を盛ったせいだって」要はハッとした。体の横に垂らした手が、ぎゅっと握られた。彼は喉仏を上下させ、反論することができなかった。「私が戻ってきた日、あなたは脈を診て、とても動揺していたよね。あの時、私は目が見えなかったけれど、あなたが他の漢方薬を飲んでいないかと聞いてきた時、体に何か異変が起きているんだと分かったの」「だから、本当に他の漢方薬は飲んでいなかったのか?」「ええ、飲んでいないわよ」綾は彼を見つめた。「でも、あなたは忘れてしまったようね。私の母は白血病だったのよ」要は再びハッとした。「私は彼女の娘よ。癌は遺伝しないとは言われているけれど、最近の医学では母系
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第639話

要は綾の頼みを聞き入れた。ただし、綾の体調がもう少し良くなってからという条件付きだ。そして、外出する時は必ず誰かが綾に付き添うこと。綾は明美に付き添って欲しくなかった。そこで若美が自ら名乗り出た。綾は仕方なく承諾した。3日後、綾は若美に付き添われて外出した。目的地はS市中心部にある最大のショッピングモールだ。その日、要には急用があり、同行できなかったため、拓馬にボディーガードを連れて、二人を守るようにと指示をした。ショッピングモールに到着すると、二人はエレベーターで3階の衣料品売り場へ向かった。若美はベビー服を見たかったのだ。綾は彼女に連れられて一緒に見て回ることになった。拓馬と数人のボディーガードは、私服姿で二人を遠巻きに見守っていた。若美はベビー服を何着か選び、綾に意見を求めた。「綾さん、どれがいいと思いますか?」小さな服を眺めていると、綾の心は自然と温かくなった。そして、二人の子供のことを思い出したのだ。「赤ちゃんの性別は分かってるの?」綾が尋ねた。「女の子ですよ」若美はお腹を撫でた。「北条先生も喜んでいて、女の子は母親に似るから、きっと美人になるはずだって言ってました」綾は少し驚いた。女の子は母親に似る?それはまるで要が若美を深く愛しているかのように聞こえる言葉だった。でも、本当に愛しているのだろうか?「綾さん?」若美の声で我に返り、綾はキラキラと輝く若美の目を見つめた。「綾さん、どれがいいと思いますか?」綾は若美が手に持っている二着のベビー服を見比べた。どちらもロンパースだが、色が違うだけだ。「両方気に入ったなら、両方買えばいいじゃない。北条先生なら、そのくらいのお金はあるでしょ」「そうですね!」若美は結局両方買った。ベビー服を買った後、若美は綾をランジェリーショップに連れて行った。ベビー服売り場では、拓馬はまだ子供服を買いに来た父親を装って店内を見て回ることができたが、ランジェリーショップはさすがに無理がある。彼は鼻を触りながら、店の前で電話をかけるふりをした。彼が若くてハンサムでまだ良かったものの、もし中年の男性だったら、女性用下着用品の店の前で店内を覗き込んでいたら、きっと変質者扱いにされていただろう。綾は若美に無理やり
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第640話

試着室で、綾は大量のセクシーな下着を抱え、身動きがとれなくなっていた。狭い試着室は、一人でも窮屈に感じるほどだった。しかも、この試着室は2階の屋根裏部屋、つまり倉庫と繋がっていた。そこに、足音が近づいて来た。綾は何かを感じ、顔を上げた――すると、黒い人影が現れた。男は全身黒づくめの服を着て、黒い野球帽を深く被り、顔の半分は黒いマスクで隠れていて、唯一外に出ている目は切れ長で奥深いものだった。彼は脚が長く、らせん階段を降りてくるのも、たった2歩で済んだ。彼が現れた瞬間、綾は若美の意図を理解した。彼女は目の前の男をじっと見つめた。まるで時間が止まったかのようだった。彼は相変わらず健太の姿をしていた。綾は分かっていた。世間に対して、誠也は今も亡くなった人間でいなければならないのだと。ただ、彼が健太の姿で自分に会いに来た意味が分からなかった。利夫は、自分がすでに気づいていることを、彼に伝えていないのだろうか?二人は黙って見つめ合った。それぞれが、胸に秘めた思いを抱えていた。そして、ついに男が先に口を開いた。彼は目を閉じ、ため息をつくと、マスクを外した。男の彫りの深い顔が、綾の目の前に完全に現れた。記憶の中にある、懐かしい顔だった。あの日、輝星エンターテイメントで見た、傷だらけの顔とは全く違っていた。つまり、健太は別人だったのだ。もしくは、健太は面接の時だけ現れ、その後、ずっと自分の側にいたのは誠也だったのかもしれない......誠也がマスクを外した瞬間、綾の鼓動は抑えきれず速くなった。そして、誠也も恐れていたのだ。綾に会いたくないと思われたらどうしよう、拒絶されたらどうしよう、と不安だったのだ。しかし、今の彼女はとても落ち着いていた。彼がマスクを外した時でさえ、驚いた様子は一切見せなかった。「綾」誠也は喉仏を上下させ、声を低くして、優しく彼女の名前を呼んだ。たったその一言だけで、彼は胸が詰まり、息苦しさに襲われた。伝えたいことは山ほどあるのに、どこから話せばいいのか分からなかった......誠也に比べて、綾はずっと落ち着いていた。健太が誠也ではないかと疑い始めた時から、彼女はすでに心の中でこの事実を受け止めていたのだ。その後、健太の姿をした誠也が、
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