All Chapters of 碓氷先生、奥様はもう戻らないと: Chapter 761 - Chapter 770

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第761話

「かすり傷だ」誠也は軽く言って、話題を変えた。「あなたと星羅はどうなったんだ?」「まあ、色々あってな」丈はため息をついた。「星羅の見舞いか?」「違う」丈は言葉に詰まった。誠也は唇の端を上げた。「俺は綾に会いに来た」丈は軽蔑するように白目を剥いた。「冗談だろ。彼女はあなたを避けているんだ。とっとと帰った方がいいぞ。あなたを見て綾さんが機嫌を損ねたら、星羅も不機嫌になる。そうなったら、また私がつらい立場に立たされるじゃないか」誠也は静かに微笑んだ。「大丈夫だ」大丈夫なわけないだろ。丈は、誠也の厚かましさに呆れた。彼は病室のドアを開けて中に入りながら、両手を上げて潔白を証明した。「私がこの人を連れてきたわけじゃないです。勝手に押しかけてきたんです。私には関係ないですよ!」それを聞いて、リンゴを剥いていた綾の手が止まり、入り口の方を振り返った。誠也の姿を見ると、彼女は軽く微笑んだ。「診察はもう終わったの?」「ああ」誠也は彼女に優しく微笑み、近づいてきた。そしてベッドに横たわる星羅を見て、軽く会釈した。「具合はどうだ?」「だいぶ良くなったよ。心配してくれてありがとう」星羅は誠也を見て、以前とは打って変わって優しい態度で、さらに尋ねた。「あなたの怪我は大丈夫なの?」「かすり傷だ。そのうち治る」突然の和やかな雰囲気に、丈は驚いた。彼はまだ、綾が星羅に昨夜のことを全て話していたことを知らなかったのだ。星羅は話を聞いて驚き、さらに誠也の手に巻かれた包帯を見て、今や彼に対する印象は完全に変わったのだ。実際このところ、誠也が綾のために今までと違って、多くの犠牲を払ってきたことは、誰の目にもハッキリと映っていたのだ。さらに、綾と誠也の間には多くの誤解があり、運命に翻弄されてきた。そして生死を共にしたことで、二人の絆は深まっていた。愛憎が絡み合い、様々な曲折を経て、10年近くの月日が流れた。一言10年といっても、長い年月の中でそう一緒に経験できるものじゃないのだ。しかも、二人の間には子供もいる。切っても切れない血縁関係がある以上、互いにやり直すチャンスがあってもいいはずだ。星羅は心から綾のことを喜んだ。様々な困難を乗り越え、最終的に幸せをつかむことができたのだから。まさに、苦労の末に得られた円満の
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第762話

そう言っているうちに、病室のドアが開き、綾が出てきた。すると二人の男は、そろって口をつぐんだ。「星羅が話があるって、私もさっき彼女を説得してみたから、今は落ち着いてるみたいです。佐藤先生、どうか落ち着いて話し合ってくださいね」綾は丈を見た。丈は静かに唇を噛み締めた。「ああ、分かりました」「じゃあ、私たちはこれで失礼します」「気を付けてください」丈は二人を見送ると、病室に戻っていった。病室のドアが閉まり、綾と誠也はエレベーターへ向かった。エレベーターの前に着くと、ちょうどドアが開いた。エレベーターの中から大輝が出てこようとしたところで、綾と誠也の姿が目に入った。彼は動きを止めた。綾と誠也も驚き、こんなところで会うとは思ってもいなかった。三人は顔を見合わせた。大輝はエレベーターから出てきて、先に挨拶をした。そして、誠也の両手を見やった後、冷ややかに目を細めた。さすがは誠也だ。ここで同情を引くような真似までしてくるとは、なんて腹黒いんだ。大輝の嘲笑う視線は、誠也にはお見通しだった。しかし、彼は気にしなかった。今、自分と綾とのわだかまりは解けた。だから、もう大輝の出番はない。しかし、光希のために二人で投稿したインスタのことを考えると、内心では多少嫉妬もしているのだ。だから、誠也も大輝には良い顔はしなかった。こいつは人の弱みにつけ込む偽善者だ。この二人の男は、互いに気に食わないでいるのだ。すると、大輝は綾の方を向き、先に切り出した。「真奈美のお見舞いですか?」真奈美?綾と誠也は顔を見合わせた。そして、綾は不思議そうに尋ねた。「新井さんに何かあったのですか?」大輝は、はっと我に返った。二人は真奈美のお見舞いでここにいるわけじゃないのだ。ただの偶然鉢合わせただけなのだ。しかし、既に口を滑らせてしまった以上、正直に話すしかなかった。「昨夜、あなたから電話をもらった後、すぐに真奈美に電話したんです」大輝はため息をついた。「あなたの言うとおり、昨夜の彼女の不可解な行動は、何かを企んでいたようです。彼女はリストカットを......私が駆けつけた時には、既に浴槽で意識を失っていました」「自殺?!」綾の顔色が変わった。「どうして教えてくれなかったのですか!」「リストカットする前
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第763話

「本当に、彼女とは何もなかったんです」大輝は眉間を押さえながら、不機嫌そうに言った。「二宮さん、私があなたに相手にされていないのは分かっています。だからって、私をそこまで悪く考えることはないじゃないですか?」綾は唇を噛み締めた。そんなつもりじゃなかった。真奈美と大輝の間には、何か隠されていることがあるに違いない。少なくとも、どちらかが何かを隠している。しかし、大輝が頑なに否定する以上、綾もこれ以上は聞けなかった。それに真奈美は今、意識不明で、大輝もあんなに強く否定しているんだから、これ以上、何かを言うのはやはり無理があるのだ。「そんなに真奈美のことが心配なら、あなたが面倒を見てください。私は今、忙しいんです」大輝はそう言うと、持っていた領収書を綾に渡した。「今日から、あなたが彼女の世話をしてください。私は関わりたくありませんので」綾は領収書を受け取り、言った。「あなたは......」大輝は手を振り、「お先に失礼します」と言った。そして、彼は本当に、そのまま立ち去ってしまった。綾は大輝の冷酷な背中を見つめ、眉をひそめた。誠也は綾から領収書を受け取り、「俺が処理しよう」と言った。綾は誠也の方を向いた。「新井さんはしっかり者で、プライドも高い。衝動的な行動をするタイプじゃない。栄光グループと哲也くんのことは、きっと手配済みのはずだ」綾は少し考えてから、ハッとした。「もしかして、彼女はもう遺言書を用意しているとか?」「ああ」誠也は頷いた。「俺はまず、新井家に戻って哲也くんの様子を見てくる。構わないか?」「構わないわよ」綾はそう言って微笑んだ。「早く行ってあげて。病院のことは私に任せて」「じゃ、ちょっと行ってくる」......そこで誠也は清彦に電話をかけ、病院まで迎えに来るように頼んだ。病院では、綾がまず真奈美の担当医に会いに行った。話を聞くと、状況はあまり良くないようだった。真奈美の生きる意志は非常に弱く、このまま意識が戻らない可能性もあるらしい。いわゆる植物状態だ。綾は胸が痛んだが、医師にもできることはないと告げられたので、彼女も信頼できる女性ヘルパーに真奈美の付き添いを頼むしかなかった。真奈美のことはひとまず落ち着いたので、綾は星羅の様子を見に行くことにした。星羅は丈
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第764話

午後8時。清彦が運転する車で、誠也は梨野川の別荘に戻った。一緒に哲也も来ていたのだ。もちろん、誠也が哲也を連れてきたのは、綾の許可を得てからのことだ。真奈美が目を覚ますまで、栄光グループと哲也のことは誠也が一時的に引き受けることになっていた。誠也は哲也に本当の事情は話していなかった。しかし、哲也は薄々感づいているような気がした。誠也が新井家へ哲也を迎えに行った時、彼の目が赤く腫れているのを見た。きっと、どこかで泣いていたのだろう。哲也を見ていると、誠也は幼い頃の自分を思い出し、胸が痛んだ。真奈美は普段、哲也を家政婦や家庭教師に任せきりだったため、哲也は温かい家庭を知らずに育った。車の音に気づき、綾は二人の子供を連れて玄関へ出た。後部座席のドアが開き、誠也が先に降りた。続いて哲也が降りてきた。彼が立ち止まった瞬間、明るい子供の声が響いた――「お父さん!」優希はすぐに駆け寄り、誠也に向かって両手を広げた。誠也は屈み、両手で彼女を持ち上げ、空中で揺らした。まるで空を飛んでいるかのように感じた優希は、楽しそうに笑い声をあげた。その笑い声が庭に響き渡った。誠也は娘を抱きしめ、「お父さんに会いたかったか?」と尋ねた。「うん!」優希は小さな腕で彼の首に抱きつき、唇を尖らせて誠也の頬にキスをした。誠也は目を細め、幸せそうな笑みを浮かべた。哲也はその様子を羨ましげに見つめていた。綾は安人の手を引いて近づいてきた。綾の姿を見ると、哲也は思わず両手を握りしめた。綾は自分のことをあまり好きではないはずだ......「哲也くん、いらっしゃい。よくうちに来てくれたね」綾は優しく彼の頭を撫でながら、微笑んだ。「この前は、あなたのお母さんのことで、あなたにつらく当たってしまって、ごめんね。許してくれるかしら?」哲也は驚いた。彼は呆然と綾を見つめた。予想外の出来事に、どう反応していいのか分からなかった。しばらくして、彼は瞬きを一つし、頷いてから慌てて首を横に振った。「おばさん、僕気にしていないから」綾は屈み込み、安人に言った。「安人、こちらが哲也くんよ。挨拶して」安人は手を差し出し、「はじめまして。僕二宮安人っていうんだ」と言った。それは大人びた自己紹介だった。哲也は、
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第765話

突然の質問に哲也は一瞬戸惑った。それでも彼は優しく答えた。「違うよ、僕はもう8歳だから、幼稚園生じゃないんだ」優希は眉をひそめ、首をかしげながら、哲也のハンサムな顔を見つめた。「え?そうなの、じゃあ、私たちと一緒に幼稚園にいけないの?」それを言われ、哲也は言葉を失った。幼稚園はさすがにもう行けないな。この可愛い女の子は自分と一緒に幼稚園に行きたかったのかなあ。そう思って彼は仕方なさげに笑って言った「そうだな、幼稚園には一緒に行けないけど、お家では一緒に遊べるぞ」と言った。「わあい!」優希は哲也の手を取り、家の中に連れて行った。「じゃ、哲也お兄ちゃん、一緒に遊ぼうね。それに家は広いからずっと泊まってても大丈夫だよ。あとね、うちに可愛い妹もいるから、会わせてあげるね……」優希は哲也の手を引いて、家の中へと駆け込んだ。両親と兄は、あっという間彼女に置いてきぼりにされた。その光景に誠也は眉間を押さえた。父親として、複雑な心境だった。「哲也くんを連れてくるべきじゃなかったかな......」綾は彼を一瞥した。「子供はまだ小さいんだから、何も分からないわよ。岡崎さんみたいに、優希が男の子と仲良く遊んでるからって、心配しすぎる必要はないから」「昔は俺も彼が心配しすぎだと思ってた」誠也は少し間を置いてから、続けた。「でも今は、彼の気持ちが痛いほどよく分かる」だけど、綾はそんな風にぶつくさ言う彼に構わず、息子の手を引いて家の中に入った。......優希は哲也を二階に連れて行き、光希に会わせてあげた。その頃、光希は彩にお風呂に入れてもらって上がったばかりだった。気持ちよかったのか、彼女はベビーベッドの中で足をバタバタさせてご機嫌だった。すると、目の前に二つの顔が近づいてきた。しかも、どちらもきれいな顔立ちだった。それを見た光希はますます喜び、足をバタバタさせる力が強くなった。優希はにこにこしながら言った。「ほら見て、彼女、私たちに話しかけてるよ!」哲也はこんなに小さな赤ちゃんを間近で見るのは初めてで、珍しくてとても可愛らしく感じた。そこを安人も続けて部屋に入ってきて、三人でベビーベッドを囲み、光希の足技を見入った。彩がミルクを作り終えて戻ってくると、その光景を見て目を細めた。「光希ちゃんは幸せ者ね
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第766話

しかし、彼女が言い終わる前に男に唇を奪われたのだ。綾は目を丸くし、両腕で彼の胸を押し返そうとしたが、無駄だった。ドアに押し付けられ、激しいキスに息が上がり、彼女は足元がふらつくほどだった。すると、綾はうっかり彼の唇を噛んでしまった......そこでようやく二人とも一瞬留まった。そして男はクスッと笑った。綾は、血の滲んだ男の唇を見つめ、自分の唇をぎゅっと噛み締め、少し掠れた声で小さく言った。「血が出てしまった」それを聞いて、誠也は眉を上げた。「そんなに興奮したのか?」綾は彼を睨みつけ、怒りで顔を赤くした。「それはあなたが、あなたこそ......」彼女は、最後まで言えなかった。恥ずかしさのあまり、彼女は両手で顔を覆いながら言った。「誠也、少し落ち着いて」そう言われると誠也も、自分の様子に気づき......少し気まずそうに咳払いをして言った。「綾、俺たちは5年近くも離れていたんだ」綾は言葉を失った。そして、手を離し、呟いた。「そうね、あっという間に5年経ってしまったね」時間はあっという間だな。「俺はお前以外の女としたことがないんだ」それを言われ、綾は黙り込んだ。急にそんな話題になったので、彼女は一瞬どう反応したらいいのかがわからなかった。誠也は身を寄せ、熱い吐息を彼女の耳元に吹きかけ、低い声で囁いた。「お前も分かってるだろ?お前に対しては、俺はいつもこうなってしまうんだ。それに、こんなに長い間我慢してたんだ。仕方がないだろ?少しは大目に見てくれよ」綾は絶句した。「ふざけないで」彼女は呆れたように彼を押しのけた。「話しがあるなら、ちゃんと話して」誠也は唇の端を上げ、いたずらっぽい笑みを浮かべた。子供たちがまだ起きているので、彼も綾に何かをするつもりはなかった。しかし、長年離れ離れになってから、やっと一緒になれる日が来たのだ。男として、誠也は自分の感情を抑えることが難しかった。だが、二人の間はまだきちんと話し合う必要があった。そう思い、誠也は一歩下がり、落ち着いた声で言った。「じゃ、ちゃんと話そう」綾は彼を押さえつけた手を引っ込め、寝室の外にある小さなバルコニーを指差した。「外で話そう」......澄み渡った夜空には、無数の星が輝いていた。初と雲は、子供たちを連
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第767話

「綾、許しを請うつもりはない。もし俺を恨んでいるなら、どんな罰でも受ける。お前に何をされても、俺は受け入れるつもりだ」綾は苦笑した。「何を言ってるの?私たちの間には、もう誰も悪くない。ただ、前の結婚はあまりにも軽率だったと思う。それに、取引が前提だったから、純粋じゃなかった」「ああ、前の結婚ではお前を辛い目に遭わせてしまった。だが、安心しろ。俺は変わったんだ。もう二度と同じ過ちは繰り返さない......」「誠也」綾は静かに誠也の言葉を遮り、優しく言った。「ひとまずは恋人同士として付き合っていくのはどう?結婚の話は抜きにして、未来のことも、過去のことも考えないで、純粋に今を大切にしよう」未来のことは考えない。過去のことは振り返らない。ただ、今この瞬間を大切に。誠也は綾の後頭部を抱き寄せ、唇を重ね、深いキスをした。そして額と額を合わせ、互いの吐息が絡ませた。彼は低く笑い、ハスキーな声で言った。「つまり、俺にお試し期間を与えてくれるってことか?」「お試し期間がどれくらいかは、私が決める」綾は少し間を置いてから、付け加えた。「もちろん、その間、関係を公にはしない」それを聞いて、誠也の目には、甘い笑みが溢れた。彼は、彼女がちょっとした仕返しを企んでいることを見抜いていた。内密に結婚していた5年間、彼女を辛い思いにさせてしまったから、当然だろう。彼女が恨みを抱くのも無理はない。誠也は片膝をついたまま、彼女の目を見つめ、真剣な眼差しで言った。「ああ、今後、俺たちの間のことは全てお前が決めてくれ」綾は、床についた彼の膝に視線を向け、手を伸ばして彼の腕を引っ張った。「立って」誠也は眉を上げた。「もう俺のことを心配してくれるようになったのか?」「違う」綾は真剣な表情になった。「あなたはこれでも元和平部隊に参加していたんでしょ」命をかけて世界の平和を守ってきた英雄が、こんな風に卑屈になってはいけないと彼女は思ったのだ。誠也がなかなか立ち上がらないので、綾はもう一度促した。「誠也、立って」誠也は仕方なく笑い、言われた通りに立ち上がった。そして彼女の隣に座ると、彼は彼女を腕の中に抱き寄せた。綾は彼の胸に寄り添い、顔を上げると満天の星空が広がっていた。夏の夜風が吹き抜け、彼女の柔らかい髪が揺れ、数本
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第768話

夜は深まり、あたりは霧に包まれ、虫の音が響いていた。浴室では、綾がお湯が注がれたバスタブに、数滴の漢方アロマオイルが落とした。このアロマオイルは仁が独自に開発したもので、リラックス効果と睡眠効果がある。ここ数日、色々なことがあって疲れていた。今日はようやくリラックスできたから、綾はどっと疲れが出てきたように感じた。そう思った彼女は風呂に浸かると、すっかり体の疲れがとれた。ほどなくして、彼女は浴室のドアが開け、バスタオルを羽織り、頭にタオルを巻いて出てきた。そして鏡台の前に座ると、スキンケアを始めようとした。すると、部屋のドアをノックする音が聞こえた。綾は少し動きを止め、「鍵はかけてないから」と言った。そこへ、誠也がトレイを持ってドアを開けて入ってきた。トレイの上には温かいミルクが置かれていた。「温めたミルクだよ」綾は鏡越しに彼を見た。いい大人同士、しかもよりを戻したばかりの元夫婦。彼がこのミルクの真の目的を、二人とも分かっていた。綾は、包帯を巻かれた誠也の指を見て、思わず笑ってしまった。「もういい加減にしてよ」誠也は、自分の気持ちがバレて気まずくなるどころか、むしろニヤリと笑った。そして、彼女が嫌がっていないのを見て、さらに当然のように振る舞った。彼はトレイをテーブルに置き、振り返ってドアを閉めた。カチッと鍵をかける音がした。綾は眉を少し上げて言った。「誠也、ここに泊まっていいなんて言ってないわよ」それを聞いて、誠也は後ろに回り、両手を彼女の肩に置いた。綾は、お風呂上がりで、全身がほんのりピンク色に染まり、潤んだ瞳が輝いていた。まるで、絵に描いたような美しさだった。それを見た誠也の胸の鼓動は、高鳴るばかりだった。ゆっくりと体を倒し、顔を近づけ、鏡越しに彼女の瞳を見つめた。低い声で、誠也は言った。「綾、変な風に思うなよ。ただの癖で鍵をかけただけだ」綾は言葉に詰まった。この男、なにを言い訳にしてるんだろ。そう思いつつも、彼女は唇を噛み締め、彼の思惑を問い詰めるのはやめた。むしろ、少し期待していた。彼女は5年の間に、彼の図々しさはどれほど進化したのか、試してみたくなったのだ。誠也は立ち上がり、引き出しを開けた。「ミルクを飲んでてくれ。髪を乾かしてあげる」
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第769話

ここまで来たら、流石の誠也でも、綾の行動がわざとだと気付いた。男は切れ長の目を細め、化粧気のない彼女の顔を見つめた。「綾、何を怖がってるんだ?」綾は動きを止め、聞こえないふりをした。「別に怖がってなんかいないよ」彼女は彼を見て聞き返した。「ミルクも飲んだから、もう戻って休んだら?」「お前を待ってるんだ」「待つ必要なんてないでしょ」綾は少し唇をあげ、彼の誘いに乗らなかった。「怪我人は早く休んだ方がいいのよ」「昨夜は手袋をして髪も体も洗ったんだが、すごくやりにくくて、全然洗えた気がしないんだ」「......数日だけのことなんだから、我慢して」「体はともかく、頭を洗うのは本当に大変なんだ」誠也は真面目な顔で言った。「頭皮をマッサージすると、傷口が痛むんだよな」綾は何も言えなかった。「綾、俺は図々しい男じゃない。お前が恥ずかしがり屋だってことも分かってる。だから、風呂に入るのを手伝ってくれなんて、言わない」それを聞いて、綾は深く息を吸い込んで答えた。「分かってくれてるならいいけど!」「でも、髪を洗うくらいならいいだろ?」誠也は彼女の目を見て、低い声で囁くように言った。「今まで何度も俺がお前の髪を洗ってやったんだから、一度くらい、お前が俺の髪を洗ってくれてもいいんじゃないか?」綾は何も言えなかった。以前は、いつも彼女は浴槽に浸かり、上を向いて、誠也に髪を洗ってもらっていた。「綾、髪を洗うだけだ」髪を洗うだけなら、確かに気にすることはない。「いいよ」綾は立ち上がり、「着替えてくるから、先に上へ......」と言いかけた。「俺のゲストルームには浴槽がないんだ」綾は動きを止め、男を横目で見た。誠也は彼女を見て、真面目な顔で言った。「お前の浴槽を貸してくれないか?」綾は唇を噛んだ。よりを戻したばかりなのに、浴槽を貸すのを渋るのは、さすがに冷たすぎる。そう考えた綾は頷いた。「分かった」......了承をもらった誠也は着替えを取りに上の階へ上がった。綾は浴室に入り、浴槽を軽く洗ってから、お湯を張り始めた。誠也が戻ってきて浴室に入ると、ちょうど綾が浴槽の縁に座り、少し前かがみになってお湯の温度を確かめているところだった。そのバスローブの襟元が大きく開いていた......それを見た
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第770話

誠也は綾の視線に気づいたのか、こちらを振り返った。目が合った二人は見つめあった。綾はドキッと胸が鳴り、慌てて手袋を差し出した。「どうぞ」誠也は唇の端を上げて微笑んだ。「ああ、そこに置いてくれればいい」綾は手袋を置いた。そして、シャワーヘッドを取りながら、「頭を後ろに傾けて......」と言った。誠也は彼女に言われたまま素直に後ろに頭を傾けた。綾は片膝をついて彼の髪を濡らし、シャンプーをつけた。男の人の髪を洗うのは初めてだった。誠也の髪は硬くて量も多く、少しこするだけでたっぷりの泡が立った。彼女は柔らかな指先で、優しく彼の頭皮を揉みほぐしていった。誠也も目を閉じ、徐々に体をリラックスさせていった。男の髪は短いから、洗うのはあっという間だ。洗い終わると、綾はタオルで彼の頭を拭き、立ち上がった。「あとは自分でやって。私はもう行くね」しかし、誠也に腕を掴まれた。綾は驚いた。誠也は彼女を見ながら言った。「もう一つ、わがままを聞いてもらってもいいか?」綾は呆れて笑った。「わがままだって分かってるくせに、よく言えるわね!」「分かってる」誠也は小さく笑い、「でも、お前は俺を拒否できないはずだ」と言った。「できるわよ」綾は彼を睨みつけた。「誠也、手を離して」「背中を流してほしいだけなんだ」彼は彼女を見つめた。「一度だけでいい」「誠也!」綾は歯を食いしばった。「いい加減にして!」「ただ、妻に背中を流してもらいたいだけだ」「誰が『妻』って?」「ああ、そうか、妻じゃないな。恋人だ」誠也は低く、そして少し甘えた声で言った。「恋人だから、背中を流してくれてもいいだろう?」綾は目を閉じ、こんな誠也には敵わないと思った。彼女はボディスポンジを取り、ボディソープをつけると、彼を睨みつけた。「ちゃんと座って」誠也は唇の端を上げ、素直に姿勢を正し、背中を向けた。綾は彼の背中を流した。片手が不自由なのを思い、ついでに腕も洗ってやった。その時、男の腰にある傷跡に目が留まった。これは......自分が刺した傷?後ろの女が急に手を止めたので、誠也は眉をひそめ、不思議そうに振り返った。綾は指先でその傷跡に触れた。誠也はドキッとし、すぐに身をかわした。綾は顔を上げて彼を見た。「
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