All Chapters of 捨てられたΩは沈黙の王に溺愛される: Chapter 11 - Chapter 20

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第10話:心の中の声

東門に立つ任務は、単調で、冷たい。風は絶えず吹きつけ、石畳の地面がじんわりと足の裏を冷やす。通行人は誰も彼を見ようとしない。けれど、まるで全員の目線が同時に突き刺さってくるような感覚があった。「……あれ、何もしないで立ってるだけだろ」「命令だってさ。それにあの見た目だ。……総帥もお盛んなのかもな」後ろから兵士たちの小さな声が聞こえる。わざとらしく笑う音も混じる。リリウスは、聞こえなかったふりをしていた。否、聞こえてはいたが、反応することに意味を見出せなかった。(ここにいるって、選んだのは僕だ。なら、耐えるのも、義務だ……それに、あそこよりはマシだ)静かに、ゆっくりと呼吸を整える。目の前を、さまざまな人々が行き交っていた。農民、行商人、旅人、子ども。それぞれの心が、わずかに、風のようにすれ違っていく。──その中に。不意に、何かが刺さった。(……痛い?)明確な言葉ではない。けれど、何かの感情の塊が、胸の内側を強く押してくる。立ち止まったまま、リリウスは目を瞬かせた。目の前を通ったのは、ただの男だった。ごく普通の旅装束。表情も特別に険しくはない。けれど、すれ違った瞬間に、焼けるような“憎しみ”が流れ込んできた気がした。(あれは……)一歩、足が前に出る。その感情は、通りすがりの一瞬のもので終わらなかった。背中越しに離れていくその男から、いまだに何かが尾を引いている。「……すみません」隣に立っていた兵士に声をかける。「今、通った男。記録を取ってますか?」「は? ……ああ、名簿確認してるから番号は取れてると思うが……おい、どうした?」リリウスの顔色が、少し青ざめていた。「妙な感情が──感応です。まだ完全じゃないけれど、何か……強いものがありました」「お前……分かるのか?」兵士の声が変わった。「とにかく、報告します。記録を調べてもらえますか?」そのやり取りの向こうで、誰かが小さく口笛を吹く音がした。「へえ……使えるじゃん」皮肉か、驚きか、リリウスには判断がつかなかった。その時だった。「特徴を言え」低く、よく通る声。振り返ると、カイルがそこにいた。いつ現れたのかも分からないほど、自然に立っていた。リリウスは一瞬、息を呑む。けれどすぐに視線をそらさずに、言った。「服装や顔立ちは普通でした。ただ……背中か
last updateLast Updated : 2025-05-17
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第11話:感応の先に

門番の任務を終えて部屋に戻ったのも束の間、リリウスは再び呼び出された。「記録室だ。すぐ来てくれ」迎えに来た兵士は無表情でそう告げる。カイルの指示だという。通されたのは軍の内部資料が集まる管理棟の一室。書類の匂いと乾いた紙音が、そこかしこに満ちていた。「さっき通過した男の通行記録だ」兵士が一枚の報告書を差し出す。「名前は“レナルド”。出身は国境沿いの街。特筆すべき経歴はない。行商を名乗っている」表面上は、どこにでもいる市民のひとり。だがリリウスは、その紙を手に取った瞬間、胸の奥にかすかな圧迫感を覚えた。(これだ。やっぱり、この男──)紙に記された情報に矛盾はない。けれど、それでも違和感が消えなかった。「この経歴、空白期間があります。過去二年分の記録がほとんど抜けている」「行商ならよくあることだ。旅先の記録まで全部残ってるわけじゃない」記録係の軍人が無関心に言う。だがリリウスは食い下がる。「……この空白は、ただの偶然じゃない。感情が歪んでる。何か隠してます」「証拠がなきゃ動けない」「でも……」「続けろ」低く鋭い声が、部屋の空気を裂いた。リリウスが顔を上げると、扉の向こうにカイルが立っていた。「証拠がないからこそ、“兆し”を見るんだ」カイルは無言のまま室内に入り、リリウスの手元の書類を覗き込む。「お前の感応。どこまで確かなんだ」「……断定はできません。けど、あの瞬間、あの男から発されたものは──ただの敵意じゃない。制御された“憎しみ”です」「制御された?」「はい。抑え込んだ感情の底に、明確な方向性がありました。誰かの命令を遂行するような……そんな感触」カイルの目が細まる。「文官。対象者の過去二年の行動履歴を別ルートで洗い直せ。交友、金の流れ、出入りした都市全てだ」「了解しました」記録係がすぐに動く。カイルはしばらく黙っていたが、やがてリリウスに向き直った。「俺は、“使える駒”かどうかにしか興味はない。……だが今のお前は、間違いなく役に立っている」「……それが、僕の価値ですか」「違うとは言わない」カイルは、口の端だけでかすかに笑った。「だが“役に立つ”ことが、人の価値のすべてだとも思っていない」リリウスはその言葉に、どう返せばいいのか分からなかった。けれど、胸の奥がわずかに揺れたのは確かだった
last updateLast Updated : 2025-05-18
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第12話:感応の証明

先日、門番の任務をもらってからこちら、リリウスは同じような任務についていた。今の所、あのようなことはなくこの国の風景にも少し慣れてきたところだ。今日は朝からカイルのいる執務室に呼び出されていた。「あの男は、どうなったんですか……?」リリウスの問いは、空気の温度をわずかに変えた。言葉に出したとたん、自分の声がわずかに揺れていることに気づいた。慣れてきたと思っていたのは、ただ“何も起きなかった”だけなのかもしれない。あの圧だけは──まだ、胸に残っている。冷えた空気のなかで、副官が一歩前に出て、答えた。「通行記録の男、まだ市内に潜伏中だ。監視網に引っかかってはいないが、複数の目撃情報はある」曇天の空から光が差し込むその部屋には、軍人たちの無機質な靴音と書類の擦れる音だけが響く。その中で、リリウスの心だけが、妙に騒がしく脈を打っていた。(まだ、いる──なら)「もう一度、見に行かせてください」そう言ったリリウスに迷いはなかった。副官が眉をひそめる。「まだ完全には癒えてないだろう。昨日の反応でも、身体に負荷が──」「分かってます。でも……確かめたい。前回の感応が偶然だったのか、それとも──本物だったのか」言葉を遮るように入ったその声に、室内が静まった。「……お前の意思か」その問いは、カイルだった。何の装飾もない低い声。けれど、明確に“命令ではなく選択”を促すものだった。リリウスは、まっすぐに頷いた。「はい。僕自身の判断で、確かめに行きたい」数秒の沈黙。カイルは椅子から立ち上がり、リリウスの前へと歩み出た。金の瞳が、わずかに細められる。「いいだろう。……だが深入りするな。兆しを読むだけでいい。副官、付き添ってやれ」その口調に、注意と信頼が同居していた。リリウスはほっと息をつく。だが、次の瞬間、カイルは声を低くして言った。「その力は、簡単に喰われるぞ」囁くような声。まるでリリウスの耳にだけ届くような深度。リリウスは反射的に肩をすくめた。けれどその背筋の寒気は、恐怖ではなかった。(分かってる……それでも)彼は胸の奥で、静かに覚悟を固めていた。ここで生きていくには“役に立たねば”ならない。これが、“自分の力”だと証明するために。 再び市街へ出る。朝の光のなか、喧騒に紛れて人々が行き交う。昨日と変わら
last updateLast Updated : 2025-05-19
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第13話:兆しの影

あれから更に数日が経った。レナルドの行方は依然不明。だが、街の警備態勢は強化され、リリウスの名も徐々に軍の中で広まりつつあった。「お前の読みは当たっていた。……と、上層部も言ってる」副官がぼそりと告げたのは、執務室からの帰り道だった。「……ありがとうございます」感謝の言葉は自然に出た。けれど、それで胸が晴れることはなかった。(本当に“当たった”のか。あれは──)記憶。映像。炎。倒れた誰か。祈りの声。(あれは、誰の記憶だったんだ……?)レナルドのものなのか。それとも、自分自身の記憶が歪んだのか。分からないまま、それは脳裏に繰り返し焼きついていた。もとよりこういう方法で力を使ったことはない。どちらかと言えば、この力は厄介なものでしかなかった。それが今は“役に立つもの”になりそうなのも不思議だった。(そうか。この力が──あの人は嫌だったのかもしれないな)打ち捨てられた日を思い出す。小さくリリウスが息を吐き出し、窓の外を見つめる。厚い雲が日差しを遮っており、今の自分とよく似ているな、とリリウスは苦笑を落とした。※「感応で得た内容を、言葉にできるか」カイルの問いは、唐突だった。「……今、ですか?」「覚えているうちにな。時間が経てば、曖昧になる」静かな執務室。陽のが」わずかに差す窓辺で、リリウスは机に向かう。紙とペンが用意されていた。「言葉でなくてもいい。お前の方法で記録しろ」副官が無造作にノートと鉛筆を渡す。「……どんなものでもいいんですか?」「絵でも図でも構わない。主観でいい」リリウスは頷き、鉛筆を握った。白紙を前に、記憶の断片を引きずり出す。天蓋が崩れた瞬間の影。炎に包まれた広場。膝を抱える少女。──そして、腕輪。焦げた金属が、誰かの手首に食い込んでいた。(あれは……)手が止まった。心臓が早鐘のように打ち出す。目の奥が熱い。「無理するな」カイルの声が響く。だが、止まらなかった。リリウスは震える指で線を引き、色を塗るように、思い出を定着させていく。時間がどれだけ経ったのか分からない。描き上げた紙を、カイルが無言で手に取った。その目が、わずかに細まる。「これは……」「何か、知ってるんですか」「この構図。十数年前、国境紛争のさなかに起きた、ある神殿襲撃事件と酷似している」
last updateLast Updated : 2025-05-20
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第14話:火種の下にて

「結論から言えば、実用に足る──ただし、条件つきだ」そう告げたのは、カイルだった。会議室の空気は冷たく、硬い。中央の円卓を囲むのは、この拠点の上層部。制服の襟に並ぶ勲章の数と比例するように、視線は鋭く、時に冷ややかだった。リリウスはその場に同席していた。壁際の椅子。発言権はなく、ただ静かにカイルの背を見つめる。「感応とは、確かな情報ではなく、情緒や断片の共有に過ぎん」老将が口を開いた。「そんな曖昧なもので兵を動かせるのか? ましてΩの直感にすぎんものを」「兵を動かすのは俺だ。情報の価値を判断するのも、俺だ」カイルの言葉に、室内の空気がわずかに揺れた。「それに──“使えるか否か”を決めるのは、結果だけだ」誰も言葉を返さなかった。※会議の後、リリウスは人気のない廊下を歩いていた。(僕は……本当に、使えるのか)正式に軍の前線に立つことも、戦場に出ることもない。けれど今、確かに“戦力の一端”として名が挙がった。そのことに、責任よりも先に、違和感が湧いていた。(この力は、なんなんだ)他人の記憶が流れ込む。過去の断片が心を焼く。だがそれは、他人だけのものとは限らない気がしていた。“誰の祈りか分からない”その感情が、なぜ自分に繋がるのか。通りかかった際に聞こえた何気ない会話がその疑問にひとつの輪郭を与えた。「昔、あのΩと似たような“感応持ち”がいたらしいな」「え……」「十年以上前。前線に出てた兵の中に、敵の気配を“読む”ってやつがいた」「それって、どうなったんですか?」兵士はほんの一瞬だけ、口を噤んだ。「任務中に失踪した。感情を見過ぎたせいで、自分の心を見失ったって噂だ」リリウスは何も言えなかった。言葉にすれば、揺らいでしまいそうだったから。一つ息を吐いて、その場を足早に立ち去った。夜、リリウスはまた机に向かっていた。白紙の上に、鉛筆の線を走らせる。目的は“報告”ではなかった。──自分が、何を見たのかを、理解するため。輪郭、色、光、匂い。あの場の空気を、記憶から掬い上げるように描いていく。そのとき、ふと気づいた。自分がその場に“立っていた”のではなく、“俯瞰していた”ような視点で描いている。いや──いや、違う。(この視点……僕じゃない……)その確信に、手が止まった。胸の奥に、ひやりとした波が広がって
last updateLast Updated : 2025-05-21
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第15話:記憶の奥にて

──お前が見ていたのは、俺の記憶かもしれん。カイルの声が、夜の静けさに溶けていた。それなのに、耳の奥にずっと残っている。翌朝、リリウスは早くに目覚めていた。体は少し重い。それでも、今は別の“重さ”の方が気になっていた。(あれが、カイルの記憶……なら、僕が感じた“感情”も、彼のもの?)命令の声。崩れる神殿。焼ける祈り。昨日描いたスケッチを手に取り、静かに机に向かう。「もう一度、見せて……」誰にともなくそう呟いて、意識を深く潜らせる。紙に残された線、色、構図。それをなぞるように、記憶の扉がゆっくりと開いていく。──風の音。熱。涙の匂い。そして、聞こえた。「進軍を許可する」「Ωは隔離。感情の揺れに巻き込まれるな」鋭く、冷たい命令の声。けれどその裏に、どこかで叫ぶような苦しみもあった。(この声……カイルだ)若い、まだ未熟さが残る声。でも、それでも彼は命令を下していた。兵士として、王の血を背負う者として。その記憶がリリウスの胸に流れ込む。次の瞬間、視界が弾けた。痛み。激しい眩暈。「──っ!」鼻血が落ちる。額を机にぶつけかけ、慌てて手をついて支える。呼吸が浅くなる。意識が遠のく。(やっぱり……これは“見る”だけじゃ済まない)それでも、逃げなかった。(ここで止めたら、僕は何も変われない) リリウスはフラつく足取りのまま、執務室へ向かった。カイルは既に資料に目を通していた。その気配はいつも通り。淡々として、冷静だった。「カイル様」「感応の続きか」「……はい。少し、確信が持てたんです」カイルが視線を上げる。「あなたは、あの場で“命令をしていた”。それも、迷いながら」「……よく見えていたな」「つまり、僕が視ているのは“記録”じゃない。“あなたの感情そのもの”なんです」カイルの表情は変わらない。だが、その目がわずかに揺れていた。「感応とは、そういうものなのか」「……たぶん。繋がった相手の“最も強い感情”に、引っ張られる」沈黙が落ちる。けれど、その沈黙は拒絶ではなかった。「それで? 何を確かめたい」「……この力の出どころです。僕が拾ってるのは、他人の感情か、それとも──もっと別の何かか」カイルは立ち上がり、窓の外に視線をやった。「その答えは、案外すぐ見つかるかもしれん」「え?」カイル
last updateLast Updated : 2025-05-22
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第16話:灰の祈り

神殿跡地へ向かう馬車の中、リリウスは何度も指先を握っては開いた。空気が重い。言葉を発せば、それが砕けてしまいそうで、何も言えなかった。カイルが隣に座っていた。窓の外を眺めていたが、突然声を落とした。「見たくないなら、帰ってもいい」「……いいえ。僕の力が反応した場所なら、僕自身が確かめなければ」カイルはそれ以上何も言わなかった。馬車の車輪が小石を踏む音だけが、しばらく続いた。※神殿跡地は、想像していたよりもずっと静かだった。柱は焼け落ち、天蓋は失われ、苔むした石畳がその下に広がっている。空は灰色、陽も差さない。まるで、この場所そのものが、まだ“過去”に留まっているかのようだった。周囲を警備する兵士たちは、神妙な面持ちで距離を取っていた。「呪われた土地」「誰も近づきたがらない」──そんな言葉が漏れ聞こえる。それでも、リリウスは迷わず奥へ進んだ。足元には、焼け残った祈祷道具が散乱していた。焦げた金属の輪、煤けた布片、剥落した装飾壁。なぜか、それらが懐かしくすら思えた。見たことのないはずの風景に、胸の奥がざわめく。(僕……ここにいた?)そんな錯覚さえ、否定できなかった。「……あの夜」不意に、カイルが口を開いた。「俺はこの神殿に“命令を実行する者”として来た」リリウスは振り返らなかった。ただ耳を澄ませた。「神殿に潜伏していた反乱分子を排除せよ──それが任務だった。だが現場に着いたときには、すでに内部で何かが起きていた」「……焼かれていた?」「いや、“祈っていた”」その言葉に、リリウスの足が止まった。「誰かが、何かにすがるように祈っていた。俺には意味が分からなかった。……ただ、剣を収めた」それが、カイルの語る“過去”だった。リリウスはゆっくりと、神殿の中央──かつて祭壇があった場所へ歩み出た。焦げた大理石。その上に立った瞬間、空気がわずかに変わった。(……ここだ)立っているだけで、皮膚の下に何かが染みてくる。記憶でも、魔力でもない。もっと曖昧で、それでも確かに“残されている何か”。目を閉じる。風の音が止まる。灰色の世界のなかに、微かな光が現れる。──誰かの声。『お願い……まだ、生きていて……』子どもの泣き声。祈る声。それが、焼け落ちた空の中に響いていた。「──っ……!」頭が、軋む。世界
last updateLast Updated : 2025-05-23
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第17話:記憶の祈り

──祈りは、終わっていなかった。焦げた世界が静かに反転する。焼け落ちた神殿の瓦礫が逆巻き、空へ戻り、崩れた柱が立ち直る。そしてそこに、リリウスは立っていた。見たこともないはずの神殿の中。けれど、その空気の重さと、石の匂いは確かに“知っていた”。祭壇には灯りがあり、儀式の装飾が整えられている。誰かが祈りを捧げ、誰かが歌を歌っていた。その最奥。リリウスの方を、ひとりの少女がじっと見ていた。細い体。灰色の衣。瞳は薄い琥珀。その目に映るものが、恐れではなく、静かな覚悟だったことをリリウスはすぐに理解した。「……君は」声を出したつもりだったが、音は空気に溶けた。少女は何も言わない。ただ視線を逸らさず、胸に何かを抱えていた。それは、小さな祈祷書──あるいは、“封”そのものかもしれない。視界が揺れた。次の瞬間、外から轟音。神殿の壁が震える。兵の怒号。足音。祈りの声が掻き消されるようにかき乱されていく。少女がそれでも動かず、ただ強く祈る姿が焼き付く。その口元がわずかに動いた。「──封じなければ」言葉ではなかった。けれど、確かに伝わってきた。彼女は何かを“閉じ込めていた”。それが“焼かれた理由”だった。「君は、ここに残ったんだ……」リリウスの胸に言葉が浮かぶ。──あの子は、まだ祈っている。その瞬間、世界が激しく割れる。天井が崩れ、火の手が回る。空間が赤く染まる。リリウスは倒れそうになりながらも、少女の方へ手を伸ばした。だがその指先に届く前に、別の“気配”が現れた。冷たい、深い、底のない何か。──視てしまったのか。耳元で、誰かが囁く。──まだ早い。目を閉じろ。沈め。戻れ。声は感情ではなかった。意志そのものだった。(……誰?)問いは届かなかった。少女の姿が遠ざかり、神殿が崩れ、火に呑まれていく。──すべてが灰に還る直前。リリウスはようやく、自分が“視てはいけない何か”を跨いだのだと知った。※現実に戻ったとき、世界は静かだった。カイルの腕の中、リリウスは目を開いた。薄く光の差す空が見える。「……生きてる」そう呟いたのは、どちらか分からなかった。「目は覚めたか」カイルの声。リリウスは小さく頷いた。「……“あの子”がいた。まだ、そこに」「視たのか」「はい。神殿の中。祈っていた。僕
last updateLast Updated : 2025-05-24
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第18話:視る者を縛る者

──祈りは、終わっていない。その言葉が、リリウスの中で何度も反響していた。療養中の部屋。結局、リリウスはあの後熱を出し、数日間伏せっていた。ようやく熱も下がり、身体は多少重いなりにも動くようになっていた。けれど、心の方は静まらなかった。机には、何枚もの紙が並べられている。感応で視た神殿の構造。封印の儀式。少女の姿。そして、その場に立っていた自分の足元。「僕にしか、伝えられないなら──やるしかない」手は止まらなかった。記憶を線に変え、祈りを図にし、わずかな断片を繋ぎ合わせていく。そのときだった。扉の向こうから、重い足音。現れたのは副官。そしてその後ろに、軍の高官がいた。「リリウス・クラウディア。上層部の命令だ。本日より、神殿事件に関するすべての調査・接触を禁ずる」言い換えれば、能力の使用制限。「体調の安静を理由に、別棟での療養へ移ってもらう」それは“保護”の名を借りた、事実上の隔離だった。「理由は……?」「お前の力が、暴走の危険を含むと判断された」副官は口を噤んだまま目を伏せていた。(視た者は……縛られるのか)リリウスの中に、熱が広がった。※その夜、部屋の灯りは落とされていた。けれどリリウスは眠っていなかった。扉の下から差し込むわずかな光。机の上に残した手紙には、短くこう記してある。──見捨てることは、できません。彼は軍服ではなく、旅装に身を包んでいた。古い外套を羽織り、薄くした荷物を背負う。(祈りの続きを知るには、“あの人”に会うしかない)副官が教えてくれた名──マルティナ神父。十数年前の神殿で祈祷を司っていた最後の生き残り。今は北の山間、祠の奥に庵を構えているという。「一晩で辿り着くのは無理でも……」窓を開けて外に出る。夜風が冷たく頬を叩く。でも不思議と痛くなかった。誰かに見つかる前に──と、足を進めたそのとき。視線を感じた。振り返ると、遠くの書斎の灯りがゆらいでいた。誰かが立っている気配。けれど確かめることなく、リリウスは闇へ溶けた。※書斎の中、カイルは窓辺で立っていた。月明かりに照らされた紙の上には、リリウスの走り書きが一枚。「……行ったか」背後から副官が現れる。「追いますか?」「そうだな……しかし」カイルは静かに言った。「まずは、見せてもらう。“視た者の行
last updateLast Updated : 2025-05-25
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第19話:語られざる祈り

夜が明けきる前、リリウスは山道をひとり歩いていた。細く折れた枝、湿った空気、苔に沈んだ足跡。森の奥に、灯火がひとつ、微かに揺れている。それが、目指す場所だった。古びた祠を抜けた先に、小さな庵があった。屋根は斜めに傾き、扉も重そうに閉じられている。それでも、そこには人の気配があった。──あの神父が、生きている。リリウスが一歩踏み出すと、扉がわずかに軋みを立てて開いた。「……君か」静かな声だった。立っていたのは、白髪の神父だった。目は細く、皺の刻まれたその表情には、どこかで見たような祈りの残響があった。「名を」「リリウス・クラウディア」その名を聞いた瞬間、神父の目がうっすらと開かれた。「……やはり。あの時、記録に残した名だ」「記録……?」神父は扉を開け、リリウスを中へ通した。※庵の中は、祭壇こそないが、空気が神殿に似ていた。石壁にかかる古布、焼け跡の残る祈祷具。それらすべてが、彼の記憶と重なる。「君は、“視える”のだろう」「……はい。感応で、神殿の中にいた少女を視ました」神父は頷き、椅子に腰を下ろした。「彼女は、祈祷に選ばれた子だった。あの地に封じるために。いや、“彼女自身”を封じるために、あの儀式は行われた」「なぜ……そんなことを」「彼女は、視えすぎた。感情の奔流に晒され、世界を取り込むようになってしまった。あのままでは、彼女自身が壊れる……あるいは、“誰かを壊す”」リリウスは息を呑んだ。「だから封じた。彼女の“祈り”を鍵としてな」「その祈りが、今も……」「続いているのだろう。でなければ、君のような者が、こうして現れるはずがない」リリウスは拳を握る。「僕が視た彼女は、まだ“そこ”にいた。崩れる神殿で、祈りを続けていた……」「それが、封印の証だ。だが、封は弱まりつつある」神父の目が、深く沈む。「君は、彼女と“繋がった”のかもしれない。血ではなく、魂の共鳴で」「……僕の力は、彼女に由来している?」「断定はできない。ただ、君の名はあの地で既に記されていた」「それは──」問いかけようとした瞬間、外から足音が近づいた。振り返った庵の入口に、ひとりの影が立っていた。カイルだった。「……あまり勝手をするな」カイルの声は低く抑えられていた。次の瞬間、彼の腕が伸びる。リリウスの肩に触れ──その
last updateLast Updated : 2025-05-26
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