All Chapters of 捨てられたΩは沈黙の王に溺愛される: Chapter 41 - Chapter 50

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第40話:呼吸の外側

冷たい夜気が石造りの廊下を舐めていく。リリウスは身を屈め、セロの背を追って足早に進んでいた。塔を抜け、王城の西翼から裏庭の回廊へ。封印が緩んだのはほんの一瞬。それでも、機を逃さなければ道は開ける。「こちらです。気配を抑えて」先導するセロは、まるで気配を消すように動いていた。足音ひとつ立てず、壁の影に溶け込む。リリウスも息を潜める。自分が今、どれだけ危うい賭けに身を投じているかを理解していた。それでも、立ち止まるわけにはいかなかった。(……あの人が、呼んでいる)肌の奥で微かに震える感覚。言葉でも気配でもない。ただ確かに、胸の奥で呼吸と共鳴するような“何か”があった。──必ず、帰ってこい。カイルの声が、意識の底から浮かび上がる。温かく、しかし凛とした声色。その一言に、今のリリウスは命を賭けられる気がしていた。リリウスは一度だけ振り返った。遠く、王城の塔の上に燈る灯。あの中にまだ、自分を閉じ込めようとする誰かがいる。だが、その中に留まる必要は、もうなかった。「行こう」通路に身を滑らせた瞬間、湿った土の匂いと共に、自由の気配が確かに背中を押した。※──その頃、王城・執務室。レオン=アルヴァレスは、錬金術式の小瓶を手に沈思していた。「……まだ捕まらないのか」侍従の報告は変わらない。リリウスが逃げ出して、まだそう時間は経っていない。しかしクラウディアがいる以上、気は抜けない。「封印の再点検は?」「現在、城内術士が確認中ですが……いくつかの術式に微弱な破損が」レオンは立ち上がった。「全館封鎖。南側通路と塔の回廊、地階の抜け道……すべて閉じろ。どこか一箇所でも開けておけば、逃げる」「承知しました。……ただ、殿下……」「何だ」「これは……“本気で逃げる者”の痕跡です。リリウス様は……戻る気は、ないのではと」一瞬、執務室に沈黙が流れた。レオンの目が、わずかに揺れた。「……だったらどうする」自分の意志で逃げた。それを追いかけてまで、繋ぎとめる意味はあるのか。かすかに脳裏をかすめた思考を、彼は強引に振り払う。それでも、と思う。「俺の番だ。……あいつは俺のものだ。逃がすな」低く絞り出すような声。その声にこそ、彼自身の執着と恐れが滲んでいた。※同じ頃、国境付近──クラウディアの先遣部隊が、静か
last updateLast Updated : 2025-06-16
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第41話:影の導線

湿った空気が、地下の通路を這うように流れていた。古くから閉ざされていた王城地下の水路──今はもう、ほとんど使われることのない“遺構”だった。天井は低く、壁は苔と埃で黒ずんでいる。足元の石畳からは濁った水が染み出し、滑りやすくなっていた。リリウスは息を詰めるようにして、その水路を進んでいた。後ろにはセロ。彼は先の抜け道からずっと、振り返るたびにリリウスの無事を確かめるように動いている。「……あと少しです。あの曲がり角の先が外縁。そこに抜け口があります」囁くように言った声は、普段よりも張り詰めていた。(やっぱり、緊張してる……)リリウスはセロの背を見つめながら、自分でも意外なほど冷静なことに気づいていた。逃げ出す前夜まで、震えることすらできなかったのに。それなのに今は──こうして息を潜めながら、先へ、先へと歩を進めている。「ここから上がりましょう」セロが鉄梯子を示す。だがその瞬間、どこかで石が弾けるような音がした。「伏せて!」鋭く叫んだ声と同時、通路の奥で火花が散った。細身の刃が、警告もなく飛来する。セロがリリウスを庇うように身を翻えす。──ガキィン!火花が散る。セロの短剣が相手の刃を受け止めていた。「二重スパイです。城内に潜んでいた──!」相手は黒衣の男。気配を殺す技術は熟練のもので、間合いに入るのも一瞬だった。セロは応戦するが、鋭い動きで右肩を斬られる。「っ……!」リリウスは咄嗟に、手を伸ばして術式を展開した。掌に浮かんだのは、極小の光の針。痛みと疲労でうまく制御できないが、それでも。「──っ離れて!」針が放たれ、敵の視界に閃光が走る。一瞬、動きが止まる。セロはその隙に体を引き、リリウスを引き寄せて跳躍した。「今です!」梯子を一気に駆け上がり、蓋を押し上げる。外気が、夜の風が、肌を撫でた。「……はっ、は……」息を切らしながらも、リリウスは空を見上げた。見慣れた王都の夜空。それがこんなにも“遠く”にあったなんて。「大丈夫ですか、殿下……っ」セロが片腕を押さえながら立ち上がる。肩口の服が血で濡れていた。「ごめん、その傷……僕のせいで……」「違います。僕の仕事です。……けど、逃げ切れたのは、殿下の術のおかげです」セロは短く、笑った。「意外でしたよ。攻撃系、苦手だとお聞きしてたので」
last updateLast Updated : 2025-06-17
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第42話:追尾者の瞳

王城南側の展望回廊で、獣のような男が地を這うように身を伏せていた。「……残ってる。微かだが、確かに“匂い”がある」その男──ギルハルトは、王城直属の追跡兵部隊の筆頭。獣種のベータ。特異な嗅覚と脚力で知られ、戦場では“王の牙”と呼ばれる。床に手を這わせ、苔の間に染みついた湿気を一息吸い込む。「これは……セロと、もう一人。リリウス殿下で間違いない」静かに立ち上がる。背後で控えていた副官が一礼した。「追尾部隊、配置済みです。出口の候補は三箇所。内二箇所は既に封鎖が完了しています」「それで十分だ。だが、こちらが最短だと睨んでいる」ギルハルトは無言で西の方角を指差した。夜の風が、湿った石壁を舐めるように吹き抜けていく。「“追わせろ”。殿下の命令だ。だが“捕らえろ”ではない。“潰せ”でもない。“連れ戻せ”だ」「了解しました」ギルハルトの口元に、獣じみた笑みが浮かぶ。「つまり、“匂いを断たせるな”ってことだ」彼の足元に、四肢で立つ白銀の影が現れる。狼型に姿を変えたもう一体のベータ。人語は失っているが、意志は伝わる。「行け、“ハーグ”。鼻を使え。俺が追う」その一言で、銀狼は一閃の風となって闇に溶けた。※「……誰か来てる」耳を澄ませるまでもなく、セロの声には緊迫が滲んでいた。リリウスもすぐに感じ取る。森の葉が揺れる音、湿った土を踏む重い足音、そして。──空気の圧。まるで“獣”に睨まれたような圧が背後にある。「ここを抜ければ、小さな村があります。知人の納屋に身を潜めましょう」セロは傷を抱えたまま先を急ぐ。リリウスももう何も問わない。ここで足を止めれば、今度こそ捕まる──それだけは、本能が告げていた。その村は、かつて狩猟民が暮らしていた場所だった。今はほとんどが無人だが、わずかに残る住人が細々と暮らしている。「久しぶりだね、セロ。……隣の若いのは?」納屋の奥に案内してくれた老婆が、燭台の灯りを向ける。「大切なお方です。……少しだけ、匿ってもらえませんか」「ふん、王家の犬め。命がけで守るなら、そっちも覚悟するこったよ」それだけ言って、老婆は干し草を敷いた簡易寝台を指差す。セロが深く頭を下げると、リリウスも続けて礼をした。「……ありがとう、ございます」夜の闇の中で、リリウスは初めて人間らしい寝床に横たわった。
last updateLast Updated : 2025-06-18
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第43話:罠の演技

夜明け前の山道は、まだ深い闇の底にあった。人の気配も消えた廃村。その片隅にある納屋の中で、リリウスは息を殺しながらセロの肩を支えていた。「……血が、止まらない」応急処置は施したものの、右肩から染み出す血は乾く様子がない。セロの顔色は蒼白で、額には脂汗が滲んでいる。「すみません、殿下……」「しゃべらないで。力、温存して」そう言いながら、リリウスの指先は震えていた。──自分のせいだ。あの地下水路でセロを庇えたのは偶然だ。少しでも判断を誤っていたら、今こうして話していることすら叶わなかった。その思考を断ち切るように、セロが口を開く。「間もなく……“白銀の狼”が来ます」「しろがね……?」「ベータ兵の追跡部隊。中でも、先鋭の一人が“ハーグ”と呼ばれる男です。獣化能力……特に嗅覚が異常なまでに鋭い。あの人が動けば、隠れ通すのは不可能です」その声は淡々としていたが、内に潜む緊張は隠しきれなかった。「……けど、僕には“予感”があります。彼は、すぐには殺さない。きっと、殿下を見るために来る」リリウスが顔を上げた。「セロ……彼を……知ってる?」問いかけに、セロはかすかに笑って、首を振った。「今は……話せません。ただ──」その目が、まっすぐにリリウスを見つめる。「どうか、やられた“ふり”をしてください。僕も倒れます。……それだけで、彼は去る」「信じて、いいの?」「信じてください。これは……僕の賭けです」※森の中を、影が駆けていた。冷たい空気を割るように、ベータ兵たちが走る。その先頭を行くのは、長身の男──ハーグ。獣のような銀髪と、鋭利な双眸。鼻腔をかすかに震わせ、土の匂い、水の気配、血の微粒子までもが網膜の奥に浮かび上がる。(この先──廃村。そこに、あの匂いがある)誰よりも先に“番”の残り香に気づいた。それが、確信に変わるまで時間はかからなかった。(間違いない。生きている)ただの任務ではなかった。この胸の奥にざわめくものは、かつて失った片割れへの感応だ。納屋の中。リリウスとセロは、床に倒れ込むように身を寄せ合っていた。セロは肩を押さえ、血糊を自らの頬に塗りつける。「準備は、いいですか……」リリウスは頷き、目を閉じる。呼吸を限界まで浅くし、まるで意識を失ったかのように身を投げ出した。その直後──扉が静かに開
last updateLast Updated : 2025-06-19
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第44話:共鳴点

山を抜けた先の森は、夜明けの冷気を孕んでいた。木々の間を縫うようにして、リリウスとセロは進む。鳥の声もなく、ただ濡れた土の匂いと葉擦れの音だけが、静かに周囲を満たしていた。セロの肩の傷はまだ癒えていない。それでも彼は痛みを口にすることなく、黙々と歩を進めていた。足取りは重く、額にはうっすらと汗が滲んでいる。「もう少しです。この先に、合流地点があります」乾いた声でそう言った背中を、リリウスは歯を食いしばって見つめる。癒しの術ひとつ使えない自分の無力さが、今ほど悔しかったことはない。あの納屋での選択──演技ではなく本気で倒れていたら、と思うと震えが走る。自分の非力さを思い知らされた後悔と、誰かを守りたいという初めての意志。その狭間で揺れるようにして、ただ前へ進んでいた。森には、微細な術式の痕跡がいくつも張られていた。クラウディア王国とヴァルド連邦──二国間で秘密裏に設置された、救出作戦のための“導線”。(……来てくれる)確信のような感覚が胸を満たしたとき、リリウスの鼓動が一瞬ずれた。いや、重なったのだ。微かに──呼吸の奥で、誰かの鼓動が共鳴する。(カイル……)名前を呼んだわけでもない。ただ、懐かしい熱が胸に宿った。※同時刻、王国南端・森の縁──。黒い外套を纏い、部隊の先頭に立つ男の姿があった。カイル=ヴァルド。ヴァルド連邦の軍総帥。その肩にあるのは、いくつもの戦火をくぐってきた証。今はリリウス奪還のため、クラウディアと“秘密裏に”手を結び、王国領へと潜入していた。「感応術式、反応あります。対象は間違いなくリリウス殿下です」副官が差し出した術式水晶には、淡い光の中に人影が揺れていた。「距離は?」「南東300メートル。森の内側です」カイルは短く頷き、手の中の水晶をじっと見つめた。(ここまで来たのか。お前が、自分の足で)あの日、雪原で倒れていた青年──それが彼との初対面だった。名前も、立場も、事前に知識はあった。だが実際に目の前で彼を抱き上げたあの瞬間、リリウスはただの“王族”ではなく、ひとりの人間として刻まれた。凍えたリリウスの中に、確かに“意志”があった。生きようとする強さではなく、誰にも寄りかからずに在ろうとする気高さ。(自由でいろ。お前はもう、誰にも縛られるな)その言葉を口にすることはなかった。だが、今でも胸の
last updateLast Updated : 2025-06-20
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第45話:再会、その温かさ

森の空気はひんやりとしていたが、どこかやわらかかった。朝の気配が淡く広がり始め、木々の隙間から射し込む光が霧を淡く照らしている。リリウスは、目の前の男の姿をただ見つめていた。「迎えにきた」それだけの言葉だった。簡潔で、余計なものが何一つない。それでも、その声を聞いた瞬間、胸の奥のどこかがきゅう、と音を立てて締まる気がした。「……ありがとう、ございます」リリウスは自然と頭を下げていた。声は震えていない。しかし、その指先にはかすかに力が入りすぎていた。カイルは歩み寄り、リリウスの肩にそっと手を置いた。その手のひらは温かく、決して力づくではない。ただ、そこに在るだけの重み。リリウスは、ふとその手に頬を寄せていた。ごく自然な動きだった。自分でも気づかないうちに、求めていた温度に触れたかったのだろう。頬が触れた瞬間、カイルの指先がわずかに揺れた。それでも何も言わず、そのままにしていた。「セロが……少し、傷を……僕は回復術式はまだ、使えなくて」リリウスが身体を離し、小さく告げた。言葉は敬語だったが、その調子にはどこか私的な響きが混じっている。「わかっている。部下が手当ての準備をしている。大丈夫だ」「よかった……」リリウスはようやく息をついた。ずっと張りつめていたものが、少しだけ緩んだ気がする。「君が……無事でよかった」小さくカイルが漏らした。あまりに小さな声だったため、リリウスは聞き返せなかった。沈黙が、しばらく二人の間を満たす。カイルは、抱きしめたい衝動を抑えていた。リリウスもまた、胸の奥に芽生えかけたものを、ぐっと押し留めていた。──これは、まだ言ってはいけない。それに。依存でも、恋でも、きっとない。でも、逃げ続けていた自分を迎えに来た人が、確かに今ここにいる。それだけは、胸に刻まれた。「……これから、どうなさるおつもりですか」「一緒に逃げる」迷いのない声。「君の望む場所へ」リリウスは、ほんの少しだけ目を見開いた。そして、何も言わずに静かに頷いた。その仕草が、カイルの心に深く染み込んでいった。言葉を選びすぎて、思いはすれ違ったかもしれない。けれど、この一歩は確かに、同じ方向を向いていた。やがて木立の奥から、クラウディアとヴァルド連邦の部隊が姿を現す。セロを担架に乗せ、応急処置を施す者たちの中に、ひときわ目立つ
last updateLast Updated : 2025-06-21
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第46話:回復と決意

昼と夜のあわいを漂うような静寂の中──リリウスたちは、山間の隠れアジトへと身を寄せていた。そこは、クラウディアがかねてより用意していた一時避難の拠点。外からは廃村の納屋のようにしか見えない古い建物だが、地下には十分な医療設備と術式の補助環境が整えられている。セロは奥の治療室に運ばれ、すぐに専門術士の手で処置が始まった。リリウスは部屋の隅に腰を下ろし、ぼんやりと手のひらを見つめていた。かすかに震える指。術式の痕跡はもう薄れているが、魔力の消耗がまだ尾を引いている。「……思った以上に、使いすぎたな」呟いた声は自嘲に近かった。攻撃術は得意ではない。それでも咄嗟に動いたあの瞬間、セロを守りたいという感情だけで体が勝手に動いた。(怖かった……でも、動けた)そのことが、今のリリウスには何よりの救いだった。ただ──悔しいのは、回復術式が使えなかったことだ。あの場で癒せていれば、セロはあんなに苦しまなくて済んだかもしれない。マリアンほどでないにしろ、本来のリリウスの魔力量は高い。今は封印術が薄らいでいるとはいえ、力の半分も発揮できていない。(あと少し──あと一歩、力が戻れば……)ぐ、と拳を握った時──ふと扉がノックされた。続いて入ってきたのは、簡素な外套を羽織ったカイルだった。「術士の診断では、セロの容体は安定している。数日は安静にしておく必要があるが、命に別状はない」「……よかった」リリウスの肩がわずかに落ちる。張り詰めていた糸が、そこでようやく緩んだ。カイルは黙って隣に腰を下ろした。肩が触れるほどの距離ではない。ただ、そこにいるということが、リリウスには心地よかった。「魔力は、どうだ?」「少しずつ、戻ってきてます。……でも……すぐに切れてしまうんです」「封印のせい、か。君の術式は、いつも丁寧で整っていた。全力を一度見てみたい」思いがけない言葉に、リリウスはわずかに目を見開いた。クラウディアでは、魔力に特化した国だ。術が下手だと笑われたことはあっても、こんなふうに言われたのは、初めてだった。「……そう、ですか」俯いて、小さく笑う。その頬の赤みに、カイルは目を伏せた。「あなたが……最初から、来てくれるって信じてたわけじゃないんです」「……」「けど、来てくれた。僕を、見捨てなかった」そこまで言って、リリウスは
last updateLast Updated : 2025-06-22
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第47話:レオンの警告

王国からの公式通達は、冷たい文面で届いた。──リリウス・クラウディア殿下の奪還行為は条約違反に相当する。──当該行為が実行された場合、王国は武力をもって応じる用意がある。その簡潔な文書は、クラウディア王宮の会議室に重く落とされた。「……笑えもしない文面だな?」神王アウレリウスが文を一読し、低く呟く。会議の列席者たちは沈黙し、目配せを交わす。「陛下、恐れながら。この件に関しては、慎重に扱うべきだと思います」最初に口を開いたのは老臣の一人だった。「リリウス殿下は王家の一員であるとはいえ、王国との直接衝突はクラウディアにとっても危機となる。まずは交渉の場を設け、可能な限り穏便に──」「それで、あの子は戻ってくるのか?」アウレリウスの声は鋭く、しかし抑制されていた。「……奴らはリリウスに何をしてきた。あれを“返す”つもりがあるなら、なぜあのような声明を送ってくる」「ですが、神王陛下。軍を動かせば、国際的な非難は避けられません」「非難を受けて、王家の者一人も救えぬ国だと笑われる方が恥だ。だからこそ、あの国に送りたくなかったものを……」強い言葉に、会議室が再び沈黙する。だがその刹那──「失礼します。魔術通信回線が。使節団、マリアン様から強制割込みです」護衛兵の報告と共に、部屋の一角に淡い魔術光が灯った。そこには、整った軍服姿のマリアンが映し出されていた。「マリアン……?」アウレリウスがわずかに目を細める。「神王陛下、会議に割り込む非礼は承知しています。ただ──時間がない。リリウス様は、危ういです」静かな語調だったが、その言葉には切実な焦りが滲んでいた。「アルヴァレス使節団の立場上、外交的な均衡は保ってきました。しかし、内部から見ていて分かるのです。王国は、次の“処分”に向けて、動き出している」「処分……だと」「名目は“保護”のはずだった。ですが今や、監禁、封印、そして隔離。あの方は、何一つ間違ったことをしていない。……ただ、そこに生まれたというだけで」その場の空気が、明らかに変わる。マリアンは一呼吸置いて、続けた。「お願いです。今ここで手を引いたら、リリウス様は壊れます。私たちが守らなければ、もうあの方には戻る場所がない。……どうか、お願いします。陛下」魔術光の中、マリアンの姿が揺れる。通信の限界だ。アウレリウスは黙
last updateLast Updated : 2025-06-23
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第48話:迷い火

朝靄の中、リリウスは簡素な外套を羽織り、ひとり城下の街路に立っていた。変装とは言っても、大げさなものではない。帽子を深く被り、視線を下げる。それだけで、誰も気づかない。誰も、自分を“特別”な目では見ない──それが、奇妙な安堵でもあり、不安でもあった。「……これが、街か」何年ぶりだろう。王宮の高い塀の外。リリウスにとって、それは異国のような空間だった。朝市の匂い、乾いた石畳に響く靴音。人々のざわめきが、ゆるやかに風に乗って流れてくる。近くの路地では子供たちが駆け回り、遠くでは商人の声が飛び交っていた。すぐ近くの屋台裏で、二人の若い男女が話しているのが耳に入った。「聞いた? また婚約破棄だって。王太子様、何人目よ」「なにそれ本当? 相手、クラウディアの姫君じゃなかった?」思わず、リリウスは足を止めた。「うちの親が言ってた。なんか、向こうの姫様って“呪い”があるとかなんとか……昔から縁談が続かないとかで、幽閉されてたとか……」「こわ……でも王太子様もすごいよね、そんなの受け入れてさ」「まぁ、政略結婚でしょ? ほら、噂だと“あっち側”って話もあったじゃない? 体は男だけど、女の役目で生まれてきたって──」軽く笑いが交わされる。嘲るような、それでいて無関心な調子の笑い。リリウスは、足元が崩れるような感覚を覚えた。(……これが、僕という存在か)名前すら正しく知られない。クラウディアの「姫」、呪われた存在、婚約破棄の原因、そして「体の性と役目が違う者」。全てが間違ってはいない。けれど、どれも“自分”じゃなかった。そこにあったのは、憶測と偏見の寄せ集め。真実のかけらをつまんで、噂話に味付けしただけの、人々の“娯楽”だった。(僕は……ただ、誰かのために、生きたかっただけなのに)少しだけ、肩が震えた。それでも、顔を上げる。石畳の街並み。そこにいる人々は、誰一人として、自分に気づかない。それが悔しかった。これほど多くの人間が、自分の存在を“ただの逸話”として語っていることが、たまらなく虚しかった。それと同時に、どこかで──(……これが、この国の現実なんだ)王宮の中だけにいた頃には見えなかったもの。市井の声は、時に容赦なく、時に無関心で、けれど決して“悪意だけ”ではないということも、皮膚の下に沁みてわかった。もしこのまま沈黙を選べ
last updateLast Updated : 2025-06-24
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第49話:刻まれた足音

クラウディア王国北部の密林地帯に設けられた、仮設の作戦本部──その一室で、リリウスは重厚な魔術障壁の前に立っていた。「ここが……密使の接続拠点?」隣に立つカイルが静かに頷く。「クラウディアとヴァルド。双方の安全回線だ。王命による使節団が合流している」魔力障壁の奥には、すでに数名の術者と護衛兵が揃っていた。その中央に、クラウディア王家直属の使節──王族外交官シルヴァが立っている。「リリウス殿下。このたびのご決断、クラウディアとしても全面的に支援いたします」「……ありがとうございます」リリウスは帽子を取り、深く頭を下げた。その仕草に、かつての王宮にいた面影がよぎる。だが、その瞳の奥には、以前にはなかった意志が宿っていた。「正式に、クラウディア王国への保護申請を提出します。……これは僕の意思です」「了解しました。すでに神王陛下からの承認も得ております。これより、本国への転送手続きを開始します」その場にいた全員が静かに頷いた瞬間だった。──アルヴァレス王国、戴冠前式の前倒しが宣言されたのは。同時刻、アルヴァレスの王都。白石の塔が聳える王宮の高殿では、使者による“勅令”が読み上げられていた。「……よって、皇太子レオン殿下は、正式戴冠前式を三日後に執り行う。諸侯貴族、これに列席すべし」予告なしの発表だった。しかも王都外に出ていた重臣の一部には、未だ通知が届いていないという混乱ぶり。だがレオンは、いつになく落ち着いた面持ちで玉座に腰掛けていた。「まさか、保護申請を選ぶとはな……」その声は低く、しかし怒気よりも焦燥に近い色を孕んでいる。「リリウス、お前は“道具”のままでいればよかった」戴冠式を前倒すという決断。それは、ただのパフォーマンスではない。──今この瞬間、皇太子としての“支配構造”を確定させるための既成事実。王国におけるΩの立場は低く、リリウスのような感応者は特異な存在だった。それを「正妻」として迎えるという行為すら、レオンにとっては“義務”に過ぎなかった。だが、国際的にそのΩが「虐げられていた」と認知されれば──それはレオンという皇太子の失政として、国内外に波及する。(“保護”された被害者など、存在してはならない)レオンが恐れたのは、リリウス個人ではない。あの存在が“弱者の象徴”として立ち上がり、己の支配体系
last updateLast Updated : 2025-06-25
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