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第11話:感応の先に

last update Dernière mise à jour: 2025-05-18 20:31:58
門番の任務を終えて部屋に戻ったのも束の間、リリウスは再び呼び出された。

「記録室だ。すぐ来てくれ」

迎えに来た兵士は無表情でそう告げる。

カイルの指示だという。

通されたのは軍の内部資料が集まる管理棟の一室。

書類の匂いと乾いた紙音が、そこかしこに満ちていた。

「さっき通過した男の通行記録だ」

兵士が一枚の報告書を差し出す。

「名前は“レナルド”。出身は国境沿いの街。特筆すべき経歴はない。行商を名乗っている」

表面上は、どこにでもいる市民のひとり。

だがリリウスは、その紙を手に取った瞬間、胸の奥にかすかな圧迫感を覚えた。

(これだ。やっぱり、この男──)

紙に記された情報に矛盾はない。

けれど、それでも違和感が消えなかった。

「この経歴、空白期間があります。過去二年分の記録がほとんど抜けている」

「行商ならよくあることだ。旅先の記録まで全部残ってるわけじゃない」

記録係の軍人が無関心に言う。

だがリリウスは食い下がる。

「……この空白は、ただの偶然じゃない。感情が歪んでる。何か隠してます」

「証拠がなきゃ動けない」

「でも……」

「続けろ」

低く鋭い声が、部屋の空気を裂いた。

リリウスが顔を上げると、扉の向こうにカイルが立っていた。

「証拠がないからこそ、“兆し”を見るんだ」

カイルは無言のまま室内に入り、リリウスの手元の書類を覗き込む。

「お前の感応。どこまで確かなんだ」

「……断定はできません。けど、あの瞬間、あの男から発されたものは──ただの敵意じゃない。制御された“憎しみ”です」

「制御された?」

「はい。抑え込んだ感情の底に、明確な方向性がありました。誰かの命令を遂行するような……そんな感触」

カイルの目が細まる。

「文官。対象者の過去二年の行動履歴を別ルートで洗い直せ。交友、金の流れ、出入りした都市全てだ」

「了解しました」

記録係がすぐに動く。

カイルはしばらく黙っていたが、やがてリリウスに向き直った。

「俺は、“使える駒”かどうかにしか興味はない。……だが今のお前は、間違いなく役に立っている」

「……それが、僕の価値ですか」

「違うとは言わない」

カイルは、口の端だけでかすかに笑った。

「だが“役に立つ”ことが、人の価値のすべてだとも思っていない」

リリウスはその言葉に、どう返せばいいのか分からなかった。

けれど、胸の奥がわずかに揺れたのは確かだった
めがねあざらし

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