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第16話:灰の祈り

last update Last Updated: 2025-05-23 21:31:25
神殿跡地へ向かう馬車の中、リリウスは何度も指先を握っては開いた。

空気が重い。言葉を発せば、それが砕けてしまいそうで、何も言えなかった。

カイルが隣に座っていた。窓の外を眺めていたが、突然声を落とした。

「見たくないなら、帰ってもいい」

「……いいえ。僕の力が反応した場所なら、僕自身が確かめなければ」

カイルはそれ以上何も言わなかった。

馬車の車輪が小石を踏む音だけが、しばらく続いた。

神殿跡地は、想像していたよりもずっと静かだった。

柱は焼け落ち、天蓋は失われ、苔むした石畳がその下に広がっている。

空は灰色、陽も差さない。

まるで、この場所そのものが、まだ“過去”に留まっているかのようだった。

周囲を警備する兵士たちは、神妙な面持ちで距離を取っていた。

「呪われた土地」「誰も近づきたがらない」──そんな言葉が漏れ聞こえる。

それでも、リリウスは迷わず奥へ進んだ。

足元には、焼け残った祈祷道具が散乱していた。

焦げた金属の輪、煤けた布片、剥落した装飾壁。

なぜか、それらが懐かしくすら思えた。

見たことのないはずの風景に、胸の奥がざわめく。

(僕……ここにいた?)

そんな錯覚さえ、否定できなかった。

「……あの夜」

不意に、カイルが口を開いた。

「俺はこの神殿に“命令を実行する者”として来た」

リリウスは振り返らなかった。ただ耳を澄ませた。

「神殿に潜伏していた反乱分子を排除せよ──それが任務だった。だが現場に着いたときには、すでに内部で何かが起きていた」

「……焼かれていた?」

「いや、“祈っていた”」

その言葉に、リリウスの足が止まった。

「誰かが、何かにすがるように祈っていた。俺には意味が分からなかった。……ただ、剣を収めた」

それが、カイルの語る“過去”だった。

リリウスはゆっくりと、神殿の中央──かつて祭壇があった場所へ歩み出た。

焦げた大理石。

その上に立った瞬間、空気がわずかに変わった。

(……ここだ)

立っているだけで、皮膚の下に何かが染みてくる。

記憶でも、魔力でもない。

もっと曖昧で、それでも確かに“残されている何か”。

目を閉じる。

風の音が止まる。

灰色の世界のなかに、微かな光が現れる。

──誰かの声。

『お願い……まだ、生きていて……』

子どもの泣き声。祈る声。

それが、焼け落ちた空の中に響いていた。

「──っ……!」

頭が、軋む。

世界
めがねあざらし

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