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第40話:呼吸の外側

last update Last Updated: 2025-06-16 21:09:44
冷たい夜気が石造りの廊下を舐めていく。

リリウスは身を屈め、セロの背を追って足早に進んでいた。

塔を抜け、王城の西翼から裏庭の回廊へ。

封印が緩んだのはほんの一瞬。

それでも、機を逃さなければ道は開ける。

「こちらです。気配を抑えて」

先導するセロは、まるで気配を消すように動いていた。

足音ひとつ立てず、壁の影に溶け込む。

リリウスも息を潜める。

自分が今、どれだけ危うい賭けに身を投じているかを理解していた。

それでも、立ち止まるわけにはいかなかった。

(……あの人が、呼んでいる)

肌の奥で微かに震える感覚。

言葉でも気配でもない。

ただ確かに、胸の奥で呼吸と共鳴するような“何か”があった。

──必ず、帰ってこい。

カイルの声が、意識の底から浮かび上がる。

温かく、しかし凛とした声色。

その一言に、今のリリウスは命を賭けられる気がしていた。

リリウスは一度だけ振り返った。

遠く、王城の塔の上に燈る灯。

あの中にまだ、自分を閉じ込めようとする誰かがいる。

だが、その中に留まる必要は、もうなかった。

「行こう」

通路に身を滑らせた瞬間、湿った土の匂いと共に、自由の気配が確かに背中を押した。

──その頃、王城・執務室。

レオン=アルヴァレスは、錬金術式の小瓶を手に沈思していた。

「……まだ捕まらないのか」

侍従の報告は変わらない。

リリウスが逃げ出して、まだそう時間は経っていない。

しかしクラウディアがいる以上、気は抜けない。

「封印の再点検は?」

「現在、城内術士が確認中ですが……いくつかの術式に微弱な破損が」

レオンは立ち上がった。

「全館封鎖。南側通路と塔の回廊、地階の抜け道……すべて閉じろ。どこか一箇所でも開けておけば、逃げる」

「承知しました。……ただ、殿下……」

「何だ」

「これは……“本気で逃げる者”の痕跡です。リリウス様は……戻る気は、ないのではと」

一瞬、執務室に沈黙が流れた。

レオンの目が、わずかに揺れた。

「……だったらどうする」

自分の意志で逃げた。

それを追いかけてまで、繋ぎとめる意味はあるのか。

かすかに脳裏をかすめた思考を、彼は強引に振り払う。

それでも、と思う。

「俺の番だ。……あいつは俺のものだ。逃がすな」

低く絞り出すような声。

その声にこそ、彼自身の執着と恐れが滲んでいた。

同じ頃、国境付近──

クラウディアの先遣部隊が、静か
めがねあざらし

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