All Chapters of 【完結】縁が結ぶ影〜呪われた巫女と結ぶ少年〜: Chapter 61 - Chapter 70

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縁語り其の六十一:狂気の残滓

 地の底から響くような、腐った汚泥のような笑い声が耳奥にこびりついて離れない。  暗闇の中、フードを深く被った男が、乾いた血で黒ずんだナイフを指先で愛おしげに撫でていた。腐臭と鉄錆の匂いが混じり合い、僕の胃袋が裏返りそうになる。 「ずっと……ずっと、てめぇをこうしてやりたかったんだよ」  男の声には、長年溜め込んだ憎悪が滲んでいた。 「な……なにを……やめろ、黒崎……!」  懇願の声は、彼にとって心地よい旋律でしかない。  楽しげに傾けられたナイフの切っ先が、上司の喉元を、次いで心臓のあたりを、恋人の肌を愛撫するようにゆっくりとなぞっていく。 「どこからがいいかなぁ?」  次の瞬間、ひときわ強い力が込められ——  ずぶり。  肉を裂く湿った音が、僕の鼓膜を震わせた。 「ぐ…あっ……ぁ…」  (これは……! この記憶は……殺人鬼の……!) 「あっははははははは!!!! 俺の事をさんざん見下しやがって!!!!」 「クソどもの前ではよく恥をかかせてくれたよなぁ!? おい!!」  黒崎と呼ばれた殺人鬼は、倒れ込む男性の顔を鋼鉄の先を履いた安全靴で蹴り上げた。  ぐしゃり。  鼻梁が砕ける音。それでも黒崎は止まらない。何度も、何度も何度も何度も、まるで壊れた機械のように同じ動作を繰り返す。  声にならない呻き。噴き出す血飛沫が描く赤黒い放物線を、黒崎は恍惚とした表情で見つめていた。生温かい血の匂いが、僕の肺を満たしていく。  (もうやめろ……!)  目の前で繰り広げられる惨劇を止めたい。そう思って、僕は男を掴もうとした。  でも、当然のことながら、ここは過去の記憶の中だ。  僕の手は虚しく宙を切るだけ。  ——っ……!  突然、場面が切り替わる。  今度は、錆びた機械の前で震える若い女性が黒崎と対峙していた。恐怖で顔面が蒼白になっている。  黒崎の手にあるナイフからは、先程の男性の血がぽたぽたと床に滴っていた。 「や、やめて! こっちに来ないで!」  その悲鳴が、黒崎の口元を三日月のように歪ませた。 「『黒崎さんって優しいですよね』……そう言ったのは、誰だったかなぁ?」  ねっとりとした声で囁きながら、彼は傍らにあった錆びついた鉄パイプを拾い上げる。重量感のある金属音が、空気を震わせた。  女性の顔が絶望に染まる。
last updateLast Updated : 2025-06-08
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縁語り其の六十二:真っ赤な影

 急速に僕の意識が、深い闇の底から浮上していく。 「……輩!」 「……先……輩!!」  美琴の声が、確実に近づいてくる。霧が晴れるように、現実の輪郭が戻ってきた。 「先輩!!」 「ごほっ……げほっ、げほっ!」  肺の奥から込み上げる咳が止まらない。まるで汚れた空気を全部吐き出そうとするかのように、激しく咳き込んだ。 「大丈夫ですか!?」  美琴が心配そうに僕の顔を覗き込んでくる。  その琥珀色の瞳には不安が揺れていて、どれほど心配させてしまったかが痛いほど分かった。 「み、美琴……!」 「すごい汗ですよ……! 一体……何を見たんですか……!?」  美琴が懐から白いハンカチを取り出し、優しく僕の額の汗を拭ってくれる。ほのかに桜の香りがした。 「引きずり込まれた……! さっき僕は、乗せた時点ではまだ過去を見ようとはしてなかったんだ……!」 「ですよね……私も残滓を手のひらに乗せた途端に先輩の意識が飛んでしまって、本当に焦りました……」 「はぁ……はぁ……おえっ……!」  先程の光景が脳裏に焼き付いて離れない。血の匂い、骨の砕ける音、絶叫——全てが生々しく蘇る。  胃の中から酸っぱいものがせり上がってきそうなのを、必死に呑み込んだ。 「……ここで起きた殺人の現場を見た……!」 「……っ!! そんな……!」 「……ここにいる悪霊は、十五年前に殺人を犯した殺人鬼で間違いないよ……!」  美琴がそっと僕の背中を撫でてくれる。その温もりが、少しだけ気持ちを落ち着かせてくれた。 「辛いものを見せてしまいましたね……。やはり私が見るべきだったと思います……」  その言葉に、僕は強く首を横に振った。 「そんなことはないよ。むしろ、あんな惨い殺人現場を美琴には見せられない……!」  そう、決して見たいものではなかったけど、美琴があの光景を見たら心が曇ってしまうのは明白だ。  そう考えると、僕が見て正解だったと、本気でそう思う。 「でも、先輩……それは私だって同じなんですよ? 先輩にそんな苦痛な過去を見せたくありませんでした」 「……っ……」  また胃液がせり上がってくるが、どうにか堪える。  ***  吐き気も収まってきた頃、僕は美琴に尋ねた。 「美琴……今までの過去視は止まった時の中、僕が意識を向けると声が聞こえたり、時が
last updateLast Updated : 2025-06-08
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縁語り其の六十三:境界の崩壊

『久しぶりにここまで来てくれた獲物だからなぁ……。簡単に壊れねぇように、丁寧に扱わねぇとな!!』 狂気を爛々と宿した目が、僕を捉える。 黒崎が血錆びたナイフを構え、常軌を逸した踏み込みで突撃してくる。速い、というより、躊躇という人間的な枷が一切ない、ただ目的のためだけの動きだ。 「幽護ノ帳!」 美琴の鋭い声が響く。僕と黒崎の間に、鮮やかな紅色の結界が張られた。 ドン、と鈍い音がして、ナイフが結界に阻まれる。黒崎の身体が勢いを殺され、もんどりうって背後の壁際まで弾き飛ばされる。 『うぉっ!? な、なんだこりゃあ!?』 床に転がって身を起こした黒崎が、焦燥の声を上げる。 『なんだよコレ! ふざけんな! 超能力かなんかか!?』 「私は巫女です……!あなたを祓うことができます……!」 静かな宣告に、黒崎は心底苛立ったようにナイフを床へ叩きつけた。カン! と神経を逆撫でする金属音が廃工場に響く。 『んだよ! それ! ふざけんじゃねぇよ!』 『ならまずはテメェの泣き喚く声から聞かせてもらおうじゃねぇか!』 そう吐き捨てると、黒崎は再び結界へと向かい、何度も、何度も、関節が軋むような音を立てながらナイフを振り下ろし始めた。まるで壊れた機械のように、同じ場所を執拗に叩き続ける。 「 先輩! 絶対にその刃物に触れないでください!」 美琴が切迫した声で叫んだ。 「彼の周りには、殺された人たちの怨念が漂っています! その怨念が……あのナイフを、ただの凶器じゃない、呪われた武器に変えてしまっているんです!」 その警告に、僕の喉がごくりと鳴る。 つまり—— 「あのナイフに刺されたら、物理的に私たちの身体は傷つけられてしまいます!」 物理的な攻撃。 今まで出会ってきた霊には不可能だったことだ。 でも、目の前の男は……明確な殺意と、それを実行する手段を持っている。 『なんだァ!? この鬱陶しい壁も、何度もナイフを叩きつけたら大したことねぇなァ!』 狂ったように、黒崎は結界の一点を叩き続ける。 そして—— ピシリ……。 蜘蛛の巣のようなヒビが、結界の表面に走り始めた。 (まずい……! このままじゃ美琴が……!) 僕は彼女の前に立った。 ガシャァン! ガラスが砕けるような音と共
last updateLast Updated : 2025-06-09
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縁語り其の六十四:美琴の枷

「はぁ……っ、はぁ……!」 一歩踏み出すたび、傷口から熱いものが流れ出す感覚。鉄の味が舌の上に広がり、思考が鈍く霞んでいく。走っているというより、ただ前に倒れ込んでいるだけに近かった。 「先輩……! 本当に、大丈夫ですか……!?」 僕の手を引く美琴の声が、僕の怪我を見て不安に震えてしまっている。 不甲斐ない僕のせいで彼女に負担をかけてしまっていた。 「……平気だよ」 本当は、視界の端がじりじりと暗くなり始めている。だが、今ここで弱音を吐くわけにはいかなかった。 「先輩……一度、引きましょう……! あの悪霊相手に、私たちの準備はあまりに足りていませんでした……!」 「私のせいで、先輩にこれほどの傷を……本当に、すみません……」 普段の冷静さが嘘のように、その瞳が頼りなく揺れていた。 「それは違うよ! 美琴のせいじゃない……。これは、僕の甘さが招いたことなんだ……」 ……事実だった。 危険を察知していた彼女は、僕をここへ連れてくることを躊躇っていたのに、僕がわがままを言ってついてきたんだ。 その行為が……結果として、彼女の足を引っ張っている。 この痛みは、きっとその罰なんだ。 「でも……!」 今にも泣き出しそうに、彼女が僕を見つめる。 「僕は大丈夫だから。とにかく今は、この廃工場から……」 言葉は、最後まで続かなかった。 何の予兆もなく、すぐ横の壁の染みが歪み、そこから血錆びた刃が突き出された。 黒崎が壁を透過し、最短距離で僕の命を刈り取りにきたからだ。 「てめぇ! よくもやってくれたなぁッ!」 「っ……!」 咄嗟に身を引くが、頬を浅く切り裂かれる。熱い痛みが走り、また新しい場所から血が流れ始めた。 それを見た美琴の目が、大きく見開かれる。 そして、 「——もう、やめてッ!!!!」 それはもはや術の名前ですらなかった。ただの絶叫。 彼女の指先から放たれたのは、これまで見たこともないほど巨大な、怒りそのものを練り上げたかのような紅蓮の塊だった。 「はっ!?」 黒崎が、その凄まじい霊気に唖然とした表情を浮かべる。 「お、おいおいおい! マジかよ! ふざけんじゃねぇ!」 叫びながら、黒崎はみっともなく地面を転がり、その一撃を回避した。 行き場を失った紅蓮の礫は、背後の壁を突き抜け、工場の影の中へと消えていく。
last updateLast Updated : 2025-06-09
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縁語り其の六十五:傷だらけの覚悟

「少し身体を休ませてから行こう……」 軋む身体に鞭を打ち、僕はどうにか言葉を紡ぐ。全身の切り傷が熱を持ち、呼吸ひとつで鋭い痛みが走った。長引けば長引くほど、削られるのは僕の命だ。 「そんなに傷だらけになってしまって……」 彼女の声が、心配の色に滲む。 「あはは…不甲斐ないよ」 乾いた笑みがこぼれた。 「…でも、私を守ろうとしてくれたこと…本当に嬉しかったです」 潤んだ瞳が、コンテナの薄闇の中、まっすぐに僕を捉える。その視線に応えるように、僕は口を開いた。 「美琴が傷つくよりはずっと良かったからさ……」 そう言葉を口にした、その瞬間。 『見つけたぜぇ…』 コンテナの隙間を、一対の昏い光が貫いた。粘つくような声が鼓膜を震わせ、心臓が氷水に浸されたように冷たくなる。 黒崎が、覗き込んでいた。 「っ!!!」 『隠れやがって……! このクソガキ共が……!』 怨嗟を撒き散らしながら、黒崎の影がコンテナの中へと侵食してくる。半透明の身体がゆらりと実体化し、一歩、また一歩と、僕たちとの距離を詰めてきた。錆びた鉄の匂いが、黒崎の殺意に呼応するように濃くなっていく。 「先輩……! 私が出てと言ったら、出てください…! 隙を作ります…!」 美琴が覚悟を決めた声で囁く。 「なにか危ないことをする訳じゃないよね…!?」 『なぁにコソコソ話してんだよぉ……俺も、混ぜてくれよ』 ねっとりとした声と共に、黒崎が駆けた。床を蹴る音が生々しく響き、鈍く光るナイフの切っ先が僕たちの喉元を目指す。 その時だった。 「幽護ノ帳!!」 黒崎の足元、コンクリートの床に突如として結界が展開される。 『うぉ!!!?』 結界に足が引っかかると、黒崎の体勢が大きく崩れる。前のめりに倒れ込み、コンテナの壁をすり抜けていった。 「いまです!!!」 美琴の声を号令に、僕たちはもつれる足でコンテナから飛び出す。 「先輩!! こっち!」 美琴が僕の冷たい手を掴み、闇の中を駆ける。背後で鉄が抉れる甲高い音が響き、怒りに満ちた咆哮が追いかけてきた。 『クソガキ共……!!! 待ちやがれ!!!』 起き上がった黒崎の追跡は、先ほどよりも明らかに速い。軍靴が床を叩く音が、背後から急速に迫ってくる恐怖を煽った。 そし
last updateLast Updated : 2025-06-10
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縁語り其の六十六:分断

黒崎の姿は、もう見えない。 だが、油断はできなかった。空気が、まだ殺意に満ちている。 「先輩、もう少しです……!」 美琴が僕の手を引く。 その手は温かくて、力強くて――今の僕を、この地獄から引き上げてくれる唯一の命綱だった。 出口が、見えてきた。 錆びついた鉄の扉が、僕たちを待っている。 「あと少し……!」 その時だった。 頭上から轟音が響き渡り、天井が崩落した。 吊るされていた巨大な鉄塊が、重力に引かれて容赦なく降ってきた。 「っ!?」 僕は反射的に右へ、美琴は左へ。 無慈悲に崩れ落ちた鉄の壁が、僕たち二人を――残酷にも分断した。 「先輩!」 鉄骨の向こうから、美琴の悲痛な叫びが聞こえる。 「――っ……! 幽護ノ帳!!」 突然、彼女の凛とした声が工場全体に響き渡った。そして、その直後―― 『オラァ!!』 結界に何かが激しく叩きつけられる甲高い音。間違いない、黒崎のナイフだ……! 僕には、美琴の状況がまったく見えない。その”見えない壁”が、僕の心を酷く焦らせた。 胸の奥がざわつき、嫌な予感が全身を駆け巡る。僕は必死に駆け出した。 そして――ようやく、隙間から彼女の姿が見えた。 (ど、どうすれば……!) 喉がひゅっと締まる。 美琴は「幽護ノ帳」を全方位に展開し、黒崎の嵐のような猛攻を、たった一人で受け止めていた。 だが、その結界が、今にも砕け散りそうで――僕の心臓が、警鐘を鳴らす。 『さっきはよくもやってくれたなぁ!! このクソアマがぁ!!!』 「……っ!」 彼女の膝が、震えていた。息も、荒い。 結界に、蜘蛛の巣のような細かなヒビが入り始めたのが、僕の霊眼にははっきりと見えた。 『ハハッ、時間の問題みてぇだな!!』 黒崎が嘲笑うようにナイフを振り上げ、次の――決定的な一撃を狙う。 あれが決まれば、美琴は――。 「美琴! 大丈夫!?」 「……なんとか! でも、長くは――!」 ミシミシ……! 結界が軋む音が、僕の鼓膜に直接響く。時間がない。 (どうする!?) 黒崎の狙いは、美琴の消耗だ。結界が破られたら、終わりだ。 僕の攻撃は、決定打にならないどころか、もう限界を超えて礫はしばらく放つことができない。 でも、何か。何か、奴の注意を引く方法は? この工場の構造は? 何か、使えるものは? 思考
last updateLast Updated : 2025-06-10
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縁語り其の六十七:臆病者

心臓が、破裂しそうなほど激しく脈打っている。 怒りに呑まれた黒崎に背を向けた瞬間、全身の筋肉が弾けるように動いた。もう何も考えられない。ただ走る。美琴から引き離すために、ただひたすらに。 『待ちやがれ!!!! 逃げてんじゃねぇぞ!!!!』 背後から響く怒声が、冷たい刃物のように背筋を撫でる。 『先輩っ!!!!』 美琴の悲鳴のような声が聞こえた。振り返りたい衝動を必死で押し殺す。 (これでいいんだ。これで──) 黒崎は完全に僕に釘付けになった。獲物を追う獣のような足音が、どんどん近づいてくる。美琴のことなど、もう頭の片隅にもないだろう。 ──僕の命を断ちに来ている。 でも、このままやられるつもりは毛頭ない。せめて美琴から十分な距離を稼いで、彼女が逃げる時間だけは作らなければ。 「はぁ……! はぁ……!!」 肺が焼けるように熱い。足が鉛のように重い。 当然だ。腹から流れ続ける血が、床に点々と赤い軌跡を描いている。今この瞬間も、命が零れ落ちているのだから。 それでも足を止められないのは、美琴を守りたいという一心だけが生み出す奇跡だった。 『おい!!! クソガキ!!!』 黒崎の声が、もうすぐ後ろまで迫っている。 (あと少し……! あと少しだけ──) 美琴がいる場所から十分に離れれば、もう自分の身がどうなっても構わなかった。 「はぁ……はぁ……くっ……」 そして、美琴から充分な距離を稼いだところで、ついに黒崎が僕に追いついた。 フードの奥で歪んだ顔が、愉悦と憤怒が混じり合った醜悪な表情を浮かべている。獲物を追い詰めた狩人の満足感と、侮辱された怒りが入り混じった、複雑で歪な感情がそこにあった。 『さっきは散々俺のこと侮辱してくれたじゃねぇか……』 「……! はぁ……! はぁ……っ」 『どうすれば、テメェを最高に苦しませて殺せるか、ずっと考えてたんだよ……』 黒崎がナイフを弄びながら、ゆっくりと近づいてくる。 『刃物じゃ……つまらねぇよなぁ。ナイフの一突きなんかじゃ、俺を侮辱した罪は消えねぇ』 『滅多刺し…。死んだ後も、刻み続けてやるよ』 醜く歪んだ笑みが、さらに深くなる。 「罪は……はぁ……消せない?? はぁ……」 息も絶え絶えだったけど、最後くらい思ったことをぶつけてやろうと決めた。 「なら、五人もの命を奪った……は
last updateLast Updated : 2025-06-11
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縁語り其の六十:逃亡の果て

「一体何を考えてるんですかっ!!!!」 追いついた美琴が放ったのは、怒声というより、ほとんど悲鳴に近い叫びだった。 「うっ……!」 普段の彼女からは想像もつかない剥き出しの感情。その剣幕に、僕は言葉を失い一歩後ずさる。 「私を守るため、とは言え! 自分を危険に晒すなんて!!!」 詰め寄る彼女の瞳は、今にも決壊しそうなほど涙で潤んでいるのに、その奥には見たこともないほど深く、烈しい怒りの色が燃えていた。 安堵と、恐怖と、そして怒り。それらがぐちゃぐちゃに混ざり合った表情に、僕はただ圧倒される。 まずい。これは、本当に怒っている。 「で、でも……美琴が、無事だったから……」 「言い訳しないで下さい!!!」 遮られた言葉が、空気に鋭く突き刺さる。 ダメだ。今の彼女に、理屈は通じない。 「先輩!! 私は今、本気で怒ってるんです!!」 「は、はい……」 「あんなに傷だらけの身体で、その上で囮になるなんて……!!」 美琴の声が震え、裏返っていく。 「もし、何かあったらどうするつもりだったんですか!!!!」 「もうっ……!」 言葉にならない感情が嗚咽に変わり、とうとう堪えきれなくなった大粒の涙が、彼女の頬を伝って零れ落ちた。 「うっ……ご、ごめん……美琴を守らなきゃって、それだけ、で……」 「先輩が離れていく時、私がどんな気持ちだったか……わかりますか!」 焦り。 怒り。 どうしようもない、不安。 そして、恐怖。 彼女の瞳が、その涙が、僕が味わわせた苦痛の全てを雄弁に物語っていた。 「ごめん……本当に、心配かけたよね」 「本当に、心配したんです……。先輩の身に、もし、なにかあったらって思うと……不安で、不安で……!」 「もう二度と、こんな危険な真似をしないで下さい……」 涙声で、それでも必死に言葉を紡ぐ。 「私、先輩があんな無茶をするの……見ていられなかった……。お願いですから、もう、やめてください……」 その言葉の重み、込められた切実な想いから、僕は目をそらせなかった。 ……初めてだった。 彼女が、これほど本気で怒りを露わにしたのは。 だけど、その怒りは僕を責めるためじゃない。ただひたすらに僕の身を案じる、純粋な想いから生まれたものだと、痛いほど分かった。 「……わかったよ。もう二度と、自分を囮になんてしない
last updateLast Updated : 2025-06-11
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縁語り其の六十九:還魂・冥送ノ調べ

深い水底から無理矢理引きずり上げられるような、この浮上の感覚。 何度味わっても、完全に慣れることはない。ただ、耐えられるようになっただけだ。 「美琴、目の前のこの男は……本当の意味で自分から、現実から逃げた臆病者だよ」 『クソ…!!! 誰が臆病者だ!! ここから出せよ!!! 刺し殺してやる!!!』 黒崎は捕らわれているにも関わらず、虚勢を張り上げる。 「さっきもあなたに臆病者だと言ったけど、記憶を見た後もそれは変わらないよ」 『俺の記憶を……見ただと!?? くそが!!! ふざけんな!!! 勝手に人の記憶を盗み見てんじゃねぇよ!!!』 上司の注意、同僚の陰口、女性の社交辞令……。 社会生活におけるあらゆるコミュニケーションを、彼は「自分への攻撃」というたった一つのフィルターでしか受信できていなかったんだ。 「哀れだとは思う……。でも、それこそがあなたが壊れているという紛れもない証拠だよ」 『あぁ!? 誰が壊れてるだと!? このクソ野郎!! こっちにこいよ!!!!!』 ……この攻撃性こそが、全てを物語っている。 自分を攻撃してくる者を威圧してきた彼は、その道でしか生きられなかったんだ。 自分を大きく見せる為に。 そして、それはやがて歯車を致命的なほどに壊してしまった。 「自分を大きく見せようとしても、もう無駄だよ。僕は……あなたの内心を全部知ってしまったんだから」 その言葉に、黒崎の堪忍袋の緒が切れたのか、痺れた身体を無理矢理動かして結界へとナイフを突き立てた。 『ふざけんな!!!! 俺は、弱くねぇ!!!』 「でも、あなたの行く先は変わらない。あなたは、五人もの命を理不尽に奪ってしまったんだから」 「あなたの行く先は間違いなく、地獄だよ」 『……っ!! だ、誰が成仏なんてするかよ!! 俺は永遠にこの世に留まるぜ……!』 そんなのは不可能だ。 人は死後、必ずいつかはあの世に逝かないといけない。 「……無理だよ。人は死んだらあの世に逝かないといけない。それを覆すことはきっと出来ない」 「はい。魂は最終的にあの世には必ず行きます。それに例外は存在しません」 美琴の冷徹な言葉に、黒崎の瞳が絶望に染まる。 『……ざけんな……! ふざけんなよ!! だったら、俺をこんな風に生まれさせた世界も同罪だろうが!!』 (話が飛躍しすぎてい
last updateLast Updated : 2025-06-12
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縁語り其の七十:冥府の業火

『クソッ……!!』 黒崎が、結界の中でもがいた。 真紅の霊気が聖なる鎖のように全身を縛り上げ、その顔は苦痛と焦燥に歪んでいく。 「先輩、これより……彼を、強制的に成仏させます」 美琴が、静かに、だが重々しく告げた。 「強制成仏……?」 「はい。私達、古の巫女が使う術の中でも……禁術として扱われるものです」 禁術。 その二文字が、僕の胸に冷たい鉛のように沈み込む。途方もない代償が伴うであろうことは、想像に難くなかった。 「待って、美琴! 禁術だなんて……何か、君に代償があるんじゃないの!?」 脳裏に、彼女が意識を失ったあの夜の光景が蘇り、心臓が締め付けられる。 「……これから行う術は、霊にとって、あらゆる苦痛を凌駕する痛みを与えます。その身が……業火に焼かれ続けるような痛みを……この人は、味わうことになるんです」 『な、なんだよ!!? そんなやべぇことを俺にするつもりなのか!?? 霊を助けるのがお前ら巫女の仕事なんだろ!??』 黒崎が、金切り声を上げる。 五人もの命を玩具のように奪っておきながら、今、自分の身に危険が迫ると、みっともなく命乞いをする黒崎。 「ただ、先輩……この術は、禁術とされるだけあって……術者への代償も、最も、重いのです」 美琴は黒崎の言葉をまるで聞こえていないかのように、全く反応を示さない。 「……っ!」 心臓が、痛いほど脈打つ。 やめてほしい、と叫びたかった。でも――。 「私はもう、決めました。彼には罪を償わせると」 美琴が、まっすぐに僕を見つめる。 その紅い瞳の奥には、揺らぐことのない、鋼のような決意が宿っていた。 震えも、迷いも、そこにはない。 (……これはもう止められない……止まらない……) 何を言っても、彼女は、この道を行く。 それが、痛いほどわかってしまったから……僕は……。 「……わかった」 僕は静かに息を吐き出し、彼女の覚悟を、その魂ごと受け止めるように頷いた。 「信じるよ。美琴の、選んだ道を」 その言葉に、美琴の唇が、ふっと僅かに弧を描いた。 「……ありがとうございます、悠斗君」 (あっ……名前……) その声は、嬉しさと、今にも零れ落ちそうな切なさが混じり合った、奇妙な響きを帯びていた。 『ま、待ってくれよ!! お、俺は悪くねぇんだ!! 俺の過去をよく知れば、俺が
last updateLast Updated : 2025-06-12
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