All Chapters of 縁が結ぶ影〜呪われた巫女と結ぶ少年〜: Chapter 61 - Chapter 70

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六十一話:温泉郷への道標

地の底から響くような、腐った汚泥のような笑い声が耳奥にこびりついて離れない。 暗闇の中、フードを深く被った男が、乾いた血で黒ずんだナイフを指先で愛おしげに撫でていた。腐臭と鉄錆の匂いが混じり合い、僕の胃袋が裏返りそうになる。 「ずっと……ずっと、てめぇをこうしてやりたかったんだよ」 男の声には、長年溜め込んだ憎悪が滲んでいた。 「な……なにを……やめろ、黒崎……!」 懇願の声は、彼にとって心地よい旋律でしかない。 楽しげに傾けられたナイフの切っ先が、上司の喉元を、次いで心臓のあたりを、恋人の肌を愛撫するようにゆっくりとなぞっていく。 「どこからがいいかなぁ?」 次の瞬間、ひときわ強い力が込められ—— ずぶり。 肉を裂く湿った音が、僕の鼓膜を震わせた。 「ぐ…あっ……ぁ…」 (これは……! この記憶は……殺人鬼の……!) 「あっははははははは!!!! 俺の事をさんざん見下しやがって!!!!」 「クソどもの前ではよく恥をかかせてくれたよなぁ!? おい!!」 黒崎と呼ばれた殺人鬼は、倒れ込む男性の顔を鋼鉄の先を履いた安全靴で蹴り上げた。 ぐしゃり。 鼻梁が砕ける音。それでも黒崎は止まらない。何度も、何度も何度も何度も、まるで壊れた機械のように同じ動作を繰り返す。 声にならない呻き。噴き出す血飛沫が描く赤黒い放物線を、黒崎は恍惚とした表情で見つめていた。生温かい血の匂いが、僕の肺を満たしていく。 (もうやめろ……!) 目の前で繰り広げられる惨劇を止めたい。そう思って、僕は男を掴もうとした。 でも、当然のことながら、ここは過去の記憶の中だ。 僕の手は虚しく宙を切るだけ。 ——っ……! 突然、場面が切り替わる。 今度は、錆びた機械の前で震える若い女性が黒崎と対峙していた。恐怖で顔面が蒼白になっている。 黒崎の手にあるナイフからは、先程の男性の血がぽたぽたと床に滴っていた。 「や、やめて! こっちに来ないで!」 その悲鳴が、黒崎の口元を三日月のように歪ませた。 「『黒崎さんって優しいですよね』……そう言ったのは、誰だったかなぁ?」 ねっとりとした声で囁きながら、彼は傍らにあった錆びついた鉄パイプを拾い上げる。重量感のある金属音が、空気を震わせた。 女性の顔が
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六十二話:花守温泉郷へようこそ

霧が晴れたばかりの空気は、どこか水の底みたいに青くて静かだった。  だが道に踏み出した瞬間、景色が一変する。 「わぁ……!」  美琴が声を上げた。  古い家並みが、谷をとり囲むように立ち並んでいる。漆喰の白壁、木の格子窓、石畳の道——どれもが使いこまれた年月をそのまま纏っていて、妙に落ち着いた重さがある。行き交う人たちはみんな歩くのがゆっくりで、すれ違いざまに軽く会釈していく。お年寄りが多い。若い声より、笑い皺の深い顔のほうが目に入る。 「これは……すごいね……!」  悠斗も気がつけばあちこちに視線を送っていた。観光地という感じではなく、ここに暮らしがある、という手触りがどこからともなく伝わってくる。  美琴は立ち止まって、石畳の目地の隙間を覗き込むようにしゃがんでいた。その目が、さっきまで霊眼術を使っていたとは思えないくらい、子どもみたいにきらきらしている。 「おうっ! 少年! 今回はえらい霧の深さだったが、大丈夫か?」  声がかかったのはそのときだった。  振り向くと、日焼けした顔の中年男性が通りをこちらへ向かって歩いてくる。作業着姿で、肩幅が広い。人のいい笑顔。 「あ、はい。最初はちょっと焦りましたけど……」  悠斗は正直に答えたが、途中で口が止まる。霧の中で聞こえた声のことが頭に浮かんだのだ。——信じてもらえるとは思えない。あの声を、どう説明すればいい。 「そうかぁ。深い霧の中で女の人の声は聞こえんかったかい?」  悠斗は息を飲んだ。  隣で美琴も動きを止めるのがわかる。二人して、男の顔をまじまじと見てしまったはずだ。 「え——ええ。優しくて、明るい雰囲気の声がはっきり聞こえましたけど……」  男の顔が、ゆっくりとほころんだ。目の端に皺が寄り、口の両端が上がる。嬉しいとか喜んでいるとかいうより——ほっとしている、という顔だ。 「そうかぁ! そりゃあよかった! きっとまた陽菜ちゃんが導いてくれたんだな!」  陽菜ちゃん。  悠斗は美琴と顔を見合わせた。美琴も同じ顔をしていた——困惑というより、その名前の重さを測りかねているような。 「陽菜ちゃん……?」  声が重なった。  男は特に驚く様子もなく、むしろ得意げに胸を張ってみせる。 「そうそう! 彼女はね、この花守温泉郷の守護霊みたいなもんさ!」 「守護霊……」
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六十三話:見えない優しさ

 ふと、言葉が途切れた。  沈黙が落ちる。空気が重いわけではない。けれど悠斗は、すぐ隣を歩く美琴の顔をどうしても見られなかった。 「そ、その……」  口を開いてみたものの、その先が続かない。  今さら手を離せるはずもなかった。ここで離したところで、きっと気まずさが増すだけだ——そんなことは、考えるまでもなく分かっている。 (こ、これ……今更手を離したところで気まずさがさらに増すだけだろうけど……!!)  手のひらばかりが妙に意識にのぼる。どうにかしなければと思うほど、頭の中は空回りしていった。 (ど、ど、どうする……! どう話しかける……!?)  喉の奥がわずかに詰まる。それでも悠斗は、半ば勢いに任せるように口を開いた。 「そ、その……。騒がしい人達だった……ね?」 「え、ええ……」  返ってきた美琴の声も、どこかぎこちない。  また沈黙が落ちた。 「…………」  並んで歩く足音だけが、やけにはっきり耳に残る。  その沈黙を破ったのは、美琴だった。 「ふふ……、あははっ……!」  堪えきれなくなったように、美琴が小さく吹き出す。 「み、美琴さん……?」  悠斗が戸惑って顔を向けると、美琴は口元に手を添えたまま、少しだけ肩を揺らしていた。 「……すみません。なんだか、おかしく感じてしまって」 「……はは。確かに。霊を通して出会った僕たちが、いまこんなふうに旅行をしてるなんて」  自分で言ってみて、悠斗も少し笑ってしまった。  霊が怖かった。関わるたびに、ろくなことが起きなかった。あの頃の自分なら、きっとこんなふうに誰かと並んで、その話を笑って口にすることさえできなかったはずだった。  けれど今、自分はここにいる。  少しずつ乗り越えてきたものの先にいて、そのきっかけになった美琴が隣にいる。こうして同じ景色を見ながら歩いていることが、なんだかひどく不思議で、少しだけくすぐったかった。 「……本当に、不思議だね」 「ええ。あっ、先輩、あちらを見てください!」  美琴の声に促され、悠斗はそちらへ顔を向けた。  道の先、夕方のやわらかな光の中に、小さな店がぽつぽつと並んでいる。湯気の立つ温泉卵、串に刺さった団子、山の土産らしいせんべい――どの店も素朴な佇まいで、けれど人を引き寄せるような温かさがあった。 「先輩! 温
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六十四話:桜を模した勾玉

 花守温泉郷の通りには、小さな店が途切れることなく並んでいた。  土産物屋、甘味処、湯上がり客向けの雑貨店。昼の光を受けた石畳の道は明るく、行き交う人々の声もどこかのんびりしている。悠斗と美琴もそんな通りを歩きながら、気になる店をひとつずつ覗いていた。  今、二人が足を止めているのは、小物や髪飾り、着物が並ぶ呉服店だった。店先には色とりどりの布小物が揺れ、硝子戸の向こうには繊細な細工の簪や帯留めが並んでいる。和の意匠で統一されたその空間は、見ているだけでも楽しかった。 「先輩っ。見てください、これ」  控えめではあるものの、弾んだ声。  悠斗が振り向くと、美琴が小走りに近づいてくる。差し出された手のひらの上には、桜の形を模した勾玉がひとつ、やわらかな光を受けて静かに艶めいていた。 「へぇ。ここも桜がモチーフなんだね」  そう言って覗き込むと、薄紅色の石を削って作られたそれは、小ぶりながら不思議と目を引いた。花弁を思わせる丸みがあって、ただ可愛らしいだけではなく、どこか凛とした空気もある。 「そうみたいですね。なにやら、ここ花守温泉郷で語り継がれている偉人が、非常に桜を愛していたらしくて」 「そうなんだ。あっ」  そこで悠斗は、ふと別の勾玉の感触を思い出した。  バスに乗ったとき、美琴から受け取った紅い勾玉。あれを持っていたおかげで、霊眼術は驚くほど自然に発動できた。あのときの美琴の声も、妙にはっきりと耳の奥に残っている。  ――私の故郷では、勾玉というものはとても神聖で大切なものとして古くから伝わっていて、多くの人々がお守りとして身につけたり、大切な人へ贈ったりする習慣があるんですよ。  そこまで思い出したところで、悠斗はもう一度、美琴の手の中の勾玉に目を落とした。 「気になってるの?」 「そうですね……。はい。でも少し高いですし。他のも見てみようと思ってます」  そう答える美琴の声はいつも通り穏やかだったが、視線だけはもう一度、名残惜しそうに桜の勾玉へ落ちていた。 「美琴」 「はい?」 「あっちにさ、桜のモチーフのエリアがあるから、見てきてもらえないかな。それは僕が戻しておくよ」  店の奥を指さしながら言うと、美琴は素直にそちらを見た。 「分かりました」  美琴は手の中の勾玉を悠斗へ渡し、そのまま言われた通り桜の意匠が集
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六十五話:陽光館の誤算

 気がつけば、空はもう茜色に染まりはじめていた。  山の端へ傾いた陽が、温泉郷の屋根や石畳をやわらかく照らしている。さっきまで昼の明るさの中を歩いていた気がするのに、時間だけがするりと先へ進んでしまったようだった。 「夕方が来るのが早く感じるね」 「ええ。楽しい時間はあっという間ですね」  美琴の声には、名残惜しさよりも素直な満足が滲んでいた。悠斗はその横顔を見て、少しだけ笑う。  通りを歩いていると、不意に道端のどこかからさらさらと水の流れる音が聞こえてきた。耳を澄ませば、賑わいの奥にずっと細く続いている。 「川もあるんですね」 「そうみたいだね。ここまで山奥だと、渓流だろうね」  美琴は音のするほうへ視線を向けながら、小さく頷いた。 「数日滞在するなら、そういう景色も見たいですね」 「それなら、明日の昼にでも行ってみようか」 「はいっ!」  弾んだ返事が返ってくる。その明るさが妙に嬉しくて、悠斗の口元も自然に緩んだ。  そんな話をしながら歩いているうちに、旅館が並ぶ一角を抜け、さらに奥へと進んでいく。やがて前方に、ひときわ大きな建物が見えてきた。  木造の重厚な造りで、門構えからして他の宿とは少し空気が違う。年季はあるのに古びた印象はなく、むしろ丁寧に手入れされ続けてきた落ち着きがあった。 「ついた。ここだね」  悠斗は立ち止まり、入口脇に掲げられた木の看板へ目を向ける。そこには、達筆な文字で陽光館と記されていた。 「お、大きいですね……。なんだか緊張します」 「あはは、そうだね。きっと美琴の部屋も豪華だから、楽しみにしてて」 「はい」  少し硬さの残る返事に、悠斗は微笑んだまま引き戸へ手をかける。がらがら、と木の擦れる音を立てて戸を開けると、館内には外の暑さとは違う、ひんやりとした空気が満ちていた。  磨き込まれた板張りの床。奥へまっすぐ伸びる廊下。ほのかに香る木と畳の匂い。正面のカウンターでは三人の女将がそれぞれ仕事をしていて、そのうち一番左にいた女性が、こちらに気づいて顔を上げた。 「おや、いらっしゃい!」  人懐こい声に招かれるようにして、悠斗と美琴はカウンターへ向かう。 「ようこそ、陽光館へ!」 「予約しました、櫻井です」 「櫻井さんだね!」  女将は慣れた手つきで手帳を開き、ぱらぱらと頁をめくりは
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六十六話:縮まる距離の午後

「部屋はこちらになるよ」    女将に案内されて通されたのは、二人で泊まるには十分すぎるほど広い和室だった。畳は青く、窓際には低い卓が置かれている。床の間には季節の花がさりげなく活けられていて、旅館らしい落ち着いた空気が部屋全体に満ちていたが、そんなものをゆっくり眺める余裕は、今の悠斗にも美琴にもなかった。  ひとまず、とでも言うように部屋へ上がり、二人は少し距離を空けて床に腰を下ろす。けれど、その動作ひとつ取っても妙によそよそしい。背筋は必要以上に伸び、置いた手の位置すら落ち着かない。互いに視線を合わせそうになっては逸らし、逸らした先でも意識だけが相手のほうへ引っ張られていく。 「部屋のものは全部、自由に使ってもらって構わないからね。そこのタンスの中には、浴衣が入ってるから」 「あ、ありがとうございます」  悠斗と美琴の声が、ほとんど同時に重なった。気まずさの中で揃ってしまったことが、余計に居心地の悪さを増してしまう。  女将はそんな二人の様子を気にしたふうもなく、にこにことしたまま続けた。 「また、十九時にお食事を部屋まで運びに来るから、くつろいでおくれ」  そう言い残して、襖が静かに閉まる。  途端に、部屋の中から人の気配がひとつ減った。残された静けさが、やけに広い。窓の外からは遠くに湯の流れるような音がかすかに聞こえているのに、この部屋の中だけ時間の進み方がおかしくなったみたいだった。 「………」 「………」  言葉が出ない。  喉の奥が少し張って、息の深さがうまく定まらなかった。どうしてこうなった。いや、経緯は分かっている。予約の手違いだ。誰が悪いという話でもない。頭ではそう理解しているのに、現実として同じ部屋に二人きりで取り残されてしまうと、理解と気持ちはまるで別だった。  落ち着こうとしても、視線の置き場がない。正面を向けば美琴がいる。窓を見るのも不自然で、卓を見るのも、畳の目を追うのも、いかにも意識していますと言っているみたいで気が休まらない。  たぶん、美琴も同じだった。頬はまだうっすら赤いままで、膝の上に置かれた指先がどこか行き場を失っている。普段の落ち着いた彼女からはあまり見ない、はっきりとしたぎこちなさだった。  先にこの沈黙に耐えきれなくなったのは、悠斗だった。 「そ、その……なんか……ごめん。まさかこん
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六十七話:慰霊碑への誘い

 引き戸を叩く軽い音が、ふたりの間に滑り込んだ。  悠斗が顔を上げると、障子がゆっくりと横に引かれる。 「失礼するよ。食事を持ってきたんだ」  女将の声とともに、出汁の香りがふわりと畳の上を這った。運ばれてきた膳には土鍋がひとつずつ——蓋の隙間から白い湯気が立ちのぼり、その奥に色鮮やかな野菜と、透き通るような薄切りの肉が覗いている。旅館の夕食というには量が違った。具のひとつひとつが、手で選んだとわかるほど艶がある。 「わぁ……とても美味しそうです……!」  美琴が膳に身を乗り出した。さっきまでの落ち着いた横顔が嘘のように、目を丸くして鍋の中を覗き込んでいる。 (今日は、美琴が驚くところをよく見るな)  箸を揃える手つきまで弾んでいるのが丸わかりで、悠斗は思わず口元が緩んだ。年相応にはしゃぐ美琴を見ていると、肩の力が自然と抜けていく。 「熱いから、気をつけてね」  女将が手際よくふたつの鍋に火を入れると、青い炎が土鍋の底を舐めた。 「これでよし。また一時間ほどしたら、来るからね」  そう言い残して、女将は来たときと同じ穏やかな足取りで引き戸を閉めていった。部屋には出汁の匂いと、ぐつぐつと煮える小さな音だけが残る。 「先輩、いただきましょうっ!」  美琴が両手を合わせる。その勢いにつられて、悠斗も自然と姿勢を正した。 「そうだね。それじゃあ……」 「いただきますっ!」  声が重なった。美琴がぱっと笑って、悠斗もつい頬が緩む。  鍋の蓋を開けると、湯気が一斉に立ちのぼった。煮えた出汁の匂いが顔にかかり、美琴が目を細めながら最初のひと口を掬う。それからはぽつぽつと、他愛もない話が湯気の合間を縫うように続いた。今日のバスが揺れたこと、宿の廊下が思ったより長かったこと——どれも取るに足らない話題ばかりで、だからこそ箸が止まらない。 「美琴は苦手な食べ物とかないの?」 「食べれない物はないんですけど……、果物が苦手で……」 「えっ? 果物が?」  思わず箸が止まった。甘いものが苦手、辛いものが駄目——そのあたりなら想像がつく。けれど果物というのは、悠斗の予想にはなかった。 「はい、おかしいですよね。でも、あまり食べる習慣がなかったからだと思います」  美琴は少しだけ首を傾げて、困ったように笑った。 (果物を食べる習慣がない……か)
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六十八話:浴衣とときめき

 慰霊碑——と、その言葉が耳に残った。  悠斗はぬるくなった茶を一口含みながら、思考を巡らせる。美琴には内密で来たはずの調査が、結局のところ、ふたりでそういう場所へ足を運ぶ流れになるのかもしれない。胸の奥で、小さなためらいと、それを上回る好奇心がせめぎ合っていた。 「……今の天気は」  「晴れてるよ。それもとびきりね」  女将は廊下の向こうに目をやり、満足げに頷いた。障子の隙間から差し込む光が、畳の目をくっきりと浮かび上がらせている。  「だって、美琴はどうしたい?」  念のため尋ねてみたが、返事を待つまでもなかった。  「せっかくの女将さんのおすすめですし、行ってみましょう!」  即答だった。迷いの欠片もない声に、悠斗は小さく息をついて腰を上げかける。  「それなら準備を——」  「そうだ」  女将が、思い出したように手を打った。  「慰霊碑に行くなら、陽菜の湯で温まってからにしたらどうだい?」  「陽菜の湯……ですか?」  美琴が小首をかしげる。その瞳に、かすかな光が灯ったように見えたのは気のせいだろうか。  「そうさ。おふたりは、この温泉郷で愛されてる『陽菜』をご存知かい?」  「ええ、深い霧で遭難する人を助けてくれる——優しい霊ですよね」  口にしてから、悠斗は内心でそわそわした。こんな当たり前の顔で「霊」なんて言葉を出している自分が、どうにも落ち着かない。けれど女将は気にした様子もなく、懐かしそうに目を細めた。  「そうそう。その陽菜ちゃんがね、よく浸かったとされている温泉さ。効能もそりゃあすごくて、特に美肌——」  「美肌……っ!?」  美琴の声が、一段跳ね上がった。  「そうだよ。いい成分がたっぷりでね、髪質まで良くなるなんて噂が——」  「先輩っ!! 行きましょう!!」  前のめりになった美琴の勢いに、悠斗は思わず仰け反った。  「うぉ……すごい食いつくね」  「美肌ですよ!? しかも温泉郷でお仕事されている方のお墨付きですよ!?」  美琴の声がもう一段高くなる。その熱量に、悠斗は両手を軽く上げて降参のポーズをとった。  「お、おおう……。それじゃ、準備して行こうか」  ぱあっと美琴の顔が明るくなった。まるで蕾がほどけるように、嬉しさが全身からこぼれている。女将もそんなふたりをにこにこと眺めてい
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六十九話:陽菜の湯

ふたりで並んで歩く夜の温泉郷は、悠斗が勝手に思い描いていたよりも、ずっと賑やかだった。  提灯のあかりが石畳に淡くこぼれ、道の両脇にはまだ人の流れがある。湯上がりらしい客の笑い声が遠く近く重なって、その合間を、甘じょっぱい匂いや香ばしい匂いがふわりとすり抜けていった。 「思ったより人がいるんだね」  そう口にすると、美琴も周囲を見回しながら小さくうなずいた。 「そうですね。それに美味しそうな匂いが……」  言いながら、すこしだけ鼻先を動かす。その様子が妙に素直で、悠斗は思わず口元を緩めた。 「もしかして、もうお腹空いた?」  冗談めかして言うと、美琴はぴたりと足を止めかけた。それから頬をふくらませ、じとっとした視線を向けてくる。 「も、もうっ! そんな訳ないじゃないですか……! まぁ……少し食べたいと思ったのは事実ですけど……」  語尾だけが、少しだけしぼんだ。悠斗は肩を揺らして笑う。 「ごめんごめん。じゃあ、戻ってきたら、なにか買おうか。その頃には小腹も少しは空くかもしれないし」 「そうですね! そうしましょう!」  今度はぱっと表情が明るくなる。その切り替わりがおかしくて、喉の奥で笑いをこらえながら、悠斗は女将から受け取った地図に目を落とした。  紙の上に引かれた細い線を指で追い、角をひとつ、ふたつ。賑わいの中心から外れるにつれて、通りの音も少しずつ遠のいていく。店の明かりは減り、代わりに街灯の白い光が道をまだらに照らしていた。  やがて辿り着いたのは、人気の少ない細い通りの先だった。  そこにあったのは、温泉へ続く風情のある小道というより、小さな林の入口にしか見えない場所だった。黒々とした木立が寄り合っていて、その奥だけ、夜が一段深く沈んでいる。 「先輩……。本当に……」  美琴が不安そうに声をこぼす。言いたいことは、悠斗にもよくわかっていた。  どう見ても、ここは温泉への入口ではない。  喉の奥に、かすかな引っかかりが残る。けれど地図を見直しても、示されている場所はやはりここだった。 「おかしいな……でも確かにここみたいなんだよね」  紙から顔を上げて言うと、美琴は林の奥へ目を向けたまま、そっと息をついた。 「そしたら一応、奥まで行ってみましょうか?」 「うん。一度行けるところまで行ってみよう」  そう返して、
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七十話:星降る湯と影の戯れ

 更衣室に入ると、脱衣籠がいくつか並んだ簡素な空間だった。古びた木の棚と、年季の入った鏡がひとつ。ほかに人の気配はない。  浴衣を脱いで畳み、タオルを手に外へ出る。手前の湯船はすぐ目の前にあった。桶で湯をすくい、肩から流す。じわりと熱が肌に染みて、冷えていた身体がゆるむのがわかった。  そのまま湯に浸かる。 「くぅー……! 染みる……!」  声が勝手に漏れた。山の夜気に冷やされた身体へ、温泉の熱がじんわり沁みこんでいく。肩まで沈めると、さっきまで強張っていた背中の力が、湯に溶け出すように抜けていった。  ふと、顔を上げる。  いつの間にか、空一面に星が広がっていた。木々の輪郭の向こう、切り取られた夜空に、細かな光の粒がびっしりと散っている。街の明かりが届かない分、星の数がまるで違う。悠斗はしばらく、湯に身を預けたまま、その光を眺めていた。 「先輩、入ってきましたか?」  湯けむりの向こうから、美琴の声が響く。姿は見えない。岩と竹垣に遮られて、奥の湯船はこちらからは窺えなかった。 「うん、入ってきたよ。美琴、ありがとう」 「ふふっ、寒いんですから、無理しちゃダメです」  声だけのやりとりが、湯気の中をゆるく行き来する。なんだか不思議な距離感だった。すぐそこにいるのに姿は見えなくて、声だけがやけに近い。 「……ありがとう。それにしても、本当に貸切だね」  耳を澄ましても、聞こえるのは湯の流れる音と、ときおり揺れる木の葉の音だけだ。こんな場所を女将が教えてくれたのも頷ける。穴場という言葉が、これほどしっくりくる温泉もそうない。  ぼんやりと湯面に目を落としたとき、ふと視界の端に色が映った。  黄色い花びらが、いつの間にか湯に浮かんでいる。  一枚、二枚。揺れるでもなく、ただ静かにそこにある。風で飛んできたのだろうか——と悠斗は首を傾げたが、周囲にそれらしい花の気配はない。気のせいだろう、と視線を戻しかけたときだった。  ふふ……。  かすかな笑い声が、湯気の奥で揺れた。 「……ん? 美琴、笑った?」 「えっ? 笑ってないですよ?」  怪訝そうな声が返ってくる。空耳だったのか——そう思い直して、悠斗は再び空を見上げようとした。  湯けむりの奥で、なにかが動いた。  白い靄がふわりと薄れて、人影がひとつ、こちらへ近づいてくる。輪郭
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