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六十七話:慰霊碑への誘い

Author: 渡瀬藍兵
last update publish date: 2025-06-11 19:00:00

 引き戸を叩く軽い音が、ふたりの間に滑り込んだ。

 悠斗が顔を上げると、障子がゆっくりと横に引かれる。

「失礼するよ。食事を持ってきたんだ」

 女将の声とともに、出汁の香りがふわりと畳の上を這った。運ばれてきた膳には土鍋がひとつずつ——蓋の隙間から白い湯気が立ちのぼり、その奥に色鮮やかな野菜と、透き通るような薄切りの肉が覗いている。旅館の夕食というには量が違った。具のひとつひとつが、手で選んだとわかるほど艶がある。

「わぁ……とても美味しそうです……!」

 美琴が膳に身を乗り出した。さっきまでの落ち着いた横顔が嘘のように、目を丸くして鍋の中を覗き込んでいる。

(今日は、美琴が驚くところをよく見るな)

 箸を揃える手つきまで弾んでいるのが丸わかりで、悠斗は思わず口元が緩んだ。年相応にはしゃぐ美琴を見ていると、肩の力が自然と抜けていく。

「熱いから、気をつけてね」

 女将が手際よくふたつの鍋に火を入れると、青い炎が土鍋の底を舐めた。

「これでよし。また一時間ほどしたら、来るからね」

 そう言い残して、女将は来たときと同じ穏やかな足取りで引き戸を閉めていった。部屋には出汁の匂いと、ぐつぐつと煮える小さな音だけが残る。

「先輩、いただきましょうっ!」

 美琴が両手を合わせる。その勢いにつられて、悠斗も自然と姿勢を正した。

「そうだね。それじゃあ……」

「いただきますっ!」

 声が重なった。美琴がぱっと笑って、悠斗もつい頬が緩む。

 鍋の蓋を開けると、湯気が一斉に立ちのぼった。煮えた出汁の匂いが顔にかかり、美琴が目を細めながら最初のひと口を掬う。それからはぽつぽつと、他愛もない話が湯気の合間を縫うように続いた。今日のバスが揺れたこと、宿の廊下が思ったより長かったこと——どれも取るに足らない話題ばかりで、だからこそ箸が止まらない。

「美琴は苦手な食べ物とかないの?」

「食べれない物はないんですけど……、果物が苦手で……」

「えっ? 果物が?」

 思わず箸が止まった。甘いものが苦手、辛いものが駄目——そのあたりなら想像がつく。けれど果物というのは、悠斗の予想にはなかった。

「はい、おかしいですよね。でも、あまり食べる習慣がなかったからだと思います」

 美琴は少しだけ首を傾げて、困ったように笑った。

(果物を食べる習慣がない……か)

 どうしてだろう、と一瞬引っかかったものの、まぁそういう人もいるかと悠斗はそれ以上深追いしなかった。鍋から立つ湯気が天井に溶けていくのを眺めながら、ふと口を開く。

「そういえば、美琴の故郷ってどこなの?」

 空気が変わったわけではない。ただ、美琴の箸がほんの数瞬だけ止まった。

 視線はこちらに戻ってこない。美琴は何事もなかったように箸先で煮物をつまみ、ひと口ぶんだけ丁寧に切り分けた。

「私の故郷は、桜織市よりはるか北にある村なんです」

 そう言って、煮物を口に運ぶ。表情は穏やかなまま、崩れていない。けれど箸が止まった数瞬の間だけが、悠斗の視界にうっすらと残っていた。

「桜織より、遥か北……か。ん……? 村!?」

「言ってませんでしたよね。そう、私の生まれは田舎や都会ではなく、村なんです」

 美琴はさらりと言った。湯気越しに見える横顔には、隠す気配も、気まずさもない。

(いや……村って……! 驚かない人の方が少ないでしょ)

 口にしかけた言葉を、悠斗は飲み込んだ。美琴の声の温度が、ほんのわずかに変わった気がしたからだ。笑顔も口調もさっきと同じはずなのに、纏う空気だけがすこし違う。

 さっきの箸の間。あの数瞬が、今になって意味を帯びてくる。

 美琴は故郷の話を避けている。生まれた土地について触れられることを——聞かれる前に閉じていた。悠斗が踏み込んだのは、そういう場所だった。

 鍋がことことと音を立てる。悠斗は自分の無神経さに唇を噛んだ。きっと何か事情がある。簡単に話せるようなものではない、何かが。

(そういえば、廃病院で自分の血が穢れてる……なんて言ってた。やっぱり、生まれに何か関係があるのかもしれない)

 湯気の向こうの美琴に視線を戻す。けれど美琴の箸は変わらず動いていた。鍋の具を丁寧に掬い、小皿に取り分ける所作はいつも通り穏やかで、空気を壊した痕跡など見当たらない。気にしていないのか、気にしていないように見せているのか——悠斗には、判別がつかなかった。

「あっ! 先輩! 見てください! 茶柱です!」

 不意に美琴が湯呑みを両手で持ち上げた。こちらに差し出すように傾けた器の中で、一本の茶柱がまっすぐ立っている。さっきまでの翳りなど最初からなかったように、美琴の目がきらきらと笑っていた。

 それから一時間ほどが経った頃、ふたたび引き戸に軽い音が響いた。

「食器を下げにきたよ。おや、綺麗に食べてくれて……。嬉しいねぇ」

 女将は空になった鍋を覗き込んで、目尻に皺を寄せた。

「とっても美味しかったです!」

「はは、それはよかった」

 女将は手際よく膳を片づけながら、ごく自然にこちらへ言葉を放った。

「ところで、お若いおふたりさん、もう温泉郷で行く場所とかは決めているのかい?」

 悠斗はその話題の拾い方にすこし感心した。会話の隙間を見つけて、客の口を自然と開かせる。長年この宿を切り盛りしてきた人間の、手慣れた間合いだった。

「いえ、じつはあまり決めてなくて! 明日は渓流などがあればそちらを見てみようかなとは思っているのですけど」

 美琴が少し前のめりに答える。今日はよく喋るな、と悠斗は思った。よく驚き、よく笑い、よく喋る。普段の美琴は——何を考えているのか、すぐ隣にいても掴みきれないところがある。だからこうして年相応にはしゃぐ姿を見ていると、胸の奥がすこしだけ温かくなった。

「おや、なら私がオススメの観光スポットを教えてあげようか?」

「はい、是非お願いします」

「おふたりは確か、二泊だったよね。それなら花守巫女の慰霊碑なんてどうだい?」

 悠斗の眉が、僅かに下がった。

「花守巫女の慰霊碑?」

「そうさ。そこはね、花守温泉郷で一番のパワースポットだなんて言われてるんだ。今の時期は蛍がふわふわと舞っていて、それはもうすごく綺麗なんだよ」

 女将が語る声は弾んでいる。観光案内というより、本当に好きな場所を薦めている響きだった。

「へぇ……。そしたら明日の夜にでも……」

「残念だけど、明日の夜は雨なんだ。きっと、霧も出るだろうね」

 女将はそこで一拍置いて、ふたりの顔を交互に見た。

「だから、今から行ってきたらどうだい?」

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