All Chapters of 縁が結ぶ影〜呪われた巫女と結ぶ少年〜: Chapter 41 - Chapter 50

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四十一話:決意の問答

「っはぁ……! っはぁ……!!」  意識が、現実に引き戻された。  冷たい空気。コンクリートの匂い。トンネルの闇。周囲はすでに日が落ち、夜の帳が降りていた。 「……先輩、目覚めましたか?」  すでに覚醒していた美琴が、悠斗のもとへ駆け寄ってくる。 「すごい汗……! 随分、深く潜り込んでしまったようですね……。大丈夫ですか……?」 「はぁ……はぁ……み、美琴……僕は……」  言葉にならなかった。息が荒い。視界が揺れる。身体はここにあるのに、意識の半分がまだあの記憶の中に取り残されているようだった。  美琴がポケットからオレンジ色のハンカチを取り出し、悠斗の額をそっと拭った。汗ばんだ肌に、布の柔らかさが触れる。 「どうされました……?」  荒い呼吸を何度か繰り返し、ようやくリズムを取り戻してから、悠斗はゆっくりと口を開いた。 「……詩織さんの……過去を見た……それも、最初から……最後まで……」 「本当ですか……!? 先輩がそこまで深く詩織さんの記憶に入り込めたなんて……! 私のほうは、残念ながらこれといった収穫はなかったというのに……!」 「……正直……きつい……」 「……なにを見たのですか……?」  美琴の声色が変わった。明らかにおかしい悠斗の様子に気づいたのだろう。心配そうな眼差しが、酷く揺れている。  頬を、何かが伝っていた。  拭っても、拭っても、止まらない。次から次へと溢れ出してくる。恥ずかしいとか、そんな感情が入り込む隙はどこにもなかった。  詩織の過去が——悠斗の心に、あまりにも深い悲しみを刻み込んでいた。 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 「落ち着かれましたか?」  美琴が、悠斗の顔をそっと覗き込んだ。 「……うん」 「ですが、顔色は優れないですね……」  当然だろう。自分でもわかっていた。あの記憶が、まだ身体の奥に重く沈んでいる。 「……ねぇ美琴」 「はい、ここにいますよ」  美琴の手が、悠斗の手にそっと重ねられた。さっきの霊力の伝達とは違う、ただそこにいるためだけの温もり。 「あの悲しみから詩織さんを解放してあげられる未来が見えない……」  声が、掠れた。見てきたものの重さが、そのまま言葉に滲み出していた。 「……。一体、何を見たのですか?」 「……」  悠斗は
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四十二話:名を呼べぬ少女

「……ここは?」  気づいたとき、悠斗は見知らぬ神社の境内に立っていた。  いつ、どうやってここへ来たのか——その記憶だけが、綺麗に切り取られている。  名前すら曖昧だった。自分が誰で、さっきまで何をしていたのか。今日が何曜日かさえ分からない。人間として当然持っているはずのものが、ひとつも手の中にない。  本来なら、喉の奥が冷えるような恐怖に駆られてもおかしくない状況だ。なのに胸の内は奇妙なほど凪いでいて、その静けさがかえって薄い恐怖を呼ぶ。 「……とりあえず、歩くしかないか」  立ち尽くしていても何も始まらない。自分に言い聞かせるように呟いて、砂利を一歩踏んだ。乾いた音が、やけに大きく響く。  空は厚い雲に蓋をされ、白い霧が境内の端から端まで満ちていた。少し先の輪郭がふっと溶け、湿った冷気が頬に貼りつく。  そのとき——どこからか、鈴の音が降ってきた。 「……今の、どこから……?」  高く、澄んだ音色。空から落ちてくるようでいて、足元から湧くようでもある。方角が掴めない。  悠斗は音に導かれるまま足を進めた。霧に包まれた境内を歩くうち、視界の奥に、大きな社殿の輪郭が浮かび上がる。  柱や梁のそこかしこに、金色の蛇を模した精巧な装飾が施された、立派な造りだった。鱗の一枚一枚まで丁寧に刻まれ、霧越しの薄明かりを受けてかすかに光っている。 「これは……一体……」 『これはね、白蛇神社だよ』  唐突に、すぐ隣から声がした。  悠斗は息を呑み、視線を横に向ける。——いつの間に現れたのか、小さなおかっぱ頭の少女が立っていた。  深い青色の着物を纏い、背筋をすっと伸ばしたその佇まいは、今の時代の空気をまるで纏っていない。霧の中から切り出されたように静かで、どこか此岸のものとは思えなかった。 「……君は?」 『私? 私は────』 (なんだ……? うまく、聞き取れない)  少女の声が途中で滲むように崩れ、名前だけがきれいに掻き消された。耳に届いたのは、言葉の輪郭を失った残響だけだ。  少女は小さく息をつき、どこか諦めの混じった目で悠斗を見上げた。 『はぁ……。あなたにも、やっぱり聞こえないんだね』  残念さの奥に、もっと古い疲労が透けている。同じことを何度も繰り返してきた者だけが纏う、乾いた諦念だった。 「……ごめん」  理由は
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四十三話:出発前のひととき

「美琴っ! ごめん、お待たせ……!」  息を切らしながら駆け寄る悠斗を、美琴は少し目を丸くして迎えた。 「先輩が遅刻なんて、珍しいこともあるのですね……?」  責めるような色はない。むしろ心配げに首を傾げるその仕草が、かえって悠斗の胸を締めつける。 「うっ……。実は、なんか変な夢を見た気がして……」 「変な夢、ですか?」 「不思議なことに全く思い出せないんだけど……」 「それで、遅れたということですか?」 「ご、ごめん!! 言い訳にならないのは百も承知なんだ……! 次からは気をつけるから!」  深々と頭を下げる悠斗に、美琴が慌てて両手を振る。 「い、いえ。別に怒ってるわけじゃありませんよ?」  柔らかな微笑み。その穏やかさに、悠斗はようやく肩の力を抜いた。 「それならいいんだけど……! と、とにかく気をつけるね」 「ふふ、ええ。そうしてくださいね」  束の間の和やかさが、ふっと引いた。美琴の表情から笑みが消え、真っ直ぐな眼差しが悠斗を射る。 「先輩、今日の目的はわかっていますね?」 「うん。今日は、詩織さんの家に行くんだ」  悠斗も声のトーンを落とした。美琴は小さく頷き、言葉を選ぶように間を置いてから続ける。 「今回は、とても大変ですよ。それこそ、前回のように霊だけで完結できる話ではありませんから」 「うん。それもわかってる。今回は……生きている人も巻き込むんだから」  静かに、けれど揺るぎなく。その声には、昨日の決意がそのまま息づいていた。 「では、その前に……朝ごはんを食べましょうか」  穏やかな提案に、悠斗は一瞬きょとんとした。 「うん。うん? いま、なんて?」 「ご飯です。先輩、慌てて出てきたのですから。きっと、朝食をちゃんと食べてないですよね?」  優しい声音なのに、視線だけが鋭い。見透かされている、と悟るのに一秒もかからなかった。 「うっ……! す、鋭い……」  ばつが悪そうに目を逸らす悠斗に、美琴は小さく息をついた。 「ダメですよ? 霊と関わるのはとてもエネルギーを消耗するんですから。ちゃんとご飯を食べて、力をつけなければ」  心配と叱責がちょうど半分ずつ。その物言いにはどこか年上のような厳しさがあって、悠斗は観念したように苦笑する。 「わかった、わかった。じゃあ、どこか入ろうか」 「ええ。
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四十四話:揺れる心、問われる距離

 美琴が食器を片付け終え、澪と連れ立って戻ってきた。 「先輩、そろそろ行きましょうか」 「……もう、行っちゃうの? もう少しゆっくりしていってもいいのに」  澪がわずかに眉を下げて美琴を見上げる。 「そうしたい気持ちはあるんだけど……実は今日は、櫻井先輩と一緒にどうしても済ませなきゃいけない、とても大切な用事があるの」 「大切な用事??  へえ。ははあん、なるほどね……そういうことか」  何かを察したように、澪が目を細めた。含みのある笑みが唇の端に浮かんでいる。 「え? なに?? どうしたの?」 「……美琴と櫻井先輩って、付き合ってるんでしょ?」  美琴の耳元に口を寄せ、小声で囁く。——けれどその声は、隣にいる悠斗の耳にもかすかに届いてしまった。聞こえなかったふりを決め込み、視線の置き場を必死に探す。 「そ、そ、そんなこと……そんなことないよ!? ち、違うから! 全然そんな関係じゃないから!」 (美琴が、こんなに動揺するなんて……)  自分の頬にも熱が差しているのは自覚していた。けれどそれ以上に取り乱している美琴を見ていると、不思議と胸の奥がやわらかくほどけていく。 「か、からかわないでよっ!」  頬を膨らませて抗議する美琴に、澪はまるで堪えた様子がない。 「もう〜、可愛いんだから!」  軽やかにいなしては、まるで何事もなかったかのようにけろりとした表情で笑ってみせる。その笑顔には、美琴の動揺を楽しんでいるような、少しいたずらっぽい雰囲気が漂っていた。 (このふたりの関係、なんとなくわかってきた……)  翔太や春雪と自分の関係に、よく似ている。一人でぽつんとしていると決まってちょっかいを出してきた、あの二人。鬱陶しいようでいて——その実、不器用な気遣いだったのだと今ならわかる。  悠斗は、目の前の少女たちにも、同じ温もりを感じた。  。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸  やがて二人は、風鳴トンネルへと辿り着いていた。  三度目の来訪。トンネルの内部は相変わらず暗く、どこか物悲しい空気を湛えている。 「色々ありましたけど、今回で少しでも彼女を救えるといいのですが……」  美琴の声が、トンネルの闇に吸い込まれるように溶けていく。祈りにも似た切実さが、その言葉の端々に滲んでいた。 「そうだね。この暗
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四十五話:二十年の傷

 ピンポーン——。  長いあいだ押されることのなかったインターホンが、喉を詰まらせたような、か細い電子音を鳴らした。  玄関先に立ち尽くし、二人は息を潜める。  静寂。家の奥から、微かな物音が返ってきた。何かを引きずるような重い足取り。それから——ためらうような、長い間。  数秒だったはずだ。けれどそれが、途方もなく引き伸ばされて感じられた。  ガチャリ、と古びた鍵が回る。扉がゆっくりと開かれた。 「……はい。松田ですけど」  掠れた声だった。長いあいだ誰とも言葉を交わしていない人間の、錆びついたような響き。 「っ……」  悠斗は思わず息を呑んだ。  目の下に刻まれた深い隈。削げ落ちた頬。艶を失った髪は乱れたまま放置され、かつて記憶の中で見た面影は、どこにも残っていなかった。  扉の向こうに立つ松田静江の姿は——痛々しいという言葉すら足りない。詩織を失ってから過ごしてきた歳月の重さが、憔悴しきったその表情のすべてに刻み込まれている。言葉になどしなくても、嫌でもわかってしまう。 「どちら様?」  鋭い目つきが、悠斗を射抜いた。  一瞬、言葉が喉に詰まる。けれど脳裏に浮かんだのは詩織の顔で——悠斗は奥歯を噛み、気を取り直した。 「あ、あの!  僕は櫻井悠斗って言います」  まずは自己紹介から。彼女の心の扉を、少しずつでいい、開いていくのだ。 「……櫻井さんね。あたしに何の用だい?」 「そ、その……なにかお困り事とかありませんか?」 (って……何を聞いているんだ、僕は……!)  言った瞬間、自分でも血の気が引いた。あの鋭い視線に射抜かれた途端、頭の中が真っ白に凍りつく。深く閉ざされた瞳。冷ややかな拒絶の色。それに晒されて、用意していたはずの言葉がばらばらに崩れていった。  口からは辛うじて声が漏れている。けれど自分が何を喋っているのか、もうわからなくなっていた。 「……?  おかしな子だね。宗教かなんかの勧誘かい?」 「い、いえそういう訳ではなくて……」 (ま、まずい……!  警戒心を解こうとしたのが裏目に……!) 「……??」  静江の眉間に、明確な警戒の皺が刻まれた。  背後にいる美琴は、何も言わない。ただ傍で、静かに見守っている。  だが——そうだ。救いたいと言ったのは、ほかの誰でもない自分自身だ。この場所へ来
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四十六話:蝉時雨の決意

 夕暮れの公園に、蝉の声が降り注いでいた。  まだ梅雨も明けきらない季節だというのに、その合唱はやけに力強く、空気ごと震わせるように鳴り響いている。傾いた陽が二人の背中を焼き、ブランコの鎖に長い影を落としていた。  悠斗はブランコに腰を預けたまま、地面に視線を落としている。靴の爪先が砂を浅く抉り、戻り、また抉る。その繰り返しだけが、かろうじて彼の時間を動かしていた。 「はぁ……」  吐き出した息が、声にならない重さを帯びて落ちる。  隣のブランコに座る美琴は、穏やかな横顔のまま悠斗を見つめていた。何も言わない。急かさない。ただ、そこにいる。 「自分が情けないよ……」  言葉が砂に染み込むように消えていく。 「焦っておかしなこと言うし、挙句の果てには静江さんの心の扉を、さらに深く閉ざす結果になった」  自分の声を聞くたびに、あの場面が蘇る。静江の凍りついた表情。こちらに向けられた拒絶。踏み込もうとして、逆に押し返された感触。 「……いえ」  美琴がゆっくりと首を振った。静かに、けれど確かな否定だった。ブランコがわずかに軋み、彼女の体が悠斗のほうへ傾く。 「静江さんを説得するのは、誰にとっても非常に難しいことだったと思いますよ」 「……でも」  納得できなかった。もっと別の言い方があったのではないか。もっと慎重に踏み込めたのではないか。その問いが頭の中で何度も巻き戻され、そのたびに答えは見つからず、後悔だけが積み上がっていく。 「先輩」  美琴の声が、少しだけ芯を帯びた。 「彼女の傷は相当深いんです。私でも、すぐには解けないでしょう。それでも——」  一拍の間があった。蝉の声が、その隙間を埋めるように膨らむ。 「先輩が自分の言葉で、真摯に静江さんを説得しようとする姿を見て、私は誇らしく思いました」  視界の端で、美琴が微笑んでいるのがわかった。柔らかく、けれど揺るぎのない笑み。 「……だけど」  受け取りたかった。その言葉を、素直に胸に入れたかった。けれど、あの場で静江に向けた自分の声が——空回りし、届かず、むしろ傷口を抉っただけの自分の声が、まだ耳にこびりついている。 「彼女を傷つけただけだ。前に進めなかった……。静江さんを、詩織さんを……救えなかった」 「先輩……」  美琴が口を開きかけて、閉じた。言葉を探しているの
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四十七話:説得の重み

星が瞬き始めていた。  空の色はとうに藍へ沈み、街灯がぽつぽつと道を照らしている。住宅街の細い路地を歩くたび、どこかの家から晩御飯の匂いが漂ってきた。焼き鮭の、香ばしくて少し塩辛い匂い。食卓を囲む家族の気配が、壁越しにほのかに滲んでいる。  静江の家の前には、そういった匂いが一切なかった。  灯りの落ちた玄関。閉ざされたカーテン。家そのものが息を潜めているような静けさが、二人を出迎える。 「……先輩、押しますよ」 「うん」  インターホンのボタンが押される。電子音が家の奥へ吸い込まれ、そのあとには沈黙だけが返ってきた。  十秒。三十秒。一分。  前回よりも、さらに長い沈黙だった。虫の声が耳につく。もう出てこないのではないか——そう思いかけた頃、玄関の内側で何かが動く気配がした。  鍵が外れる音。チェーンが擦れる音。そしてゆっくりと、扉が開く。 「……はい。松田ですけど……」  その声は、前回よりもさらに薄かった。疲弊を通り越して、もう何かを感じること自体を諦めたような響き。  けれど——悠斗と美琴の顔を認めた瞬間、静江の表情が一変した。瞳に感情が戻る。それは喜びでも安堵でもなく、硬く、冷たい拒絶だった。 「……はぁ。なんなんだいあんた。もう二度と顔も見たくないって言ったよね?」  扉に手がかかる。閉めようとしている。前回と同じ動き。同じ拒絶。 「……あなたの気持ちはよく分かります! でも……! せめて話を聞いてください……、詩織さんのために」  悠斗の声が、閉まりかけた扉の隙間に滑り込んだ。必死さを抑えようとして、それでも抑えきれない切迫が滲んでいる。  扉の動きが、止まった。  細い隙間から覗く静江の顔。その目が揺れている。怒りと、苦痛と、もっと深い場所にあるものが、薄い唇の震えとなって表に出ていた。 「……ほんとうに、なんなんだい……! 勘弁しておくれよ……! あの子が死んでなお、苦しめようってのかい……!」  声が裏返った。怒りだけではない。その奥に、剥き出しの悲鳴がある。 「もう失うもののないあたしに、これ以上何を求めるってんだい……!」 「……静江さん」  美琴の声が、沈黙を断った。静かだが、迷いのない声だった。 「ずっと後悔されているのですよね?」  悠斗の背筋に、冷たいものが走った。 「……美琴、それ
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四十八話:交わらない道の上で

 美琴の言葉が、ようやく静江の心の殻に届こうとしていた——その時だった。  背後に、気配がひとつ。 「……君たち」  聞き覚えのある声だった。悠斗と美琴が振り返り、静江もまた扉の隙間から目を向ける。三人の視線が、同じ方角に集まった。  街灯の下に立っていたのは、紺色のくたびれたスーツを着た男だった。肩の線が疲労でわずかに下がり、ネクタイは緩められている。仕事帰りだろう。その片手には、スーパーの白いビニール袋が提げられていた。  詩織の婚約者——竹中。 「竹中さん?」  悠斗は思わず声を上げた。こんな場所で、こんな時間に。偶然にしては出来すぎている。 「……竹中」  静江の声が、一段低くなった。目がすっと細まる。美琴の言葉でわずかに緩みかけていた表情が、再び硬質なものに塗り替わっていく。 「……何しに来たんだい」 「……お義母さん。彼らの話を聞いていたでしょう?」  竹中の声は穏やかだった。責めるでもなく、媚びるでもなく、ただ静江のそばに寄り添うような響きを帯びている。 「お義母さんと呼ぶな!!  あたしゃあんたたちの結婚を認めたつもりはないよ!」  静江の怒声が夜の住宅街に弾けた。どこかの家の窓明かりが、一瞬ちらりと揺れる。  美琴が口を開いた。 「……竹中さんはどうしてこちらに?」 「静江さんに、食材を届けに来たんですよ」  悠斗の目が、竹中の手元に落ちた。スーパーの袋の中に、野菜や豆腐、パックに入った魚が覗いている。一人暮らしの食卓を想定したような、控えめだが過不足のない量だった。 「……っ」  静江の息が詰まった。扉を掴む指から、わずかに力が抜ける。 「いままで玄関の入口に置いてあった食材は……あんただったのかい」  その声には、怒りの残滓と、それを上回る動揺が入り混じっていた。知らなかったのだ。玄関先にいつの間にか置かれていた食材——その送り主を、今この瞬間まで。 「……わざわざ言うことじゃありませんから。それに、詩織ならきっとあなたを気にかけてと言うと思ったんです」  竹中の声は淡々としていた。恩を着せる色はどこにもない。ただ当然のことをしてきたという静けさだけが、その言葉の底に流れている。 「……なんだい。あんたは一体なんなんだい……」  静江の声が掠れた。怒りでも拒絶でもない。堰き止めていたものが、小
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四十九話:恐れの先に

 「僕が車を出します。ここから風鳴トンネルへ行くとなると一時間近くかかってしまいますから」 竹中はそう言い残すと、駐車場へ向かって歩き出した。背中が角を曲がって見えなくなるまで、三人のあいだに会話はなかった。  静江は玄関先に立ったまま、視線を足元に落としている。唇が微かに動いたが、言葉にはならなかった。長い沈黙だった。  美琴がそっと一歩近づき、静江の背中に手を添えた。押すのでも支えるのでもない、ただ触れるだけの手のひら。 「なんだい」 「不安ですよね。ごめんなさい、こんな形で足を運ばせてしまって」  静江は答えなかった。代わりに、深く息を吐いた。吐ききったあとの沈黙が、玄関先の空気をいっそう重くする。 「……今まで、ずっとあのトンネルを避けてきた。でも、それでも詩織があのトンネルで呼んでいる夢を見て、眠れないんだよ……」  声が震えているわけではなかった。むしろ乾いていた。何年もかけて絞り出す言葉を失った人間の、枯れた声だった。  だからこそ、彼女に美琴の言葉が届いたのだろう。 「……大丈夫です。きっと詩織さんの想いが静江さんに届いて、反響しているのだと思います」  美琴の声は静かだったが、芯があった。慰めではなく、確信として口にしている——その響きが、悠斗にはわかった。 「それも今日で終わりますから」  静江の視線がゆっくりと上がった。美琴の顔を見て、それから悠斗へ。老いた目が二人の輪郭をなぞるように動く。 「……あんたたち、名前は?」 「僕は、櫻井悠斗です」 「私は月瀬美琴と申します」  静江は二人の名前を口の中で繰り返すように呟いてから、小さく頭を下げた。 「……悠斗に美琴ちゃん、最初はすまなかったね」 「いえ、あの反応は当然だと思います。僕ももっと彼女のように静江さんの気持ちを尊重しながら、切り出せば良かったと後悔してます」  悠斗は笑みを作ろうとして、うまくいかなかった。唇の端がわずかに強張る。あのとき自分が先走らなければ、静江をあれほど追い詰めずに済んだはずだ。その悔いが、喉の奥に小さな棘のように刺さったままだった。 「先輩の行いは決して無駄じゃありません。先輩の言葉があったからこそ、私の言葉が続き、静江さんを説得できたのですから」  美琴の声には、慰めとは違う力があった。事実をそのまま述べているだけの、
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五十話:壊したくない記憶

 トンネルの内部は、昼間とは別の場所のようだった。  天井の蛍光灯はとうに死んでおり、懐中電灯の光だけが足元を頼りなく照らしている。コンクリートの壁面を伝う水滴の音が、不規則に反響しては消えていく。そして霧——トンネルの奥から這い出すように漂う白い靄が、数メートル先の視界を曖昧に溶かしていた。  悠斗と美琴が先頭を歩き、少し離れた後方を竹中と静江が続く。悠斗は時折振り返り、二人の足取りを確かめていた。静江の歩みは遅かったが、止まりはしなかった。  そのとき——空気が、震えた。 『ごめん……なさい……。ごめん……なさい……』  声だった。どこから響いているのかわからない。壁から、天井から、あるいは霧そのものから滲み出すように、掠れた女の声がトンネルの内壁に反響する。悲痛に引き裂かれた、けれど確かに誰かに届こうとしている声。 「っ……!  この声は……」  静江の足が止まった。竹中も同時に立ち竦む。二人の顔から、一瞬で血の気が引いていた。 「……間違いない!  間違いないよ……!  この声は、詩織だ……!」  静江の目が見開かれた。その瞳に浮かんだのは恐怖ではなかった。もっと深い、もっと切実な何かだった。老いた脚が弾かれたように駆け出し、悠斗と美琴の間をすり抜けていく。 「詩織!!  いるんだろう!?  出てきておくれよ……!」  声が霧の中に吸い込まれる。竹中もまた、静江の背を追って走り出した。 「詩織……!  僕もいる!  どうか……姿を見せてくれ……!」 『母……さん……?  裕二……さん……?』  霧の奥から、声が返ってきた。輪郭のない、けれど確かに此方へ向けられた声。 『……どうして……来たの……!  私は……もう二人には……会えないのに……!』  震えていた。怒りでも拒絶でもない。もっと複雑な、いくつもの感情が絡み合って解けないまま声になっている。悠斗の胸の奥が、つられるように軋んだ。 「っ!  ほんとうに……詩織なんだね……。詩織、あたしが悪かったよ……!  あんたたちを、もっと信じてやれば、こんなことには……!」  静江の膝が崩れかけた。涙が頬を伝うのを拭おうともせず、霧の向こうへ手を伸ばしている。届かない。わかっていても、伸ばさずにはいられない。 『……!』  霧の奥で、空気がわずかに揺れる。息を飲んだのだと、悠
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