All Chapters of 【完結】縁が結ぶ影〜呪われた巫女と結ぶ少年〜: Chapter 81 - Chapter 90

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縁語り其の八十一:封じられた記憶

  僕は…夢を見ていた。   それは、まるで漆黒の湖の底からゆっくりと浮上してくるかのような、それでいて網膜に焼き付くほど鮮烈な、封印された記憶の断片。   ──あの日の、記憶。   ───────────────   夜の神社は、異常なほど静かだった。   風はなく、木々の葉が擦れる音も、夏の終わりを告げる虫の声すらも聞こえない。まるで世界から音が消え去ってしまったかのような、底なしの静寂が、境内を支配していた。聞こえるのは、母さんと僕が落ち葉を踏みしめる、乾いた足音だけ。   ザッ、ザッ──。   その音だけが、この静寂を侵す異物であるかのように、やけに大きく、そして不気味に響き渡る。   僕は母さんの手を握っていた。あたたかいはずなのに、その指先はどこか冷たく、僕の掌に伝わるその温度は安堵ではなく、張り詰めた緊張そのものを物語っていた。   その時だった。   ──バリバリッバリバリバリッ!!   背後から轟いたのは、耳を裂くかと思うほどの凄まじい音だった。   それは雷鳴でも、何かが砕ける音でもなく、まるで”空間そのもの”が内側から歪み、ひしゃげるかのような……そんな不気味な音としか言いようがない。   その音がおよそこの世のものとは思えない理解不能な響きを伴って、僕の鼓膜だけでなく脳髄の芯まで直接揺さぶる。   その音に反応し、母さんがはっと表情を歪ませて僕を強く抱き寄せた。   そして、僕をまるで何かから隠すように、背へと隠す。   そんな母さんの背中から伝わってくるのは、これまで感じたことのないほど純粋で、濃密な恐怖の気配だった。   『……ハハハ……』   低く、湿った笑い声が響く。   それは、まるで地の底から這い上がってきたような、不気味で粘りつくような響きで僕の心を凍り付かせる。   『ヒヒヒ…ハ……ハハ……ア……ハァ……』   笑っている、のだろうか。それとも泣いているのか。   怒りや、苦悶、そして愉悦、狂気といった、相反する感情が何層にも重なり合ったような、おぞましい音の塊のせいか、それが判別することが出来なかった。   しかも、その声はひとつじゃない。二重、三重……数えきれないほどの声が混ざり合いながら、ゆっくりと、しかし確実に、こちらへ近づいてくる。   ぺたっ…ぺたっ……。   と何
last updateLast Updated : 2025-06-18
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縁語り其の八十二:夜明けの誓い

「はぁ、はぁ……っ、くそ……!」  びっしょりとかいた汗が、寝巻きをじっとりと肌に貼り付かせる。まるで真夏の炎天下を、終わりのないマラソンのように走り続けた後のような、不快な疲労感。  呼吸は浅く、速く、心臓が肋骨の内側で警鐘を鳴らすように、うるさく脈打っている。  まだ、夢の残像に、身体が怯えていた。  あの”夢”──いや、“記憶”。  どうして、今になってあんなにも鮮明に蘇ったんだ。まるで昨日の出来事のように、肌で感じるほどのリアリティを持って。  ……違う。忘れていたんじゃない。  思い出すことが、ただ怖かったんだ。恐怖に、感情の全てに蓋をして、心の奥底の一番暗い場所に、無理やり閉じ込めていただけ。  それにしても──あれは本当に、霊だったのか?  姿も、声も、これまでに出会ってきたどの存在ともまるで違っていた。何重にも重なったおぞましい声。恨めしそうに……だけど笑いながら血の涙を流す不気味な様子。あの異質な存在を前に、意思疎通なんて、できる気がしなかった。  ──迦夜。 (美琴は、アレを祓おうとしているのか?)  ……無理だ。  脳裏に焼き付いたあの光景が、全身の細胞に叫びかけてくる。  あんなものを祓える未来なんて、僕にはまるで想像できなかった。それは、希望という言葉すら飲み込んでしまうほどに、圧倒的で、絶望的な存在だった。  美琴が「一人では祓えません」と言った、その言葉の意味を、今、僕は本当の意味で理解してしまった。  いや、正確には思い出したという方が正しいだろう。  だから……だからこそ僕も強くならないといけない。  ただ美琴に守られているだけの、足手まといのままじゃいられない。あの強大な存在を前に、彼女一人に全てを背負わせるわけには、絶対にいかないんだ。  ***  ──次の日の朝。  けたたましい目覚ましの電子音よりも早く、僕は目を覚ました。  夢の中の迦夜が、頭から離れない。その異質な姿。狂気の笑い声。そして、母さんを襲った”あの光景”が、まぶたの裏に焼き付いて離れない。  でも、あの出来事があったから、僕は霊にトラウマを抱えるようになってしまったんだ。 「………」 (もう、守られてばかりじゃいられない。ちゃんと隣に立てるようにならないと)  布団を跳ね飛ばして立ち上がると、僕は迷うことなく
last updateLast Updated : 2025-06-18
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縁語り其の八十三:琴乃

 約束の土曜日は、静けさの中で幕を開けた。  アラームが鳴るよりもずっと早く、僕は意識の浅い淵から引き上げられるように目を覚ました。  窓の外はまだ、夜の藍色が溶け残っている。  原因は、分かりきっている。美琴が姉と慕う人物との顔合わせ……挨拶に伺うからだろう。  そう、今日は琴乃さんという人に会う日だ。  でも、まだ起きるにはさすがに早すぎる。現在の時刻は、午前四時を少し回ったところだ。もう一度、微睡みの海に沈もうと瞼を閉じてみるけど、思考は冴え渡るばかりで、眠りの気配はどこにもなかった。 「寝れない…。はぁ…しょうがない…」  僕は諦めて身体を起こし、冷たい床の感触を確かめながらキッチンへ向かう。  冷凍庫から取り出した食パンを二枚、トースターに滑り込ませる。香ばしい匂いが立ち上るのを待つ間に、冷蔵庫から牛乳と、作り置きのサラダを取り出した。    学校へ行く前の、いつもの何の変哲もない朝食。この変わらない日常の動作が、浮き足立つ心をわずかに落ち着かせてくれるような気がしたんだ。  椅子に腰を下ろしてリモコンを手に取る。こんな時間では、どのチャンネルも決まって生真面目な顔のニュース番組しか映し出さない。その中で、一番見慣れた風景が目に留まった。  画面には、桜織神社の御神木──桜翁が映し出されていた。まだ硬い蕾を無数につけた枝が、朝の光を浴びて静かに佇んでいる。 『……まもなく、恒例の桜祭りが開催されます。今年の桜翁も立派な蕾をつけており、満開の桜が春の訪れを告げてくれることでしょう』  女性キャスターの穏やかな声が、春の到来への期待を煽る。 「そっか……もう、春か」  ぽつりと、独り言が漏れた。  一年に一度、夜を徹して提灯に照らされるあの幻想的な光景。美しいなどという言葉では、到底表現しきれない桜翁の姿を、もうすぐ見ることができるんだ。  ***  僕は準備を終えて、美琴との集合場所へと向かっていた。   ……いや、向かっていたというより、もう到着している。約束の時間より二十分も早く着いたはずなのに、そこにはすでに──柔らかな冬の日差しを浴びて、美琴の姿があった。   「美琴、おはよう」   声をかけると、彼女はぱっと笑顔で手を振る。ポニーテールを揺らしながら振り返るその姿は、どこか子供のようにはしゃいで見えて、
last updateLast Updated : 2025-06-19
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縁語り其の八十四:託された想い

「怨霊と呼ばれる中でも……迦夜は、一線を越えているわ」  琴乃さんの声が、静かに落ちていった。その言葉には、誇張も演技もない。ただ、静かな湖のような落ち着きと、それとは裏腹の重さだけが、空気に滲んでいた。 「アタシをこんな身体にしたのは迦夜でね。あの恐ろしい姿に違わない、とてつもない呪いを孕んでいたわ」 「琴乃さんも迦夜に……!?」  声が、喉の奥で震えた。  迦夜という名前が、僕の胸の奥に冷たく刻まれていく。まるで氷の刃で心臓を撫でられたような、鋭い寒気が背筋を這い上がる。 「……わかってるよ。それでも、私は諦めることができないの……。迦夜を私は……祓ってみせる」  美琴の瞳は揺らがず、その覚悟は――僕の目から見ても、間違いなく本物だった。  彼女は、あのおぞましい迦夜と戦う覚悟を、その胸に刻んでいる。   「はぁ……、本当に頑固なんだから……。話は分かったわ」 「その前に美琴、ちょっと珈琲を淹れてきてくれないかしら。急に飲みたくなっちゃって」   琴乃さんは、ふっとため息を落とすと、張り詰めた空気にそっと緩みを与えるように、そう言った。   「砂糖とミルクは?」   「いつも通り。……両方、たっぷりね」  彼女の外見からして、甘いのが好きなのは意外だった。  もっとこう……ブラックで、とか言ってる姿が自然と目に浮かぶけど、これはこれでギャップがあって、なんだか微笑ましい。  琴乃さんの注文を聞くと、美琴が小さく頷いて静かに部屋を出て行った。  足音が遠のいたあと、琴乃さんの視線が僕の方へと向いた。  その瞳は真剣そのもので、なんだか僕は少し緊張してしまう。 「悠斗君……美琴は、あなたを巻き込んでしまったのね?」  その言葉は、鋭くも優しく、胸の奥を突いた。  そこにあったのは、彼女を想う深い愛情と、あくまで部外者である僕を気遣う誠実な思い。どちらも、嘘のない眼差しに宿っていた。  僕は思い返す。  美琴に巻き込まれた……いや、それは違う。  確かにきっかけは美琴だった。  でも、彼女と共に過ごしていく中で、僕は自分から彼女についていくようになったんだ。  それは決して、巻き込まれたなんて関係じゃない。 「……いいえ。違います」  言葉を選びながら、僕は続ける。 「むしろ、僕の方から……美琴について行くよう
last updateLast Updated : 2025-06-19
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縁語り其の八十五:陽菜との再会

冬の名残を溶かすように、澄み切った朝の空気が肺腑を満たす。 早朝の清澄な気配とは裏腹に、僕の胃はとんでもない代物によって支配されていた。 「……うっ。あれは、さすがに……」 脳裏を掠めるのは、美琴が「珈琲です」と言い張って差し出してきた、生クリームの雪山。もしあれが珈琲なのだとしたら、雪崩はきっと優しいそよ風の親戚か何かだろう。 一口すするたびに味覚を麻痺させる甘さの衝撃が脳髄を揺さぶり、断りきれなかった僕の人の良さを静かに呪ったものだ。 寝床を抜け出し、軋む廊下を歩く。障子越しに差し込む柔らかな光が、肌寒い空気をほんのりと暖めていた。その穏やかさが、沈んだ気分をわずかに慰めてくれる。 その光を背負うように、廊下の向こうから現れた人影があった。 丁寧に一つ結びにした艶やかな茶色の髪。透き通るような白い肌。朝の光の中に佇む美琴の姿は、昨日と変わらず可愛らしい。 「おはようございます、悠斗君」 「……おはよう、美琴」 自然と口元は緩む。でも、今の僕にとってその笑顔はあまりに眩しすぎた。胃の不快感が、彼女の清廉な輝きにじりじりと焼かれるような錯覚さえ覚える。 「だいぶ、暖かくなってきたね」 「はい。……もうすぐ、桜も咲くかもしれませんね」 美琴はそう言って、縁側の向こうへ目を細めた。その横顔に、僕もつられて窓の外へ視線を向ける。 ──そう。きっと、もうすぐ春がやってくる。 *** 数時間後。僕の直感は、けたたましく警鐘を鳴らしていた。 ──朝食の準備を美琴に任せるのは、自ら死出の旅路に赴くようなものだ、と。 昨日の珈琲(と呼称される何か)が、僕の防衛本能を鋭く研ぎ澄ませてしまったらしい。 そして、その予感は寸分の狂いもなく現実のものとなる。 「手伝うよ」と隣に立った僕の目の前で、彼女の手はこともなげに塩と砂糖の容器を取り違え、醤油は器の中で小川ではなく、決壊したダムのような勢いで滝を形成しようとしていた。 「ちょっ!!? 美琴ストーップ!!!」 僕は思わず大声を上げて、その手を掴み制止する。 「……? どうしました??」 きょとんとした顔でこちらを見上げる美琴に、僕は一度天を仰ぎ、深く息を吸って、吐いた。 すーっ……はぁ〜……。 そして、彼女が手にしている容器を、指差す
last updateLast Updated : 2025-06-20
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縁語り其の八十六:満開の花びら

僕たちは、乳白色の霧が立ち込める中を、陽菜さんの背中を追って静かに歩いていた。 以前と違うのは、これが来た道を引き返す帰路だということ。そしてもう一つ──目の前を進む彼女の姿が、陽炎のように揺らめきながらも、以前より確かにその輪郭を保っていることだった。まるで、この深い霧そのものから生まれた、気高さを感じさせる精霊のようにも見えた。 不意に、霧の静寂を陽菜さんの気さくな声が破った。 「そういやアンタたち、あれからどうしてたんだい?」 僕と美琴は顔を見合わせ、廃工場での一件をぽつり、ぽつりと語り始める。黒崎という名の殺人鬼の怨霊。命を削るような激しい戦い。僕が負った傷のこと、そして美琴が悪霊を浄化した後、糸が切れたように倒れてしまったことまで──。 僕たちが話し終える頃、陽菜さんの周りを満たしていた穏やかな空気が、まるで張り詰めた弦のように震えているのを感じた。いや、それどころか、ぱちぱちと静かな火花を散らしているような、刺すような怒気が立ち上っていた。 「なんだいそのクソ野郎はッ!? アタイがその場にいたら、魂ごと塵にしてやったのに!!」 「た、魂ごと……」 普段の朗らかな彼女からは想像もつかないほどの激しい怒りに、僕と美琴君は息を呑む。霊体であるはずの彼女が、存在しない袖をぐっとまくり上げる。その剣幕は、心からの怒りだと痛いほどに伝わってきた。 「本当に、大変だったんですよ…」 圧倒されて呟く僕に、陽菜さんはふっと怒気を収めると、「そうかいそうかい」と大きく頷いた。 「でもまぁ、二人とも無事でよかったよ! アンタたちに何かあったら、アタイがそいつを地の果てまで追いかけて、この世から蹴り出してたからね!」 からりとしたいつもの笑顔だった。けれど、その真っ直ぐな言葉が、心の芯を、じんわりと温めてくれる。 隣を歩く美琴が、そっと僕にだけ聞こえる声で囁いた。 「陽菜さんなら、本当に可能だと思いますよ」 「……え、そんなに強いの?」 僕の問いに、美琴は静かに頷く。 「はい。彼女は、並の悪霊では歯が立たないほど、強大な力を持っていますから」 その言葉を聞いて、僕はもう一度、霧の中を進む陽菜さんの背中を見つめた。 陽気で、どこか掴みどころのない霊。そう思っていた彼女の姿が、この土地を永い間見守り続けてき
last updateLast Updated : 2025-06-20
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縁語り其の八十七:桜祭り

  翔太の力強い(?)後押しを受けて、僕は恐る恐る美琴の元へと戻った。   先程まで僕たちと話していた藤次郎さんの姿はすでになく、美琴は桜翁の前にぽつんと一人で立ち、心配そうにこちらを見つめていた。   「大丈夫でしたか?」   頬をほんのりと染めながらも、その声色は落ち着いている。どうやら、あれだけ動揺していたのは僕だけのようだ。。これがまた何とも情けなく感じられる。   「ま、まぁね……」   僕はなんとかそう答えるのが精一杯だった。   『二人で回ってこいよ!』   親友の言葉が、脳内で何度も何度もこだまする。背中を押してくれた翔太のためにも、そして何より自分のために、今、伝えなければいけない……!   そう思うのに、いざ彼女を前にすると、言葉が喉に張り付いて出てこない。   断られたらどうしよう。そんな考えが、期待よりも大きく心を支配してしまう。好きだからこそ、臆病になる。   「あ、あのさ!」   勢いに任せて声を張り上げる。けれど、美琴の澄んだ瞳がまっすぐに僕を捉えた瞬間、次の言葉が続かなくなってしまった。   「……っ」   「どうしました……? もしかして、具合でも悪いんですか……?」   (っ〜!!!! 自分の情けなさが腹ただしい……!!)   僕の葛藤など露知らず、彼女は心から僕を心配してくれている。その優しさが、今は少しだけつらかった。   「……と、藤次郎さんは?」   とっさに、僕は全く関係のない話題でその場を誤魔化していた。   「藤次郎さんなら、先程『またな』と言って去られましたよ。何か、話したいことでもありましたか?」   違う。いや、母のことを知っている理由とか、聞きたいことは山ほどあるけど……でも、それは今じゃない。   今、僕がすべきことは一つだけだ。   僕は、きゅっと拳を握りしめ、意を決した。   「み、美琴!!!」   自分でも驚くほど大きな声が出た。ビクッと彼女の肩が小さく跳ねる。   「は、はいっ!? な、なんでしょうか……??」   (悠斗、お前ならやれる。頑張れ……!頑張るんだ……!!)   (美琴を桜祭りに誘え……!!!)   心の中で、もう一人の自分が必死に叫ぶ。僕は一度だけ固く目を閉じ、そして、振り絞るように言葉を紡いだ。   「あ、明日の夜さ……もし、
last updateLast Updated : 2025-06-21
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縁語り其の八十八:屋台巡り

祭りの中心地に足を踏み入れると、じわりと人の熱気が肌を撫でた。あちこちの屋台から威勢のいい声が飛び交い、ソースの香ばしい匂いや、綿あめの甘い香りが混ざり合って鼻をくすぐる。子供たちのはしゃぎ声、楽しそうな恋人たちの笑い声。その全てが渾然一体となって、ここが非日常の特別な空間だと告げていた。 そんな喧騒の中、ふと美琴の足が止まった。彼女の視線の先、一つの屋台に吸い寄せられるように向けられている。 「わあ……りんご飴……」 普段の落ち着いた彼女からは想像もつかないような、子供みたいに目をきらきらさせた声が漏れた。屋台にずらりと並んだ、つややかに光る赤い宝石。彼女は、それにすっかり心を奪われていた。 「りんご飴、好きだったりする?」 僕が尋ねると、彼女はハッと我に返ったようにこちらを向き、こてん、と小さく首を傾げた。 「いえ、食べたことはないんです。でも、ずっと……一度、食べてみたかったんですよね」 そう言ってはにかむ彼女の横顔が、あまりにも無防備で、愛おしい。 「じゃあ、ちょっと待ってて。すぐ買ってくるから」 人混みをかき分け、屋台のおじさんから一つ受け取る。戻ると、美琴はまるで宝物を受け取るかのように、両手で大事そうにりんご飴の串を握った。そして、食べるのがもったいないとでも言うように、キラキラした瞳でじっと赤い飴を見つめている。 「お祭りといえば…」 僕がそう切り出すと、彼女は待ってましたとばかりに顔を上げた。 「りんご飴、ですよねっ!」 そして、意を決したように小さな口を開き、シャリ、と遠慮がちに一口かじる。その瞬間、彼女の瞳が驚きと喜びに、さらに大きく見開かれる。 口の周りを少しだけ赤く染めながら、夢中で頬張るその姿を見ているだけで、僕の心まで甘い幸福感で満たされていくようだ。 夢中で頬張っていた美琴が、りんご飴を綺麗に食べ終えて「お待たせしましたっ!」と上機嫌に振り返る。その顔は、ずっと食べたかったものを満喫できた満足感で、ぱっと花が咲いたように輝いていた。 ただ一つ、大きな問題を除いては。 「ふふっ、美琴。口の周り、大変なことになってるよ?」 僕は思わず笑いながらハンカチを取り出すと、彼女の口元にそっと手を伸ばした。 「も、もうっ…! こ、子供じゃないんですから、自分で出来ますっ…!
last updateLast Updated : 2025-06-21
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縁語り其の八十九:浄化の舞と琴音の呪い

川べりには、僕たちと同じように、たくさんの人がそれぞれの想いを込めた灯篭を手に集まっていた。川面を渡るひんやりとした夜風が、誰かの灯篭から立ちのぼる線香の香りを微かに運んでくる。 「じゃあ、流すよ」 「はい」 僕たちは静かに、しゃがみこんで水面へと灯篭を浮かべる。 僕の決意を乗せた灯篭は、美琴の「恥ずかしい」願いを乗せた灯篭と、まるで最初からそう決まっていたかのように、自然と寄り添いながら、ゆっくりと流れ始めた。 (この街で眠る人たちが、安らかでありますように。……そして、僕の願いが、どうか──) 「わぁ……悠斗君、見てください! 灯篭がこんなに……!」 隣で美琴が息を呑む。 見渡せば、僕たちと同じように人々が放った無数の光の点が川面を埋め尽くし、まるで天の川が地上に降りてきたかのような幻想的な光景が広がっていた。 ……その光景は圧巻だった。一つ一つは儚く小さな灯火なのに、それらが無数に集まって寄り添い合う姿は、まるで人の営みそのものが、大きな光の流れとなって現れたかのようだ……。 それから十分近く、僕たちはその流れゆく灯篭たちをしっかりと見届けた。 「……それじゃあ美琴、行こうか。本命の、桜翁の元へ」 「はい!」 僕の言葉に、美琴はぱっと顔を輝かせ、力強く頷いた。 祭りの喧騒が、嘘のように遠ざかっていく。 やがて辿り着いた先にあったのは……何も言えなくなるほどの息を飲む光景だった。 夜の闇を背に、巨大な桜の古木がそびえ立っている。その太い幹から細い枝先に至るまで、無数の柔らかな燈籠に彩られ、それ自体が光を放つように、満開の花を咲かせていた。 子供の頃から何度も、何度も見てきた景色のはずだ。なのに、今年だけは、全く違って見えた。 それはきっと──隣に、彼女がいるからだろう。 美琴は、その大きな瞳に神聖な光を宿して桜翁の姿をただじっと見つめ、息をすることさえ忘れてしまったかのようだった。 「……なんて……綺麗……なんでしょう……」 ぽつりと零れたその声が、僕の胸に温かく染み渡る。ああ、この景色を彼女と一緒に見ることができて、心から良かった。 そう思った、まさにその時だった。 ぴゅう、と高く澄んだ音が、静寂を破って夜空を切り裂いた。 直後、巨大な光の花が闇夜に咲き誇る。
last updateLast Updated : 2025-06-22
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縁語り其の九十:桜織の始まり

──翌朝。 けたたましいアラームの音で、重い瞼を無理やりこじ開ける。覚醒したばかりの思考は、まだ昨夜の余韻に浸る間もなく、すぐにあの衝撃的な事実に引き戻された。 琴音様の呪い。 そして、この町に渡ってきた可能性のある、沙月という名の巫女。 解けたはずの謎は、さらに大きく、複雑な形の問いとなって、頭の中で渦を巻いている。パズルのピースは増えたはずなのに、完成するはずの絵は、前よりもずっとぼやけて見えなくなっていく。 そして、もう一つ。 あれだけ固く胸に決めていた、美琴への告白。 それも結局、あの重い真実の前に、口にすることすらできなかった。 その事実が、昨夜の謎とは別の重さで、ずしりと僕の心に沈み込んでくる。 そんな時だった。 枕元のスマートフォンが、電子的な通知音で短く震え、現実へと僕の意識を呼び戻した。 《おはようございます。すみません、悠斗君。今日もし大丈夫であれば学校を休んで、私の所に来てくれませんか?》 メッセージの送り主は、美琴だった。 普段、彼女からこんな風にプライベートな連絡をしてくることは滅多にない。ましてや、「学校を休んで」とまで書くなんて。昨夜の発見が、それほどまでに彼女を揺さぶっている証拠だった。 《おはよう。わかった、どこに行けばいい?》 すぐにそう返信すると、数秒と待たずに答えが返ってきた。 《学校から近くてすみません……桜翁の前にお願いします》 (学校を休むのに、待ち合わせ場所がその学校の目の前って……!) 思わず込み上げるツッコミをぐっと飲み込み、僕は急いで着替えて家を飛び出した。 *** 昨日とは打って変わって、朝の光を浴びる桜翁は静かなものだった。祭りの後の静けさが、境内を包んでいる。 「悠斗君、こちらです」 呼ばれた方を見ると、桜翁の巨大な幹の影、ちょうど裏手にあたる場所から、美琴がそっと手招きをしていた。人目を避けるようなその仕草に、これから聞かされる話の重さを予感する。 「おはよう。急にどうしたの? やっぱり、昨日の……」 僕が尋ねると、彼女はこくりと頷き、何かを言おうと口を開きかけた。 だが、その声が紡がれるより先に、全く別の、凛とした声が背後から響いた。 「俺が呼んでもらったんだ」 聞き覚えのある、落ち着いた声。
last updateLast Updated : 2025-06-22
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