Semua Bab 縁が結ぶ影〜呪われた巫女と結ぶ少年〜: Bab 81 - Bab 90

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八十一話:またいつか

 それから二日後の朝。  帰り支度をすっかり整えた二人は、帳場で女将と向き合っていた。名残を惜しむような空気が、朝の明るさの中にうっすらと残っている。 「女将さん。二日間、お世話になりました」  悠斗が頭を下げると、女将は大げさなくらいに肩をすくめてみせた。 「おやおや! せっかく慣れてきたってのに!」  からりと笑ったあと、女将はすぐに続ける。 「このまま二人で住んじまえばどうだい?」 「そ、それはダメです!」  美琴が勢いよく声を上げた。  悠斗は思わず苦笑する。 「……あはは」 「おやまぁ。でも、お若いおふたりさん。最初よりずっと距離が近づいたように見えるよ」 「そう……でしょうか?」  悠斗が問い返すと、女将は胸を張った。 「ああ! 私は見る目は確かだからね! 最初はどこか遠慮がちで、お互いに気を使い合ってるように見えたけど、今はばっちりだ」 「あ、ありがとうございます……」  美琴が少し照れたように礼を言う。 「またおいでな。温泉郷はいつでも二人を歓迎するからさっ!特に私がね!」  その言葉に、悠斗の胸がかすかに揺れた。  温泉郷はいつでもまた二人を歓迎する。もちろんアタイもね。  陽菜の声が、ほとんどそのまま重なる。  ああ、と悠斗は思った。この女将は、陽菜と少し似ているのだ。――この場所を大事に思う気持ちのあり方がまでもが、よく似ている。それはきっと──。 「お世話になりました! またいつか!」  悠斗が言うと、女将は気前よく手を振った。 「はいよ! 待ってるからね!」  玄関を出ると、そこには夏の青空が広がっていた。強い日差しの下で、蝉の声があちこちから降ってくる。軒先の風鈴が涼やかに鳴り、その音がふと、悠斗の胸に懐かしさのようなものを運んできた。  宿を出て、温泉郷の出入口まで来たところで、二人はそろって足を止めた。  そして、振り返る。  たった二日の滞在だった。けれど、離れる寂しさは、その短さに見合わないほど大きい。ここで過ごした時間が、それだけかけがえのないものになっていたのだと、胸の奥が静かに教えてくる。  そのとき、ふいに視線を感じた。  悠斗が目を凝らすと、ある程度離れた陽光館の前に、陽菜の姿があった。こちらを見つめ、大きく手を振っている。黄色い浴衣が、夏の光の中でもはっきりと
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八十二話:異常現象研究会、始動

 ──人とは、時に醜悪な側面を見せながらも、同時に深く純粋な愛情を心に宿すことのできる存在である。まったく相反する、矛盾した感情を胸の内に抱えながら、それでもなお、人は人を愛することをやめようとはしない。  少年よ、どうか恐れることなかれ。そなたに越えることのできぬ夜など、この世にひとつとして存在しないのだから。  ────────────────  夏の名残もすっかり薄れ、桜織には椛の舞う季節が訪れていた。  春には桃色に染まるこの街も、いまはその気配を静かに潜めている。来る冬に備えるように、木々は枝先から紅を深め──風が吹くたび、色づいた葉がはらはらと落ちていく。桜舞う街、桜織。けれど今は、紅の季節。 「悠斗〜っ!!」  校舎の廊下に響いた大声に、悠斗は思わず肩を揺らす。振り向く間もなく、春雪が勢いそのまま駆け寄ってきた。 「な、なに? そんなに慌てて」 「ふっふっ! 聞いて驚け! 異常現象研究会を立ち上げたぞ!」 「……えっ?」 「えっ? じゃねーよ! サークルだよ、サークル!! 夏休み前に話しただろ!?」 「い、いや、それは覚えてるよ……。ただ、本当に作るなんて……」  悠斗が言い切る前に、春雪は得意げに胸を張る。 「へへ、これで俺も心霊体験ができるぜ!」 「……春雪は、どうしてそんなに心霊体験にこだわるのさ」 「そりゃあ……なんとなくだ」 「はぁ??」  あまりにも雑な返答。悠斗の口から、珍しく素っ頓狂な声が漏れる。 「と、とにかく! 俺が申請したら通ったから! ほら、これがメンバーだ」  春雪に差し出された紙を、悠斗は半信半疑のまま受け取る。  そこには、部長・春雪、副部長・美琴、部員・翔太、澪、優花、そして悠斗──そう並んでいる。 「い、いやいや。いくらなんでもこれは……。しかも多いし」 「しょうがないだろ? 六人いないとサークル作れねぇって言われたんだからよ」 「はぁ……。澪さんはともかく、木下さんがいるのはなんでなのさ」 「優花ちゃんはほら、翔太の彼女だろ? だからなんとなくメンバーに入ってもらって六人にした。まあ、本人は怖いの苦手だって言ってたし、別に異常現象研究会に顔出さなくていいって言ってあるしな」 「木下さんをそんな理由で巻き込むなんて……」  呆れを隠しきれずに言うと、春雪はまるで気にし
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八十三話:石津製鉄所の影

 ──石津製鉄所。  その名が春雪の口から出た瞬間、悠斗は思わず、こいつは本気で言っているのかと疑った。 「……本気なの?」  問い返した声は、わずかに低い。 「先輩、そこになにかあるんですか?」  隣から美琴が尋ねる。悠斗はすぐには答えず、小さく頷くと、手元にあったデンモクを彼女へ差し出した。 「わ、私、歌はいいですよ」 「遠慮すんなって〜! 俺、美琴ちゃんの歌聞きたいなー! だろ? 悠斗」  春雪に振られ、悠斗は一瞬だけ美琴へ目を向ける。 「うん、そうだね。僕も美琴が歌うの聞きたいな」 「も、もうっ。先輩まで……」  困ったように頬をゆるめながらも、美琴は受け取ったデンモクへ視線を落とした。 「……わかりましたよ。選ぶので少し時間をくださいね」  その返事を聞いてから、悠斗は改めて春雪のほうへ向き直る。 「それで? なんで石津製鉄所なんて」 「あの事件以来、あの場所に人が寄り付かなくなっただろ。で、いまの管理人も、なんかあそこには寄りたくないだとよ」 「つまり、管理人の許可を得たのって」 「そう! 行きたくない管理人に代わって、状況を見てきてほしいんだってさ」  得意げに言い切る春雪とは対照的に、悠斗の気分は少しも浮かなかった。 「……気乗りしないなぁ」  ぽつりと漏らすと、向かいの澪も珍しく眉を寄せる。 「怪談とか心霊ものが好きな私でも、さすがにそこはまた別というか……」 「なにやってんだか……。でも、受けた以上、行かないといけないんだろ?」  翔太が半ば呆れたように言えば、春雪は即座に頷いた。 「その通り!」  勢いよく返されたひと言に、部屋の空気がわずかに止まる。  その間を埋めるように、優花がおそるおそる口を開いた。 「そ、その……危なくないのかな……? もちろん心霊的な意味合いでもだけど、老朽化とか……。普通の家でも古くなれば危ないのに、まして廃工場でしょ?」 「大丈夫じゃねぇかな? まだ十年くらいしか経ってないし」  春雪はあっさり言ってのけたが、翔太はすぐに首を横へ振った。 「いやいや。工場って鉄がむき出しだろ? それが錆びたりして、普通の家より老朽化しやすいんだぜ?」 「さすが、鳶職希望!」  軽口を叩く春雪に、翔太は呆れた顔を返す。そのやり取りを横目に、悠斗は小さく息をついた。
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八十四話:静かな予兆

 その後のカラオケは、予想外の方向で盛り上がった。  火をつけたのは澪だ。あれだけ勢いよく言い放ったあとも妙に引かず、むしろ開き直ったように春雪へ絡みにいったせいで、春雪のほうも負けじと応戦する。気づけば二人で選曲を奪い合い、妙な掛け合いまで始まり、部屋の空気はすっかり明るいほうへ流されていた。  そのおかげで、石津製鉄所の話は結局ほとんど進まないまま終わったのだが。  退出時間が近づき、店を出てからもしばらくは、そんな騒がしさの余韻が残っていた。夜気に触れてようやく少し落ち着いた頃、翔太が改めて口を開く。 「んで? 結局どうすんだ? いつごろにするのか決めないと、今日集まったのは無駄になるぜ?」 「翔太……。お前は目的が無いと集まらないのか?」  春雪がわざとらしく肩を落とす。翔太は一瞬たじろぎ、言い返しづらそうに視線を逸らした。 「そ、そういう訳じゃないけどよ……」 「理由は確かに大事だけどよ、理由は二の次だ! 言ったろ? 今日の一番の目的はサークル立ち上げの祝いなんだよ!」  胸を張って言い切るその様子に、悠斗は思わず苦笑した。 「ははぁ〜。わかったよ」  少し肩の力を抜いてから、春雪を見る。 「石津製鉄所だから、そんな太っ腹なことしてるんだね? 実際に奢られる以上、僕たちからなにか言える立場には無いし」 「へへ」  春雪は得意げに鼻を鳴らした。それで誤魔化せていると思っているあたりが、いかにも彼らしい。 「とりあえず、今週なんてどうだ?」  軽い調子で出された提案に、悠斗は反射的に返しかけて、それから言葉を止めた。 「僕は……。いや、ごめん、今週はダメかも。予定があるんだ」  思い出したのは、つい先日の約束だった。  美琴との修行。霊眼術にもだいぶ慣れ、霊気も扱えるようになったことで、いよいよ巫女の方式で本格的に学ぶ段階に入る。その話をしたときの美琴の表情まで、ふと脳裏によみがえってくる。 「私もすみません」  隣で、美琴も小さく頭を下げた。 「そこ二人がいなくなったら、俺らが行っても意味ないしな……。分かった! そしたら、再来週はどうだ!?」  春雪の切り替えは早い。 「まぁ……それくらいなら」 「はい、私も大丈夫です」  二人の返事を聞いて、春雪はひとまず満足そうに頷いた。 「まぁ近くなって大丈夫そう
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八十五話:千年の糸

 悠斗と美琴は、街外れの廃寺を訪れていた。人の気配を失って久しい境内は静まり返り、風が抜けるたびに傷んだ木戸や軒先がかすかに鳴る。荒れ果ててはいても、妙な騒がしさのない場所だった。修行をするには都合がいいのだろうと、悠斗は薄く息を吐く。 「先輩。それでは約束通りに、霊気の扱い方を指導させていただきます」 「うん。よろしくね」  美琴がきちんと背筋を伸ばしたまま、小さく頷く。制服姿は普段と変わらないのに、声の据わり方がどこか違っていた。教える側の顔になっている。 「では、まず基礎である、霊眼術を発動させてください」  言われて、悠斗は美琴から受け取っていた紅色の勾玉を握った。掌に収まる石は、触れた瞬間からじわりと温い。体温とは違う——血管の内側をたどるように、静かな流れが指の付け根から手首へ、手首から胸へ沁みていく。  その流れを、目に導く。  視界が滲んだ。輪郭が揺らぎ、空気の層が一枚めくれるような感覚のあと、目の奥がすうっと冴える。もう感覚で分かる。霊眼術が発動していた。 「はい、確認しました。しっかり発動できてますね」 「まぁね。美琴がくれた勾玉のおかげで、何となくコツも掴んできてる気がするよ」 「いいことです。霊眼術は古の巫女の基礎ですから。それに、古の巫女は霊気を扱えば扱うほど強くなります」 「そうなんだ? でも、それって僕にも当てはまるの? だって僕、男だし」  悠斗が率直に返すと、美琴はすぐには答えなかった。言葉を選ぶように、わずかな間を置く。 「そうですね……。先輩はちょっと特殊な事例なので、なんとも言い難いところはあるんですけど、概ね先輩も当てはまってると思って良いと思います」 「そっか。でも、やれるだけやってみるよ」 「その意気です」  そう言った美琴の口元がふっとゆるむ。教師の顔の隙間から、年相応の柔らかさが一瞬だけ覗いて、すぐに引っ込んだ。 「さて、今日先輩にお教えするのは、二つの術です」 「うん」 「ひとつ。結界術である、『幽護ノ帳』です」  その名を口にしたとき、美琴の声からわずかに温度が引いたのを悠斗は聞き逃さなかった。基礎の延長にはない技なのだと、声音だけで伝わってくる。 「この術は、難易度が高いので……大変でしょうけど、頑張ってくださいね」 「難易度高いのは……、美琴は教えるの上手そうだし、
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八十六話:夕暮れの特訓

「はぁ……! はぁ……!」  荒い息が、静まり返った廃寺に響いた。  美琴との特訓を始めてから、もう数時間。日が傾ききり、境内に落ちる影もすっかり濃くなった頃になって、ようやく悠斗は一発だけ、星燦ノ礫を放つことに成功していた。 「星燦ノ礫、発動できましたね」  美琴の声は静かだった。けれど、その奥にはきちんと安堵がにじんでいる。 「でも……! なにこれ……!! 一発撃っただけで、この疲労感……!」  膝に手をつき、悠斗はどうにか言葉を絞り出す。全身が重い。ただ息が上がっている、というだけじゃない。体の奥から、何かをまとめて持っていかれたような消耗が残っていた。  校庭を全速力で三周したあとに少し似ている。だが、あれよりもっと深い。筋肉ではなく、内側そのものが空っぽになったような感覚だった。 「星燦ノ礫は、霊気を発射するという特性上、発動そのものの難易度はそこまで高くありません。ですが、強い疲労を伴うんです」  美琴は悠斗の様子を見ながら、落ち着いた口調で続ける。 「しかも、これは慣れで消えるものではありません。扱える霊気の総量が増えていくことで、結果として負担も軽くなっていくんですよ」 「はぁ……そっか。じゃあ、霊気を増やすようにするには?」 「それは……慣れですね」  きっぱりと言われ、悠斗は肩で息をしながら顔を上げた。 「なるほど。つまり、霊気を増やすこと自体に慣れていくしかなくて、霊気が増えたら、ここまでの疲れはなくなるってことだよね」 「そういうことになりますね」 「わかったよ。次は、結界術――幽護ノ帳だね」  息を整えながら、悠斗はどうにか姿勢を戻す。まだ身体の芯には重さが残っていたものの、立っていられないほどではない。次へ進む余力くらいなら、なんとか絞り出せそうだった。 「はい。こちらの術は、星燦ノ礫と違って、そこまで強い疲労を伴うわけではありません」  美琴はそう前置きしてから、少しだけ声音を引き締めた。 「ですが、そのぶん難易度は高いです。きちんと形を作れなければ、帳は安定しません」 「なるほど。楽には使わせてくれないってわけか」 「はい」  夕闇の濃さを帯びはじめた境内で、美琴は悠斗の正面に立つ。その佇まいには、先ほどまでの穏やかさとは違う、どこか儀式めいた静けさがあった。 「では、詠唱をお教えします
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八十七話:桜翁の導き

 そして、夜。誰もいない自宅で、悠斗は机の上に筒の中身を広げていた。 「これは……家系図……?」  思わず漏れた声は、静まり返った部屋に小さく沈む。  だが、それはただの家系図ではなかった。自分の両親や祖父母を辿るようなものではなく、もっと古い。何百年も前まで遡る、自分のルーツそのものが、ひとつひとつ書き記されていた。 「しかもこれ……相当古いな……」  紙そのものにも、文字にも、長い時間を経たものだけが持つ乾いた気配がある。複製ではない。そんな確信めいたものが、指先に触れるだけで伝わってきた。 「母さんは、どうしてこれを藤次郎さんに……? 母さんは、一体なにを知っていたんだ?」  問いかけても、答える者はいない。  母は十年前から、ずっと眠り続けたままだ。だからこの疑問は、どこへ向けても行き場がない。解きようのない謎だけが、古びた家系図と一緒に、今夜の机の上へ静かに置かれていた。  その紙に記された名の連なりは、まるで遠い過去からこちらを見返してくるみたいで――悠斗はしばらく、最後の一枚から目を離せなかった。  *  そして、約束していた日がやってきた。春雪の提案で決まった、心霊スポットの視察の日だ。  悠斗はその車内で、窓の外へ流れていく景色をぼんやりと眺めていた。昨日、藤次郎から渡された家系図。あの紙に記されていた名の連なりが、いまも頭のどこかに引っかかって離れない。 「……」 「先輩、どうしました?」  隣からかけられた声にも、悠斗はすぐには反応できなかった。 「先輩?」 「あっ、ごめん。考え事してた。どうしたの?」  ようやく我に返ると、美琴が心配そうにこちらを見ている。 「それはこちらの言葉ですよ。なんだか、ずいぶん思い詰めた顔をしてましたけど……」 「実はさ、ちょっと不思議なことがあって」  悠斗は小さく息をつき、声の調子を整える。 「昨日、桜翁の管理人さんに会ったんだ。どうやら、僕と母さんのことを知ってたみたいで……」  そこで起きたことを、美琴へ順を追って話していく。桜翁の前で声をかけられたこと。母が昔、この木の下へ通っていたこと。そして、十年前に預けられていたという筒と、その中に入っていた古い家系図のことも。 「なるほど……。それは、たしかに不思議ですね」  美琴はすぐに否定も断定もせず、静かに言
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八十八話:古びた家系図

 そして、夜。誰もいない自宅で、悠斗は机の上に筒の中身を広げていた。 「これは……家系図……?」  思わず漏れた声は、静まり返った部屋に小さく沈む。  だが、それはただの家系図ではなかった。自分の両親や祖父母を辿るようなものではなく、もっと古い。何百年も前まで遡る、自分のルーツそのものが、ひとつひとつ書き記されていた。 「しかもこれ……相当古いな……」  紙そのものにも、文字にも、長い時間を経たものだけが持つ乾いた気配がある。複製ではない。そんな確信めいたものが、指先に触れるだけで伝わってきた。 「母さんは、どうしてこれを藤次郎さんに……? 母さんは、一体なにを知っていたんだ?」  問いかけても、答える者はいない。  母は十年前から、ずっと眠り続けたままだ。だからこの疑問は、どこへ向けても行き場がない。解きようのない謎だけが、古びた家系図と一緒に、今夜の机の上へ静かに置かれていた。  その紙に記された名の連なりは、まるで遠い過去からこちらを見返してくるみたいで――悠斗はしばらく、最後の一枚から目を離せなかった。  *  そして、約束していた日がやってきた。春雪の提案で決まった、心霊スポットの視察の日だ。  悠斗はその車内で、窓の外へ流れていく景色をぼんやりと眺めていた。昨日、藤次郎から渡された家系図。あの紙に記されていた名の連なりが、いまも頭のどこかに引っかかって離れない。 「……」 「先輩、どうしました?」  隣からかけられた声にも、悠斗はすぐには反応できなかった。 「先輩?」 「あっ、ごめん。考え事してた。どうしたの?」  ようやく我に返ると、美琴が心配そうにこちらを見ている。 「それはこちらの言葉ですよ。なんだか、ずいぶん思い詰めた顔をしてましたけど……」 「実はさ、ちょっと不思議なことがあって」  悠斗は小さく息をつき、声の調子を整える。 「昨日、桜翁の管理人さんに会ったんだ。どうやら、僕と母さんのことを知ってたみたいで……」  そこで起きたことを、美琴へ順を追って話していく。桜翁の前で声をかけられたこと。母が昔、この木の下へ通っていたこと。そして、十年前に預けられていたという筒と、その中に入っていた古い家系図のことも。 「なるほど……。それは、たしかに不思議ですね」  美琴はすぐに否定も断定もせず、静かに言
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八十九話:錆びた悪意

 バスを降りてから、さらに三十分ほど歩いた。  舗装の剥がれた道路の先には、すでに役目を終えた工場群が沈黙したまま並んでいる。錆びた鉄骨、割れた窓、風に擦れる薄い金属板の音。石津製鉄所がある一帯は、いまも産業の匂いだけをかすかに残しながら、その実、時間から切り離されたように荒れ果てていた。  やがて、悠斗たちの前にひときわ大きな残骸が姿を現す。  崩れかけた外壁の向こうに、黒ずんだ鉄骨が骨のように突き出している。巨大な工場だったのだろうと、一目で分かる佇まいだった。近づけば近づくほど、その輪郭にはただの廃墟では済まない重さが滲んで見えた。 「これが、石津製鉄所……」  思わず漏れた悠斗の声は、広い空の下だというのに妙に沈んで聞こえた。 「ニュースでは時々見てたけど、この辺りの工場よりかは大きいんだな」  春雪が見上げるように言う。その口調は軽いものの、さすがに目の前の異様さまでは誤魔化しきれていなかった。 「…………」  美琴は何も答えない。ただ、じっと石津製鉄所を見つめている。  その横顔に、悠斗はかすかな緊張を覚えた。 「で、とりあえず先ずは周りを見るんだよね?」 「そうそう! 先ずはこの工場の周りを見て……。あれ?」  言いかけた春雪が、不意に言葉を止めた。次の瞬間、慌てたようにポケットを探り始める。 「どうしたの?」 「やべえ。中に入る鍵借りたんだけどよ。家に忘れてきた」 「なにやってんのさ……」  呆れを隠さず言うと、春雪は眉を下げて両手を合わせた。 「ごめん! 二人で先に調査してくれて構わないから! 速攻で取ってくる!」  そう言うや否や、春雪は踵を返し、来た道を全力で走っていった。  乾いた足音が遠ざかっていく。  その背を見送ったあと、悠斗はなんとなく隣へ目を向けた。  美琴は石津製鉄所をじっと見つめていた。さっきから一度も視線を外していない。まるで、何かを見定めるように。 「先輩、今回春雪先輩は、戻って正解かもしれません」  その声音に、悠斗の胸がかすかにざわつく。  見れば、美琴の瞳はすでに紅く染まっていた。  はっとして、悠斗もすぐに霊眼術を発動する。視界の奥行きが変わる。空気の層が一枚剥がれたような感覚のあと、この場所に沈殿していたものが、いっせいに輪郭を持ちはじめた。 「これは……」
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九十話:彷徨う痛み

錆びた外壁に沿って、二人は工場の外周を歩いていた。  足元のコンクリートは至るところでひび割れ、隙間から雑草が伸び放題になっている。壁面を這う配管はとうに朽ちて、触れれば崩れそうなほど脆い。霊眼術を通した視界には、建物の輪郭に沿うようにして黒い残滓がべったりと張りついている。 「翔太の言っていた通り、外の様子でこれなら中に入るのは控えた方が良さそうだね」 「そうですね。きっと雨風に晒されてそこかしこが傷んでるはず……」  美琴がそう返した、直後だった。  ——ガシャン。  重い金属が倒れるような音が、工場の内側から響いた。二人の足が同時に止まる。 「今のは……」 「中から音がしましたね」  短い視線の交換。それだけで十分だった。  音の出どころを探るように、二人は外壁沿いに歩を早めた。錆の粉が靴底で潰れる感触。乾いた風が工場の隙間を抜けて、薄い金属板をびりびりと震わせている。  そのとき、悠斗の目に留まったものがあった。 「美琴、あそこ……。扉が開いてる」  外壁の一角に、鉄製の搬入口らしき扉が半分ほど開いていた。蝶番が錆びきって、風に押されても軋みひとつ返さない。内側から何かに押し広げられたのか、扉の下端がコンクリートに引きずった跡が白く残っている。  ガタン——と、今度はもっと近い音。何かが倒れた、というより、何かに突き飛ばされた音だった。 「なにか……近づいて来てますね」  美琴の声が低くなる。紅い瞳が扉の暗がりを射抜くように細められた。  悠斗は唾を飲み込んだ。喉が鳴る音が、自分にだけやけに大きく聞こえた。  次の瞬間—— 「「うわぁぁぁぁぁあ!!!!!」」  男の絶叫が二つ、重なって弾けた。声が工場の天井で反響し、金属の壁を伝って外まで突き抜けてくる。  二人が扉へ駆け寄るより早かった。  暗闇の中から、二つの人影が転がるように飛び出してきた。一人が足をもつれさせて地面に手をつき、もう一人がその背中にぶつかりながらも必死に前へ走ろうとしている。 「はぁ……! はぁ! な、な、なんだよここ!! なんなんだよアイツは!!」  膝に手をついた男が、引き攣った声で吐き出した。顔は青白く、額に脂汗が浮いている。目が異常に見開かれていて、焦点が定まっていない。  悠斗は恐る恐る、一歩だけ近づいた。 「あの……。どうか
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