All Chapters of 縁が結ぶ影〜呪われた巫女と結ぶ少年〜: Chapter 71 - Chapter 80

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七十一話:気配だけが肌に残って

「その……美琴、ごめん……」  悠斗は、消え入りそうな声でそうつぶやいた。  少しの間を置いて、湯気の向こうから美琴の声が返ってくる。 「……すみません。本気で怒った訳じゃないんです……。ただ、恥ずかしくて……」  最後のほうは、しぼむように小さかった。  それも無理はない、と悠斗は思う。あんなふうに振り回されて、平然としていられるはずがなかった。まして相手が、あんな悪戯好きの霊ならなおさらだ。  喉の奥がつまったようになって、うまく言葉が出てこない。  そのとき、不意にさっきの光景が脳裏をかすめかけた。悠斗ははっとして、湯の中で小さく首を振る。今それを思い出すのは、違う。そう自分に言い聞かせるように、もう一度だけ深く息をついた。 「さっきのは、間違いなく霊だよね? それとも……妖怪的な……? 人に化ける霊なんて見たことないよ」    気まずさを振り払うように、悠斗は話題を変えた。湯気の向こうに美琴の姿は見えない。ただ、湯が小さく跳ねる音だけが、まだ近くにいることを教えてくれる。   「おそらく霊ですね。しかも、あの声……」    美琴の声色が、すこしだけ落ちた。   「なにか思い当たることが?」   「さっきのは、おそらく陽菜さんですよ」   「えっ? 人を助けてくれる霊が?」    思わず聞き返す。湯気の向こうで、わずかに間が空いた。   「はい。先輩はそれどころじゃなかったみたいですけど」    さらりとした口調のくせに、刺すところだけは正確だった。悠斗の肩がびくりと跳ねる。   「ご、ごめん……」    反射のように謝ると、美琴は小さく息をついた。   「さっきのはしょうがないですよ。でも——忘れてくださいね」    穏やかな声だった。穏やかなのに、返事以外の選択肢がどこにもない。   「そ、それはもちろん……」    うなずきながら答える。姿が見えていなくても、ここで変な間を作ってはいけないことだけは、はっきりとわかった。  湯気の向こうは静かだった。視線など届くはずのない距離なのに、美琴がこちらをじっと見ている——そんな気配だけが、妙にくっきりと肌に残っていた。​​​​​​​​​​​​​​​​    *    それからしばらく湯に浸かってはみたものの、心はまるで休まらな
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七十二話:花守巫女の慰霊碑

 林の道を抜け、温泉街の灯りが戻ってきても、悠斗の頭の中は静かにならなかった。  隣を歩く美琴と、たまに目が合うたびに、さっきのことが脳裏をよぎる。湯けむりの奥、ずれたタオルの隙間に覗いた白い膨らみ——。  悠斗は小さく頭を振った。 「先輩、何をしているんですか……?」 「な、なんでもないよ」 「それならいいんですけど……」  心配そうな声が、余計に胸に刺さる。あれは陽菜のイタズラだ。事故だ。自分が望んだわけじゃない。——そう言い聞かせる。言い聞かせるのだけれど、ほんの一瞬、指の隙間を作った自分のことは、どう言い訳しても消えてくれなかった。  石畳を踏む足音が、二人分だけ夜に響く。 「……先輩は、私の故郷について気になっているんですよね」  不意に落ちてきた美琴の声に、悠斗の足が止まりかけた。 「えっ……」  弱々しい、というほどではない。けれど、いつもの美琴とは明らかに違う声色だった。どこか覚悟を決めようとして、まだ決めきれていないような。  聞きたい気持ちは、たしかにある。美琴の故郷のこと、その血筋のこと。知りたいと思わないと言えば嘘になる。けれど美琴がそれを避けてきたことも、悠斗はもう知っていた。 「美琴。美琴は、故郷のこと……自分の生まれに関して話すことに、抵抗があるんでしょ?」  できるだけ慎重に、言葉を選ぶ。踏み込みすぎないように。けれど、気づいていないふりもしないように。 「それは……」 「そういう話は、無理に言わなくてもいいんだ。美琴がもし、自分から話せるようになったら——その時に聞くから」 「……先輩。ありがとう、ございます」  小さな声だった。ありがとう、と、ございます、の間に挟まったわずかな隙間に、飲み込もうとした何かの気配が滲んでいた。  悠斗はそれ以上なにも聞かなかった。地図を広げ直し、花守巫女の慰霊碑を目指して歩き始める。美琴もそっと隣に戻ってきて、二人の足音がまた揃う。  *  それから数分。提灯の灯りもまばらになった道を歩いていると、不意に、美琴が口を開いた。 「私の故郷は、蛇琴村という辺境の地にある小さな村です」  独り言のような声だった。悠斗に向けているようで、どこか自分自身に言い聞かせているようにも聞こえる。 「かつては、とても立派な村で、果物や野菜も新鮮なものが取れていたそうなん
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七十三話:古の巫女

 どれほど、そうしていただろう。  慰霊碑のまわりを漂う蛍は、ひとつとして同じ動きをしなかった。ふわりと浮かび、川の音に合わせるみたいに揺れて、また闇のほうへ溶けていく。その繰り返しを、悠斗も美琴も、ただ黙って見つめていた。 「……」  隣の美琴も、なにも言わない。  言葉を挟めば、この静けさが壊れてしまう気がした。そんなふうに思っていたのは、たぶん悠斗だけではなかった。  慰霊碑のまわりだけ、夜が少し薄い。蛍の淡い光に照らされているから、というだけではないようで。川の音も、風の冷たさも、林の気配も、たしかにそこにあるのに、この一角だけが別の呼吸で息づいているようだった。  やがて、悠斗が小さく息をつく。 「美琴、慰霊碑の傍に行ってみよう」  そう口にしなければ、二人ともいつまでもこの場に立ち尽くしていたかもしれない。それくらい、その光景には足を留める力があった。 「………」 「美琴……?」 「あっ……すみません。あまりに幻想的な光景に、時間を忘れてしまっていました」  美琴はわずかに肩を揺らし、それからいつものように背筋を戻した。けれど声の余韻だけは、まだ少しこの場に引かれているままだった。 「はは、分かる。圧倒されるよね」  悠斗も、ようやく息を継いだ心地だった。 「でも、だからもう少し近づいて見よう」 「そうですね」  二人は細い砂利道をゆっくり進んだ。足元で小石がかすかに鳴る。その音さえ、この場所では妙に遠慮がちに聞こえる。  慰霊碑の前まで来て、悠斗は自然と足を止めた。  石碑は近くで見ると、思っていたより小さい。けれど、近づいたぶんだけ、そこに積もった時間の厚みがよくわかった。表面には苔がまだらに張りつき、角はすっかり丸くなっている。風雨に削られ、季節をいくつも越えてきた石の肌。その中央に、かろうじて文字が残っていた。 『花守巫女の慰霊碑』 「すごいね、これ」  悠斗の声も、思わず低くなる。  覆う苔の下に、どれだけ長い年月が眠っているのか。千年。さっき美琴が口にした数字が、ここへ来てようやく重みを持って胸の中に沈んだ。考えるだけで、喉の奥が少し詰まる。 「……ええ。とても、優しい力がここまで届いています。でも……これは……」  美琴の声が、途中で細くほどけた。  悠斗はそちらを見る。  蛍の淡い光が
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七十四話:血筋の矛盾

「先輩……。隠してしまったこと、この場でうまく説明できないことも、重ねて謝罪します」  美琴がわずかに視線を伏せた。蛍の光がその睫毛をかすめて、すぐに闇へ戻る。 「……すみません」  小さな声だった。川の音は変わらず両脇を流れているのに、その一言だけが水底に沈むように重く残った。 「い、いや……っ。隠してきたことは、別に構わないよ。きっと僕が知ったところで……そのときの僕には、なにもできなかっただろうし」  悠斗はそこで一度言葉を切った。美琴の横顔に目を向ける。 「でも、ひとつ分からないんだ」  蛍が、二人のあいだをゆっくりと横切った。 「巫女の力がここにあること自体は、美琴にとってそこまでおかしな話じゃないんだよね?」 「……」 「なのに、どうしてそんなに動揺してるの? ここにあるのが、ただの結界じゃないから?」 「……巫女の力がここにあること自体は、たしかにおかしな話ではありません」  美琴の声が、すこしだけ硬くなった。 「ですが、それが成り立つのは——現代の巫女の力であれば、という前提です」 「現代の巫女と……古の巫女じゃ、違うの?」  美琴はすぐには頷かなかった。慰霊碑を見つめたまま、息をひとつ整える。 「古の巫女たちは、神に近しい存在でした。神の言葉を人へ伝え、人の祈りを神へ返す——その橋渡しを担っていたんです。だからこそ、今の巫女とは比べものにならないほどの霊力を持っていました」  淡々とした説明のはずだった。けれど「比べものにならない」と口にしたとき、美琴の声にかすかな震えが混じったのを、悠斗は聞き逃さなかった。 「……じゃあ、今の巫女は?」 「霊力を持つ方はいます。ですが……役割の重さが違うんです。神に仕える形は残っていても、今はどちらかといえば儀礼や形式を守り継ぐことのほうが重んじられている」  その言い方には、どこか自分自身を線引きするような距離があった。今の巫女の話をしているのに、自分をそちら側に置いていない。  悠斗が口を開きかけたとき、美琴が先に言った。 「先輩。私は——古の巫女です」  静かな声だった。 「末裔と言ったほうが正しいのかもしれません。でも、私は自分を古の巫女だと定義しています」  悠斗はすぐには返事ができなかった。  けれど、不思議と混乱はなかった。霊の過去を覗き見ること。
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七十五:夜の川辺で

「み、美琴っ!? どうして——わぶっ……!」  状況も飲み込めないまま、顔に温かいものが押しつけられた。濡れた感触が頬を這い、鼻先を舐め上げていく。 「すみません。随分可愛らしいお客さんみたいで……」  美琴の声に、さっきまでの緊迫がない。霊眼術の紅い光も、いつの間にか消えていた。 「可愛いお客さんって……!」  悠斗はようやく、自分の胸の上に覆いかぶさっているものを凝視した。  黒い毛並み。丸い目。ぴんと立った三角の耳。くるりと巻いた尾が、ちぎれそうなほど振れている。 「い、犬ぅ!?」  ワンッ!!!  元気のいい一声が、夜の川辺に響き渡った。 「ふふ、元気な子ですね。おいで」  美琴がしゃがんで両腕を広げると、黒い柴犬は悠斗の胸から跳ね退き、一直線に美琴のもとへ駆けていった。勢いのまま飛びつき、今度は美琴の顔をべろべろと舐め始める。 「あははっ、よしよし」  くすぐったそうに目を細めながら、美琴は犬の背を撫でる手を止めなかった。さっき「古の巫女です」と静かに告げた人と同じ顔とは思えないほど、表情が柔らかい。 「もしかして、霧の中で聞こえたのは……」 「この子だったみたいですね」  撫で終えた美琴の周りを、犬がぐるぐると駆け回る。尾を振り、鼻を鳴らし、嬉しさを全身で表現している。その姿があまりに真っ直ぐで、悠斗の頬も自然と緩んだ。さっきまでの空気が嘘みたいだった。  その直後。 『コラッ! 小太郎、なにやってんだいっ!』  林の奥から、活発な声が飛んできた。  犬——小太郎が、ぴくりと耳を立てる。それから声のほうへ振り返り、砂利を蹴って林へ駆けていった。 「誰だ……?」  悠斗が呟いた横で、空気が変わった。  美琴が半歩前に出ている。腰を落とし、手のひらをわずかに開いた構え。その姿勢だけで、臨戦態勢に入っていることが悠斗にもはっきり伝わった。 「先輩……とても強い霊です。敵意は無い様子ですが」 「えっ!?」  砂利を踏む音が、ゆっくりと近づいてくる。小太郎の軽い足音と、もうひとつ。  月明かりが、林の出口を照らしていた。木々の影から抜け出したのは、小太郎と並んで歩く少女の姿だった。黄色い生地の浴衣に、白い花の刺繍。真っ黒な髪を古風なツインテールに結い上げていて、月の光を受けたその横顔は、同い年くらいに見えた。
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七十六:二百年の温もり

 陽菜に案内されるまま獣道を歩きながら、悠斗は少し前のやり取りを思い返していた。 『あんたたちが花守の巫女様の情報を求めてるなら、とっておきの場所があるんだよ!』 「とっておきの場所?」 『そうさ! そこはね、アタイが死んじまってから——二百年くらいかねぇ? 山を探検してたら、たまたま見つけたのさ』  二百年。あまりにもさらりと出てきたその数字に、悠斗は言葉を失った。隣の美琴は黙ったままだった。驚いていないのか、それとも驚きを表に出さなかっただけなのか——その区別は、悠斗にはつかなかった。 「に、二百年!? 陽菜さん、霊になって一体どれほどの……」 『ふふ、すごいだろう? あんたたちが良かったらそこに案内するけど、どうする?』  美琴は迷う様子もなかった。 「お願いします」 『よっしゃ! 任せな!』  どん、と自分の胸を叩く音が夜に響いた。霊の手が霊の胸を打って、それがちゃんと音になる。その不思議さに気づいたのは、もう少しあとのことだった。  ——それが、ほんの少し前。  今、三人がいるのは道とも呼べない道の上だった。踏み固められた形跡もなく、草と枝が好き放題に伸びた斜面を、ただ陽菜の背中だけを頼りに進んでいる。足元の土は湿って柔らかく、踏み込むたびに靴底が浅く沈む。木々の隙間から月明かりが断片的に差し込んでは消え、視界がそのたびに伸び縮みした。  小太郎だけが迷いなく駆けていた。低い茂みを飛び越え、倒木の下をくぐり、ときどき振り返っては尻尾を一振りして、また走る。  悠斗はその後ろ姿を目で追いながら、妙なことが気になっていた。  陽菜の足が、地面を踏んでいる。  霊だ。わかっている。美琴が「とても強い霊です」と言い切ったその存在が、今、目の前で枝を手で払い、飛び出した根をわざわざ跨いでいる。すり抜けられるはずだった。触れずに通り過ぎられるはずだった。なのに陽菜は、そうすることが当たり前であるかのように、一つひとつの障害物を自分の身体で避けていく。  足音すらある気がした。枯れ葉を踏む乾いた音。空耳かもしれない。けれどその「かもしれない」がまた奇妙だった——霊の足音を空耳と疑えること自体が、陽菜という存在がどれほど生者に近いかを物語っている。 『ほらほら、遅れるんじゃないよ!』  振り返った陽菜が、黄色い浴衣の袖をひらりと翻した
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七十七話:祠に灯る祈り

 巨木の合間を縫うように奥へ進むと、やがてそれは姿を見せた。  祠だ。  小さい。人の腰ほどの高さしかない石造りの社が、苔に半ば飲まれるようにして佇んでいる。屋根の端は欠け、台座の角は丸く削れ、どれほどの歳月をここで過ごしてきたのか見当もつかない。けれど崩れてはいなかった。朽ちかけながらも、なお形を保っている——その一点だけが、ただ古いだけの石とは違う何かを感じさせた。 『ここが、かつて花守の巫女がいたんじゃないかって思う場所だよ』  陽菜の声が、いつもより少しだけ静かだった。 「ここは……」  美琴が息を詰めた。悠斗には見えないものが、彼女の目には映っているのだろう。 「どう……? 美琴」  美琴が祠に向かって手をかざした。指先が微かに震えている——ように見えたのは、一瞬だった。すぐに呼吸を整え、手のひらを静かに開く。 「間違いありません」  確信のある声だった。 「近づくことでようやくわかりましたけど、ここから温泉郷全体を包むように結界が張られていますね」 「温泉郷、全体を……?」 「ええ」  美琴が視線を下ろした。その目が、祠の内側の一点で止まる。 「先輩、これを見てください」  美琴の視線を追って覗き込むと、祠の奥に一枚の紙が貼りつけられていた。御札だった。ただし、悠斗が知っているどの御札とも様子が違う。紙そのものが見たことのない質感をしていて、表面に走る墨の筆跡は達筆の一言では片づけられない力強さを帯びている。しかし端は大きく破れ、文字の半分以上が失われていた。残った部分も風雨に晒され、いつからここにあるのか、もはや見当もつかない。 「これは……千年前の巫女が書いたものなのかな?」 「おそらく」  美琴は御札から目を離さなかった。 「それに、この巫女さんは——霊力に関する知識は、私以上かもしれません」 「それは、どうして?」 「覚えていますか? 御札には効果がありますが、文字にこそ真の効力があるという、私の言葉を」 「うん。言ってたよね」 「きっとこの御札には祈りの言葉が綴られていたはずです」  美琴の指が、破れた縁をなぞるように動いた。触れてはいない。けれどその軌跡は、失われた文字の配置を辿っているようだった。 「そしてさらに——私でも読めない文字が、破れて見えない部分を含めて確認できます」 『あんた
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七十八話:呪われた血筋

『呪いだって?』  陽菜の声から、さっきまでの軽さが一瞬だけ抜けた。 『そりゃあ知ってるけど……なんだってそんなけったいな話が出てくるんだい』 「呪い……? なにか、それが関係あるの?」  悠斗の問いに、美琴はすぐには答えなかった。祠の前に立ったまま、言葉を選ぶように視線を落とす。 「……こちらの温泉郷と、私の故郷に通じるものを感じただけであって。本当に合っているのか、確証がある訳じゃありません」  そこで、ふっと息が漏れた。 「って……今日は確証がないことばかりですね」  自嘲だった。口元だけで笑って、けれど目は笑っていない。その表情が月明かりの下で一瞬だけ浮かび上がって、すぐに美琴は視線を戻した。 「私の故郷では、一柱の神がいたとされています」  声が変わっていた。さっきまでの迷いが引いて、語り手の声になっている。 「その神は村に度重なる災いを引き起こし、怨嗟と呪いを撒き散らしました」 『なんだい……そりゃあ。本当に現実の話なのかい?』 「ええ、少なくとも文献にはそう書かれていました」  美琴は一度息を置いた。 「その白い鱗を持ち、荒ぶる神は——琴音様という巫女によって、人の心を理解し、人を愛するようになったのです」 『……? いい話じゃないか。で? その話がどう呪いに繋がるんだい』 「その後、その神は人を憎むようになったのです」  静かな声だった。淡々としているのに、一語ずつに重さがある。 「その憎しみはやがて呪いへと変化し、疫病や災いを引き起こすようになりました」 「ま、待って! じゃあ……」 「……ええ。それを鎮める役目を担ったのが、『古の巫女』です」  川の音が、遠くで鳴っている。蛍はいつの間にか祠のまわりに集まり始めていて、その明滅が、美琴の横顔を照らしては消す。 「おかしな話ですよね」  美琴が俯いた。 「無から愛へ、愛から憎へ変わるんですから」 「っ……」  悠斗の喉が詰まった。無から愛へ、愛から憎へ。その言葉が胸の中で反響して、うまく消化できない。 「話を戻しますね」  美琴が顔を上げた。声に、再び語り手の硬さが戻っている。 「そのような歴史があったように、感情とは——愛にも、呪いにも変貌します」 『……つまり嬢ちゃんが言いたいのは、必ずしも霊を対象にした結界じゃなかった……ってことか
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七十九話:恩返し

「陽菜さん、ありがとうございます」  美琴が頭を下げる。声に先ほどまでの張り詰めた響きはなく、素直に柔らかい。 『いいってことよ』  陽菜がひらひらと手を振る。黄色い浴衣の袖が夜風に揺れた。 『アンタは何でもかんでも抱えそうだからね』  それから悠斗へ視線を移し、少しだけ目を細める。 『悠斗……だったね。アンタはちゃんと美琴を支えてやんなよ』 「はい、それはもちろん」  即答だった。自分でも驚くくらいに迷いがなかったけれど、陽菜はそれを当然のように受け取って、ニカッと歯を見せて笑った。子どもみたいな笑い方だった——何百年も生きている霊とは思えない、屈託のない顔。  そのまま身を翻して、陽菜は慰霊碑の前へと戻っていく。小太郎がぱたぱたと尻尾を振りながらその後を追った。 『ここは相変わらず綺麗だねぇ』  慰霊碑に手を触れて、陽菜が目を細める。石の表面を撫でるその指先に、懐かしいものに触れるような丁寧さがあった。 『何百年経ったって変わらない。暖かい雰囲気が漂ってるよ』  悠斗には、ただの古い石碑にしか見えない。苔が張りつき、刻まれた文字もほとんど読めない。けれど陽菜の声には、悠斗が知らない時間の厚みが滲んでいて——この場所が彼女にとってどういう意味を持つのか、なんとなく伝わってくる。 「陽菜さん。ひとつ聞きたいことがあるんです」 『ん? なんだい?』  陽菜が振り返る。 『はっ! まさか、三囲かい!?』  悠斗の口が止まった。 「ち、違いますよ!」 「三囲……?」  美琴が首を傾げている。まっすぐな目。本気でわかっていない顔だった。 「美琴は知らなくていいよ……」  悠斗は視線を逸らしながら、小さく手を振った。 『アンタも男なんだねぇ……』  陽菜が腕を組んで、感心したような、呆れたような声を出す。 『そんななりしてしっかり言葉を知ってるなんて』 「こ、これはたまたまネットとかで……って! そうじゃなくて!」  声が裏返りかけた悠斗を、陽菜はにやにやと眺めている。美琴はまだ首を傾げたまま、悠斗と陽菜を交互に見比べていた。 「はぁ……。ペースが乱されるなぁ……」  悠斗がため息をつくと、陽菜はけらけらと笑った。 『楽しいだろう? それならそれでいいじゃないか』 「……それは認めますけど」  否定できない自分
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八十話:霧の向こうの約束

「そうだったんですね……」  悠斗の声が、静かに夜気へ溶けていった。 『今でもあの部屋を客用として使ってくれててね。アタイとしては嬉しいんだ。それに、アタイは確かにこの温泉郷に救われた』  陽菜の声には、飾りがなかった。事実をそのまま差し出すような、清潔な響きだった。 『ならアタイは、温泉郷にもっとたくさん人が来られるように、これからも遭難した人をここへ導き続けるよ』  恩返し。  たった一言で括れるその理由が、悠斗の中にすとんと落ちた。難しい言葉ではない。崇高な理念でもない。ただ、もらったものを返したいという、それだけの、まっすぐな気持ちだった。 『こんなところかねぇ。アンタの問いに、うまく答えられたかい?』  陽菜が首を傾げる。  悠斗はすぐには返せなかった。胸の奥に広がっているものの正体を、うまく言葉にできない。あたたかい――それだけは確かだった。陽菜という存在に触れて、霊というものへの恐怖が、完全に消えたわけではないにせよ、たしかに少しだけ角をなくしている。陽に当たった氷が、端からゆっくり溶けていくような、そんな穏やかさだった。 「ええ……。ありがとうございます」  それが精一杯だった。今の悠斗には、それ以上の言葉は見つからない。 「あの、私からもひとついいですか?」  美琴が一歩、前へ出る。  悠斗はわずかに目を見開いた。美琴の方から問いを投げるのは、珍しい。 『おや? アンタからとはね。いいよ、なんでも聞きな』 「成仏をしようとは……考えないのですか?」  空気が、ほんの一瞬だけ止まった。  それは、悠斗が聞けなかった問いだった。 『そうだねぇ』  陽菜は腕を組み、夜空を見上げる。 『アタイは未練に縛られてるわけじゃない。アタイは、アタイがこの世に留まっていたいと思ってるから、留まってるんだ』  自分の意思で、ここにいる。  縛られているのではなく、選んでいるのだ。 「そうですか……。自分のしたいことを……」  美琴が小さく頷く。その横顔を、悠斗は黙って見ていた。けれど、その表情の奥にあるものまでは読み取れない。 「ありがとうございます。満足できるお答えでした」 『へへ、そりゃよかったよ』  陽菜が笑う。それから、ぐっと背筋を伸ばした。 『さて……と!』  気づけば、いつの間にか宿の前まで戻って
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