All Chapters of 縁が結ぶ影〜呪われた巫女と結ぶ少年〜: Chapter 51 - Chapter 60

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五十一話:二十年分の謝罪

 美琴の身体が横へ弾かれた。  静江の腕が、想像もしない力で美琴を押しのけている。理性の箍が外れた人間の力だった。痩せた腕の、どこにこれほどの力が潜んでいたのか——。 「っ! 静江さんっ!!」  美琴の声が鋭く跳ねる。制止ではない。悲鳴に近い響きだった。  悠斗は咄嗟に動いた。静江の腕を掴もうと、美琴の前に割り込もうと——考えるより先に身体が出ていた。 「待ってください! 彼女の言う通りに!」  だが、恐怖に駆られた人間の力は理屈を超える。  腕を伸ばした瞬間、衝撃が胸を打った。弾き飛ばされる。足が地面を滑り、背中がトンネルの壁にぶつかった。 「うわっ!」  肺の空気が押し出される。視界が一瞬、白く弾けた。 『かぁさぁぁぁぁぁぁぁん!!!!』  ——声が、空間そのものを殴りつけた。  鼓膜が軋む。骨が震える。トンネルの壁面に反響した叫びが何層にも重なり、音という域を超えて、純粋な圧力として身体を叩く。悠斗の肺が、その音圧だけで潰されそうになる。 (まずい……! どうしたら……!)  思考が空転する。静江はもうトンネルの出口に向かって走り出している。あと数歩で外だ。光の境界線が、すぐそこまで迫っている。  ——その手を掴んだのは、竹中だった。  いつ動いたのか、悠斗には見えなかった。気づいたときには、竹中の手が静江の細い手首をしっかりと握っていた。 「は、離しておくれぇ!! あれは……! あれは詩織なんかじゃ……!」  静江の声が裏返る。身をよじり、振りほどこうとする。爪が竹中の手の甲に食い込んでいるはずだったが、竹中の指は微動だにしなかった。  竹中のもう片方の手が、静江の口元をそっと覆う。 「お義母さん……。あれは間違いなく詩織ですよ……! 彼女は本当にずっとここにいたんだ……!」  声が震えていた。竹中自身も怖いのだ。それでも、その震えの奥に、悠斗は確信の熱を聴いた。二十年という歳月をかけて、この人はずっとこの瞬間を待っていたのだ——と。  静江の抵抗が、わずかに弱まる。竹中の声が、恐怖で凝り固まったものを少しだけ溶かしたのかもしれない。 「見ていてください……」  竹中はそれだけを静江に残し、手を離した。  振り返る。  トンネルの闇の奥から、詩織が走ってくる。その足音は不規則で、つまずきながら、転びそうにな
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五十二話:あなた

 それから、どれほどの時間が流れただろう。  静江と詩織は、互いを確かめるように抱き合い続けていた。腕の力を緩めれば消えてしまうとでも言うように、どちらも離れようとしない。  悠斗と美琴は、ただその光景を見守っている。言葉を挟む余地などなかった。挟む必要もなかった。 「詩織……」 『母さん……』 「……なんてこった……まさか本当にあんたをこうしてまた抱きしめることができるなんて……!」  静江の声が詰まる。信じられないという響きと、信じたいという響きが、同じ声の中でせめぎ合っていた。 『……それは私も同じ気持ちだよ。ずっと、このトンネルで私は……母さんを待ってたの』  詩織の声が、嗚咽のあいだから零れ落ちる。言葉がうまく形にならない。それでも、伝えなければいけないことがある——その一心だけが、途切れそうな声を繋ぎとめていた。 『私は、父さんと同じように母さんを裏切っちゃったと思ってたから……! 怖くて……怖くてずっとここから離れられなくなっちゃった……』  静江の手が、詩織の頬に伸びた。血に汚れた肌を、指先でそっと撫でる。我が子の輪郭をなぞるように。二十年のあいだ触れられなかったものに、もう一度触れるように。 「馬鹿な子だよ、本当に……! あんたが悪いんじゃない……! 娘を信じてやれなかったあたしが悪いんだ……!」 『……母さん!』  詩織の腕に、力がこもった。静江の身体が小さく揺れる。 『ごめんなさい……! 一人にして、ごめんなさい……!母さん……私、戻れなかった……! 家に、帰れなかったんだよぉ……!』 「いいんだ……。こうしてまたあんたを抱きしめることが出来たんだから……! むしろ、あたしが謝らないとね……」 「詩織、逃げてすまなかったね……。信じてやれなくて、すまなかったね……」 『…母さんこそ、もういいよ。今日だけで、何度も謝ってるじゃない』  詩織の口元が、かすかに緩んだ。泣き腫らした目のまま、それでも笑おうとしている。不器用な、けれど確かな微笑みだった。 「…………」  竹中は少し離れた場所に立ち、親子の姿を見つめていた。涙が顎を伝い、静かに地面に落ちている。拭おうとする素振りもない。 『裕二さん、いつもこのトンネルに来てくれていたよね』 「……うん。ずっと、君に会いたくて。ここに来れば会えるんじゃないかって
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五十三話:代償

 静江の声が、暗がりに溶けた。 「……詩織。ありがとうね」  その言葉には、長い歳月をかけてようやく見つけた呼吸のような軽さがあった。涙の痕が頬に残ったまま、静江の口元にはかすかな笑みが浮かんでいる。  竹中が静かに静江の横に並んだ。二人の視線は、詩織がいた場所——今はただ薄暗いトンネルの空気が揺れるだけの空間——に向けられている。 「逝ってしまいましたね……」 「……ああ。でもなんだろうね、ずっと心が軽くなったよ」  静江の声に、先ほどまでの張り詰めた響きはない。何十年もかけて背負い込んだものが、ほんの数分前に解けたばかりだとは思えないほど、その横顔は穏やかだった。 「僕もです。ちゃんとお別れを言えたからでしょうか?」 「そうだね。でも、あんた浮気は許さないよ」  冗談めいた声だった。けれどその軽口を叩ける程度には、静江の中で何かが収まるべき場所に収まったのだろう。竹中が困ったように眉を下げる。 「……これは手厳しい。なんて、する訳じゃないですか」 「あぁ。あんたはそういう人間だ」  静江が振り返った。悠斗と美琴の方へ向けられた目元が、ふっと和らぐ。 「あんたたちもあり……」  声が途切れた。 「美琴ちゃん!?」  静江の叫びがトンネルの壁を叩き、残響が暗闇の奥へ駆けていった。 「……えっ?」  悠斗が視線を動かした先——美琴の身体が、糸を切られたように傾いでいた。額に汗が浮き、顔色が懐中電灯の光でさえわかるほど青白い。足元が定まらず、一歩ごとに重心が揺れている。  考えるより先に、身体が動いた。悠斗は美琴の腕を掴み、崩れかける体を引き寄せる。 「美琴!? ど、どうしたの!?」 「……先……輩」  返ってきた声は掠れていた。呼吸が浅く、不規則に肩が上下している。制服の襟元が汗で肌に貼りついている。 「な、なんだ……!? さっきまでは普通だったのに……!」  ほんの数分前まで、美琴は平然と立っていた。詩織を見送ったとき、その横顔にはいつもの静かな強さがあったはずだ。それが今、腕の中で崩れていく。 「あ、あんた! 急いであたしんちに戻るよ! 悠斗! しっかり美琴ちゃんを支えてやんな!」 「今車を持ってきます!」  竹中の足音がトンネルの闇に吸い込まれていく。静江が美琴の顔を覗き込み、額に手を当てた。その手が一瞬、止
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五十四話:肩の温もり

「これは……?」  二枚のチケットを手の中で返しながら、悠斗は静江を見上げた。 「詩織が小さい頃に一緒にその温泉郷へ行ったんだよ」  静江の声が、少しだけ遠くなった。視線がチケットではなく、その向こう側にある景色を見ている。 「そしたら、詩織が温泉郷をやけに気に入ってね。事故直前は詩織の誕生日も近かったから、サプライズで連れていこうと思ったんだけど……」  言葉の末尾が自然と消えた。その先を語る必要はなかった。悠斗の手の中にあるチケットが、使われなかった理由を静かに語っている。 「じゃあこれは……詩織さんとの思い出作りのために……。そんな大切なもの受け取れませんよ」  悠斗がチケットを押し返そうとした。けれど静江は受け取らなかった。腕を組んだまま、ゆるく首を横に振る。 「でも、これがあったところでもうあたしには使えないだろう。それなら必要としてる人に渡すべきだと思うんだ」 「……そうだ! 彼女を労う気持ちもかねて、二人で行ってきてはどうですか? きっと、素敵な思い出になるはず」  竹中が身を乗り出した。その提案に悠斗の指がチケットの上で止まる。 「お、温泉郷で二人……」  脳裏をよぎったのは、ほんの一瞬の映像だった。湯気の向こうにぼやける美琴の横顔——悠斗は勢いよく頭を横に振った。湯呑みの茶がわずかに揺れる。 「あんた、あの子といい関係じゃないか。行っておいでよ」  静江がにやりとした。見透かすような目だった。 「こ、こういうのは同性同士か、カップルが……」 「はっ、なに堅苦しいこと言ってんだい。あたしの若い頃には……」 「お義母さん、今の若者とあなたの時代は違いますから……。コンプライアンス的な意味合いでも……」 「はぁ。つまらなくなったねぇ」  静江が大げさにため息をつく。竹中が苦笑しながらも、その表情をすっと真面目なものに切り替えた。 「でも、僕も、悠斗君と美琴さん、二人で行くのがいいと思いますよ」  竹中の声には冗談の色がなかった。今夜、美琴が何をしたかを見ていた人間の、静かな確信がそこにあった。 「か、考えておきます」 「ダメだよ。あんたたち二人で行かないと許さないからね」  静江が人差し指を立てて、悠斗の鼻先に突きつけた。「二人」という言葉に込められた力が、やけに重い。悠斗は観念したように視線を逸らし、手の
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五十五話:日常の変化

 授業を終えた昼休み、屋上の扉を開けると、熱気が顔を撫でた。それでも風は生ぬるく、蝉の声が四方から容赦なく押し寄せてくる。夏が、もう遠慮をやめていた。  眼下には入道雲が聳えている。白く分厚い塊がゆっくりと形を変えながら、青空の半分を占領していた。  悠斗、春雪、翔太の三人は、屋上の隅に腰を下ろすと、それぞれの弁当を広げ始めた。  春の陽射しが柔らかくコンクリートを温めている。フェンス越しに吹き上がる風が、悠斗の前髪をかすかに揺らした。 「それで? その詩織って人は無事に成仏できたと?」  春雪が箸を止めもせず、身を乗り出してくる。 「うん。婚約者の人とも改めて想いを確かめ合えたみたいだったし、一番の未練だった母親との和解もできて——安らかに逝ったよ」  悠斗はしつこく食い下がってくる春雪に根負けして、風鳴トンネルでの出来事をぼかしながら話していた。細部を語るつもりはない。けれど春雪の好奇心は、曖昧にすればするほど膨らむ質だった。 「はえ〜……」  春雪が感嘆とも呆れともつかない声を漏らす。 「ってことは、風鳴トンネルはもう心霊スポットって呼ばれなくなるのか?」  翔太が唐揚げをひとつつまみ上げながら、淡々と尋ねてきた。咀嚼の合間に挟む問いかけは、いつもの彼らしい落ち着いた調子だ。 「それなんだけど、僕も似たようなことを桜織旧病院のときに美琴に聞いてみたんだ」  悠斗は卵焼きに箸を伸ばしつつ、続ける。 「強い霊が長年留まった場所には、その霊の負の感情が染みつくから——たとえその霊を成仏させることができても、似たような感情を抱えた霊が新たに引き寄せられるらしい」 「へぇ……。じゃあ、あの場所はまだ心霊スポットって呼ばれ続けるのは変わらないんだな」 「うん……。悲しいけど、割り切るしかないってことも彼女は言ってた」  その言葉を口にしたとき、美琴の横顔がふと脳裏をよぎった。割り切る、と言い切ったあのときの彼女の声には、諦めともまた違う——どこか透き通った強さがあった気がする。 「そうか」  翔太は短くそう応じると、再び弁当に視線を戻した。  過去の出来事を経て、翔太もこの手の話に興味は持っている。だが春雪とは温度が違う。春雪が好奇心のまま境界線を踏み越えてくるのに対して、翔太は踏み入れてはいけない領域にきちんと線を引いている。興味
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五十六話:昼休みの屋上

「美琴たちも、屋上で昼食を?」  悠斗がそう尋ねると、美琴は小さく頷いた。 「そうですよ。どうしても、澪が屋上で食べたいって言っていて」  その言葉が終わるか終わらないかのうちに、隣から弾けるような声が飛んだ。 「じゃあさ!  俺たちと一緒に食べねー!?」  春雪が身を乗り出して、両手を広げてみせる。 「えっと……よろしいのでしょうか?」  美琴が遠慮がちに視線を落としかけたその横で、澪がぱっと顔を輝かせた。 「何言ってんの美琴!  これはお誘いだよ!  えっと、はい!  ぜひ一緒に!」 「隣いいですか!?」 「おう!」  澪は迷いなく春雪の隣に腰を下ろした。弁当箱を抱えたまま、すでに何か話したくてたまらないという顔をしている。  そして美琴は、一拍だけ間を置いてから、 「では、失礼しますね」  と静かに悠斗の横に座った。制服のスカートの裾を丁寧に押さえる指先が、屋上の風にさらされて少しだけ白く見えた。 「先輩たちはなにか盛り上がっていたみたいですけど、なんの話をしてたんです?」  澪が自分の弁当を膝の上に置きながら、興味深そうに首をかしげる。 「俺たちはね……、幽霊の話をしていたんだよ……」  春雪がわざとらしく声を低め、いかにもという雰囲気を作ってみせた。 「えぇ!?」  澪が目を丸くする。春雪はにやりと笑って両手を振った。 「悪いな……。こいつこういう話ばっかするから、怖かったら止めるよ」 「翔太、ノリがわりーよ!」 「いえ!!  むしろ私も怪談とか大好きなんで!  聞かせてください!」  澪の目がきらりと光った。弁当の蓋を開けかけた手がそのまま止まっている。 「お!?  まじか!  じゃあなにかオススメの怪談でも〜……」  同類を見つけた春雪の声が一段跳ね上がる。二人はあっという間に頭を寄せ合い、怪談の品評会を始めてしまった。  悠斗はその様子を横目に見てから、隣の美琴へ視線を移した。 「澪さん、怖い話好きなんだね……。ちょっと意外かも」 「彼女はどちらかというと、彼女の隣にいる先輩のご友人と似た傾向ですね」  美琴の声に、わずかな呆れと親しみが混じっている。 「そっか。そういえば美琴、体調は大丈夫なの?」 「ええ、私は大丈夫ですよ。心配していただき、ありがとうございます」  美琴がふっと表情
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五十七話:散った花と夏の約束

 訪れたのは、やはり桜翁の前だった。  花はとうに散り、枝には深い緑だけが残っている。けれど二人の足は迷いなくここへ向かっていた。言葉にしなくても、この場所がそうであることを互いに知っている。 「美琴、その……身体は本当に大丈夫なの?」 「ふふ、心配していただいてありがとうございます。この通り元気ですよ」  美琴が両手を軽く広げてみせる。 (顔色は良くなったけど……結局、原因が分かってない……) 「……原因はなんだったの?  美琴が静江さんを支える時に霊気が流れてるのは見えたけど……」 「……やはり、霊眼術を持った以上、見えてしまいましたか」  美琴の目が一瞬だけ伏せられた。睫毛の影が頬に落ちる。 「……どういうこと?」 「今回、私が倒れた理由……それは、力の使いすぎです」 「力の使いすぎ?」 「ええ、私は自分の霊気をトンネル全体に流して覆っていましたから」  その言葉が耳に届いた瞬間、悠斗の思考が弾けた。 (そうだ……!  一回目の時もそうだけど……!  なんで気が付かなかった……!)  ——詩織のことを、静江も竹中も、その両者が抱きしめ、触れていた。  霊とは本来触れられぬもの。霊眼術によって定まらない霊の輪郭を真に捉え、ようやく掴めるのだ。だが静江も竹中も、霊眼術はおろか霊感さえ持たない。 (つまり……美琴の気が充満していたから、二人は霊である詩織さんを抱きしめることができていたのか……!)  あの光景が蘇る。静江の涙も、竹中の震える腕も——その全てが、美琴の力の上に成り立っていた。 「気が付かれたようですね。先輩も鋭くなってきてしまいました……」  美琴が微笑んだ。けれどその笑みの端に、かすかな寂しさが滲んでいるのを悠斗は見逃さなかった。 「まただ……!」 「えっ?」 「また僕は、美琴の力に甘えていたんじゃないか……!」  声が震えた。拳が握られ、爪が掌に食い込んでいく。 「詩織さんを救いたいだなんて大それたことを言っておきながら、実際は美琴に負担をかけていただけだ……!」 「……僕は、結局なにも……!」  言葉が途切れた。  悠斗の頬に、温かいものが触れていた。  美琴の手のひらだった。小さくて、柔らかくて、けれどしっかりとそこにある。 「先輩。私は大丈夫ですから」 「でも……!」  なおも言
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五十八話:紅い勾玉

 夏が本格的に訪れ、少年少女たちは夏休みという名の熱に浮かされていた。  悠斗も例外ではない。 (早く来すぎてしまったかもしれない……)  腕時計へ視線を落とすと、短針は七時を指していた。  美琴との待ち合わせは七時三十分。  バス停のベンチに腰を下ろしてから、もう何度目かの溜息をつく。朝の空気はまだ夜の名残を含んでいて、日陰に入ればわずかに涼しい。けれどそれも、陽が高くなれば容赦なく焼かれるのだろう。蝉はとうに鳴き始めていた。 「はぁ。柄にもなく、はしゃぎすぎたかな」  そう独りごちて、視線を道路の向こうへ流す。人通りはまだまばらで、時折タイヤが路面を擦る音だけが近づいては遠ざかっていく。  あと三十分、何をして過ごそうか。  そんなことを考えていた時だった。 「……先輩?」 「えっ?」  振り返ると、そこに美琴が立っていた。  風をはらんで柔らかく膨らむ若草色のワンピース。白いブラウスの襟元が、朝の光を受けてぼんやりと明るい。いつものポニーテールが、首筋に沿ってゆるく揺れていた。 「……あれ? 美琴? 随分早いね?」 「それはこちらも同じ言葉を言いたいところなのですが……」  少し困ったように首を傾げる仕草は、いつも通りだった。肩にかけた小さな鞄を片手で押さえて、もう片方の手が所在なさげにワンピースの裾に触れている。 「僕はね……実は楽しみすぎて、早く来すぎたみたいなんだ」  飾らない言葉だった。繕うような関係は、もうとっくに過ぎている。 「そうなんですね。私も初めての旅行で、とても楽しみで。そしたら、つい早く着いてしまったみたいで」  美琴の声がわずかに弾んでいるのは、気のせいではないのだろう。視線がバス停の時刻表へ向かい、それからまた悠斗のほうへ戻ってきた。  朝陽がアスファルトに長い影を伸ばしている。バスが来るまで、まだしばらくかかるようだった。  。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸  二人の間に、わずかな沈黙が落ちた。  いつもなら、こんなことはない。霊を見ることができる、ただの先輩と後輩。それだけの間柄のはずだった。気まずさなど無縁の——はずなのだが。  今日は、少し違っていた。  風に揺れるワンピースの裾をそっと押さえた美琴は、何か言いかけるように口を開き、けれどすぐには言葉
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五十九話:山の呼び声

 桜織駅を発ってから、もう二時間近くが経っていた。  窓の外を流れる景色は、いつの間にか住宅街の輪郭を失っていた。いま視界の大半を占めているのは、幾重にも重なる山の緑だ。  山肌を縫うように走るバスが角度を変えるたび、木々の隙間から差し込む陽光が車内を横切り、悠斗の膝の上に置かれたリュックの表面を白く撫でていった。  隣の席で美琴が窓に顔を寄せているのが、視界の端に映る。ガラスに近づけた額のすぐ横を、緑の残像が次々と流れていく。何度目かのカーブで陽が射した瞬間、ポニーテールの毛先が琥珀色に透けた。 『間もなく、花守温泉郷・麓に到着します』  車内アナウンスの声が、エンジン音に半分溶けながら響く。 「着くみたいだね。降りよう、美琴」  悠斗は座席脇の降車ボタンに手を伸ばし、押した。小さな電子音が鳴る。 「えっ? でも麓……ですよね?」  美琴が窓から顔を離し、首を傾げた。ポニーテールが肩の上で揺れる。 「そう。事前に調べておいたんだけど、ここからは直接花守温泉郷には行けないみたいなんだ」 「そうなんですか……」 「うん。ほら、山だから傾斜が急でしょ? だからバスが入れないんだって」 「あっ、確かに!」  納得したらしい美琴が、もう一度窓の外に目をやった。なるほど、と言わんばかりに何度か頷いているのが見えた。 『停車します』  ブレーキの減速が身体を前に押し、バスが緩やかに止まった。 「着いたね。行こうか」 「はいっ!」  ステップを降りた瞬間、空気が変わった。  冷房の乾いた風に慣れた肌に、山の湿り気を含んだ風がまとわりついてくる。土と青葉と、かすかに混じる水の匂い。バスの排気音が遠ざかっていくと、残ったのは風が梢を鳴らす音だけだった。  目の前に広がっていたのは、言葉の追いつかない景色だった。  山肌を覆う木々の緑が幾重にも重なり、奥に行くほど色が深く濃くなっていく。その上を、午後の陽光が惜しみなく注いでいた。葉の一枚一枚が光を受けて輝き、風が吹くたびに明暗がさざ波のように斜面を駆け上がる。 「わぁ……」  美琴の口から、ほとんど無意識に声が零れた。 「すごいね……。こんなに豊かで広大な大自然、生まれてから今まで一度も見たことがないや」  悠斗も、つられるように呟いていた。自分の声が妙に小さく聞こえたのは、きっとこ
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六十話:白霧の中で

 悠斗がようやく美琴に追いつき、二人並んで山道を歩いていた時のことだった。  足元から、白い靄が這い上がり始めた。  最初はくるぶしの辺りをかすめる程度だったものが、数歩進むごとに密度を増していく。地面を覆い、膝を包み、気がつけば腰の高さまで迫っていた。 「これは……霧?」  美琴が足を止め、自分の足元を見下ろして呟いた。 「……これは急いだ方がいいかもしれない」 「えっ? どうしてですか?」 「ここはね、どうやら霧が濃いことで有名らしいんだ。日によって濃さは違うみたいなんだけど、霧が深いときは前さえ見えないほどだって」 「それは急いだ方が良さそうですね……。山の中で深い霧は……」 「うん、まずいね。遭難したり、山の中で方角を失うのは危険だ」  美琴が不意に足を止め、振り返った。 「どうかした?」 「……いえ、なんか気配を感じたような……。気のせいでしょうか……?」  美琴の視線が、来た道の奥——霧に呑まれ始めた木立の向こう側を探っている。数秒、沈黙が落ちた。鳥の声も、さっきまで聞こえていた葉擦れの音も、いつの間にか遠のいていた。 「と、とりあえず急ごう」 「……そうですね」  それから数十分。ふたりは道を進み続けた。もう少しで温泉郷へたどり着く——はずだった。 「っ……! 霧がさらに濃く……!」  白が、視界を塗り潰していた。数歩先の木の幹すらぼやけ、足元の地面の境目さえ曖昧になっていく。 (やばい……! と、とりあえず美琴……!)  悠斗は隣にいるはずの美琴に手を伸ばし——触れた指先を、そのまま握った。 「ひゃあっ……!」  霧の中で、美琴の素っ頓狂な声が跳ねた。普段の落ち着きからは想像もつかない、高くて短い悲鳴。 「き、急はダメですっ!」 「ご、ご、ごめん! でも離れないように手を握らないとと思って……!」 「……も、もうっ!」  霧の向こうで美琴の声がした。姿は見えない。けれど次の瞬間、握った手に力が返ってきた。細い指が、悠斗の手をしっかりと握り返している。 「……! い、行こうか」 「は、はい」  互いの顔すら見えない白の中を、繋いだ手の感触だけを頼りに歩き始める。 (方角は……こっちだったよね。まずいな……。やっぱり霧で方向感覚が……!)  道の輪郭が消えている。足裏に伝わる地面の硬さだけが、
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