All Chapters of 【完結】縁が結ぶ影〜呪われた巫女と結ぶ少年〜: Chapter 91 - Chapter 100

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縁語り其の九十一: 白蛇

ズン、と。 鼓膜ではなく、心の芯を直接殴られたような衝撃。 その名が静かな和室に響いた瞬間、僕の身体は硬直し、全身の血が逆流するかのように思考が停止した。 母さんの家に遺されたあの古びた家系図。その一番上、全ての始まりとして刻まれていた、ただ一つの名前。 (美琴の推測通りだ……。僕は本当に……) 藤次郎さんは、呆然とする僕をよそに、まるで自分たちに課せられた歴史を噛みしめるように続けた。 「あまりに長すぎる歴史故にな。俺たち『墓守』の家系にも、その櫻井沙耶様という、偉大な最初の先祖の名前だけが、引き継がれてある。その間のことは、もう誰にも分からんがね」 伝説とか、おとぎ話とか、そういう次元じゃない。千年という、人間が到底把握しきれない時間の重みが、そのたった一つの名前と共に、僕の肩にのしかかってきた。 「私は、櫻井 沙耶様……その方が、沙月様である可能性が非常に高いと、私はそう考えています」 美琴が凛とした声で言う。名前を変えてまで、彼女は生き延びなければならなかったのか。千年の歴史は、一体何を隠しているのか。 そして、僕が沙耶……いや、沙月さんの子孫であるならば、琴音様と僕には、僅かだが血の繋がりがあることになる。僕に呪いがない理由は、それが関係しているのだろうか? 重たい沈黙を、文字通り切り裂くように── 「藤次郎さん!!」 神社の引き戸が、焦りを伴う音を立てて勢いよく開け放たれた。息を切らし、顔を青ざめさせた神社の関係者らしき男が、部屋に転がり込んでくる。 「何事だ、騒がしい」 「さ、桜翁に異変が!! 花が……! 花がおかしいんです!」 その言葉に、場の空気が凍りついた。 「……!? よりにもよってこのタイミングで、か……!」 藤次郎さんは忌々しげに呟き、素早く外へと駆け出す。僕と美琴もすぐに顔を見合わせ、彼の後を追った。 *** そして、たどり着いた桜翁の前。 「……っ!?」 息を呑んだのは、僕か、美琴か。 そこに広がっていたのは、僕たちの知る桜翁の姿ではなかった。 あの淡く優しいはずの桜の花びらが、まるで乾いた血糊のように、禍々しい赤黒色に変色していた。 腐臭ではない。 **むしろ、むせ返るほどに甘く、それでいて吐き気を催すような瘴気(しょうき)が、あた
last updateLast Updated : 2025-06-23
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縁語り其の九十二:神域の怪異

「あの祠へ……行きましょう」 息苦しいほどの静寂の中、美琴の声が響いた。 その語尾が、決意とは裏腹に僅かに震えているのが、僕にも伝わってくる。 「う、うん」 生唾を飲み込み、僕たちは冷たい石畳を踏みしめる。一歩進むごとに、心臓が重くなっていくようだ。 祠の前、その中央に——水晶玉のようなものが、まるで太古からそこにあったかのように、静かに安置されていた。 だが、その静けさとは裏腹に、玉の内側からは禍々しい紫の光がじわじわと滲み出している。 光が漏れるたび、周囲の空間がまるで陽炎のようにぐにゃりと歪む。 封じられた何かが、内側から激しく脈打っている。そんな不気味な生命感があった。 「……あの水晶玉に、恐らく……何かが封印されています……!」 美琴が息を呑む。その声には、これまで感じたことのないほどの強い警戒が滲んでいた。 「なんだか……今まで感じたことのない気配だ……!」 肌を突き刺すような、重い霊圧。 今まで対峙してきた霊とは、明らかに「格」が違う。まさに、圧迫感が段違いだった。 息をするだけで、鉛を流し込まれるように肺が重い。 額から、じっとりと冷たい汗が滲み出す。 その、瞬間だった。 ビキッ……! 乾いた、嫌な音が静寂を切り裂いた。 水晶玉の表面に、蜘蛛の巣のような亀裂が走る。 ビキビキッ……! 亀裂は瞬く間に全体を覆い尽くし、その隙間から抑えきれない紫の光が奔流となって溢れ出した。 ——そして。 ——バリィンッ!! 甲高い音と共に、水晶玉は粉々に砕け散った。 「うわっ……!」 「きゃっ……!」 凄まじい霊力の爆風が、嵐のように僕たちを襲うと抗う術もなく弾き飛ばされてしまった。 背中から地面に叩きつけられ、石床の冷たさと強烈な衝撃が全身を貫いた。 痛い——というより、肺から空気が根こそぎ絞り出され、息が、できない。 霞む視界の中、砕けた水晶玉があった場所を見る。 そこから、まるで深淵そのものがこの世に這い出そうとするかのように、ぬるりとした「影」が滲み出していた。 ずるっ……ずるっ…… 重く、粘りつくようなそんな音が地下空間に不気味に響き渡る。 音のする方へと視線を凝らすと黒く澱んだ瘴気が渦を巻き、凝縮
last updateLast Updated : 2025-06-24
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縁語り其の九十三:君を守りたいから

  地の底から、咆哮が響いた。   空間そのものを歪ませるかと思わせる振動が全身に響き、骨の芯まで震えた。   「──幽護ノ帳ッ!!」   美琴が立ち上がり、結界を迫り来る白蛇へと向かって展開する。   しかも、それは今までの幽護ノ帳ではなかった。   「はぁ……っはぁ……! もう一枚…! 幽護ノ帳っ!!」   彼女は息を切らしながらも、紅い絹のような結界を貼ったあと、さらにもう一枚の幽護ノ帳を展開したのだ。二重の結界。それだけの霊力を消費すれば、身体への負担は計り知れない。   そして、僕を見て頷く。   美琴が防ぎきったら、僕の番だ。   僕が囮となって、あの化け物を引き寄せる。   そして、白蛇の尾が空を薙いだ。   真空の刃が走る。遅れて、鼓膜を破る衝撃波。空気が引き裂かれる音が、耳をつんざく。   「うぅ……くっ……!!」   骨が軋む鈍い音が響き、結界の表面に蜘蛛の巣状の亀裂が刻まれた。紅い光が明滅し、今にも砕けそうなほど軋んでいる。   それでも美琴は、膝をつかない。   「はぁ……っ、はぁ……っ……まだ……ですよ……!」   汗が顎を伝い、落ちる。その瞳だけが、爛々と異様な光を宿していた。彼女の全身から霊力が溢れ出し、結界を支えている。   そして、白蛇が再度頭をもたげた時だった。   「悠斗君!!! 今です!!」   その合図と共に、僕は飛び出した。   「こっちを見ろ、化け物ッ!!」   叫び、ありったけの想いを、霊力を込めた星燦ノ礫を放つ。   「星燦ノ礫――ッ!!」   星の煌めきを模した光の礫が、白蛇の左眼に吸い込まれた。   生暖かく、ぬるりとしたものを抉る破裂音。白蛇が天を仰ぎ、巨体をくねらせ絶叫した。苦痛の咆哮が、地下全体を震わせる。   『ギャァ!!!』   (流石に目は効くみたいだ……!)   残された右眼が、怒りに濁る溶岩の赤黒さに染まる。   ギロリ、と。その視線が僕だけを捉えた。   その瞬間、僕の全身の毛がぞわりと総毛立つ。背筋を冷たい汗が伝い落ちた。   (っ……! よ、よし……こっちを、見た……!)   心臓が激しく鳴る。恐怖と興奮が入り混じり、全身の血が沸騰するようだった。   ズズズ……ッ!   身じろぎ一つで、大地が悲鳴を上げる。石畳が砕け、亀裂
last updateLast Updated : 2025-06-24
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縁語り其の九十四:加勢

「はぁ……っ、はぁ……っ……」   肺が焼け付く。全身を巡る血液は、もはや鉛のようだ。   体感では数時間。実際には、数分も経っていないのかもしれない。それほどまでに、目の前の“それ”が放つ圧は濃密だった。   白蛇の攻撃は、これまで対峙してきた怨霊とは何もかもが違う。   速さ。重さ。そして、質量を持った殺意の密度。   “神”が振るう暴力は、自然災害そのものを凝縮した、理不尽の塊だった。   (まずい。このままじゃ……このままじゃ持たない……!)   祓うには、一瞬の隙が必要だ。だが現実は、もうその一瞬すら許さない。   ギギ、ギギギ……ッ   白蛇が、軋む音を立てて巨体をくねらせる。   その左の顔面──先ほど美琴が焼き貫いた傷口から、ぷすぷすと煙が上がっていた。   ……じゅっ、じゅぅぅ……   肉が焼け、ただれる粘着質な音。新しい鱗が、焦げ付いた組織を内側から押し破り、ぬらりとした光を帯びていく。   自己治癒。命が、目の前で強制的に上書きされていく。   「っ……再生まで……!」   僕の隣で、美琴が息を呑んだ。彼女の肩が、絶望に小さく震えているのが分かった。   (あの一撃には、彼女の霊力の大部分が込められていたはずだ……!次はない……。もう、あの化け物は隙を見せない)   どうする。どうすればいい。   僕がもう一度、囮になるか? いや、無駄だ。それはさっき証明された。   思考が、焦燥にかられて空転する。   その、一瞬。   ギロッ。   再生を終えた白蛇が、真紅の眼をこちらに向けた。光を映さない、飢えだけを宿した瞳。ただ“喰らう者”として、その瞳孔が鈍く開く。   「ッ!」   蛇の舌が、ちろりと揺れた。   ──来た。   轟音。空間が歪む。白蛇の巨体が、ありえない速さで床を這い、僕たちに襲いかかってきた。距離が、消滅する。   僕は咄嗟に美琴の腕を引き、地を滑るように転がった。   半秒前までいた空間を巨大な顎が砕き、背後の岩壁が塵となって吹き飛ぶ。   (これ以上無理だ……! もう引くしかない……!)   意思を無視して、脚が震える。だが、心はまだ折れていない。   「逃げるよ……!」   美琴の肩を支え、震える脚に叱咤する。来た道、かろうじて残る扉へ。   地を伝い、巨体
last updateLast Updated : 2025-06-25
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縁語り其の九十五: 神籬ノ帳

「すごい……! これなら……!」 美琴が震える声で呟く。その肩に、沙月さんの手がそっと置かれた。 『……あなたは、その身に刻まれた代償ゆえに、全力を出せなかった。ですが今、この数珠があなたの代償を一時的に引き受けています』 沙月さんの静かな声が、鼓膜を優しく揺らす。 『もう迷うことはありません。全ての想いを懸けて──あなたの全力で、祈りを放ってご覧なさい』 それは命令ではなかった。だが、その言葉に、美琴の強張っていた肩からふっと力が抜けるのが分かった。彼女の心を解き放つ、温かい“祈り”だった。 そして──沙月さんの、凛とした視線が不意に僕を射抜いた。 『悠斗。あなたにも、託したい力があります』 「……え?」 あまりに突然の言葉に、間の抜けた声が漏れる。彼女は変わらぬ穏やかさで、僕にすっと手招きをした。促されるまま傍に寄ると、沙月さんは静かに僕の手を取る。 ふわりと──温かく、心の奥深くに染み込むような力が流れ込んできた。 (沙月さんの霊気が……流れ込んでくる……) それは、初めて美琴と手を繋いだ時に感じた不思議な温もりに似ていた。いや、もっと根源的で、巨大な……枯れた大地に注がれる、清らかな水のような力。 『あなたには、私の“結界”の力を授けましょう。大切な人を、どうか、あなたの手で守ってあげてください』 『巫女の力は“想い”の力。あなたの“守りたい”と願う心が、そのまま術の強さになるのです』 その声は優しく……けれど、確かに僕の魂の芯を打った。 「おのれ……沙月ィィィ……!!」 白蛇が、狙いを美琴に定め、憎悪の塊のような気弾を放つ。 ゴォッ──!! だが沙月さんは、一歩だけ前に出ると、詠唱すらなく桜色の結界をふわりと展開させた。気弾は、陽炎に吸い込まれるように音もなく消滅する。 『その子には……指一本、触れさせませんわ』 怒りを募らせた白蛇は、今度は僕を狙う。しかし──寸分違わぬ位置に、もう一枚の桜色の結界が空間から滲み出るように現れた。この空間そのものが、沙月さんに味方しているかのようだ。 (次元が……次元が違う……!) 『私の子孫にも、同じことです』 その声に、一切の揺らぎはない。 圧倒的な防御。なのに、その気配はどこまでも暖かく、柔らかい。白蛇の憎悪がどれほど激しくとも、届く前に、沙月さんの想いの深さがすべて
last updateLast Updated : 2025-06-25
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縁語り其の九十六:神祓い

白き神が断末魔をあげ、その身を霊気の塵へと変え、崩れ落ちた。 「はぁ……っはぁ……っ…神祓い、完了です……っ」 美琴が呟き、力尽きたように膝をつく。僕もまた、限界寸前の身体をなんとか支えていたが、意識が遠のきそうだった。全身の筋肉が軋み、肺が酸素を求めてひくつく。土と埃と、瘴気の混じった重い空気が喉に張り付き、吐き出す息さえ熱い。 そんな僕たちに、沙月さんがそっと歩み寄る。その微笑みは、あたたかく、どこか寂しげに僕の目には映った。 『お疲れ様……。あの白蛇様は、分身体とはいえ……本当によく乗り越えてくれましたね』 ──分身体。 その言葉に、思考が凍り付く。そうだ、藤次郎さんが言っていた。文献にはそう書かれていたと。あまりの強さに、忘れてしまっていた。 あれが? あれだけの威圧と力が、”本体”ではないというのか。 血の気が引いた。再びあの絶望を相手にする想像が、疲弊した心に重くのしかかる。だが今は、考えたくなかった。ただ、すべてが終わったのだと、この身で感じていたかった。 そのとき、美琴がゆっくりと顔を上げる。その声は、まだ震えていた。 「本当に……沙月様なのですね……」 『ええ。初めましてですね。美琴さん、それに悠斗』 沙月さんの言葉に、美琴が息を呑む。 「私の名前を……」 『ええ、悠斗とあなたのやり取りを、この桜翁からずっと見守っていましたから』 (……! 桜翁から感じていたあの気配……それってつまり……!) 僕がずっと感じていた「呼ばれている」という感覚の正体が、今、繋がった。 美琴もまた、何かを確信したのだろう。彼女は意を決したように、ずっと胸の内で抱えていた問いを口にする。 「沙月様……ひとつ、お聞きしてもよろしいですか?」 『ええ。時間の許すかぎり、お答えしますよ』 少し迷うようにして、美琴は問いかけた。 「どうして……村の文献には、“沙月様の名”以外のことが、何ひとつ記されていなかったのでしょうか?」 その問いは、僕自身の血筋にも繋がっている。聞かなければならないことだ。 これほどの力を持つ巫女が、なぜ歴史から姿を消したのか。 沙月さんは一瞬だけ目を見開き、それからふっと表情を和らげた。 『……そうですか。名と、立場だけが残っていたのですね』 そっと視線を落とし、穏やかな声で続ける。 『それは、おそら
last updateLast Updated : 2025-06-26
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縁語り其の九十七:神に愛された鬼子

『それは千年前のこと……私の姉・琴音は、“感情を持たぬ鬼子”として、この世に生を受けました』 沙月さんは、遥か遠い記憶を辿るように静かに語り始めた。その声は、地下の冷たい空気に溶け込み、僕たちの耳に深く響く。 『泣くことも、笑うことも、怒ることすらなく……ただ、そこに在るだけの少女。だからこそ、当時の村人たちは彼女を畏れ、遠ざけていたのです』 沙月さんが口にする琴音の姿は、僕たちが想像していた巫女の始祖とはあまりにもかけ離れていた。神に選ばれし者。その始まりが、こんなにも哀しいものだったとは。 『……当時の村には、神々の怒りを鎮めるため、“人”を山へ捧げる風習があったんです』 「生贄………」 美琴の呟きが、僕の心に重く響いた。その言葉だけで、当時の人々の恐怖と絶望が伝わってくる。 『ええ。それが当たり前とされていた時代でしたから。神の怒りは天災となり、人々を飲み込んでいたのです。疫病も、干ばつも、地割れさえも……抗う術など、何一つなかった』 沙月さんの声には、当時の人々の無力感が滲んでいた。僕たちの想像を絶する過酷な時代に、琴音さんたちは生きていたんだ…。 『そしてある年、姉が“生贄”として選ばれました』 その瞬間、僕の胸が締め付けられる。感情を持たないとされた少女が、どれほどの運命を背負わされていたのか。 『ですが──姉は、死にませんでした。むしろ……神々は、彼女を気に入られたのです』 息を呑む。まさに奇跡だ。 『姉には、人の感情という『雑音』がなかった。だからこそ、誰よりも純粋に、神々の声を聞き取れたのかもしれません。神の言葉を明確に受け取り、神々もまた、彼女を通して意志を伝えるようになりました』 『その日を境に、姉の運命は大きく変わりました。人々は彼女を“神に選ばれし子”として崇め、やがて村の願いをすべて託すようになっていったのです』 『姉は、巫女となりました。神に仕え、神と人をつなぐ存在として』 「それが……始祖の巫女……文献と一致しています」 美琴がぽつりと呟いた。その声には、長年の疑問が解き明かされる確信が込められていた。目の前の沙月さんが、歴史の空白を埋める存在であるという事実に、僕たちはただ圧倒される。 『ええ、そうです。姉は巫女として神々と対話を重ね、人としての輪郭を、少しずつ失っていきました』 『けれど……そ
last updateLast Updated : 2025-06-26
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縁語り其の九十八:負の連鎖

古の巫女の起源──それは、想像を絶するほどに重く、深い闇に包まれていた。 『自分を殺され、挙げ句にその肉を食されて……姉上は、自らを深く辱められたと感じたのです。その魂は、身を焼き尽くすほどの怒りに染まり……呪いとなってしまいました』 沙月さんの声が、地下の冷たい空気を震わせる。それは単なる声ではなく、千年を超える苦しみが凝縮された、魂の響きそのものだった。 『もしも姉が、ただの怨霊と化しただけなのであれば、私ひとりでどうにか出来たのかもしれません。ですが……そこに、神々の怒りが共鳴してしまった。琴音の悲しみに、大地そのものが同調したのです。山は哭き、川は荒れ狂い……天は、血の涙を流しました』 琴音様の仕打ちに、神までもが……。 その事実が、思考を鈍らせる重石のように、僕の頭にのしかかる。 『姉は…もはや人の理の外にある存在。神と融合した、呪いの権化と成り果てたのです』 その言葉だけで、肌が粟立った。人の手に負えるような代物ではない。対峙したあの白蛇が、その途方もない存在の、ほんの欠片に過ぎなかったことを今更ながらに思い知る。 『怨念としての憎しみと、神としての裁き……そのすべてが混ざり合った姉の力は、もはや災厄そのもの。……正直に言って、神々の気まぐれによる天災の方が、まだ救いがあったように思えるほどに』 あまりに重い話に、言葉を失う。隣の美琴も、ただ固く唇を結んでいた。僕たちのちっぽけな物差しでは到底測れない悲劇の深さに、ただ圧倒されていた。 『それでも私は、村を守りたかった。姉を止めたいという想いと、姉を失いたくないという想い。その二つに引き裂かれそうになりながら……それでも、です。身勝手でしょう? そんな私を支えてくれたのが……美琴さん、あなたのご先祖である千鶴、その人だったのです』 「……っ! はい……」 美琴の声が、わずかに上ずる。彼女は自分の源流が物語に現れたことに、息を詰めて聞き入っていた。 『……姉の肉を口にしてしまった後で、ようやく、私たちは立ち上がった。本当に、勝手なものですよね……』 沙月さんは自嘲気味に笑う。だが、その瞳の奥には、消えない悔いが宿っていた。 『私と千鶴は、姉を白蛇山の頂にある巨大な桜の木に封じました。最初は、それですべてが終わるはずでした。けれど……現実は、そう甘くはなかったのです』 『姉の負
last updateLast Updated : 2025-06-27
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縁語り其の九十九: 千年の祈り

『私は……絶望に打ちひしがれ、あの村を後にしました。最初に辿り着いたのは、温泉が湧く小さな里。名前もない、静かな場所でした』 沙月さんは、独り言のようにぽつりと語る。 ──温泉郷。陽菜さんがいた、あの場所だ。 『そこでは、……ほんの数ヶ月、そこでただ、静かに時が過ぎるのを待っていたのです』 今では“清き巫女”の伝説が残るあの里に、その伝説の本人である彼女が、ただ隠れ住んでいた。その事実が、彼女という存在の大きさを物語っていた。 『そして……この桜織へと、たどり着きました』 「そうだったのですね……。でも、どうして、あの浄化の舞いをこの土地に……?」 美琴が静かに尋ねる。彼女の故郷の舞いが、なぜ遠く離れたこの桜織の地にあるのか。その問いは、全ての謎の核心に繋がっていた。 『浄化の舞いを伝えた理由は二つあります』 『一つは、この地に満ちていた、行き場のない魂たちへ祈りを捧げるためでした。当時のこの地は、成仏できずに嘆き彷徨う魂たちの哀しみで満ち、土地そのものが生命力を失いかけていたのです。私の舞いが、彼らの魂を少しでも天へと導き、この地を守る一助となれば……そう、願わずにはいられませんでした』 『その様子を見た、この地の住人が、私の舞いを繋いで行きたいと申してくれたのです』 「なるほど……それで桜織に浄化の舞いが……」 『はい……。そして、二つ目。──姉上に、せめてもの安らぎを捧げるためでした』 『毎年春に舞われるこの浄化の舞いを、姉へと送り続けるのです。私の祈りだけは、姉上の元へと届くように……』 『桜織の神社が、遥か彼方の白蛇山を向いて建てられているのは、そのためです』 藤次郎さんも口にした白蛇山…。その見えざる山へ向かって祈りを捧げ続けてきた沙月さんの想いを想像すると、胸の奥がじわりと熱くなる。 『そして……流石に名前がないのは不便でしたから。“櫻井 沙耶”と名乗って、この地で静かに生涯を終えたのです』 まるで天気の話でもするように、彼女は微笑んだ。 『これまでのこと……おおよそ、こんなところでしょうか』 その言葉に、僕は胸がいっぱいになった。誰よりも過酷な運命を生き抜きながら、なお誰かのために祈り、笑う。その姿が、鮮烈に刻み込まれる。 「ありがとう……ございます」 美琴が、深く、深く頭を下げた。 「もうひとつ……お聞き
last updateLast Updated : 2025-06-27
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縁語り其の百:君が夏を連れてきた

あれから、また少しだけ時が流れた。 神社の境内を埋め尽くしていた桜は、ひらひらと風に乗り、祝福のように舞い散った。今ではもう、アスファルトが陽光をじりじりと照り返し、夏の訪れを告げている。 桜翁のもとで「神祓い」を終えてから、僕たちはまた、いつもの日常へと戻ったはずだった。 けれど、何かが静かに、そして決定的に変わってしまったことを、僕は肌で感じていた。 あの桜の木の下で感じられた、あたたかな気配はもうない。僕を呼んでいた、あの懐かしい声のような響きも、今はただの静寂に溶けてしまった。その喪失感は、「寂しい」というありふれた言葉では到底足りなかった。沙月さんの魂が、千年という永い旅路を終え、本当にこの世界から旅立ったのだという、紛れもない事実がそこにあったからだ。 胸の奥、かつて彼女の気配が触れていた場所が、不自然なほどに軽い。呼吸をするたび、その隙間を冷たい風が通り抜けていく。ずっと身体の一部だったものを、ある日突然もぎ取られてしまったかのように、ぽっかりと穴が空いていた。 彼女は自らを「蓋」とし、呪いの根源をその身に封じ込めていた。千年もの間、たったひとりで。その魂を削り、未来へと繋ぐためだけに、永い孤独と痛みに耐え抜いた巫女。思い返すだけで、あの時流れ込んできた記憶の奔流──あまりにも永い時の重さと、骨身に染みるような孤独感が、今も胸を強く締め付ける。 これほどの想いを抱いて生きた人が、他にいるだろうか。 「悠斗君!」 風のように柔らかな声が、思考の淵から僕を呼び戻した。振り返ると、彼女が立っていた。 「やっぱり、ここにいたんだね」 満開の桜が、目の前でもう一度咲いたかのような笑顔。そのあまりの眩しさに、僕は思わず目を細めた。 そうだ。僕たちの間にも、確かな変化があった。 出会った頃、僕を「先輩」と呼んでいた美琴。そして、どこか見えない壁を感じさせる敬語は、もうない。今はごく自然に「悠斗君」と呼んでくれる。その声も、表情も、まるで光そのものを編み上げたかのように、どこまでも柔らかい。 その響きが鼓膜を揺らすたび、胸の奥で、沙月さんの気配とは質の違う熱が灯るのを感じる。生まれたばかりの小さな炎が、じんわりと熱を広げていくように。失ったものの大きさを知るからこそ、目の前にあるこの温もりが、かけがえのないものだと痛感する。凍てついていた心
last updateLast Updated : 2025-06-28
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