Semua Bab 縁が結ぶ影〜呪われた巫女と結ぶ少年〜: Bab 91 - Bab 100

184 Bab

九十一話: 怯える理由

 先程の男の姿が、まだ瞼の裏にちらついていた。  引きずるような足取り。途切れない呻き。そして、胸元に刻まれた無数の裂け目。十年以上もあの痛みの中を歩き続けているのだと思うと、悠斗の胸の底に鈍い重さが沈んでいく。 「さっきの人を、苦しみから解放してあげたいね……」 「ええ、私がしてみせますよ。十年以上の刺された痛みを抱えるなんて、辛すぎます」  美琴の声に気負いはなかった。ただ当然のことを口にするように、静かで、揺るぎない。その落ち着きに、悠斗は小さく頷いた。 「そうだね」  二人は構内をゆっくりと歩いていた。天井の鉄骨が所々抜け落ち、隙間から差し込む外光が埃の粒子を白く浮かび上がらせている。足元には砕けたコンクリートの破片と、用途の分からない金属部品が散乱していた。 「そういえば……、さっき美琴の姿を見た瞬間酷く怯えたようだけど、なにがあったのかな」  ふと思い出したように、悠斗は口を開いた。あの逃げ方は異常だった。美琴は手を差し伸べようとしただけだ。それなのに、まるで天敵に出くわしたかのような——。 「……きっと、私の気に当てられて怯えてしまったんでしょうね」  美琴の足が、わずかに遅くなった。 「えっ? 気って……霊気だよね?」 「はい。先輩、私の血は呪われていると言いましたよね。その影響で、私から滲み出る霊気は彼らにとって同様に紅い攻撃的な霊気として映ります」  淡々とした説明だった。感情を排した声。事実だけを並べるときの美琴の話し方を、悠斗はよく知っている。そしてそれが、彼女にとって触れたくない領域に近いほど顕著になることも。 「あ、そうだ……! たしかに美琴の霊気を霊眼術で見ると紅い……!」  はっとして、悠斗は隣を見た。霊眼術越しの美琴の輪郭。そこからかすかに立ち昇る霊気は、深く、鮮烈な紅。 「はい。今までの方々も、最初は同じように怯えていました」  今までの人達——。  その一言が、悠斗の中で引っかかった。記憶が巻き戻る。  廃病院で出会った誠也。あのとき最初に発した声は、助けを求めるものではなかった。風鳴トンネルで詩織が叫んだ言葉も、同じだった。  ——『来るな』。  どちらも、美琴に向けられていた。 「あれは自分たちの場所を荒らすなって意味じゃなくて……美琴に怯えていたってこと?」  声が、思ったより
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九十二話:寄り添う手

 歪みきった表情で、女の霊は悠斗と美琴を交互に睨みつけた。その気配が赤く滲む。敵意を感じ取ろうとするまでもない——肌を刺すように、向こうから押し寄せてくる。  けれど、もう引く理由にはならなかった。 「僕は櫻井悠斗と言います。あなたの未練を、教えてください」  声は震えなかった。臆することなく、紡げた。緊張のせいか言い回しがどこかぎこちなくなった自覚はある。それでも——確かに、言えた。  返ってきたのは、言葉ではなかった。  ——なんで。どうして私が殺されなければいけなかったのぉぉぉぉ!!  叫びが鼓膜を貫くのと、血まみれの手が首に巻きつくのは、ほぼ同時だった。 「っ……!」  気道が塞がれる。視界の端が暗く滲んで、肺が焼けるように軋む。苦しい。息が、できない。  美琴が焦った様子で手をかざそうとするのが見えた。けれど——さっき、自分が言ったのだ。任せて、と。 「み……ごど……!  いい……っ!!」  美琴の手が、止まる。  ここで彼女の力を借りたら、自分の決意はきっと次から揺らぐようになる。なにより——十年近い苦しみを、この霊はたった一人で抱え続けてきたのだ。ならば今すべきは、振りほどくことじゃない。美琴がそうするように、苦しみに寄り添うことだ。  悠斗は、自分の首を締める血濡れの手を——できる限り、優しく包み込んだ。  ほんの一瞬、霊の気配がふっと和らいだ気がした。確信はない。けれど掌に伝わる力が、わずかに、確かに、緩んでいく。 「かはっ……!  ゲホッ、ゴホッ……!」  喉に空気が戻る。焼けるような痛みと一緒に、世界の輪郭が戻ってきた。 『私はなにも悪くないのに……!  どうして……!』 「はぁ……理不尽に命を奪われたこと……はぁ、苦しかったですよね」  まだ息が整わない。それでも悠斗は、搾り出すように続けた。 「もう大丈夫ですから。落ち着いて、ください」 『……!』 「先輩……!」  美琴の声が背中に届く。悠斗は一度だけ深く息を吸い、霊の目を真っ直ぐに見た。 「もう一度だけ、僕の声を聞いてください。……僕は、櫻井悠斗です。あなたの、お名前は?」 『佐条……恵……』  やがて、首を掴んでいた手がゆっくりと離れていった。佐条恵の表情に浮かんだのは——敵意でも、怒りでもなく、どこか申し訳なさそうな、消え入りそうな
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九十三話:嘲笑う物語

 ——ここにいる。  佐条恵の言葉が、鉄骨の残響のように頭蓋の内側で反復する。  ありえない。悠斗の記憶は明確だった。父から聞かされた話ではなく、もっと確かなもの——ほんの数日前、テレビの画面越しに見たニュースだ。黒崎剛三、逮捕から十年。未だ供述を拒み続ける廃工場連続殺人の犯人。映像には護送車と、モザイク越しの顔が映っていた。  生きている人間が、霊として現れるはずがない。  だが。  佐条恵の怯え方は演技ではなかった。全身を縛りあげるような恐怖——あれは、記憶に刻まれた暴力を前にした人間の、どうしようもない反射だ。嘘がつける状態じゃない。  では、あのニュースはなんだ。 「先輩、嫌な予感がします……! 一度——」  美琴の声を、金属の悲鳴が断ち切った。  鉄パイプを蹴り飛ばしたような衝撃音。反響が廃工場の天井に跳ね、壁から壁へ渡って消えていく。悠斗が振り返ったとき、喉の奥がひゅっと鳴った。  暗がりの中に、人影が立っていた。  薄汚れた作業服。目深に被ったフード。顔の上半分は影に沈み、表情が読めない。けれどフードの奥から覗く口元が——薄く、弧を描いている。 『ひっ……!!』  佐条の悲鳴。振り返る間もなく、彼女の気配が遠ざかっていく。逃げたのだ。十年経っても消えない恐怖に背中を押されて、反射だけで。  悠斗は佐条を追おうとした足を、止めた。目の前の存在から意識を逸らしてはいけない。本能がそう告げている。 『なんだァ? お前ら、俺の姿が見えんのか?』  低く、粘つくような声だった。面白がっている。珍しい玩具を見つけた子供のような、無邪気さすら滲む口調——それが余計に、背筋を這うものがある。 「先輩……! いつでも星燦ノ礫を撃てるようにしておいてください……!!」  美琴の声が鋭く飛ぶ。悠斗は右掌に意識を集中させた。霊気が指先から手首へ、じわりと熱を帯びて集まっていく。一発。自分に許された弾は、たった一発。碧い光が掌の内側でかすかに脈打つのを、握り込んで隠す。 「彼は——悪霊です……!」  悪霊。  美琴の口からその言葉が出たのは、初めてだった。佐条のような未練を抱えた霊でも、怒りに呑まれた霊でもない。明確に、人を害する存在。  その断定を裏づけるように——黒崎の輪郭から滲む気配が、悠斗の肌を灼いた。  赤い。佐条恵が纏っ
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九十四話:対話の届かない闇

 紅い膜が軋んだ。  美琴の片足が、コンクリートの上を滑るように後退する。結界越しに伝わる衝撃——ナイフ一本でこれだけの圧を押し込んでくる。霊としての格が違うのか、それとも生前から備わっていた暴力の練度がそのまま残っているのか。 「くっ……!!」  美琴の腕が震えている。結界は保っている。けれど拮抗ではない。じわじわと、確実に押されている。 「美琴っ!!」  考えるより先に、身体が動いていた。  悠斗は黒崎の背後からがむしゃらに掴みかかった。霊眼術が宿る自分の手なら、霊に触れられる。美琴から学んだことだ。触れられるなら、引き剥がせる——  掴んだ作業服の感触は、生きた人間と変わらなかった。体温だけがない。 『ちっ……!』  黒崎の首がぐるりと回った。人間の可動域を無視した角度で、フードの奥の眼がこちらを捉える。 『汚ぇ手で触んじゃねぇよッ!!』  逆上だった。戦術でも反撃でもない、触れられたという事実そのものへの生理的な激昂。ナイフが弧を描く軌道すら見えなかった。ただ左腕の外側を、焼けた鉄を押し当てられたような熱が走り抜けていく。 「うわっ——」  弾き飛ばされた身体が、錆びた架台にぶつかって止まる。左腕を見下ろすと、制服の袖は無傷だった。布には一筋の傷もない。なのに——その下の皮膚ではない、もっと深いどこかが、裂けるように灼けている。 「ぐぅ……っ!!」  魂を斬る。美琴が言った通りだった。肉体は無事なまま、内側だけが壊される。この痛みには、止血も包帯もない。 「先輩っ!?」  美琴の声が裏返った。悠斗が倒れたのを見た瞬間、彼女の判断は一瞬だった。結界を解き、右手を黒崎へ向ける。指先に真紅の光が凝縮していく。 「星燦ノ礫ッ!!」  放たれた赤い光弾が空気を灼きながら黒崎へ直進する。着弾すれば——その確信が崩れたのは、光が黒崎を捉える寸前だった。 『うぉ!??』  驚きの声を上げながらも、黒崎の身体は既に軌道の外にあった。横へ跳んだのではない。沈み込むように姿勢を落とし、光弾の下を潜り抜けている。獣の回避だ。考えて動いたのではなく、暴力の中で磨かれた反射がそのまま霊体に刻まれている。  真紅の光は黒崎の背後の壁面に着弾し、煉瓦の破片を散らして消えた。  体勢を戻した黒崎が、ゆっくりと美琴を振り返る。 『おい女』  声
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九十五話: 憎しみが研ぐもの

どうにか黒崎を撒き、二人は廃工場の隅に積まれていたコンテナの中へ身を滑り込ませていた。  薄暗い鉄の箱の内側は、油と錆の匂いが濃くこもっている。外から差し込むわずかな光が床を細く切り取り、その上で舞う埃だけが、かすかな動きを見せていた。遠くで鉄材の軋む音がした気がして、悠斗は無意識に息を浅くする。 「はぁ……はぁ……。美琴、大丈夫?」  ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。走ったせいだけではない。さっき黒崎の刃に触れたときの痛みが、まだ左腕の奥に鈍く残っている。 「それは私の台詞です……。頬と左腕、大丈夫ですか?」  息を整えきれていないはずなのに、美琴はまず悠斗の怪我を気にした。薄闇の中でも、その眼差しが真っ直ぐこちらを見ているのが分かる。 「なんとかね。美琴が言ってた“魂を切る”って意味も、嫌なくらい理解できたし」  冗談めかして返す余裕はなかった。皮膚を浅く裂かれただけでは説明のつかない、あの感覚。傷そのものより、もっと内側を直接抉られたような不快な痛みが、言葉の端にまで滲む。 「先輩、触れますね」  そう言って、美琴がそっと手を伸ばした。左腕に触れ、次いで頬へ。その指先は驚くほど温かい。ひやりと冷えたコンテナの空気の中ではなおさら、そのぬくもりが際立って感じられた。  不意に触れられたことへの照れくささが一瞬だけ胸をよぎる。だが、それ以上に不思議だったのは、彼女の手が触れた場所から痛みがすうっと引いていくことだった。焼けつくようだった痛覚が、ゆっくりと遠ざかっていく。 「これは応急処置のようなものです。痛みを和らげているだけですから……何度も彼の刃物を受けてはいけません」 「……うん」  短く頷きながら、悠斗は左腕を見下ろした。表面の傷より、その奥に残っていた嫌な痺れのほうが、ようやく薄らいでいく。 「彼の攻撃が、僕たちに通る理由……それってどうしてなの? 霊眼術を持ってるから、ってだけじゃないんだよね?」  問いかけると、美琴はわずかに視線を伏せた。言葉を選んでいるらしい沈黙が、数秒だけ落ちる。 「……佐条さんもそうでしたけど、被害者の方々は、あの殺人鬼を強く憎んでいるはずです。それこそが理由だと思います」 「憎しみ……?」 「ええ。向けられた憎悪が、彼にまとわりついているんです。あれだけ多くの命を奪った
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九十六話:ふたつの無念

「……あの、すみません。ちょっと、意味が……」  石津は短く息を吐く。思い出したくもない話なのだろう。それでも彼は、逃げずに言葉を継いだ。 『つまりだ。世間で言う”逮捕”ってのは、遺体の回収と事件の立件のことであって、生きた黒崎を捕らえたわけじゃねえ。あいつは最後まで、誰にも屈しなかった——少なくとも本人はそう思ってるだろうよ』    自ら命を絶った。裁かれることを拒んだ。被害者たちに謝ることも、罰に膝を折ることもないまま、この場所に霊として居座り続けている。あの男にとっての死は敗北ではなく、最後の勝ち逃げだったのだ。 「自殺……!?」  思わず声が上ずる。  その瞬間、隣からぎり、と歯噛みするような小さな音がした。視線を向けると、美琴の表情がひどく険しくなっている。ここまで露わな怒りを浮かべた彼女を、悠斗は見たことがなかった。 「大勢の人を殺めたあとに、自害だなんて……!!」  抑え込んだ声なのに、怒りは隠しきれていない。石津はその言葉に、苦く頷いた。 『あいつが自分で死んだもんだから、恨みのぶつけ先がどこにもない。法で裁かれたなら、少しは区切りもついたかもしれねえ。だが黒崎には、その区切りすらなかった。被害者たちの怒りは行き場を失って、この工場の中をぐるぐる回り続けてる。——俺だって似たようなもんだ。理性があるぶん、余計にたちが悪いかもしれねえがな』  石津の声には、乾いた憤りが滲んでいた。 『もっとも、俺もその場を見ていたわけじゃない。この中に転がされたまま、外で警察が交わしてたやり取りを聞いていただけだがな』  そこで石津は一度言葉を切り、暗い天井を見上げるように目を細めた。 『……だが、警察の判断は間違っちゃいないと、俺は思ってる』 「え……?」  悠斗が目を瞬く。石津は静かに続けた。 『俺の妻もそうだし、ほかの被害者たちにも家族がいる。あいつが自分で死んで終わった、なんて話……簡単に受け入れられるもんじゃないだろうさ』  その言葉に、悠斗は息を呑んだ。  黒崎が裁かれることなく、自ら死を選んだ。そんな結末を、そのまま遺族へ突きつけることがどれほど残酷か――想像しようとしただけで、胸の奥が重く沈む。 「つまり……警察は、その人たちを気遣って……ニュースでも、そういう形に……?」 『たぶんな』  石津は短く答えた。
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九十七話:十年の隔たり

『ところで、あんたたち。俺らを助けに来てくれたのか?』  石津の問いかけは何気なかったが、悠斗の胸にはちくりと刺さるものがあった。 「えっと……実は……」  歯切れの悪い出だしに、石津が片眉を上げる。悠斗は覚悟を決めて、ここに来るまでの経緯をひとつひとつ語った。  高校で友人が立ち上げた異常現象研究会のこと。心霊スポットを巡る活動の延長で、この廃工場の存在を知ったこと。管理人に話を通したところ、なぜか——本来なら断られてもおかしくないはずの高校生二人が、あっさりと立ち入りを許可されたこと。 「……ということなんです」  語り終えた声は、自然と尻すぼみになった。助けに来たのではなく、半ば物見遊山でここへ足を踏み入れた。その事実が、石津の穏やかな問いかけの前では、ひどく居心地が悪い。 『なるほどな』  石津は責めるでもなく、ただ顎を引いた。 『俺たちが死んだのは、もう随分前の話だ。わざわざ助けに来るなんてことは——まあ、ないか』  その口調はあくまで淡々としていた。恨みがましさは微塵もない。むしろ、そんなことは当然だろうと言わんばかりの諦観が滲んでいて、だからこそ余計に胸が軋んだ。 「石津さん……。申し訳ありません」  美琴が静かに頭を下げた。 「あなたは十年を超える時間の中、縛られて、痛みに苦しんでいたのに……」 『なんで嬢ちゃんが謝るんだ? 十年前っつったら、あんたらはまだ幼かっただろうに』  石津が怪訝そうに目を細める。筋の通らない謝罪に見えたのだろう。実際、傍から聞けばそうだ。十年前の事件に、当時まだ子供だった少女が負う責任などどこにもない。  それでも美琴は顔を上げなかった。その背中にのしかかっているものが、この十年の話だけではないことを、悠斗は知っていた。 『——それに、その管理人ってのはなんなんだ』  石津の声に、不意に硬い芯が通った。 『十年前にここで何が起きたか知っていながら、あんたらをここへ招く? 正気の沙汰じゃねえだろう。高校生だぞ』  語気が段々と熱を帯びていく。石津の眉間に深い皺が刻まれ——そこで、堰が切れた。 『それに!! ここは俺の工場だぞ!! なんで他の奴が管理人なんてやってやがるんだ!!』  怒声がコンテナの鉄壁に叩きつけられ、びりびりと残響が走る。 「し、しーっ! 石津さん、あの殺人鬼に居
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九十八話:祓う覚悟

「美琴、本気なの? 君が……霊を祓うだなんて」  口にしてから、自分の声が思ったより硬いことに気づいた。  祓う。その一語が持つ重さを、悠斗はまだ正確には測れない。けれど、これまでの美琴を見てきた。廃病院でも、風鳴トンネルでも、彼女が選んできたのはいつも対話だった。霊に寄り添い、未練をほどき、自らの意思で旅立たせる——それが月瀬美琴のやり方だったはずだ。  その彼女が、祓う、と言った。 「ええ。本来なら、話し合いで成仏していただくことが望ましいですが……彼の場合は別です」  美琴の声は落ち着いていた。けれどその落ち着きは、迷いがないから生まれたものではないと、悠斗には分かった。 「彼は多くの人を殺め、逃げ続けた人です。……罰は下るべきだと、私は思います」 「そっか……」  短く応じるしかなかった。美琴の言葉に異論はない。あの男に対話が通じないことは、身を以て知っている。それでも——彼女の瞳は確かに揺れていた。薄闇の中でもそれと分かるほど、まなざしの奥にためらいの影が差している。祓うと決めた自分自身を、まだどこかで問い続けているのだろう。 『……なぁ、あんたたち』  石津が、ふいに声を挟んだ。 「はい?」 『俺も——いや、俺たちも手伝おう』  そう言って、石津は悠斗の背後へ目を向けた。 『そうだろう? 恵』  振り返ると、コンテナの入口に佐条恵が立っていた。  身体を半分だけ鉄の縁に隠すようにして、こちらを窺っている。あの血まみれのスーツは変わらないのに、先ほどの狂気じみた怯えは薄れて、代わりに気まずさのようなものがその顔に浮かんでいた。 『工場長……。こんな所にいらしたんですね……』 『はは、みっともねぇだろ? こんな所で死んで、そのままだったんだぜ?』 『工場長は長い年月をこんな暗くて狭いコンテナの中で……?  それに比べて私は……』 「佐条さん……」 『ごめんなさい……。彼の姿を見たら、怖くなってしまって……』  消え入りそうな声だった。悠斗は首を横に振る。 「それは仕方ないですよ。だって、あなたはあの殺人鬼に命を奪われてしまったんですから……」  佐条は唇を震わせた。俯き、両手を胸の前で握り締め——それから、顔を上げた。 『で、でも……また逃げ出したら、あなたたちまで同じ目に遭わせてしまう。だから、私も……私も
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九十九話: 賭け

「うわっ!!」  右太ももに、焼けた鉄棒を押し当てられたような衝撃が走った。  足が崩れる。膝が床を打ち、そのまま前のめりに倒れ込んだ。冷たいコンクリートが頬を擦り、視界が一瞬白く弾ける。痛みが遅れて追いつき、太ももの奥で脈打つように広がっていく——皮膚の傷ではない。もっと深い、魂の繊維を直接引き裂かれたあの感覚。 「や、やば……っ!」  立たなければ。腕に力を込めるが、右脚が言うことを聞かない。震える指先がコンクリートの罅を掴む。 『終わりだなぁ!! 死ねよクソガキィィ!!』  黒崎の哄笑が、真上から降ってきた。  死ぬわけにはいかない。今、美琴はあの男を祓うための準備をしている。ここで僕が倒れたら、彼女は術の構築を中断して駆けつけるだろう。それだけは——。  歯を食いしばった瞬間、脳裏に浮かんだのは数分前の会話だった。  。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 「美琴」 「はい?」 「美琴はどうやって彼を祓うつもりなの? 今回は今までと違う。そんな彼を美琴がどんな手を使って祓うのか……僕も知っておけば、いざって時に動けるからさ」  美琴は少しだけ間を置いてから、口を開いた。 「私が行うのは、いわゆる強制成仏というものです。術の名は——『禁術・禊火』」 「禁術?」 「これは、術を使う者に代償を支払わせます。酷い熱にうなされ、霊力の消耗で……きっと私は倒れてしまうでしょう」  淡々と語るその声色が、かえって言葉の重さを際立たせた。 「それに、この術は受けた者にも想像を絶する苦痛を強いると、文献には書かれていました。多くの人を殺め、最後には逃げ出した彼には……この術が裁きの代わりになるはずです」  瞼を伏せて、美琴はそう告げた。  代償。その一語が頭の中で反響し、悠斗の脳裏にはあの夜が蘇る。風鳴トンネルで力を使い果たした美琴の姿。崩れ落ちるように膝をつき、顔から血の気が引いていくのを、ただ見ていることしかできなかったあの無力さ。それが喉元までせり上がってきて、気がつけば言葉が先に出ていた。 「なら、ダメだ」 「……! ですが、この術であれば安全に彼を祓えます……!」 「わかるよ。美琴がそうするべきかもしれないって思ったのも」  声を落とした。感情のままに叫びたい衝動を、どうにか抑え込む。 「でも、き
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一〇〇話:囮

 工場の闇を背に、悠斗は走った。  星燦ノ礫を放った直後の身体は、中身をごっそり抜かれた抜け殻のようだった。肺が軋む。足が重い。全身から力という力が潮のように引いていくのを感じながら、それでも振り返る暇すら惜しんで駆け出していた。 『待ちやがれぇぇぇ!!!!』  背後から、怒号。 『てめぇ!! まじで許さねぇ!!!!  ぶっ殺してやる!!』  鉄骨の残響を割るほどの絶叫が工場の空気を震わせる。黒崎剛三——殺意そのものが声帯を得たような咆哮だった。激昂のあまり言葉が短く途切れ、その一語一語が釘を打ち込むように悠斗の背中を叩く。  悠斗は走る。ただ、走る。  右太ももの霊的損傷が着地のたびに鈍い痺れを返し、左腕はとうに感覚を手放している。息を吸うたび喉の奥が焼けるように熱く、吐くたびに視界の端が白く滲んだ。 「はぁ…! はぁ………!」  廃墟の通路は暗い。錆びた配管が天井から垂れ、崩れかけた壁がところどころ道を狭めている——けれどそのどれもが、追手にとっては無意味だった。壁も鉄骨もコンクリートも、霊にとってはただの風景にすぎない。黒崎はそのすべてをすり抜けて、直線で距離を詰めてくる。 『止まれよ! 大人しく刺されやがれ!!』  声が近い。明らかに、さっきより近い。  生者の足と死者の足では勝負にならない。悠斗の脚は疲労に蝕まれ、一歩ごとに歩幅が縮んでいく。対して黒崎の速度は怒りに比例して増すばかりで、このまま直線で逃げれば追いつかれるのは時間の問題だった。  ——だが。  悠斗の頭の片隅で、冷たい歯車がひとつ噛み合う。  完全に頭に血が上っている。あの男は今、前しか見ていない。ならば。 「はぁ……! はぁ……! このっ……!」  喘ぎながら、悠斗は足を止めなかった。むしろ速度を保ったまま——次の瞬間、急激に身体を反転させた。Uターン。追手に向かって、全体重を右肩に乗せて突っ込む。  霊眼術が生む唯一の利点。霊に触れられるという、その一点。  肩が黒崎のみぞおちに深く刺さった。生前の肉体の記憶がそうさせるのか、霊であっても衝撃は伝わる。黒崎の身体がくの字に折れ、そのまま後方へ崩れ落ちた。 『て……てめぇ……!』  苦悶に歪んだ声。みぞおちを押さえ、膝をついた黒崎の横を、悠斗はすでにすり抜けている。 『ま、待ちやがれ……!』  
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