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七十八話:呪われた血筋

Author: 渡瀬藍兵
last update publish date: 2025-06-16 19:37:00

『呪いだって?』

 陽菜の声から、さっきまでの軽さが一瞬だけ抜けた。

『そりゃあ知ってるけど……なんだってそんなけったいな話が出てくるんだい』

「呪い……? なにか、それが関係あるの?」

 悠斗の問いに、美琴はすぐには答えなかった。祠の前に立ったまま、言葉を選ぶように視線を落とす。

「……こちらの温泉郷と、私の故郷に通じるものを感じただけであって。本当に合っているのか、確証がある訳じゃありません」

 そこで、ふっと息が漏れた。

「って……今日は確証がないことばかりですね」

 自嘲だった。口元だけで笑って、けれど目は笑っていない。その表情が月明かりの下で一瞬だけ浮かび上がって、すぐに美琴は視線を戻した。

「私の故郷では、一柱の神がいたとされています」

 声が変わっていた。さっきまでの迷いが引いて、語り手の声になっている。

「その神は村に度重なる災いを引き起こし、怨嗟と呪いを撒き散らしました」

『なんだい……そりゃあ。本当に現実の話なのかい?』

「ええ、少なくとも文献にはそう書かれていました」

 美琴は一度息を置いた。

「その白い鱗を持ち、荒ぶる神は——琴音様という巫女によって、人の心を理解し、人を愛するようになったのです」

『……? いい話じゃないか。で? その話がどう呪いに繋がるんだい』

「その後、その神は人を憎むようになったのです」

 静かな声だった。淡々としているのに、一語ずつに重さがある。

「その憎しみはやがて呪いへと変化し、疫病や災いを引き起こすようになりました」

「ま、待って! じゃあ……」

「……ええ。それを鎮める役目を担ったのが、『古の巫女』です」

 川の音が、遠くで鳴っている。蛍はいつの間にか祠のまわりに集まり始めていて、その明滅が、美琴の横顔を照らしては消す。

「おかしな話ですよね」

 美琴が俯いた。

「無から愛へ、愛から憎へ変わるんですから」

「っ……」

 悠斗の喉が詰まった。無から愛へ、愛から憎へ。その言葉が胸の中で反響して、うまく消化できない。

「話を戻しますね」

 美琴が顔を上げた。声に、再び語り手の硬さが戻っている。

「そのような歴史があったように、感情とは——愛にも、呪いにも変貌します」

『……つまり嬢ちゃんが言いたいのは、必ずしも霊を対象にした結界じゃなかった……ってことかい?』

 陽菜の声に、初めて真剣な色が混じった。

「陽菜さん、鋭いですね」

 美琴が小さく頷いた。

「そう、呪いはどこにでも起きえるものです。人を憎むことや、なにかを奪い合うこと——それらはすべて呪いに変貌しえます」

 祠の御札を見つめたまま、美琴は続けた。

「そして千年前とは、人と人がぶつかり合うことが今よりもずっと多い時代でした」

「そ……っか」

 悠斗の声が、掠れた。無から愛へ、愛から憎へ。呪いはどこにでも起きえる。美琴の言葉がひとつずつ降り積もって、胸の奥で重さになっていく。

『なるほどね。だから、温泉郷にもそういう時代があったかも……ってことだね』

 陽菜が腕を組んだ。視線が祠に向いたまま、しばらく動かない。

『……いや、ありえるよこれは』

「そういった伝承が?」

『さすがに神とか、そんな仰々しいものは出てこないけどさ』

 陽菜の声が、少しだけ遠くなった。

『かつてここは人と人の争いがあったって、アタイが世話になった人は言ってた気がするね』

 世話になった人。その言葉が、二百年という歳月の厚みを一瞬だけ覗かせる。陽菜がまだ生きていた頃に、誰かから聞いた話。もうその誰かはどこにもいない。

『それも、今となっちゃ忘れられちまった歴史さ。人は、ろくでもない記憶は忘れたがるからね』

 軽い口調だった。けれどその軽さの底に、二百年ぶんの実感が横たわっているのを、悠斗は感じ取っていた。

「……先輩」

 美琴の声が、空気を変えた。

「ん……?」

 振り返ると、美琴がこちらを見ていた。唇がわずかに開きかけて、閉じる。なにかを言おうとしている。けれど言葉がそこに辿り着かない——その揺れが、月明かりの下ではっきりと見えた。

「……どうかした?」

 美琴が目を伏せた。睫毛の影が頬に落ちる。蛍の光がかすめても、その表情は明るくならなかった。

「……私の血が穢れていると、私はあの廃病院で言いました」

「う、うん……?」

 声が上擦った。美琴の声に、聞いたことのない震えが混じっている。いつもの冷静さでも、さっきの語り手としての硬さでもない。もっと深い場所から、絞り出すようにして上がってくる声。

「……弱い私を、許してください」

 悠斗の呼吸が止まった。

「私の血は——呪われています」

 蛍が一つ、祠の前をゆっくりと横切った。その光が美琴の頬をかすめたとき、何かが濡れて光ったように見えた。見間違いかもしれない。確かめることは、できなかった。

 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸

 帰り道は、誰も口を開かなかった。

 行きと同じ獣道。同じ枝が顔をかすめ、同じ根が足を引っかけにくる。けれど空気はまるで別物だった。小太郎だけが変わらず先を駆けていて、ときどき振り返っては首をかしげる。なぜ誰もついてこないのか、わからないという顔で。

 陽菜でさえ、黙っていた。あの快活な声が、美琴の最後の言葉を聞いてから一度も響かない。どう返せばいいのか掴めないまま、ただ前を歩いている。その背中が語っているのは、沈黙だけだった。

 悠斗は足を動かしながら、頭の中がうまく回らずにいる。

 ——私の血は、呪われています。

 何度も反芻される。意味はわかる。言葉としては理解できる。なのにそれが美琴という人間と結びつかない。あの穏やかな笑い方も、廃病院で見せた凛とした横顔も、さっき小太郎を撫でていた柔らかい手も——そのすべての下に「呪い」がある。その事実だけが、どうしても像を結ばなかった。

「あっ、先輩。ほら、もう着くみたいですよ」

 美琴の声。明るい。意図的なほどに。

「う、うん。そうだね」

「陽菜さんも、案内してくださりありがとうございました」

 振り返った美琴が、陽菜に向かって丁寧に頭を下げる。その所作の完璧さが、かえって痛い。

『……はぁ』

 陽菜が、深く息を吐いた。

『まったく。無理して明るく振る舞ってんじゃないよ』

 美琴の肩が、かすかに揺れた。

「……でも、私の言葉で暗くしてしまったのは確かですから」

『バカ言ってんじゃないよ』

 陽菜の声に、からかいの色はない。

『あれは空気が悪くなったんじゃない。アンタがとんでもないものを抱えてて、どんな思いで生きてきたのか——それを考えていたんだ』

 美琴が目を見開く。ほんの一瞬、唇が震えた。

『いいかいアンタ。弱いのが人ってもんだ』

 陽菜が振り返った。月明かりの中で、その目がまっすぐ美琴を捉えている。

『アンタが呪いを打ち明けるまでどれだけ葛藤したか、アタイたちにはわからないよ。でもね、打ち明けたことに意味がある。そうだろ?』

 美琴が何か言いかけて、声にならない。

『弱いなら、知恵を絞って助け合えばいいのさ。未知のことだって、大抵はそれでなんとかなるってもんだ』

 陽菜が一歩、美琴に近づく。

『いいかい。諦めんじゃないよ。呪いがなんだってんだ』

 ふっと、笑った。

『あんたは見た目は健康そうだし、きっと大丈夫だよ』

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