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七十六:二百年の温もり

작가: 渡瀬藍兵
last update 게시일: 2025-06-15 19:00:00

 陽菜に案内されるまま獣道を歩きながら、悠斗は少し前のやり取りを思い返していた。

『あんたたちが花守の巫女様の情報を求めてるなら、とっておきの場所があるんだよ!』

「とっておきの場所?」

『そうさ! そこはね、アタイが死んじまってから——二百年くらいかねぇ? 山を探検してたら、たまたま見つけたのさ』

 二百年。あまりにもさらりと出てきたその数字に、悠斗は言葉を失った。隣の美琴は黙ったままだった。驚いていないのか、それとも驚きを表に出さなかっただけなのか——その区別は、悠斗にはつかなかった。

「に、二百年!? 陽菜さん、霊になって一体どれほどの……」

『ふふ、すごいだろう? あんたたちが良かったらそこに案内するけど、どうする?』

 美琴は迷う様子もなかった。

「お願いします」

『よっしゃ! 任せな!』

 どん、と自分の胸を叩く音が夜に響いた。霊の手が霊の胸を打って、それがちゃんと音になる。その不思議さに気づいたのは、もう少しあとのことだった。

 ——それが、ほんの少し前。

 今、三人がいるのは道とも呼べない道の上だった。踏み固められた形跡もなく、草と枝が好き放題に伸びた斜面を、ただ陽菜の背中だけを頼りに進んでいる。足元の土は湿って柔らかく、踏み込むたびに靴底が浅く沈む。木々の隙間から月明かりが断片的に差し込んでは消え、視界がそのたびに伸び縮みした。

 小太郎だけが迷いなく駆けていた。低い茂みを飛び越え、倒木の下をくぐり、ときどき振り返っては尻尾を一振りして、また走る。

 悠斗はその後ろ姿を目で追いながら、妙なことが気になっていた。

 陽菜の足が、地面を踏んでいる。

 霊だ。わかっている。美琴が「とても強い霊です」と言い切ったその存在が、今、目の前で枝を手で払い、飛び出した根をわざわざ跨いでいる。すり抜けられるはずだった。触れずに通り過ぎられるはずだった。なのに陽菜は、そうすることが当たり前であるかのように、一つひとつの障害物を自分の身体で避けていく。

 足音すらある気がした。枯れ葉を踏む乾いた音。空耳かもしれない。けれどその「かもしれない」がまた奇妙だった——霊の足音を空耳と疑えること自体が、陽菜という存在がどれほど生者に近いかを物語っている。

『ほらほら、遅れるんじゃないよ!』

 振り返った陽菜が、黄色い浴衣の袖をひらりと翻した。月の光を受けたその笑顔に、二百年という歳月の翳りなど欠片もない。

「ねぇ、美琴」

「はい?」

「彼女って、なんだか霊っぽくないっていうか……」

「ふふっ、そうですね」

 美琴が小さく笑った。陽菜の背中を見つめたまま、言葉を継ぐ。

「なんだか彼女は、いまでも生きていると錯覚させますね」

 その声に不思議と寂しさはなかった。どちらかといえば、好ましいものを認めるような穏やかさ。悠斗もつられて前を見る。黄色い浴衣の背中は、暗い獣道の中でもやけによく映えていた。

 陽菜が、不意に足を止めた。

『まちな』

 声が低くなっている。さっきまでの快活さが嘘のように引いて、片手を横に出して二人を制した。

『ちょっと厄介なのがいるね』

「えっ、厄介なの?」

 陽菜が唇の前に指を立てて、もう片方の手で前方を指す。

 暗い。木々が月明かりを遮って、数メートル先がほとんど見えない。けれど——何かが動いている。黒い塊が、ゆっくりと。枝を踏む重い音が、断続的に聞こえてくる。

 目を凝らした瞬間、悠斗の全身が凍った。

「げっ……!」

「どうしました?」

「く、熊がいる……」

 霊は怖い。それは嫌というほど知っている。けれど今、目の前にいるのはそういう怖さとはまるで別種のものだった。牙があり、爪があり、この身体を物理的に壊せる存在。心臓が跳ね上がり、足の裏から冷たいものがせり上がってくる。

『待ってな』

 陽菜が一歩踏み出しかけた——その前に、黒い影が地を蹴った。

 小太郎だった。

 弾丸のように飛び出した小さな身体が、熊の正面に回り込む。そして腹の底から絞り出すような咆哮を、真っ向から浴びせた。

 黒柴一匹分の体躯から出ていい音量ではなかった。夜の山肌を震わせるほどの声量に、熊がたじろぐ。巨体がぐらりと揺れて、後脚がもつれ、どしん、と尻餅をつくように転がった。

 怒りが遅れてやってくる。体勢を立て直した熊が、太い前脚を振り抜いた。小太郎の胴を薙ぎ払う——はずだった。爪は何の抵抗もなく空を切る。毛の一本にも触れない。当然だった。小太郎は、霊だ。

 熊が固まった。振り抜いた腕の先に、何もいない。いや、いるのに触れない。その理不尽を、獣の頭では処理しきれなかったのだろう。鼻先をひくつかせ、低い唸りを漏らしながら、のそりと背を向けた。ゆっくりと、けれど確実に、闇の奥へ。

 やがて枝を踏む音も聞こえなくなったころ、小太郎が振り返った。尻尾がちぎれそうなほど振れている。

『……アタイの出番、なかったじゃないか』

 陽菜が腰に手を当てて、呆れたように笑った。

『小太郎、いい子だね』

 戻ってきた小太郎の頭を、陽菜がそっと撫でた。その手つきがまた、霊のものとは思えないほど柔らかい。

「ありがとう、小太郎」

 美琴がしゃがんで背中に手を添えると、小太郎は身体ごと尻尾を振って応えた。悠斗もつられて手を伸ばす。指先に触れたのは、温かくはないのに確かにそこにある、不思議な毛並みの感触だった。

『ワンッ!!』

 元気のいい一声。さっき熊を追い払った咆哮とは似ても似つかない、ただの嬉しい犬の声。

『それじゃあふたりとも、また着いてきな! もうすぐ着くから!』

 陽菜が袖をひるがえして歩き出す。小太郎がその足元に駆け寄り、三人と一匹の行列がまた動き始めた。

  *

 それからどれほど歩いただろう。相変わらず枝は顔を打ち、根は足を引っかけにくる。悠斗の息が上がり始めたころ、前方の闇にようやく切れ目が見えた。

『ほら! 出口が見えたよ!』

「よ、良かった……。こんな道、普段慣れてないから結構疲れたよ……」

「先輩は運動が足りてないようですよ?」

 振り返った美琴が、微笑みながら人差し指を立てた。

「健康のためにも、もう少し運動をしたほうがいいですっ」

「うぅ……善処します……」

 冗談めかした声なのに、目だけは本気で心配しているのが悠斗にはわかった。そのちぐはぐさに文句を言う気力もなく、ただ苦笑いで返す。

 木々の壁が途切れた。

 一歩踏み出した瞬間、空が開けた。月明かりが遮られることなく降り注ぎ、悠斗は思わず足を止める。

 巨木だった。

 見上げても梢が闇に溶けて見えない。幹の太さは人が三人で腕を回してようやく届くかどうか。一本ではない。何本もの巨木が、申し合わせたように間隔を置いて聳え立ち、その根元を苔と羊歯が静かに覆っていた。獣道の鬱蒼とした暗さとは違う、広く、深く、古い空間。空気そのものが数百年ぶんの重みを含んで、肺の奥までしんと沁みてくる。

 太古、という言葉が頭に浮かんだ。人の手が届く前の山が、ここにだけそのまま残されているような——そんな場所だった。

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