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七十七話:祠に灯る祈り

Author: 渡瀬藍兵
last update publish date: 2025-06-16 19:00:00

 巨木の合間を縫うように奥へ進むと、やがてそれは姿を見せた。

 祠だ。

 小さい。人の腰ほどの高さしかない石造りの社が、苔に半ば飲まれるようにして佇んでいる。屋根の端は欠け、台座の角は丸く削れ、どれほどの歳月をここで過ごしてきたのか見当もつかない。けれど崩れてはいなかった。朽ちかけながらも、なお形を保っている——その一点だけが、ただ古いだけの石とは違う何かを感じさせた。

『ここが、かつて花守の巫女がいたんじゃないかって思う場所だよ』

 陽菜の声が、いつもより少しだけ静かだった。

「ここは……」

 美琴が息を詰めた。悠斗には見えないものが、彼女の目には映っているのだろう。

「どう……? 美琴」

 美琴が祠に向かって手をかざした。指先が微かに震えている——ように見えたのは、一瞬だった。すぐに呼吸を整え、手のひらを静かに開く。

「間違いありません」

 確信のある声だった。

「近づくことでようやくわかりましたけど、ここから温泉郷全体を包むように結界が張られていますね」

「温泉郷、全体を……?」

「ええ」

 美琴が視線を下ろした。その目が、祠の内側の一点で止まる。

「先輩、これを見てください」

 美琴の視線を追って覗き込むと、祠の奥に一枚の紙が貼りつけられていた。御札だった。ただし、悠斗が知っているどの御札とも様子が違う。紙そのものが見たことのない質感をしていて、表面に走る墨の筆跡は達筆の一言では片づけられない力強さを帯びている。しかし端は大きく破れ、文字の半分以上が失われていた。残った部分も風雨に晒され、いつからここにあるのか、もはや見当もつかない。

「これは……千年前の巫女が書いたものなのかな?」

「おそらく」

 美琴は御札から目を離さなかった。

「それに、この巫女さんは——霊力に関する知識は、私以上かもしれません」

「それは、どうして?」

「覚えていますか? 御札には効果がありますが、文字にこそ真の効力があるという、私の言葉を」

「うん。言ってたよね」

「きっとこの御札には祈りの言葉が綴られていたはずです」

 美琴の指が、破れた縁をなぞるように動いた。触れてはいない。けれどその軌跡は、失われた文字の配置を辿っているようだった。

「そしてさらに——私でも読めない文字が、破れて見えない部分を含めて確認できます」

『あんたたちは霊に詳しいんだね? 巫女様について調べてるのもそれが理由かい?』

 陽菜が腕を組んで割り込んできた。二人のやり取りを黙って聞いていたものの、いよいよ我慢の限界といった顔をしている。

「陽菜さん、私たちはこちらの結界を張った巫女さんと、源流が同じ可能性があるのです」

 陽菜が固まった。

 文字通り、動きが止まった。瞬きすら忘れたように目を見開いたまま、数秒。川の音も虫の声も、その間だけ妙に遠くなる。

『えぇ!? な、なんだってぇ!??』

 弾けるように全身が動いた。両手を頭の横に広げ、身体ごと仰け反り、黄色い浴衣の袖がばさりと夜気を叩く。小太郎が驚いて一歩飛び退いた。

『つ、つまり、あんたたちはこの花守の巫女様の血が繋がってるってことかい……!?』

「……確かではありません」

 美琴の声は、陽菜の勢いとは対照的に静かだった。

「でも——私は、その可能性が高いと考えています」

 悠斗は黙って聞いていた。

 自分に巫女の血が流れている。頭ではさっき美琴から聞いたはずの言葉が、他人事のように輪郭を持たないまま漂っている。もし母が目を覚ましていたら、なにか聞けたのだろうか——そんな考えが、不意に胸をよぎった。聞けたかもしれない。聞けなかったかもしれない。どちらにしても今、確かめる術はなかった。

「先輩、大丈夫ですか?」

 美琴の声で、意識が戻る。

「……うん。まさか僕にそんな可能性があるなんて、実感がわかなくて」

「そうですよね。ですが先輩、これはあくまで推察に過ぎません。断言はできないのです」

 美琴の声には、労わるような慎重さがあった。事実を伝えたいのと、悠斗に重荷を背負わせたくないのと——その二つが、一文のなかで静かにせめぎ合っている。

「そうだね……」

 悠斗はゆっくりと息を吐いた。祠の御札に目を向ける。破れた紙の上に残る筆跡は、千年の風雨を越えてなお消えていない。

「でも、僕のこの霊感にそういう理由があるって知れて、良かったかも」

 その言葉を聞いた瞬間、美琴の表情が翳った。

 ほんの微かに、けれど確かに。口元に浮かんでいた柔らかさが消え、目の奥にある光が一段沈む。悠斗が「良かったかも」と口にした言葉の、その裏側にあるものを読み取ってしまったかのように。

『それにしても、結界だなんて、まるで架空の世界みたいだねぇ』

 陽菜の声が、その空気を塗り替えた。気づいたのか、気づかなかったのか——どちらにせよ、陽菜は楽しそうに笑っている。歯を見せて、屈託なく。二百年を霊として過ごした者の口から「架空の世界」という言葉が出る可笑しさに、本人だけが気づいていない。

「陽菜さん、ここでは花守の巫女にどんな伝説があるのですか? 私も詳しくは知らなくて……」

 美琴の声は、もう整っていた。さっきの翳りがまだ目の奥に残っているのか、それとも悠斗の見間違いだったのか。判断がつかないまま、会話は進んでいく。

『うーん……』

 陽菜が顎に指を当てて、首をかしげた。

『確か、千年ほど前にはこの地は荒れていたみたいでね。その当時はアタイみたいな霊がたくさんいたみたいなんだよ』

 たくさんいた、と陽菜は言った。自分と同じものが、かつてこの山に溢れていた。その事実を語る声に重さはなく、ただ聞いた話を伝えているだけの軽さがある。

『それで、それを憂いた巫女様が、その穢れやわるいものを祓ったって言われてるよ』

「なるほど……納得がいきました」

 美琴が静かに頷いた。御札に視線を戻し、破れた端をもう一度見つめている。

『わるいものってなんだったんだろうねぇ? なんかわかるのかい?』

 陽菜の問いに、美琴はすぐには答えなかった。一拍。祠の前の空気だけが、ほんの少し重くなる。

「……これは、私の故郷と通じるところがあるのですが」

 美琴が陽菜のほうへ向き直った。

「陽菜さん、呪いを知っていますか?」

 蛍が一つ、祠の屋根をかすめて闇に消えた。

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