All Chapters of 夫も息子もあの女を選ぶんだから、離婚する!: Chapter 211 - Chapter 220

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第211話

「今日は都合が悪くて行けそうにない......」そう言いかけた星の耳に、受話口から別の声が割り込んだ。「雅臣、清子の処置はもう終わった。早く来てやれよ」――清子?そうだ。星は思い出す。雅臣が約束を反故にする時、必ずそこには清子がいたのだ。もはや心は波立たない。星の声は冷えきっていた。「もう助かったんでしょう?午後なら時間があるから、その時に来てちょうだい。長引かせるつもりはないわ」だが言葉の途中、またしても勇の声が重なった。「雅臣、何をぐずぐず電話してるんだ!清子はずっとお前の名前を呼んでるんだぞ。早く行ってやれ!医者も今回の容態は危ういって言ってた。もしかしたら、これが最後になるかもしれないんだ!」「......すぐ行く」雅臣の声色は一変し、冷然と切り捨てた。そして思い出したように受話口へ。「今は忙しい。また後で掛け直す」通話を終えると、雅臣は勇を見やった。「清子の容態は?」勇は彼の手に握られた携帯を一瞥し、唇の端に一瞬ほくそ笑みを忍ばせる。だが顔には深刻さを貼り付けて言った。「芳しくない。医者は今の体では半年もたないって」雅臣の眉間がわずかに動く。「お前の言っていた名医は、まだ見つからないのか」「見つかった」「では、なぜ治療を頼まない?」その問いに勇は憤然とした。「葛西とかいう頑固ジジイが首を縦に振らないんだ!どんな条件を出しても、いくら金を積んでも動かない。腹が立って仕方ない!」「他の条件は提示されなかったのか?」「何も言わなかった」勇は首を振る。「隠居だと言うくせに、しょぼい漢方診療所を開いていて、客もいる。なのに俺が三度も頭を下げても駄目だ。世にも変わった奴だ」目を細め、勇は吐き捨てる。「明日もう一度行く。今度こそ無理やりでも連れて来てやる」雅臣の目が暗く光る。「清子を連れて直接会いに行ったことは?」勇は一瞬言葉に詰まり、口ごもる。「......ない」「彼は来るなとは言わなかったのだろう?」「まあ、確かに」「なら清子を伴って行け。もしかすると、他の患者も診たいから拘束されるのを嫌っただけかもしれん」勇の視線が泳ぐ。「実は......昨日
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第212話

――今ごろ、彼女はまだ役所の前で待っているのだろうか。雅臣の脳裏にそんな思いがよぎる。かつて一度、ふたりでウェディングドレスの試着に行く約束をしたことがあった。だがその日に限って、清子が急病で倒れた。事態が切迫していたため、試着の約束などすっかり頭から飛んでしまった。しかも携帯の電池も切れていた。思い出した時には、すでに夜。慌てて星に電話を入れると、彼女はまだ約束の場所にいた。丸一日、ただ待ち続けていたのだ。その時はただ、愚かしい女だと思った。来ないとわかれば、自分の時間を好きに使えばいい。なぜ、ひたすら立ち尽くして待ち続ける必要があるのか。けれど今は、まるで違う感情が胸をかすめる。――自分がいつ現れても、必ずそこに待つ人がいる。そんな錯覚を覚えたのだ。まだ朝早い。午後に足を運んでも、構わないだろう。「雅臣?聞いてるの?」清子の声に、雅臣は意識を現実へ引き戻された。目を向けると、間近に見る彼女の顔は蒼白で病的な陰りを帯びていた。「......ああ」低い声で応じる。「わかっている」清子の胸に冷たい予感が広がる。彼が「わかっている」と言う時、それはつまりここを離れるつもりだという意味。――彼の心は、まだ星の方へ向いている。悔しさを噛み殺した清子がそっと勇に目をやる。勇は即座にそれを理解し、安心させるように視線で合図を返した。「雅臣、少し清子を見ていてくれ。俺は医者に容態を確かめてくる」雅臣は淡々と頷いた。およそ十分後。勇は医師を伴って戻ってきた。医師の表情は硬い。「小林さんの数値に異常が見られます。さらに詳しい検査が必要です」雅臣の眉がひそめられる。「どういうことだ」「検査結果の数値に不整合が見られます。再検査して確かめなければ」「では、すぐに再検査を」勇が口を挟んだ。「明日、雅臣は清子を連れてあの葛西先生に会いに行く予定だろう?詳細なデータを持参すれば、あの頑固者でも病状を的確に把握し、的確に治療を施せるはずだ」その理屈には一理あった。雅臣は静かに頷いた。一方そのころ。通話を切られた星は、顔を曇らせていた。清子が発作を起こしたとしても、なぜ今日なのか。しかも、なぜこの時間
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第213話

受話口から響いた雅臣の声には、どこか疲れの色が滲んでいた。「そんなに何度も電話をかけてきて、いったい何の用だ」星の声は冷ややかだった。「神谷さん、今日私たちが離婚の手続きをする約束、もう忘れたの?」雅臣は数秒の沈黙ののちに答える。「忘れてはいない。さっきも言ったはずだ。急用で手が離せない」――さっきも言った?心の中で星は冷ややかに嗤う。彼女から電話をかけなければ、きっとそのまま忘れていたに違いない。だが今さら責めるつもりはなかった。どうせ離婚するのだ。無駄な言い争いに時間を費やす気はない。今最も大事なのは、雅臣にここへ来させること。「さっき私が電話した時には、清子はもう処置を終えていたわ。午前中ずっと付き添ったんだから、午後は時間を空けられるでしょう?」その言葉は、雅臣の耳にはまるで嫉妬の響きを含んでいるかのように届いた。彼はふいに問い返す。「......そんなに俺に来てほしいのか?」星は眉をひそめる。あまりに妙な聞き方だった。「昨日きちんと約束したはずよ」声は氷のように冷たい。「まさか反故にする気じゃないでしょうね」短い沈黙の後、男は低く言った。「わかった。行くよ」だが星は気を緩めなかった。「何時に?」「終わり次第、連絡する」「正確な時間を教えて」雅臣は数秒思案し、ようやく答えを口にした。「午後二時だ」「神谷さん、約束は必ず守って。これ以上反故にしないで」冷然と告げると、星は通話を切った。電話を置き、しばし思案した彼女は、彩香に連絡を入れる。「彩香、今清子がどの病院に入院してるか、調べられる?」彩香は元マネージャーだけあって、情報網は一般人よりずっと広い。電話を受けた瞬間、すぐに察した。「まさか、清子また倒れたの?」「ええ」星の眉間にはかすかな陰が刻まれる。「午前は来なかったし、午後も来るかどうか分からない。もし来なければ、私が直接病院に行く」――今日、この婚姻は必ず終わらせる。「わかった。調べてメッセージ送るわ」病院。検査室を出て電話を受ける雅臣を、勇は鋭い視線で見ていた。胸の奥で確信する。あの電話はきっと星からだ。近づくと、雅臣の低い声が耳に入った。「
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第214話

「清子の検査はまだ時間がかかる。お前がここで付き添え。俺は後で戻る」勇は思わず冷笑した。「雅臣、清子がなぜ末期の病気を抱える身になったのか、俺たち二人にはわかっているはずだ。お前はかつて俺に清子を必ず幸せにすると誓ったじゃないか。それすら守れなかったくせに、今や命の瀬戸際にある彼女を置いて星と会うつもりか」その言葉に雅臣の黒い瞳がわずかに揺れ、静かに勇へ向けられた。勇は声を和らげて続ける。「雅臣、あの時清子が俺を救ってくれなければ、俺はとっくに死んでいた。彼女がお前を愛しているなら、俺はその想いを尊重するつもりだった。綾子さんが反対し、お前が彼女を手放した時だって、恨んではいない。ただ一つ望むのは、最期くらい悔いのないように見送ってやってくれ。それだけでいい」ふたりは幼い頃からの付き合いで、命を預け合った仲でもある。かつて勇は仇敵の追手を引き受け、瀕死の淵に立たされた。その時に清子が現れ、命を救ってくれたのだ。勇は彼女に想いを抱いていた。だが親友であり、恩人でもある二人が互いに惹かれ合っているのを知り、祝福するしかなかった。雅臣が星と結婚したのも、子どもができてしまった以上仕方のないことだと飲み込んだ。だが今、清子が余命を宣告された以上、見捨てられることだけは決して許せなかった。午後二時。雅臣は姿を現さなかった。だが今回は星も黙って待ち続けたりはせず、すぐに電話をかけた。応答は意外なほど早かった。だが、出たのは雅臣ではなかった。「星、もう諦めろ。雅臣は清子の側にいる。お前のところへは行かない」勇の得意げな声。星は一瞬で悟る。「......わざと?」「そうだよ。お前が今日雅臣と会うつもりなのは知ってる。だが俺は絶対に行かせない。どうだ、悔しいか?悔しがれよ。俺はお前が歯噛みしてもどうにもできない姿を見るのが大好きなんだ!」顔を見ずとも、彼がいかに薄ら笑いを浮かべているか、ありありと想像できた。星は呆れるほど滑稽に思えて、かえって笑いがこみ上げた。「......私が彼と会おうとしている理由、知っているの?」「知るか。どうせくだらないことだろう。どのみち雅臣は行かない。諦めるんだな!」星は心底あ
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第215話

ただ、この時代において離婚とは実に厄介なものだった。弁護士も繰り返し忠告していた――もし可能なら、協議離婚がもっとも迅速で、そして体面を保てる方法だと。訴訟に持ち込めば、裁判所での審理だけでも通常は半年を要する。財産分与まで争点に含めれば、神谷家の資産の複雑さからして、九ヶ月はかかる可能性が高い。しかも開廷の前にはまず調停があり、最短でも一ヶ月ほど費やされる。調停が不調に終わって初めて、正式に立件されるのだ。弁護士は遠回しに言った。「ここまで裁判になると、たとえ最終的にお二人が合意しても、お子さんがいる以上、しかも神谷さんに重大な過失が認められない場合、離婚できない可能性は非常に高いのです」「信じ難いかもしれませんが、これが現実です。私は長年数え切れない離婚訴訟を扱ってきましたが、このようなケースは決して珍しくありません。星野さんが早く離婚を望むなら、やはり協議に持ち込むのが一番です」星は問いかけた。「私が持っている証拠は、彼を婚姻破綻の責任者として立証できます?」弁護士は首を振った。「残念ながら、あの程度では不倫の証拠にはなりません。仮に不倫を立証できても......原則として財産分与には影響しません。よほどの現場を押さえるか、同居して夫婦同然に生活していることが証明されれば不貞行為として扱われる可能性はありますが、そうでなければ全財産を放棄させるなどという判決はまず下りません」――結婚する時はただ紙切れ一枚で済んだ。離婚はどうして、これほどまでに難しいのか。星はこの時、初めて思い知った。悪事を働けば必ず報いを受ける――そんなものは美化されたお伽噺にすぎない。現実では、悪人は罰を受けるどころか、むしろのうのうと良い暮らしをしていることさえあるのだ。三十分後。星は病院に足を運んでいた。すでに彩香から、清子の病室番号を聞き出していた。エレベーターが静かに最上階へ到着する。降り立った瞬間、左右から現れた二人の屈強な警備員に行く手を塞がれた。「申し訳ありません。このフロアはすでに貸し切りとなっています。部外者の立ち入りは固くお断りします」星は足を止めた。「誰が貸し切ったの?」彼らは指示されているらしく、即座に答えた。「山田さんです」――山
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第216話

彩香の表情があまりに嬉しそうだったので、星は思わず問いかけた。「なにがそんなにいい知らせなの?」「星!あなた、今ものすごくバズってるのよ!」彩香は興奮気味にスマホを差し出した。「この前、怜くんを連れて出場したコンクールでのこと覚えてる?誰かがあなたのヴァイオリン演奏を撮って、ネットに流したの!今や大ブレイク状態、ファンももうすぐ一千万に届く勢いよ!海外サイトでもあなたの演奏動画が拡散されてるんだから!それに――星、あなたと奏はちょうどコンサートツアーの準備をしてるでしょ?今がまさに復帰に向けて最高の宣伝になるわ!」世界的なスターを自分の手で育てたい――そう意気込む彩香は、認めたくはなかったが、やはり痛感していた。いまの時代、実力だけでは不十分。結局は話題性がすべてを決める、と。どれほどの実力者でも、観客がつかなければ存在しないも同然。そして観客を集めるためには、まずその存在を知らしめなければならない。このファストフード的な時代、実力そのものは以前ほど重視されなくなっていた。資本さえあれば、短期間で「すごい人材」という虚像を作り上げることも容易い。無数の広告やメディア記事、ニュース配信が、視聴者の意識を洗い流し、「その人物は才能にあふれている、人気絶頂だ」と思わせる。そうして推しを生み出し、一大ファンダムを築いていく。昔は名声を得るには何より実力が必要だった。だが今は――マーケティング、話題性、そしてキャラクター設定。けれど、本物の才能は火の中に放り込まれても決して滅びはしない。大衆の目は、やはり真実を見抜くものだ。実力のない者は、どれほど宣伝してもいずれは淘汰される。清子はその典型だ。熱狂的な信者を抱えてはいるが、彼女自身が実力者であるからこそ、かろうじて成り立っているにすぎない。奏はいま人気を博してはいるものの、資本の後ろ盾はなく、ましてや自ら資本家になるにはまだ遠い。元の事務所と決裂したことで、この先封じられる可能性だって十分にある。だからこそ、星がもしこの波に乗れれば――これ以上ない最高のスタートとなるはずだった。星は彩香のスマホを受け取り、画面をのぞき込む。そこに映っていたのは生配信の録画だった。「これって......榊さんが仕掛け
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第217話

小細工は一度二度なら通用するが、やりすぎれば必ず裏目に出る。それに、星はもう帰宅していた。彼女を監視していた手下がそう報告してきたのだ。雅臣が病院を後にすると、勇は早くも悪巧みが成功したとばかりに勝ち誇った笑みを浮かべた。「やっぱりな。あの星なら、待ちきれずにここへ押しかけてくると思ってたんだ。俺が先回りして手を打ってなかったら、まんまと奴に出し抜かれるところだったぜ」清子もまた、久方ぶりに勝利の余韻を味わい、口元に笑みを浮かべる。ここ最近は星に痛い目に遭わされ続け、鬱積していた思いを晴らすには格好の機会だった。「勇、やっぱりあなたの方が抜け目ないわ。私じゃここまで考えが及ばなかった」勇は得意げに胸を張る。「清子みたいに純粋な人間が、あの腹黒い星に勝てるわけないだろ」彼は心の中で固く誓った。生まれてこのかた、これほど頭を働かせたことはない。普段は大雑把で、言葉も勢いで口にしてしまう彼が、どういうわけか今日は冴えに冴えていた。まるで経脈が一気に通じたように、自分でも信じられないほど機転が利いたのだ。だが、清子の笑顔は長く続かなかった。すぐに陰りが差した。「今日は彼らが会うのを阻止できたけど......明日になれば、雅臣はまた星のもとへ行くかもしれないわ」勇は口角を吊り上げ、自信たっぷりに笑った。「心配すんな。明日からはもっと忙しくなる。お前を治してくれる名医を見つけたんだ。明日は雅臣が直接連れて行ってくれることになってる。音楽会の準備だって本格的に始まるんだぞ、雅臣に星にかまう暇なんてあるもんか」「......名医?」清子の顔が固まった。「そうさ。前に言ったろ、必ずお前を診てくれる医者を探すって」確かに彼の口から一度聞いたことはあったが、清子は真に受けていなかった。勇が語るその名医はまるで昔語りに出てくる仙人医師のように誇張めいていて、彼の大げさな物言いに慣れている清子は半信半疑で流していた。だが――本当に見つかったというのか。勇が興奮気味にまくし立てても、清子の顔に浮かぶのは喜びではなく複雑な影だった。その表情に気づいた勇が声を潜める。「どうしたんだ、清子。嬉しくないのか?」清子ははっとして、作り笑いを浮かべた。「そ
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第218話

葛西先生は意味ありげに口を開いた。「電話に出もしないで、どうして大した用事じゃないなんて言えるんだね?」勇が眉をひそめる。「じいさん、俺たちは病気を診てもらいに来たんだ。世間話をしに来たんじゃない」葛西先生はまぶたを持ち上げ、薄く笑う。「病気?馬鹿の病か、愚か者の病か......それとも病気がないのが病気なのかね」その言葉に、清子の睫毛が大きく震え、呼吸がどこか不自然に速くなる。葛西先生は何かを察したように、視線を彼女の顔に移した。「お嬢ちゃん、息が上がって脈も速い......随分と緊張しているようだな?」清子は無理に笑みを作った。「わ、私はちょっと胸が詰まってる感じがして、少し苦しいだけです」葛西先生は老眼鏡を押し上げ、上から下までじろじろと眺める。「苦しい?だが顔色は血色よく、気力だって十分なように見えるがね。どこが悪いんだか、わしにはさっぱりわからん」彼は三人を順に見回し、首を傾げた。「で、結局誰が患者なんだ?不治の病だか何だか、誰が患ってるんだか、さっぱりだ」勇が疑わしげに睨みつけた。「何だと?清子が不治の病だってわからないのか?まさかあんた、ヤブ医者じゃないだろうな!」葛西先生は一瞥をくれると、落ち着いた声で言った。「お前さんは血の気が多くて、すぐかっとなる性質だ。口臭や便秘に悩まされ、大便も形を成さない。酒と煙草に夜更かし......節制がないせいで腎臓も弱っている」葛西先生は一拍置き、じっくりと告げる。「今のところは軽い機能障害で済んでいるが、このまま放置すれば――男としての役目に支障が出るだろうな。早く治療することを勧めるよ。でないと将来、お前は妻の期待に応えられないぞ」勇は若いながら見映えのする男で、端正さでは雅臣に劣るものの、不良めいた色気で社交界の令嬢たちに人気があった。清子に出会うまでは、女を取り替える速さが服の着替えよりも早いと言われていたほどだ。だが清子と出会ってからは、長年誰とも付き合ってこなかった。彼女が困れば真っ先に駆けつけ、理不尽なことがあれば誰にでも噛みついた。清子の友人たちは口をそろえて羨ましがり、「あんなに献身的な護衛役がいていいな」と嘆息したほどだ。その視線を受け、清子の虚栄心
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第219話

葛西先生はちらりと彼を見やり、静かに言った。「お前さんはな......もっと大きな問題を抱えている。今日ここにいる三人の中で、一番深刻だよ。さあ座りなさい、脈を取ってよく診てやろう」雅臣は勇を一瞥した。勇はすぐに自分が疑われていると察し、気まずそうに頭を掻いた。この頑固ジジイは名医と噂され、彼は大金をかけて長い時間探し求め、ようやく見つけ出したのだ。だが――誰が不治の病を患っているかすら見抜けないとは?まさか名医ではなく、ただのインチキ祈祷師じゃあるまいな?清子はそれを聞き、ふと胸の奥で何かが動いた。――なんだ、ただの詐欺師か。それならむしろ好都合だ。金さえ目当てなら操りやすい。この葛西先生と示し合わせて薬を出してもらい、適当に数か月飲んで「症状が軽くなった」と言えばいい。一年も経てば「もう完治した」と言い張れる。先々のごまかしに頭を悩ませていたが、願ってもない材料が転がり込んできたではないか。雅臣は葛西先生の前の椅子に腰を下ろし、手を差し出した。葛西先生はその脈を取りはじめる。勇は眉をひそめ、じっとその様子を見ていた。もしこの老人が「雅臣が不治の病を患っている」などと言い出したら、その場で看板を叩き壊し、顔に「私は詐欺師」と貼り付けて町を引き回してやるつもりだった。葛西先生は首を振りながら、ため息をついた。「はぁ......思いもしなかったよ。こんな若さで、不治の病にかかっていようとは。惜しいことだ、実に惜しい」勇の目が見開かれる。やはりこいつは大嘘つきだ。罵ろうとした瞬間、雅臣の淡々とした声が先に響いた。「俺が罹っているという不治の病とは何のことだ」勇は口に出しかけた罵声を飲み込み、雅臣がこの爺の出鱈目を試そうとしているのだと悟った。葛西先生は白い髭を撫でつつ言う。「お前さんはな、まず目が重症だ。このまま放っておけば、いずれは失明するだろう。それから心臓も大問題だ。本来あるべき場所に収まっていない......いやぁ、これは偏っておる。だが一番の大ごとは脳みそだ」葛西先生は真顔で自分の頭を指差した。「どうやら毒液にでも侵されたらしく、侵食が進んでいて、もうじき水溜り同然になるさ。こんなに治らぬ病をいくつも抱えていて、不
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第220話

葛西先生は雅臣を見つめ、含み笑いを浮かべた。「できるとも。お前たちが望んでいるのは、その娘に薬を処方してほしいということだろう?」勇は目を丸くした。「あんたさっきは、清子の具合が悪いなんて分からないって言ってたじゃないか」葛西先生は飄々と答える。「そうさ、わしは見抜いたわけじゃない。ただ当てただけだ」「......」――このジジイ、口の悪さは星と同じじゃないか。雅臣は勇から、この老人の気性がかなりひねくれていると聞かされていたので、皮肉にも動じなかった。彼はじっと葛西先生の眼を見据え、低く重い声で問う。「それで、どれくらい彼女の命を延ばせると考えてるんだ」葛西先生はふたたび清子に目を向けた。その濁りながらも鋭く光る眼差しは、鷹のように獲物を射抜き、清子の全身をこわばらせた。背筋にひやりと冷気が走り、まるで内心すべてを見透かされてしまったかのようだった。やがて葛西先生は目を逸らし、自信たっぷりに言い切った。「わしはこの病を、完治させることができる」雅臣と勇は同時に息を呑む。不治の病――そう簡単に治せるものではない。これまで世界中の名医にあたっても、誰ひとり手立てを見つけられなかったのだ。望むのはせいぜい寿命を少しでも延ばすこと、それだけだった。にもかかわらず、この老人は「治せる」と言い切った。本当に自信があるのか、それともただの思い上がりか――雅臣の目は鋭く研ぎ澄まされた刃のように光る。「まだ脈も取らず、診断書に目を通したわけでもないのに、どうして治せると断言できるんだ」葛西先生は少しも怯まず、にやりと笑う。「だからこそ名医と呼ばれているのさ」雅臣はじっと彼を見据えた。「葛西先生、本当に確かなんだな」勇は鋭い視線を投げ、苛立ちを隠さずに言い放つ。「ジジイ、もし俺たちを騙すつもりなら、一銭も払わないどころか看板を叩き割ってやるぞ!」葛西先生は彼を見やり、淡々と返す。「さっき言ったお前の症状――一つでも間違っていたかね?」勇は言葉を失った。葛西先生は仙人めいた風情で続ける。「わしの診立てを受けに来る者は、金を払うとは限らん。わしが求めるものは別にある。お前たちからも金は取らん」勇は怪訝そうに眉をひそめる。「金を取ら
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