All Chapters of 夫も息子もあの女を選ぶんだから、離婚する!: Chapter 271 - Chapter 280

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第271話

勇がまた何か言おうとしたとき、低く鋭い声がそれを遮った。「――もういい」彼の冷酷な一喝に、勇は悔しげに口を閉ざす。星はくすりとも動じず、隣の店員に向き直った。「私が壊したにせよ、小林さんが壊したにせよ、全部神谷さんの勘定につけてください」そして視線を雅臣に流し、唇に笑みを浮かべる。「小林さんは神谷さんの心に想う人で、初恋ですもの。彼女が壊したなら、神谷社長は迷いなく払ってくださるでしょう。――それに、私は正真正銘の神谷夫人。夫の勘定につけても、何の問題もありませんよね?」その一言に、場内がざわめきに包まれた。「えっ、神谷夫人?彼女が?」「最近、神谷雅臣とある女性の噂が大きく報じられてたけど......まさか結婚していたとは!」「五年前に入籍はしてるらしい。披露宴を挙げてないから、知る人ぞ知るって感じだったみたい」「じゃあ、さっきから愛人、愛する人って持ち上げてたのは......一体何なんだ?」「何って、愛人だろ。結局どこの男も同じさ」人々の視線が一斉に雅臣と清子に突き刺さり、軽蔑の色が隠しきれなかった。清子は奥歯を噛みしめ、一歩前に出た。「これは私の落ち度です。星野さんから受け取るときに手を滑らせました。だから......このバングルは、私が弁償します」「清子!」勇は愕然と声を上げる。「明らかに星がわざとやったのに!なぜ俺たちが払わなきゃならない!」「勇!」清子はきっぱり遮った。表情は真剣そのものだ。「私がしっかり掴まなかったから。星野さんのせいじゃない」そう言って、星に向かって深々と頭を下げる。「星野さん、先ほどはごめんなさいね」その瞳には涙があふれ、ひどく傷ついたように見える。まるで世の中すべての不幸を背負ったかのように。星は微笑しながらも、淡々と告げた。「小林さん、このバングルは十億よ。あなたの全財産を合わせたとしても、足りるかしら?」清子は痛々しいほどの笑みを浮かべ、小さな声を震わせた。「......なんとか、するわ」見ていられなくなった勇が胸を張り、大げさに言った。「なら俺が払う!清子のために!」星はあっさりと受ける。「ええ、どうぞ。お願いするわ」しかし勇はカードを取
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第272話

雅臣の瞳が一瞬暗く揺れる。――思い出す。以前、清子が星に酒を差し出したとき、彼女は受け取り損ねてグラスを倒し、清子に酒を浴びせた。星は「わざとじゃない」と説明し、清子が受け止めなかったせいだと主張した。だが雅臣は、その言葉を信じなかった。星は冷ややかな顔を見上げ、赤い唇をゆっくり開く。「そうよ、さっきはわざとだった。私は彼女に渡すくらいなら壊す。これからは――私のものは、誰にも指一本触れさせない。それから......」彼女は顎を上げ、真っ直ぐに彼の瞳を射抜いた。「胸が痛む?なら、それでいい。離婚しない限り、こんなことは何度でも起こるわ。たとえ心が痛んでも、耐えてもらう」勇と雅臣が仕掛けてくる?――なら受けて立つだけ。前なら、ただ「早く離婚したい」と願い、多少の屈辱も堪え忍んでいた。だが、ここまで侮辱され、さらに企みを巡らすつもりなら、黙ってはいない。――誰もが好き勝手に利用される哀れな存在ではないのだから。雅臣は眉間にしわを寄せる。「星、俺は言ったはずだ。おとなしくしていれば、金は一銭も減らさず渡すと......」「その汚いお金に、誰が興味あるの?」星は冷たく遮った。雅臣は皮肉げに笑う。「興味がない?なら、なぜ神谷夫人と公言した?俺の勘定につけたいからじゃないのか」星は唇に嘲る笑みを浮かべる。「もし私の記憶が正しければ――この五年、私があなたから受け取ったものは、小林さんが手にしたブランド品の一つにも及ばないわね」雅臣の瞳がかすかに揺れた。そういえば――この五年間、彼女から高級ブランドの請求書が届いたことは一度もない。「星、欲しいものがあれば言え」「清子は欲しいものがあると、必ず口にしてきたの?」星の反問に、雅臣の唇が閉ざされる。清子が「綺麗」と口にすれば、雅臣も、翔太も、争うようにそれを彼女の手に届けてきた。星の物ですら、彼女に与えてきたのだ。沈黙が落ちる。星は淡々と続けた。「あなた、聞いたわよね。欲しいものを言えって。私が欲しいのは――清子のヴァイオリン、深海。あれを、私にちょうだい」後に星は知る。そのヴァイオリン「深海」は、ニュースでも報じられた十桁近い値で落札された幻の逸品。そ
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第273話

雅臣は星の背中を見つめながら口を開いた。「どれが気に入った?俺が買ってやる」星は微笑む。「じゃあ、遠慮なく」雅臣の顔に、かすかな驚きがよぎる。その変化を、星は鋭く見逃さなかった。「なに?私が断ると思った?」「思ってた」雅臣の声は冷ややかだ。「おまえはいつも気丈に振る舞っていたからな。絶対に受け取らないとばかり思っていた」星は薄く笑う。「もし本当に気丈なら、財産分与も二百億も要求しなかったわ」雅臣が言葉を継ごうとしたその時、誠が早足で近づいてきた。「神谷さん、もう行かないと契約に遅れます」「わかっている」雅臣は冷淡に応じる。去ろうとしたその瞬間、星の姿が目に映った。「用事があるから、俺は先に行く。欲しいものがあれば、自由に選んで俺の勘定につけろ」誠の瞳に驚きの色が宿る。――神谷さんが夫人に、こんなに優しい態度を?しかしすぐに理解した。これは補償だ。自分が勝手に、ワーナーからの招待を断った、その埋め合わせに違いない。雅臣が去った後、星は電話をかける。「彩香、買い物に出てきて。今日は私がごちそうする。欲しいもの、遠慮なく選んで」「えっ、宝くじでも当たった?」彩香は驚く。「違うわ。雅臣が好きなだけ選んでいいって。全部、彼の勘定にね」一言で察した彩香は大喜び。「十分で行く!待ってて!」一週間後、山田グループのオフィスにて。明細書を受け取った勇は、中年の支配人を睨みつけた。「なんだと!雅臣が、たった一週間で二十億の消費だと?早川マネージャー、冗談だろう!」早川マネージャーは額の汗をぬぐいながら答える。「......間違いございません。これはすべて、神谷さんが山田グループ傘下の店舗で使われた金額です。以前、神谷さんの支出はすべてこちらの勘定に回せ、とおっしゃいましたので......」彼が来たのは督促のためだ。数千万なら猶予もきくが、これは二十億。勇の会社全体でも、一年で稼げるかどうかの額である。勇は父から起業資金を受け取り、いくつかの子会社と組んでやってきた。雅臣や航平の助力で順調に伸び、いよいよ来年、父の還暦にあわせて山田グループを継ぐ予定だ。だが――神谷家のように単純
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第274話

人を目覚めさせるのは――利益だけだ。そろそろ勇にも、きちんと現実を思い知らせてやるべきだ。彩香は首をかしげた。「でも勇って、星と雅臣の離婚を一番望んでたんじゃないの?なのに、どうして今さら邪魔してくるの?」星はガラスケースの中のジュエリーを眺めながら答える。「たぶん、私が幸せになるのが気に食わないのよ。いつまでも神谷家の召使いでいてほしいんでしょうね。......もちろん、もう一つ可能性がある」「もう一つ?」「航平が、私を騙してる」「それはないでしょ」彩香は即座に否定する。「航平は頭の切れる人よ。わざわざすぐにバレる嘘をつくなんてあり得ない」だがすぐに眉を寄せる。「でも......用心するに越したことはないわ。もし本当に嘘だったら?」星は淡々と笑った。「それでもいいの。正直、私は前から勇が大嫌いだったの。ちょっと痛い目を見てもらうだけ」この数年、勇は神谷グループの取引や利益を散々受け取ってきた。もし雅臣や航平の助けがなければ、彼の会社なんてとっくに破産していたはずだ。雅臣がどれだけ支えてきたことか。その借りに報いるため、雅臣が山田グループ系列の店を使う時は、すべて勇の勘定で落としていた。だが雅臣は服もオーダーメイドで済ませることが多く、たまに勇の経営する遊興施設を訪れる程度。せいぜい数千万、多くても数億程度。勇にとっては痛くも痒くもない。けれど――二十億ともなれば話は別だ。彩香は思わず吹き出した。「確かに、いい薬になるわね」あの勇に、星の離婚を邪魔させる?笑わせる。それに雅臣までが星を計算に入れようとしている。――なら、痛い目を見て当然だ。勇は分厚い数十枚の明細書を抱えて、雅臣のもとに怒鳴り込んだ。「雅臣!あの女、やりすぎだ!うちの山田グループ系列の店で買い漁って、全部俺の勘定につけやがった!」声は怒りで震え、目は血走っている。「わかるか?たった一週間で二十億だぞ!丸々二十億!」荒い息遣いに、胸は上下を繰り返す。「しかも、あいつ......山田グループの他の会社でも散財してやがる!あの兄弟どもの経営する店でも!」山田家では、子供が成人するとそれぞれに会社を分け与えられ、手腕を競わせ
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第275話

「兄さん、あんたの友人の妻が、うちで十億もツケにしたんだ。忘れずに精算してくれよ。俺はね、人にツケなんて絶対許さない主義なんだ。でも――相手は兄さんの大事な友人の妻だから、顔を立ててやったんだぜ?」「聞いたぞ、最近株で大損したらしいな。この十億、払えないなら、俺は父さんに直接請求する。従業員の給料も、これで払わなきゃならんのだからな」――玄からの電話だった。続いて、同母の姉・山田璃子(やまだ りこ)からも電話が入る。「勇、あんたの友人の奥さんが、この前うちで六億ツケたのよ。神谷雅臣の支出は全部あんたが払うって言ってたわね。だから、私も面子を立ててツケにしたの」「六億、大した額じゃないと思うかもしれないけど......会社の状況は知ってるでしょ?これがないと資金繰りがもたないの。三日以内に返してくれなきゃ、お父さんに借りるしかないのよ」星は、勇の店で四億。玄の店で十億。璃子の店で六億。合わせて二十億。しかも、玄は宿敵。払わなければ必ず父に告げ口して揺さぶりをかけてくる。璃子は頭が弱く、会社は破綻寸前。彼女の店で星が浪費したなら、金を出さなければ兄としての面子が立たない。星は――まさにこの二人を狙い撃ちにしたのだ。勇は歯噛みする。「あのゲス女......なんて腹黒い!」雅臣は眉を寄せた。「......彼女の買い物が、神谷グループじゃなく、山田グループ系列の店で?」「間違いない!」勇の歯茎から血がにじみそうなほど強く噛み締める。「もう人をつけて監視させてる。星は神谷夫人を名乗って、買い漁ってるんだ!」実際、数日前に彼は人を送って星を止めさせたことがある。だが星は即座に警察を呼び、「不法に人身の自由を奪われた」と訴えた。仕方なく、自分の店には「誰であれ、ツケは不可」と通達した。だが――星は今度、玄の店に行った。玄は客を拒まない。星が欲しいと言えば、必ず売る。「兄さんの顔を潰せない」と言い訳しながら。勇は直々に玄を止めようとした。だが返ってきたのは――「兄さん、雅臣はおまえの恩人だろ?何度も破産しかけた会社を救ってくれた。じゃあ、その奥さんがうちで買い物したら――喜んで迎えるのが筋ってもんじゃないか?」
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第276話

雅臣は思わず息を呑んだ。星が、ここまで容赦なく振る舞うとは思ってもみなかったのだ。勇は憎々しげに言い放つ。「雅臣、星はもうおまえの名前を使って買い漁ってる。反省なんて一切ない!もう情けをかける必要はないだろう!」「まずは離婚を成立させろ。そして清子の命の薬を取り返すんだ。そのあとで、奴の口座を凍結してやればいい!」ひと呼吸おき、さらに毒を吐く。「どうせあいつは働きたいんだろ?俺とおまえ、それに鈴木家が動けば、この国であいつに居場所なんてなくなる!仕事もなく、金もなければ......必ず泣きついて戻ってくるさ!」今の勇にとって、「星を苦しめること」よりも「自分が破産しないこと」が先決だった。雅臣は黙考し、やがてスマホを取り上げた。コールが途切れる直前で、ようやく繋がった。「何か用?」受話器越しに届いた星の声は、あくまで淡々としていた。雅臣が口を開こうとした瞬間、別の声が割り込んだ。それは、耳に馴染みのある、いやにへつらう調子だった。「これはこれは、奥さま!いやぁ、歓迎が遅れてしまって申し訳ありません。神谷夫人にお越しいただけるなんて、我が須藤グループにとって光栄の至りです!」「どうぞ、何でもお好きなものを。すべて私からの贈り物と思ってください。その代わりといってはなんですが......神谷社長に、ほんのひと言でも私のことを取り上げていただければ」星の声は穏やかで柔らかい。「わかりました。お約束します」「本当ですか!いやぁ、ありがたい!どうぞどうぞ、こちらへ!奥さまにふさわしい品は奥のフロアにございます。こんな安物など、奥さまには似合いません!」「お気遣いありがとうございます」「いえいえ!これから神谷グループと手を組めるなら、もう私どもは一家も同然ですから!」――その声を聞いた瞬間、雅臣のこめかみがぴくりと跳ねた。胸に嫌な予感が走る。「......星。おまえ、今どこにいる?」「ショッピングしてる」その何気ない答えに、雅臣の声音は冷えきった。「どこでだ?今話していた相手は誰だ!」「どこって、ショッピングモールに決まってるでしょ」星は微笑を含ませて答える。「さっきの人......名前は確か、須
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第277話

「たいした額ではありません。およそ六億ほどです。ただ――」誠は言いよどみ、雅臣の顔色をうかがった。「言え」低く冷えた声が落ちる。「調べたところ、奥様は競合他社だけでなく、協力関係にある取引先でも消費していました。競合や取引先ならば勘定を清算すれば済みますが......奥様は、関わるべきでない相手の会社でも買い物をしておりまして。買い物自体は問題になりません。ただ、相手側が我々が友好の意思を示したと誤解すれば、厄介なことになります」――「神谷夫人」の顔を立てぬ者など、いるはずもない。たとえ競合であっても、全面的に敵に回すことは避ける。こうして星は、この数日間、「神谷夫人」の名を名乗り歩き、誰一人として断る者のいない、最も効果的な「肩書きの使い方」を会得していた。報告を聞いた勇の目は、今にも飛び出しそうなほど見開かれた。――星は自分だけでなく、雅臣までも嵌めていたのだ。「雅臣、あの女はおまえの名を騙って好き放題だ!完全におまえの顔に泥を塗ってるじゃないか!」言われずとも雅臣にはわかっていた、星がわざとやっていることは。こめかみを揉み、頭痛を堪える。金銭の問題ではない。厄介なのは人との義理だった。強引に拘束すれば、星はすぐ警察に駆け込み「不当な監禁だ」と騒ぎ立てるだろう。だが放置すれば、どんな大事に発展するか知れたものではない。その時、勇が口を開いた。「雅臣、離婚手続きも残りわずかだ。先に離婚を済ませろ。これ以上あちこちでおまえを貶められる前にな。清子の薬を取り戻したら、あとは俺がどうとでもしてやる」勇の目が陰毒に光る。「奴は何の力も持たない。どう足掻こうが俺たちに勝てるはずがない。影斗が手を貸したとしてもな。離婚歴のある女一人に、あの男が全てを投げ出すとでも?」「俺たちには航平もいる。この街で俺たちに敵う者などいない」雅臣の瞳は深い闇を湛え、指先が机を静かに叩いた。長い沈黙ののち、彼はようやく口を開いた。「......帰れ。山田グループでの消費分は、俺が補填する」勇は「その必要はない」と言いかけたが、今の自分の窮状を思えば、黙るしかなかった。ちょうどその頃。星は彩香と並んで買い物をしていた。そこへ電話が入る。
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第278話

彩香は星の隣に立ち、周囲をきょろきょろと見回した。「星、雅臣は来ると思う?」星は少し考えてから答える。「清子が余計なことをしなければ、来るはずよ。だって、この間ずっと私が神谷夫人の肩書きを振りかざして、彼にさんざん迷惑をかけてきたんだから。もうわかっているはず。これ以上引き延ばしたところで、彼にとっては何一つ得がなく、損しかないって」この期間、星は神谷グループ直営の店以外、ありとあらゆる高級ブティックに足を運んでいた。店に入るなり真っ先に店長を呼ばせる。品のある雰囲気を漂わせる彼女に、サービス係も気を抜かず、すぐさま責任者を呼び出す。星は多くを語らず、淡々と告げるのだ。「私は神谷雅臣の妻です。ここでの買い物はすべて、彼につけてください。請求書は神谷グループに回せばいいわ」神谷夫人と聞いた途端、態度は一変。店長の顔には恭順と媚びが浮かぶ。星は、競合他社に出向けば冷たい仕打ちや門前払いを食らうと覚悟していた。ところが――友好的な取引先であれ、敵対するライバルであれ、彼らは一様に熱烈な歓待を見せた。雅臣との縁を望む企業の責任者が直々に駆けつけることすらあり、至高のVIPカードを差し出してくる者までいた。――商人というものの度量には、驚かされる。思考をめぐらす星を、彩香の鼻白んだ声が現実に引き戻す。「ふん、全部あの雅臣たちが人でなしだからよ。雅臣が最初から素直に離婚に応じてれば、私たちだってこんな手は使わなくて済んだのに」そう吐き捨てると、彼女は辺りを見回し、声をひそめた。「幸い航平が教えてくれたから助かったけど......危うく連中の企み通りになるところだったわ。思い出すだけで腹が立つ!」「勇の考えることは、本当に卑劣すぎるわ。離婚手続きの最終日に、わざと事故を起こして雅臣を行かせないようにして、手続きを無駄にするなんて。次の手続きを予約し直しになるし、何度もすっぽかせばシステムにブラックリスト入り。二度と予約すらできなくなるかもしれないんでしょう?本当に最低!」星の唇に、ぞっとするような冷たい笑みが浮かんだ。「残念ね。彼らの計画は失敗したわ」「そうよね!」彩香は勢いよく頷いた。「星、あなたが機転を利かせてくれたから助かったのよ。
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第279話

二人が話し込んでいると、不意に星のスマホが鳴った。彩香が緊張した面持ちで視線を向ける。「まさか雅臣、また何か企んでるんじゃないでしょうね?」星は画面を確認し、発信者の名を見てわずかに眉を動かした。――神谷綾子。少し逡巡したものの、結局通話ボタンを押す。もし雅臣が本当に来られない理由があるなら、早めに知っておくべきだった。受話口から響いてきたのは、冷ややかで高圧的な声。「星、翔太が熱を出したの。今すぐうちへ戻って看病しなさい」言葉の調子は、いつものように命令めいている。星は淡々と答えた。「病気なら医者にかかればいいでしょう。私は医者じゃないです。私に言われても無駄です」綾子は思わず声を荒げた。「あなたは翔太の母親なのよ!それなのに、そんな冷血で情のないことを言うなんて!」「私と雅臣はすぐに離婚します。翔太は神谷家に引き取っていただくことになっているので、今後何かあっても私に連絡してこないでください。もちろん、もしあなた方が翔太の親権を放棄するおつもりなら、すぐにでも迎えに行きますが」「離婚?」綾子の声が裏返る。「あなたたち、離婚するの?」「ええ。あと五分で、雅臣が市役所に来る予定です」その一言に、綾子の胸に湧き上がったのは落胆ではなく、抑えきれぬ喜びだった。長年疎ましく思っていた女が、ようやく家から出て行く。これほど痛快なことはない。もし翔太が熱を出し、「お母さん」と呼んで泣かなければ、彼女は星に電話などしなかっただろう。夜通し付き添うのなら、母親の方が小間使いよりも便利。――無料の看護婦なら、使わない手はない。だが、予想外の朗報が飛び込んできた。息子がようやく離婚する。これこそ祝うべき出来事ではないか。「前から言っていたでしょう。あなたのような中卒の女が、うちの雅臣に釣り合うはずがないって。離婚は時間の問題だったのよ」綾子の声には冷笑が滲む。「翔太を産んだことだけは評価してあげるわ。だから忠告しておく。これから先、翔太に二度と近づかないことね。あなたのような、学も後ろ盾もない、子どもを利用してのし上がった女は......翔太にとって汚点にしかならないのだから」そう言い捨てると、彼女は冷たく電話を切った
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第280話

しかし、雅臣の背後に並ぶ二人の姿を目にした途端、彩香の表情がさっと変わった。「あれは......勇っていう取り巻きと、清子――あの白々しい清楚ぶった女じゃない。どうして一緒に来てるのよ?」星は静かに微笑む。「きっとお祝いに駆けつけたんでしょうね」やがて雅臣が歩み寄り、端整な顔立ちは水面のように静まり返り、余計な感情を映さない。「持ってきたか?」星は頷いた。「証明書類なら全部そろってるわ」「俺が言っているのは、それじゃない」その一言に、星は彼の背後で微笑を浮かべる清子へと視線を流し、ふっと唇を上げた。「小林さんのお薬のことなら、ちゃんと持ってきたわ」そう言って彩香の手から袋を受け取る。「手続きを済ませて、残金を振り込んでもらえれば、すぐにでも渡すわ。言った通り、きっちりとね」雅臣が受け取ろうと手を伸ばした瞬間、星はすっと身を引いた。「手続きも、入金も済んでいないうちは渡せないわ」彼は伏し目がちに彼女を見つめる。燃えるような赤のドレスに包まれたその姿は、白く透きとおる肌としなやかな肢体を際立たせていた。彼の記憶にある妻は、いつもくすんだ影をまとい、地味な色ばかりを身につけていたはずだ。けれど今――まるで色を奪われた白紙が、鮮やかな七色に染め上げられたかのように、生き生きと輝いている。本心を言えば、雅臣は離婚など望んでいなかった。星は良き妻であり、良き母でもあった。五年の結婚生活で熱烈な愛情こそ育たなかったが、それでも情はある。何より翔太のために、安定した家を守りたかった。だが清子の命がかかっている以上、見捨てることはできない。結婚生活と命を天秤にかければ、答えは明白だ。――とはいえ、星は逃げられない。翔太という鎖がある限り。今は彼女に冷静に反省させればいい。清子の件が片付けば、再びやり直せばいい。彼にはそれだけの自信があった。だからこそ、子の母である彼女に、もう一度だけ機会を与えるつもりで言う。「離婚を取り下げるなら、約束した条件はそのまま守る。お前の仕事の後押しもする」言い終える前に、背後から勇が焦った声で割り込んだ。「雅臣!そんな女に情けをかけるな!こいつはお前の名義を使ってやりたい放題だ、どれだけ被害出たと思ってる!
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