All Chapters of 離婚届は即サインしたのに、私が綺麗になったら執着ってどういうこと?: Chapter 171 - Chapter 180

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第171話

「よかった!」遥香の目に涙がにじみ、声が震えた。「これがあれば、きっと……」言葉を最後まで言い切る前に、別荘の外から突然騒ぎが起こり、鼻を突く煙の臭いとパチパチと燃え盛る音が一気に押し寄せてきた。「火事です!」外からボディーガードの慌てふためく声が響いた。修矢の顔色が一変し、遥香の腕を掴んだ。「逃げるんだ!」濃い煙が窓や扉の隙間から怒涛のように流れ込み、外では炎が天を赤く染めて燃えさかっていた。別荘の電気系統は瞬時に切断され、あたりは漆黒の闇に沈んだ。二人は手探りで外へ向かおうとしたが、主要な出口はすでに炎に閉ざされていた。熱波が肌を灼き、煙が喉を突く。遥香は煙に激しくむせて咳き込み、視界がどんどん霞んでいった。朦朧とする意識の中で、目の前の光景は、何年も前に修矢の母を呑み込んだあの大火と重なり合って見えた。修矢が燃え落ちた建材に直撃され、うめき声をあげて倒れるのを、遥香ははっきりと見た。「修矢さん!」遥香は悲鳴を上げ、考える間もなく全身の力を振り絞り、半ば引きずるようにして彼を比較的安全な隅へと運んだ。彼女の腕は炎に焼かれ、髪の毛も何筋か焦げていた。だが痛みなど感じる暇はなく、ただひとつ――彼を連れ出すこと、それだけが頭を支配していた。絶対に助け出すのだ。ほとんど限界に達しかけたその瞬間、消防士たちがドアを破って飛び込み、二人は救い出された。別荘の外の芝生に倒れ込み、遥香は焼け落ちて原型を留めない建物を見つめた。その視線の先、夜の闇に紛れて静かに走り去る都心のナンバーの黒い車があった。胸の奥に冷たいものが広がる。尾田政司だ――間違いない。彼は別荘を焼き払い、証拠の入ったUSBメモリまで灰にしたのだ。修矢は病院へ搬送されたが、検査の結果、大きな問題はなく、軽い外傷と軽度の脳震盪だけだった。意識が戻った修矢の目に映ったのは、ベッドの傍らに座る遥香の姿だった。腕には簡単な包帯が巻かれ、顔には煤がこびりついていたが、その瞳だけが異様なほどに明るく輝いていた。その瞬間、何年も心の奥に埋もれていた火災の記憶が鮮明によみがえった。彼女だった!あの時、自分を救ったのは柚香ではない。――遥香だった!ずっと胸の奥で疑っていたことが、ついに確信へと変わった。「遥香……」修矢はかすれた声で彼女の手を掴
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第172話

修矢は携帯を握りしめ、力が入りすぎて関節が白く浮き出ていた。画面に映る「尾田政司」という名前は、冷たい烙印のように彼の神経を焼きつけていた。政司は正真正銘の狂人だった。すでに亡き芙美子のために、執着はすべてを歪め、実の息子さえ犠牲にしかねない。今や柚香という存在が政司の感情の拠り所となり、彼は手段を選ばず守ろうとしている。修矢は目を閉じ、深く息を吐いてから再び目を開いた。荒れ狂う感情の波は無理やり押し込められ、残ったのは死んだように静かな平穏だった。慌てるわけにはいかない。崩れることも許されない。遥香はまだ外で、自分を待っている。父の脅しを、絶対に現実にしてはならなかった。この狂人は、証拠さえ焼き払えば柚香を安穏に守れるとでも思っているのか。尾田グループの権力を振りかざせば、自分を屈服させられるとでも。だが彼は自分を理解していない。ましてや、遥香を甘く見ている。一見おとなしく見えるが、芯の強いあの女性は決して他人の思い通りになどならない。病院の廊下。遥香は病院の下にある定食屋で夕食を買い、戻ってくる途中でナースステーションの前を通りかかった。そこで小さな声で交わされる看護師たちの噂話が耳に飛び込んできた。「聞いた?尾田グループのあの社長、取締役会から追放されたらしいよ!」「本当なの?そんな大事件?」「間違いないって!内部でも大騒ぎになってるらしいよ。親父さんの仕業で、あっさり解任されたんだって!」「さすがお金持ちの家は修羅場ね。父親でもそんなに容赦ないの?」遥香はその場で固まり、手にしていた容器を落としそうになった。修矢が……尾田グループを解任された?彼女はすぐにスマホを取り出し、震える指で経済ニュースを開いた。画面いっぱいに溢れ返る速報が、看護師たちの噂が単なる根拠のない話ではないことを示していた。尾田グループは公式に公告を発表していた。――修矢は「個人的な理由」で社長職を辞し、父の政司が再び経営を引き継ぐと。その文章は冷徹で事務的なものだったが、その裏に潜む権力闘争の刃を、遥香は瞬時に悟った。あの突如として襲った火災で、政司が焼き尽くしたのは柚香の罪を示す証拠だけではない。修矢が尾田グループに築いてきた根基までも、灰に帰してしまったのだ。道理で以前、修矢が柚香の数々の行いに対
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第173話

遥香は動きを止め、気持ちを整えて淡い笑みを浮かべた。「大丈夫よ。お粥が少し熱かったから、冷ましてあげるわ」彼女はお碗を修矢の前に差し出したが、視線を合わせようとはせず、伏せた睫毛の先でお碗から立ちのぼる湯気をじっと見つめていた。修矢はお碗を受け取らず、ただ静かに彼女を見つめ続けた。病室は不気味なほど静まり返り、保温容器から漂う料理の香りと窓の外から差し込む淡い光だけが空気の中に流れていた。じっと見つめられ、遥香は居心地の悪さを覚え、指先をわずかに縮こませながら、無理に笑みを作った。「早く食べて。冷めたら美味しくなくなるわ」男はゆっくりと、異様なまでに平静な声で口を開いた。「全部、知ってるのか?」遥香の心臓が激しく跳ね、顔を上げると、その瞳に吸い込まれるように見入った。そこには彼女が想像したような挫折の色はなく、ただ底の知れない冷静さだけがあった。彼女は唇を開き、慰めの言葉をかけようとした。だが今、どんな言葉も空虚に響くだけだと悟った。「うん」遥香は静かに頷いた。男は落ち着き払ってお碗を受け取り、スプーンでゆっくりと粥をすくい、優雅に口へと運んだ。その仕草は気品に満ち、まるで解任されたのが自分ではないかのようだった。「解任くらい、どうってことない」彼は淡々と告げた。「ちょうど自由の身になった。もう誰にも口出しされない」遥香の胸は、ぎゅっと締めつけられた。自由の身?尾田グループは、修矢が荒波の中から立て直し、頂点へと押し上げたビジネス帝国だった。血と汗を注ぎ、昼夜を戦い続けた場所だ。どうして無関心でいられるだろう。ただ彼は、自分に余計な心配をかけたくなかっただけなのだ。遥香の鼻の奥がつんと熱くなり、涙がまた溢れそうになった。結局のところ、全ては自分のせいだ――彼女は慌てて顔を背け、ベッドを整えるふりをしながら、くぐもった声で言った。「少し休むのもいいわ」修矢はやわらかく笑った。「仕事がなくなったら、君が養ってくれるのか?」こんな時になっても、彼には冗談を口にする余裕があった。その時、病室の扉が再びノックされた。ジャケット姿の淳一、風霜にさらされたような顔で入ってきた。「尾田社長、川崎さん」淳一は二人がいるのを見て、早足で近づいた。「尾田社長が怪我をされたと聞きましたが、大丈夫ですか?
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第174話

男は声を聞いて振り返り、遥香を見た。彼女は彼を見つめながら、かけようとした慰めの言葉をのみ込んだ。彼には同情や憐れみは必要ない。遥香は深く息を吸い、目を固く据えて言った。「尾田グループがなくなっても大丈夫。あなたなら次の商業帝国を築ける」修矢の瞳がわずかに収縮し、心の奥底が震えた。遥香の言葉は、水面に石を投げ込むように、彼の静まり返った心に波紋を広げていった。彼が何かを口にしようとしたその時、病室のドアが不意にノックされた。重すぎず軽すぎない三度の鈍い音が、二人の張り詰めた神経を直撃した。遥香は無意識に半歩下がり、修矢との距離を取った。入り口に現れたのは、仕立てのよい濃色のスーツを着た男だった。髪は一筋の乱れもなく整えられ、顔には程よい心配の色を浮かべていたが、その思いは目の奥にまでは届いていなかった。現れたのは、政司だった。修矢の体は一瞬で強張り、病室の空気は氷のように冷え込んだ。「修矢、体の具合はどうだ」政司は歩み入り、修矢の包帯を巻いた腕にほんの一瞬だけ視線を落とした。「会社のことは心配いらない。俺が見ている。お前はしっかり養生しなさい」その言葉は、偽善に満ちていて吐き気を催すほどだった。修矢は口元をわずかに引きつらせ、嘲りを含んだ弧を描いたが、言葉を返すことはなかった。政司は気に留める様子もなく、ようやく傍らの遥香に視線を移した。その偽りのやさしさはすぐに薄れ、代わりに探るような冷たさが滲んだ。「川崎さんもいたのか」声は淡々としていたが、どこか高圧的な響きを含んでいた。「修矢の怪我で、ご苦労をおかけしたね」遥香はその視線を正面から受け止め、卑屈にもならずに答えた。「お気遣いなく。修矢さんとは夫婦……友人ですから、お互いに世話をするのは当然です」政司はゆっくりとベッド脇の椅子に近づき、指先で軽く叩きながら言った。「川崎さんは賢い方だ。過ぎたことは過ぎたこととして流すべきだ。若い者が執着しすぎるのは、お互いにとっても良くないことだ」遥香の胸に冷たいものが走った。これは警告だと、すぐに悟った。柚香の件をこれ以上追及するなという無言の圧力だった。「尾田さんがおっしゃるのは、どんなことですか」遥香はわざとわからないふりをして、まっすぐに視線を返した。「私にはよく理解できません」政司はか
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第175話

彼は一拍おいて、刃のような視線を政司に突き刺した。「あの誘拐事件で俺を救ったのは、柚香じゃない」政司は眉をひそめ、明らかに意外そうな顔をした。修矢の視線は遥香へと移り、その冷たい輪郭がほんのわずかに和らいだ。「俺を救ったのは彼女だ。遥香だ」病室は一瞬にして静まり返った。遥香の心臓が一拍、跳ね落ちる。政司は数秒間修矢を見つめ、それから不意に笑い出した。その笑い声は低く不気味で、強い軽蔑と嘲りを含んでいた。「修矢、熱で頭がおかしくなったのか」政司は首を振り、駄々をこねる子供を見るような目を向けた。「柚香と縁を切るために、そんな作り話まで始めたのか?遥香だと?あの時あの子がどこにいたというんだ。どうしてお前を救えたんだ?」政司はまったく信じていなかった。というより、信じたくなかった。彼の心の中では、柚香こそが命の恩人であり、修矢を牽制する手段であり、さらに歪んだ感情の拠り所の一部でもあった。その事実を覆されることなど、彼には絶対に許せなかった。「これが嘘かどうかは、父さんが一番よくわかっているはずだ」修矢の声は再び氷のように冷えた。「柚香をかばうのは、結局何のためだ」政司の顔から笑みがすっかり消え、代わりに陰険な色が浮かんだ。「俺のことに口を挟むな。身の振り方を誤るなよ。柚香のことをこれ以上蒸し返すな、それ以上彼女を巻き込むこともな」政司の視線は最後に遥香の顔に止まり、そこには隠しようのない警告と脅しがはっきりと宿っていた。「触れてはならない人間と事柄がある。さもなくば、その報いは自分で負うことになる」そう言い捨てると、彼は一瞬もためらわず病室を大股で出て行った。まるでここに一秒でも長くいることが汚らわしいとでもいうように。ドアが閉まった瞬間、張りつめていた息苦しい圧迫感がようやく薄らいだ。だが遥香の体には冷えが走り抜けた。政司の最後の眼差しは、もし自分と修矢がこれ以上追及を続ければ、彼が本当に手段を選ばなくなるだろうと確信させるものだった。修矢は顔色の悪い遥香を見つめ、先ほど政司に向けていた冷徹さをすっと消した。「怖かったか?」とかすれた声で問いかけた。遥香は首を振り、無理に笑みを浮かべて言った。「平気よ」「すまない」修矢は彼女を見つめた。「もっと早く、君だと気づけなくて」「気にしないで
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第176話

遥香が突然口を開き、彼の言葉を遮った。修矢は一瞬、呆気にとられた。「今、なんて言った?」遥香は顔を上げ、彼を真っすぐに見つめた。その澄んだ瞳には揺るぎない決意が宿っていた。「修矢さん、もう調べるのをやめよう。ね?」その声にはかすかな震えが混じっていた。「怖いの」「何が怖いんだ?」修矢は眉をひそめた。「俺がいるのに……」「怖いのはあなたなの!」遥香の感情は高ぶり、声も荒くなった。「尾田さんは狂人よ!さっきの彼の様子を見てなかったの?柚香のためなら、実の息子であるあなたさえ切り捨てる。そんな人間にできないことなんてある?」彼女は修矢の無傷の腕をつかみ、その指は力がこもりすぎて白くなっていた。「尾田グループの社長の座なんて要らない。それなら一からやり直せばいい。ハレ・アンティークだって稼げるし、お金に困ることはない。でも、あなたの命は一つしかないのよ!たかが柚香を調べるために、自分の命を懸けるなんて……そんな価値があるの?!修矢さん、もうやめよう」遥香の声には揺るぎない決意が込められていた。彼女は修矢をこれ以上巻き込みたくなかった。自分一人でひそかに続けるつもりだった。修矢の心は、見えない大きな手に締めつけられるように、痛みに耐えきれず呼吸すら苦しくなった。「怖がるな」「俺なら大丈夫だ」と言いたかった。だが、涙に濡れて揺れる遥香の瞳を見た瞬間、言葉はすべて喉に詰まって出てこなかった。病室に残ったのは、遥香の抑えた呼吸と、窓の外から入り込む微かな風の音だけだった。「……わかった」長い沈黙ののち、修矢は自分のかすれた声を聞いた。「調べるのはやめる」彼女のために、今はやめると決めた。だが胸の奥にくすぶる怒りと悔しさは消えてなどいない。ただ深く押し込められ、時を待っているにすぎなかった。遥香の全身から一気に力が抜け、彼の腕を握る指も緩んだ。しかし涙だけは堪えきれず、頬を伝ってこぼれ落ちた。修矢は傷のない手を上げ、ぎこちなくもそっと彼女の頬を伝う涙を拭った。その小さな仕草ひとつで、二人の間の空気は一変し、どこか微妙なものに変わった。政司は修矢の病室を出たあと、すぐに都心へ戻ろうとはせず、海城へ来た最大の目的である柚香の見舞いのため、車を走らせて彼女の入院する病院へ向かった。病室では、柚香がベ
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第177話

「でも私は自分の心を抑えられないんです。おじさん……芙美子さんが天から見ていたら、きっと私のことを情けないと思うでしょうか」その言葉の一つ一つが、政司の心の奥を鋭く突き刺した。芙美子は、彼の心の中で唯一の柔らかさであり、逆鱗でもあった。柚香が自分を芙美子に重ね合わせ、こんなにも哀れで自責の態度を示したことで、政司が抱いていたわずかな疑念は一瞬にして消え失せた。残ったのは、彼女への憐れみと、修矢や遥香への不満だけだった。「馬鹿なことを言うな!お前が情けないわけがない」政司は声を上げた。「お前はただ優しすぎるんだ!芙美子が知ったら、お前を可哀そうに思うだけだ。安心しろ、俺がいる限り、お前に辛い思いはさせない!」傍らに立つ川崎の両親は、この光景を見て複雑な表情を浮かべた。どれほどこの養女を可愛がってきたとしても、さすがに何かがおかしいと感じずにはいられなかった。やがて政司は柚香の言葉にすっかり満足し、「修矢をきっちり叱ってやる」と約束し、さらに「お前のために正義を示す」とまで言い残して去っていった。その後でようやく、川崎の両親は柚香のもとへ歩み寄った。「柚香」母はためらいながら口を開いた。「尾田社長は……あなたに少し優しすぎるんじゃない?」父も眉をひそめて言った。「尾田社長と修矢くんは親子なんだ。こんなことをすれば、二人の関係がますますこじれるんじゃないか?」「それに……柚香」母はため息をついた。「修矢はあなたにそんな気がないの。執着しても仕方ないわ。無理に手に入れようとしても、幸せにはなれないのよ」柚香は両親の言葉を聞き、顔から弱々しさがすっと消え、代わりに傷つき、信じられないという色を浮かべた。「パパ?ママ?」彼女は大きく目を見開き、再び涙をあふれさせる。「どういうこと?二人も私を信じてくれないの?もう愛してくれないの?」彼女は勢いよく立ち上がり、泣き声を含んだ声を張り上げた。「私だって被害者よ!ただ自分のものを取り戻したいだけなのに、何が悪いの?」父と母は、激しくも哀れな様子の彼女を前に、言葉を失った。何かを言おうとしても言葉が見つからず、結局は互いに目を合わせ、無力なため息に変わった。柚香は二人の沈黙を見て、心の中で冷ややかに笑った。だが顔には、ますます哀れげで傷ついた表情を浮かべていた。失っ
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第178話

遥香が顔を上げると、保がドア枠に肩を預け、目元に戯けた笑みを浮かべていた。空っぽの前室をぐるりと見回し、再び遥香へと視線を戻す。「どうも、少しばかり寂しい店構えのようだな」遥香は道具を置き、ルーペを外して立ち上がった。「鴨下社長、わざわざお越しとは。ご用件は?」この協力相手に対し、遥香は好きでも嫌いでもなかった。腕も才覚もあるが、あまりに気ままで掴みどころがないのだ。保は室内へと足を進め、高価な古彫刻に目をとめながら言った。「いや、特に用というわけでもない。通りすがりに立ち寄ってな、ついでに川崎社長と一つ商談でもと思ってな」やがて展示ケースの前に立ち、中の瑞々しい輝きを放つヒスイの原石を指差した。「これはいいな。買わせてもらおう」遥香は淡々と答えた。「申し訳ありませんが、鴨下社長。ハレ・アンティークはただいま人手不足で、販売は中止しています。現在は修復のご依頼だけを承っています」保は眉を上げ、いくらか意外そうに言った。「販売を中止?川崎社長、何かお困りごとでも?」もちろん、承知の上での言葉だった。彼は遥香に歩み寄り、わずかに身を傾けて、探るような含みを帯びた声で言った。「もし資金の問題なら、微力ながら俺が力になれるかもしれないよ。あるいは他の厄介事でも、俺に話してくればいい。都心では、俺でも多少は顔が利くから」距離が近すぎて、遥香は不快そうに眉をひそめ、一歩後ずさった。その時、ひとつの影がふいに遥香の前に立ちふさがった。修矢はいつの間にか揺り椅子から立ち上がっていた。まだ部屋着姿で、傷のせいで顔色は蒼白だったが、長年トップに立ってきた者の威圧感は微塵も衰えていなかった。彼は手を伸ばし、何気ない仕草のように遥香の肩へと置き、自分の背後へと引き寄せた。そして冷ややかな眼差しを保へ向ける。「鴨下社長のお心遣いはありがたい。だがハレ・アンティークのことに、外の人間が口を出す必要はない」保は突然姿を現した修矢を見やり、それから彼の手が遥香の肩に置かれているのを認めると、瞳に浮かんだ戯けた色をいっそう濃くした。「ほう?」保はわざとらしく驚いてみせた。「元夫がどうしてここまで入り込んでいるんだ?」遥香が答える前に、修矢が口を開いた。声は平静だったが、揺るぎない主導権を示す響きがあった。「しばらくここに住んでいる」
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第179話

ただ、遥香の目に触れない角度で、修矢の指先は静かにタブレットの画面を滑っていた。そこに映し出されていたのは「HRK投資」という会社の組織図と、急速に伸びていく投資リターンのデータだった。暗号化されたメッセージウィンドウが立ち上がり、アシスタントの品田からの通知が届く。「社長、ご指示のあった数社のテック系スタートアップの買収はすべて完了しました。『スタートアップ計画』第一段階の資金も投入済みです」修矢の長い指が画面を叩き、返したのは簡潔な文字だけだった。「続けろ」尾田グループを奪われ、遥香の前で落ちぶれた「居候」を装っていても、彼は決して手を止めてはいなかった。失ったものは、別の形で、より速く取り戻すつもりだった。そして、その「HRK投資」の頭文字――H、R、K……修矢の視線は、彫刻の修復に没頭する遥香へとさりげなく注がれる。深い瞳の奥で、何かが静かに揺らめき始めていた。保が去ったあとも、工房の空気は完全には和らがなかった。遥香は、修矢から漂う低気圧のような重苦しさを感じ取っていた。彼が再び揺り椅子に腰を下ろし本を手にしても、その陰鬱さは消えることはなかった。ほどなくして、ハレ・アンティークの管理責任者であるのぞみが扉をノックして入ってきた。「オーナー」のぞみは遥香のそばに歩み寄り、言いよどみながらも明らかな不安の色を顔に浮かべていた。遥香は手にしていた道具を置き、「どうしたんですか?」と尋ねた。のぞみは少し離れたところにいる修矢を一瞥し、声を落とした。「オーナー、倉庫の材料はまだしばらくもちますが……ご存じの通り、最近は商売がほとんどなく、修復の依頼も減っています。ベテランの職人たちも……このままでは……」最後まで言葉にはしなかったが、意味は明らかだった。ハレ・アンティークはいまや出費ばかりが嵩み、一流の彫刻修復師を抱え続けることが大きな負担になっていた。このままではとてももたない。のぞみは遥香を気遣うあまり、この苦しい提案をせざるを得なかったのだ。遥香はほんのわずかに眉をひそめたが、すぐに表情を整え、きっぱりとした声で答えた。「そんな必要ありません。職人さんたちはハレ・アンティークの根幹ですよ。解雇なんて考えられません」「でもオーナー、このままでは……」のぞみは焦りをあらわにした。「帳簿の金が
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第180話

最初、遥香には疑いがあった。こんな時期に突然大口の顧客が現れるなど、どう考えても不自然だったからだ。だが相手の言葉は誠実で、彫刻に対する要求も極めて専門的だった。細部に至るまで非の打ち所がなく、明らかに目利きで金に糸目をつけない人物だった。さらに決定的だったのは、ハレ・アンティークの倉庫に眠る彼女秘蔵の極上素材を指定し、しかも多額の手付金を前払いで口座に振り込んできたことだ。この入金は、まさにハレ・アンティークにとって火急の資金難を救うものとなった。遥香は契約条項と入金の確認を何度も重ね、ようやく胸を撫で下ろした。長い旱魃に降る恵みの雨のように、この思いがけない大口注文は、ここ数日ハレ・アンティークを覆っていた暗雲をいくらか晴らしてくれた。その夜、遥香は久しぶりに気分がよく、自ら台所に立って料理をいっぱいに作った。食卓で、遥香は目を輝かせながら修矢に嬉しそうに伝えた。「今日、大口の注文が入ったの!やっと一息つけるわ。あのOさんは本当に恵みの雨みたい」修矢は箸で料理を取り分け、薄く笑みを浮かべて言った。「そうか。それはおめでとう、川崎社長」「ありがとう!」遥香は力強く頷き、白い頬を興奮でうっすら染めながら言った。「この注文を仕上げれば、しばらくは持ちこたえられるはず」彼女の顔に再び生気が戻っていくのを見て、修矢の気持ちも自然と明るくなった。彼が望んでいたのは、彼女が安心して、心から笑えることだった。そのO氏なる人物など、彼にとっては指先ひとつでどうにでもなる存在だ。新しく立ち上げたHRK投資の名義で注文を出しただけに過ぎない。満ち足りた笑顔を見つめながら、修矢の胸には秘めた満足感が静かに芽生えた。たとえ彼女が知らなくても、彼女がそのおかげで笑ってくれるなら――それだけで十分だった。しかし、その束の間の温もりと喜びは、一本の予期せぬ電話によってあっけなく破られた。その日の午後、遥香が仕事場で作業に没頭していると、見知らぬ市外局番の固定電話から着信があった。彼女は受話器を取り、「もしもし」と答えた。「川崎遥香様でいらっしゃいますか?」電話の向こうから、事務的で感情のこもらない女性の声が聞こえた。「川崎です。失礼ですが、どちら様でしょうか?」遥香は問い返した。「こちら役所の戸籍担当でございま
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