ビジネスホテルの壁越しに、隣室のテレビの音が微かに聞こえた。誰かが笑っていた。尾崎はその声を、はじめは幻聴かと思った。だが耳を澄ませば、言葉の端がはっきりと届く。芸人の甲高い声と、それに続く観客の笑い声。こんな夜にも、画面の向こうでは世界が動いているのだと思った。明日も、昨日のように。
部屋の空調が微かな風を送っている。天井に取り付けられた排気口の羽が、僅かに揺れていた。無音ではない。だが、意味のある音は何もなかった。時計の針が時を刻む音さえも、いまの尾崎には届いていないようだった。
尾崎は、ホテルの小さな机に肘をつき、背中を丸めて椅子に沈み込んでいた。ワイシャツの袖が少し皺になっていることに気づいたが、直そうとは思わなかった。視線は、机の端に置かれた厚い封筒へと落ちている。封はすでに切られており、中には異動辞令と健康管理部からの通知書、その他いくつかの書類が収められていた。読み返すまでもない。そこに書かれている内容は、すでに頭の奥で反芻され、何度も声のない音で繰り返されていた。
「京都支社への異動を命じる」
たった一行。そこにすべてが込められていた。あれほど居たかった東京から、こんなにも静かに追い出されるものなのかと、初めて目を通したときは少しだけ驚いた。だが、すぐに理解した。驚きではなく、むしろ納得だった。自分がここに居続ける理由も、誰かに庇われる価値も、すでにどこにもなかったのだと知っていた。辞令を手にしたのは、二週間前の午後だった。窓の外には強い陽射しがあって、それが妙に乾いた目に痛かった。直属の上司、川端部長の声は、静かで、まるで他人事のようだった。
「しばらく、休んだ方がいい」
そう言った口ぶりには、確かに配慮が含まれていた。言葉の選び方も、声のトーンも、慣れたもので、尾崎が何も反論しないことを知っている人間の話し方だった。「京都支社は今、人手が足りていないからね。ちょうどいいと思う」
部長はそう言った。語尾にかすかな慰めを乗せたその言い回しに、尾崎は「はい」と答える以外の選択肢を思いつけなかった。感情が動かなかったわけではない。ただ、動く以前に、どうやって言葉にすればいいかを忘れていた。静養、という言葉に対する違和感はなかった。むしろ、それは事実だった。東京にいても、もう何もできなかった。会議に出ても声が出なかった。部下の顔を見ると、思考が停止した。デスクに座っても、指が震え、ペンを持つことさえ億劫になった。だから、どこへ行かされても構わなかった。仕事を奪われたわけではない。そう言い聞かせれば、自分の形を保てる気がした。
本当は、逃げだった。だが、それを誰も責めなかった。責められることが、すでに終わっていたのだ。責められもせず、忘れられていくことこそが、もっとも静かな処分だということに気づいたのは、後になってからだった。
椅子から立ち上がり、冷蔵庫のペットボトルに手を伸ばす。水の冷たさが指先に触れたとき、ふと背中を寒気が這った。エアコンは設定温度のままだ。だが、体の芯が冷えていた。口に含んだ水は、味がしなかった。喉を通っていくのを感じながら、それでも渇きは癒えないままだった。
テレビの音はまだ続いていた。誰かが泣いて、誰かが笑っていた。尾崎はリモコンに手を伸ばしたが、途中でやめた。見たところで何かが変わるわけではない。むしろ、余計なものを見てしまうのが怖かった。今の自分には、楽しさも悲しさも、等しく毒になる。
再び机に戻り、辞令の上に無造作にペットボトルを置く。水滴がにじんで、紙に染みを作った。その輪郭を、尾崎はじっと見つめた。形にならない感情が、そこにだけ浮かんでいるように思えた。怒りでも、悲しみでもなかった。もっと曖昧で、もっと鈍い、音を持たない何かだった。
京都。言葉の響きは穏やかだ。遠くて、静かで、自分とは関係のない場所のように思えた。だが、与えられた選択肢の中で、それだけが「生き延びる場所」に聞こえた。いなくなるよりは、まだそこにいるほうがましだった。誰も知らない土地で、誰も尾崎洋を知らない場所で、ただ日々を消化するだけでいいのなら、それは生存だった。
その夜、尾崎は眠らなかった。眠るという行為さえも、どこかで失われた気がしていた。目を閉じれば、職場の風景が浮かぶ。窓際で誰かが笑っている。自分の名前が書かれた書類に、赤い付箋が貼られている。誰かの背中が遠ざかっていく。追いかけようとしても、脚が動かなかった。そんな夢を見そうだった。だから、まぶたを下ろすことができなかった。
代わりに、静かに息を吸って、吐いた。今の自分には、それだけができることだった。京都がどんな場所かも知らない。ただ、そこへ行くということだけが、自分をこの場所から引き剥がすための唯一の手段だった。理由なんてなくてよかった。生きるために、選ばれたことのない選択を選ぶしかなかった。
そして、それでいいと思った。完璧である必要も、正しかったと思われる必要も、もうどこにもなかった。明日、自分がどこで目を覚ますかを考えるだけでいい。誰と関わるか、何を期待されるか、そんなことは後回しでよかった。朝が来れば、電車に乗って、ただそのまま、京都へ行けばいい。
それだけが、自分に許された選択肢だった。選んだというより、残されたものだった。それでも、まだ自分の足で歩けるだけ、マシだった。壊れたままでもいい。静かに生き延びるための場所。それが京都だった。今の彼にとっては、それがすべてだった。
休日の午後。薄く雲がかかった空は、時間の輪郭を曖昧にしていた。太陽の気配はあるのに、陰影のない光が町全体を包み込み、まるで記憶の中の風景のように現実味を失わせていた。尾崎は、ただ歩いていた。目的地はなかった。カレンダーの空白に押し出されるようにして部屋を出てから、もうどれほどの時間が過ぎたのか分からない。観光客で賑わう四条通を避け、気づけば住宅街の奥、細い路地に迷い込んでいた。石畳に覆われた通りは、人ひとりがようやくすれ違えるほどの幅しかなく、両脇には木造の町家が連なっていた。格子戸の内側からは何かの煮物の香りが漂い、どこかの家の風鈴が、風に乗ってかすかに鳴った。耳に届く音すべてが柔らかく、そこには“声”というものが存在していなかった。都会の喧騒とはまったく異なる密度の空気に、尾崎の呼吸もわずかに変化していた。左手のポケットに差し込んだ手が、わずかに湿っていることに気づく。歩いてきた距離がそれなりにあるのだと、ようやく実感した。引っ越してきてからというもの、週末にこうして外へ出ることすら稀だった。理由を探せばいくらでもある。疲労、人目、土地勘のなさ、無気力。だがそれらすべてを並べても、尾崎自身を納得させられるものはひとつもなかった。単に、何もしたくなかったのだ。ただ今日だけは、なぜか足が自然に動いた。路地の奥、ふいに視界の先に揺れる布があった。暖簾だった。白地に、うすく滲むような筆文字で「結」とだけ書かれている。風に吹かれて揺れるその布の下、奥まった場所に静かに建つ町家があった。通りに面した部分は一見何の変哲もない民家のようで、木製の引き戸が閉じられている。だがその上には、小さな看板が釘で留められていた。《茶庭 結》小さく、控えめな金文字がそこにあった。目立たない。けれど、視線を引く。気取らないが、品がある。尾崎はその佇まいに、ふと足を止めた。引き寄せられた、というより、流れ着いたという感覚のほうが近かった。行き先も意味もなく、ただここに立ち止まったという事実だけが、彼の背中を軽く押した。引き戸に手をかけると、木がわずかに軋む音を立てた。思ったよりも軽く、扉は内側へと滑り込んだ。中は思いのほか明るかった。玄関の土間には藍色の敷物が丁寧に敷かれ
古びた木造の階段を踏みしめながら、尾崎は今日もまたあの空気の中へ入っていく準備をしていた。京都支社のあるビルは築数十年の低層建築で、見上げればくすんだガラス窓と所々塗装の剥がれた白壁が、曇り空の下に静かにたたずんでいた。時計の針はまだ十時前。通勤時間を過ぎた町は、どこか間延びしたような静けさを保っている。ガラス戸を引き開けると、すぐ目の前に開けるのは、十五人程度の社員が共有するフロア。木製の仕切りに囲まれたデスクがいくつか並び、その上にはまだ紙媒体が息をしていた。東京本社のようなフリーアドレス制でも、無機質な蛍光灯の明かりでもない。ふわりとコーヒーの香りが流れてくる。壁には近くの神社の祭りのポスターが貼られ、給湯室の前には観葉植物が置かれている。その一つひとつが、どこか人肌を感じさせるのに、尾崎の心には一向に入ってこなかった。「おはようさんです」入口近くのデスクに座っていた松尾が、こちらを見て軽く手を挙げた。尾崎は一拍置いてから、小さく会釈した。「おはようございます」声は喉からまっすぐには出なかった。感情を通さずに押し出すような音。挨拶というより、形式的な通過儀礼のような響きだった。誰に咎められることもなく、尾崎は自分のデスクへと歩く。すれ違う社員たちは、やわらかな関西弁で、日常のやり取りを交わしていた。言葉の端にある丸さと、独特の抑揚が、まるで低い温度の湯のように、空間全体をぬるく包み込んでいる。それは、確かに人を拒まない空気だった。けれど、尾崎にはその温度が怖かった。デスクに腰を下ろすと、椅子の足がわずかに軋む音を立てた。パソコンのスイッチを押し、モニターが立ち上がるまでの数秒間、無意識に自分の手元を見つめていた。ネクタイはきちんと締められ、シャツの袖口もきちんとボタンで留まっている。外見だけ見れば、どこに出しても違和感のない“会社員”だった。だが、自分でも気づかぬうちに眉間に寄った皺と、わずかに強張った口元が、すでにその内側の摩耗を物語っていた。メールソフトが起動し、業務連絡がずらりと並んだ。ほとんどは定型的なものだった。東京にいた頃と比べれば、件数も内容も数段ライトだ。だが、尾崎の指はすぐには動かなかっ
薄曇りの朝。窓の向こうに広がる京都の街並みは、夜の雨に濡れたまま静かに目を覚まそうとしていた。瓦屋根の家々の上を、まだどこか湿った空気が覆っている。遠くの寺の鐘の音がかすかに届いたが、それもすぐに雨粒の記憶に吸い込まれて消えていく。尾崎の部屋は、その外の静けさとよく似ていた。ワンルームの空間は、引っ越してきたばかりの段ボールがまだ半ばほど開けられたまま積み重なっており、家具も最小限しか置かれていなかった。ベッド、ローテーブル、ハンガーラック、そして小さな冷蔵庫。そのすべてが必要最低限で、生活の匂いよりも、まだどこか借り物のような気配を纏っていた。午前七時過ぎ。アラームの鳴る前に、尾崎は目を覚ましていた。眠ったというより、ただ目を閉じていただけのような感覚だった。ベッドから起き上がる動作ひとつにも、力がいる。だが、その力を使い慣れてしまったせいで、自分の内側がどれだけ疲れているかにも、もう鈍くなっていた。薄手のシャツを取り出し、シワを指先で伸ばす。アイロンなどかける気力はないが、皺の目立つ部分だけを丁寧に撫でていく。白いシャツに触れるたび、指先が冷えていくようだった。ジャケットは昨日と同じもの。ネクタイも同じ。組み合わせに意味はない。ただ、それが“仕事に行く”という形に見えればいい。キッチンの隅で、電気ケトルが低い音を立てて湯を沸かしている。その音だけが、今この部屋で生きているものの証のように響いていた。湯が沸き、インスタントのコーヒーをカップに落とす。香りは薄く、色も浅い。だが、そのぬるい苦味が喉を通ることで、ようやく自分が今朝も“ここ”にいるという実感が、かろうじて得られる。洗面所の鏡の前に立つ。蛍光灯の白い光が顔に落ち、くっきりと目の下の影を浮かび上がらせた。髭を剃る手を止め、ふと鏡の中の自分を見つめる。だが、その視線はほんの一瞬で逸れてしまった。鏡の中の顔は、自分であって自分ではないようだった。生気を失った目、乾いた唇、わずかに窪んだ頬。何かを語りかけてくるようなその顔に、耐えられなかった。指先で唇を軽く拭い、髪を整える。コームがすべる音だけが、水の滴る洗面台に交じって消えていく。一言、何か独り言を呟こうとしたが
エレベーターのドアが無音で閉じる。重なり合う金属の線が、わずかに軋んだように感じられたが、耳を澄ませなければ聞き取れないほどだった。照明の落ちた小さな空間に、機械の駆動音がかすかに響く。尾崎は、壁一面の鏡に映る自分の顔を見つめた。無意識に、だ。目がそこに吸い寄せられていた。誰だろう、これ――そんな言葉が脳裏を過った。映っていたのは、スーツ姿の男だった。濃紺のジャケットにしわはない。ネクタイも正しく締められている。だが、その整った外見の中にある顔は、どこか他人のようだった。頬はうっすらと痩せ、目の下にはくっきりとした影が残っている。額の横に、うっすらと白いものが混じった髪が見えた。その影を見つめると、ようやく自分が今三十七歳であるという事実を、久しぶりに意識した。年齢というものを、数字として持っていたのではなく、ただ過ぎていった日々の堆積として纏っていたような気がした。三十七という数字は、何かを成し遂げた証にも、何かを守り抜いた重みとも感じられなかった。ただ、生き延びてきた年数だった。それ以上の意味を探そうとしても、今の自分には荷が重かった。鏡の中の視線と、短く目が合う。だが、すぐに逸らした。見続けていれば、何かがばれてしまう気がしたからだった。エレベーターが一階に到達する小さな振動が、足の裏に伝わった。ドアが静かに開き、朝の光が薄く差し込むロビーが現れた。チェックアウトの客もまだ少ない時間帯だった。誰にも声をかけられることはなく、尾崎はフロント脇の柱を抜けてそのまま出口へと向かった。自動ドアが開き、朝の風が頬に触れた。肌を撫でる風は、まだ夜の冷たさをいくらか引きずっていた。けれど、それは心地よかった。ひと晩中閉じていた肺が、ようやく空気を受け入れた気がした。吸い込んだ空気には、ビルのガラスに染み込んだ雨の匂いと、濡れたアスファルトのにおいが混じっていた。車通りは少なく、人影もまばらだった。街はまだ目を覚ましかけの途中だった。尾崎は、ホテルの脇に置かれていたベンチに腰を下ろすことなく、そのまま歩き出した。新幹線の発車時刻まではまだ一時間以上あった。焦る理由も、急ぐ必要もないはずだった。だが、どうしてもじっとしていられる気がしなかった。体の奥が、どこかそわそわとざわめい
壁の時計が、静かに午前四時半を指していた。秒針の音は部屋のなかでは聞こえず、ただ雨の気配だけが、薄く、遠く、空気の奥に滲んでいた。窓の外にはまだ夜の色が残っていたが、東の空だけが、かすかに白み始めている。黒と青のあいだに差し込むその曖昧な光が、部屋のカーテンの隙間から細く差し込んでいた。尾崎は、ソファに座ったまま身を起こした。いつの間にか、ベッドから移動していたことに気づく。毛布の端が片方だけ膝にかかっており、体を横たえた形跡がそのままクッションに残っていた。目覚めの瞬間というより、意識が浮かび上がった感覚に近かった。睡眠と覚醒の境界が曖昧で、夢からも、現実からも、まだ一歩外れた場所にいるような心地がした。首筋に触れた空気が冷たい。シャツの襟元に手をやると、少し湿っていることに気づいた。窓に近いせいだろうか。あるいは、夢の中で汗をかいていたのかもしれない。体の芯が重く、だるさだけがじわじわと残っていた。けれど、その感覚は不快ではなかった。むしろ、少しずつ現実に戻ってくるために必要な重みのようだった。ゆっくりと立ち上がり、窓際に歩を進める。カーテンを指先で少しだけ押し広げた。ガラス越しに広がる街は、まだ眠っているようだった。ビルの窓はほとんど灯っておらず、車の影もまばらだった。雨は止みかけており、路面に薄く残った水の膜が、街灯の光をぼんやりと反射している。遠くに、清掃車のオレンジ色のランプがゆっくりと移動していた。この街は、もう自分のものではない。そう思った。かつては毎日、ビルと人の群れの中を歩いていた。信号の点滅に合わせて足を速め、エレベーターに乗り込み、会議室に入る。そのすべてが、今はもう何年も前の記憶のように感じられた。わずか数週間前のことなのに、手を伸ばしても届かない距離がある気がした。ガラスに映る自分の姿が、ぼんやりと浮かぶ。髪は乱れており、目の下にはくっきりとした影が落ちていた。それでも、その表情には確かに何かがあった。疲れている。それは否定しようのない事実だった。だが、ただ疲れているだけではなかった。どこかに、静かな決意のようなものが宿っている気がした。自分でもそれが何なのかははっきりとはわからなかった。ただ、何かが終わったのだと、そう感じていた。振り返
視界が、深い墨のような闇に包まれていた。空気は重く湿っていて、どこか遠くで水が滴る音がしている。それが本当に耳で聞いている音なのか、あるいは意識の底で響いているだけなのか、判別がつかなかった。身体の感覚が曖昧になり、重力も方向も失われている。ただ、そこに“在る”という実感だけが、淡く持続していた。何も見えないはずのその暗がりで、ふと手元に光が差す。何の源かもわからない微光が、目の前に浮かぶ一枚のカードを照らしていた。黒い布の上に置かれたそれは、裏返しになったまま、じっとそこにあった。カードの縁はわずかにすり減っており、柔らかな光を吸い込んで、吸ったまま返さなかった。誰かの指先が、それに触れる。細く白い手だ。長い指が、ゆっくりとその一枚をめくる。音はしない。だが、空気が動いた。指が滑るたび、空気に波紋のような揺れが走った。静寂のなかで、最初のカードが表になった。剣の9。画面に描かれた人物は、ベッドの上で顔を覆っていた。背後には九本の剣が壁に並び、夜の闇を裂くように浮かんでいた。見ているだけで、胸の奥に痛みがにじむ。苦悩、罪悪感、眠れぬ夜。そこに映っていたのは、自分自身の記憶の欠片のようだった。指先が次のカードに触れる。ためらいもなく、もう一枚がめくられた。塔。空に向かってそびえる高い建物が、雷に打たれて崩れ落ちている。炎と瓦礫のなかで、人が落ちていく姿。足元の土台が壊れ、積み上げてきたものが一瞬で無に帰す様が、無慈悲な絵で描かれていた。だが、その瓦礫の中にもわずかに光が宿っていた。破壊だけではない、再生の予感のような何かが。三枚目のカードがめくられた。吊るされた男。一本の木に逆さ吊りにされた男が、静かに目を閉じていた。苦悩というよりは、受容と諦念の気配をたたえている。その表情は、どこか神聖さすら感じさせる穏やかさがあった。自ら選んだ停滞。強制ではない、覚悟による静止。それが、何かを超えていくために必要な時間であると告げているように思えた。三枚のカードが並んだあと、指は動きを止めた。空気が、さらに深く沈黙を抱く。闇の中で唯一照らされているのは、まだ裏返されたままのカード。ただ一枚、中央に残されたそれが、次にめくられるはずだった。けれど、その手はし