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口実

Auteur: 中岡 始
last update Date de publication: 2025-06-20 19:32:17

ビジネスホテルの壁越しに、隣室のテレビの音が微かに聞こえた。誰かが笑っていた。尾崎はその声を、はじめは幻聴かと思った。だが耳を澄ませば、言葉の端がはっきりと届く。芸人の甲高い声と、それに続く観客の笑い声。こんな夜にも、画面の向こうでは世界が動いているのだと思った。明日も、昨日のように。

部屋の空調が微かな風を送っている。天井に取り付けられた排気口の羽が、僅かに揺れていた。無音ではない。だが、意味のある音は何もなかった。時計の針が時を刻む音さえも、いまの尾崎には届いていないようだった。

尾崎は、ホテルの小さな机に肘をつき、背中を丸めて椅子に沈み込んでいた。ワイシャツの袖が少し皺になっていることに気づいたが、直そうとは思わなかった。視線は、机の端に置かれた厚い封筒へと落ちている。封はすでに切られており、中には異動辞令と健康管理部からの通知書、その他いくつかの書類が収められていた。読み返すまでもない。そこに書かれている内容は、すでに頭の奥で反芻され、何度も声のない音で繰り返されていた。

「京都支社への異動を命じる」

たった一行。そこにすべてが込められていた。あれほど居たかった東京から、こんなにも静かに追い出されるものなのかと、初めて目を通したときは少しだけ驚いた。だが、すぐに理解した。驚きではなく、むしろ納得だった。自分がここに居続ける理由も、誰かに庇われる価値も、すでにどこにもなかったのだと知っていた。

辞令を手にしたのは、二週間前の午後だった。窓の外には強い陽射しがあって、それが妙に乾いた目に痛かった。直属の上司、川端部長の声は、静かで、まるで他人事のようだった。

「しばらく、休んだ方がいい」

そう言った口ぶりには、確かに配慮が含まれていた。言葉の選び方も、声のトーンも、慣れたもので、尾崎が何も反論しないことを知っている人間の話し方だった。

「京都支社は今、人手が足りていないからね。ちょうどいいと思う」

部長はそう言った。語尾にかすかな慰めを乗せたその言い回しに、尾崎は「はい」と答える以外の選択肢を思いつけなかった。感情が動かなかったわけではない。ただ、動く以前に、どうやって言葉にすればいいかを忘れていた。

静養、という言葉に対する違和感はなかった。むしろ、それは事実だった。東京にいても、もう何もできなかった。会議に出ても声が出なかった。部下の顔を見ると、思考が停止した。デスクに座っても、指が震え、ペンを持つことさえ億劫になった。だから、どこへ行かされても構わなかった。仕事を奪われたわけではない。そう言い聞かせれば、自分の形を保てる気がした。

本当は、逃げだった。だが、それを誰も責めなかった。責められることが、すでに終わっていたのだ。責められもせず、忘れられていくことこそが、もっとも静かな処分だということに気づいたのは、後になってからだった。

椅子から立ち上がり、冷蔵庫のペットボトルに手を伸ばす。水の冷たさが指先に触れたとき、ふと背中を寒気が這った。エアコンは設定温度のままだ。だが、体の芯が冷えていた。口に含んだ水は、味がしなかった。喉を通っていくのを感じながら、それでも渇きは癒えないままだった。

テレビの音はまだ続いていた。誰かが泣いて、誰かが笑っていた。尾崎はリモコンに手を伸ばしたが、途中でやめた。見たところで何かが変わるわけではない。むしろ、余計なものを見てしまうのが怖かった。今の自分には、楽しさも悲しさも、等しく毒になる。

再び机に戻り、辞令の上に無造作にペットボトルを置く。水滴がにじんで、紙に染みを作った。その輪郭を、尾崎はじっと見つめた。形にならない感情が、そこにだけ浮かんでいるように思えた。怒りでも、悲しみでもなかった。もっと曖昧で、もっと鈍い、音を持たない何かだった。

京都。言葉の響きは穏やかだ。遠くて、静かで、自分とは関係のない場所のように思えた。だが、与えられた選択肢の中で、それだけが「生き延びる場所」に聞こえた。いなくなるよりは、まだそこにいるほうがましだった。誰も知らない土地で、誰も尾崎洋を知らない場所で、ただ日々を消化するだけでいいのなら、それは生存だった。

その夜、尾崎は眠らなかった。眠るという行為さえも、どこかで失われた気がしていた。目を閉じれば、職場の風景が浮かぶ。窓際で誰かが笑っている。自分の名前が書かれた書類に、赤い付箋が貼られている。誰かの背中が遠ざかっていく。追いかけようとしても、脚が動かなかった。そんな夢を見そうだった。だから、まぶたを下ろすことができなかった。

代わりに、静かに息を吸って、吐いた。今の自分には、それだけができることだった。京都がどんな場所かも知らない。ただ、そこへ行くということだけが、自分をこの場所から引き剥がすための唯一の手段だった。理由なんてなくてよかった。生きるために、選ばれたことのない選択を選ぶしかなかった。

そして、それでいいと思った。完璧である必要も、正しかったと思われる必要も、もうどこにもなかった。明日、自分がどこで目を覚ますかを考えるだけでいい。誰と関わるか、何を期待されるか、そんなことは後回しでよかった。朝が来れば、電車に乗って、ただそのまま、京都へ行けばいい。

それだけが、自分に許された選択肢だった。選んだというより、残されたものだった。それでも、まだ自分の足で歩けるだけ、マシだった。壊れたままでもいい。静かに生き延びるための場所。それが京都だった。今の彼にとっては、それがすべてだった。

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