جميع فصول : الفصل -الفصل 530

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第521話

佳乃を外へ連れ出し、ついでに佑介の「母親をひと目見たい」という悲痛な願いも叶える。そのうえで、いつ敵が襲ってくるか分からない安全面にも万全の気を配らなければならない。 小夜の肩にのしかかる重圧は、決して並のものではなかった。 そのくせ、以前はいちばん佳乃の外出に頑なに反対していた雅臣が、今は隣で気楽そうに微笑んでいる。あれほど強く外に出ることを拒んでいた人間には、とても見えない。 とはいえ、もう決めたことだ。 動きやすいフラットシューズで佳乃の前まで歩み寄り、小夜は微笑んだ。 「行きましょう」 どう転んでも、今できる手はすべて打ってある。 せっかく佳乃が外へ出るのだ。ならば今日は、余計な心配などせず心から楽しんでもらいたかった。 …… 遊園地。 あらかじめ上層部に話は通してあったため、小夜たちは足止めされることなく、従業員用の通路からそのまま園内へ入った。手配したボディーガードたちもすでに私服で園内に散っていて、一般の来園客を装いながら周囲に鋭い目を光らせている。 そんな物々しい警備のことなど何も知らない佳乃は、園内に足を踏み入れた瞬間からはしゃぎっぱなしだった。 今日は平日で、休日ほどの混雑ではない。それでも人は十分にいる。小夜と雅臣は、目を輝かせて次から次へと目移りする佳乃のすぐ後ろを、ぴたりとついて歩いた。 佳乃は長いあいだ、外の世界へ出ていなかった。 見るものすべてが珍しいのか、ほとんど興奮状態と言っていいほどだった。 小夜は佳乃の相手をしながらも、視線の端で何度も周囲を探った。佑介は来ているのだろうか。出発前、小夜は彼に伝えてある。もし遠くからでも佳乃に会いたいなら、チャンスはたぶん今日しかない、と。 だが、佳乃が遊び疲れ、少し遅めの昼食をとるためにレストランで休むころになっても、佑介の姿は見つからなかった。 気が変わって、来るのをやめたのだろうか。 それとも、もうどこかの人混みからこっそり見て、とっくに帰ったのだろうか。 けれど、メッセージひとつ寄越さないなんて。 小夜が少し心配になって首をひねった、そのときだった。 レストランのいちばん奥の席に、黒い半袖のシャツにハーフパンツを身につけた少年がひとり座っていた。うつむいたまま黒いベースボールキャップを深くかぶり、
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第522話

「どうしたの?」 考え込んでいた小夜は、向かいの佳乃がしばらく黙ったままでいることに気づき、顔を上げて声をかけた。 佳乃は小夜の後ろを指して、くすりと笑った。「ああ、何でもないの。さっき、ものすごくかっこいい男性がいたのよ。ほら、あっちに……あら?いないわ」 かっこいい男性? 小夜は胸に浮かんだ予感に突き動かされるように、すぐ後ろを振り返った。だが視界に入るのは行き交う客ばかりで、それらしい姿はどこにもなかった。 佳乃は心から残念そうに肩を落とした。「行っちゃったのね。小夜ちゃんにも見せたかったのに。本当に、すごくかっこいいのよ」 「何がかっこいいだ」 佳乃があれこれ言い張り、最後は腹を立ててまで勝ち取ったフライドチキンと冷えたコーラを載せたトレーを持って、雅臣が戻ってきた。二人が何か「かっこいい」と言っているのを見て、その流れで聞いてみた。 「ふん、教えないわ」 フライドチキンとコーラを口にすることまでいちいち口を出されるのだから、今の佳乃は自分の楽しさを雅臣と分け合う気などまるでなかった。 雅臣はそのまま小夜へ目を向けた。 だが小夜はどこか妙な顔つきで、ぼんやり座り込んだまま何を考えているのか分からない。何度か呼ばれて、ようやく意識が戻ったように顔を上げたが、結局何も答えなかった。 …… 佑介はレストランの脇の扉から外へ出ると、壁にもたれて帽子のつばを押し下げ、顔を隠した。 しばらくして、もう一度つばを持ち上げた時には、その顔から感情らしいものはほとんど消えていた。 今の佑介の胸の内は、ひと言では片づけられないほど入り乱れている。 次から次へと浮かぶ思いに頭がかき乱され、このままでは整理がつかない。どこかで一度落ち着いて、ちゃんと考える必要があった。 このまま遊園地を出ようとして、ふと少し先に視線が止まった。 大きな着ぐるみを着たスタッフが、たくさんの風船を手に、周りを取り囲む子どもたちへ大げさな身振りを見せながら売っていた。 佑介は一瞬だけ立ち止まり、それから足先の向きを変えて、そちらへ歩いていった。 レストランでは、小夜たちも軽く食事を済ませ、少し休んだあと、部屋に長くこもっているのが苦手な佳乃に付き合って、また遊びに出ていた。 何かを確かめられたからか、小夜の気持ち
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第523話

別れ際、佳乃は風船をくれた大きなくまをぎゅっと抱きしめ、ぶんぶんと手を振った。 「またね、くまさん。あなたもすっごく可愛いわ」 …… くまの着ぐるみは、もこもことのっそり歩き去っていった。 かなり離れた先で、人目のない細い路地に入ると、くまは重たい頭の部分を脱いだ。現れたのは、汗で濡れた端整な顔――佑介だった。 佑介の目元は、少し赤く潤んでいる。 蒸し暑い着ぐるみを脱ぎ捨てたあと、佑介はスマホを取り出した。小夜のトーク画面を開く。そこにあるのは、さっき小夜から送られてきたばかりの写真だった。大きなくまに身を寄せ、あの人はなんの曇りもない笑顔を浮かべている。 幼い頃から今まで、自分と母親が一緒に写った写真は、これしかない。 あんなふうに無邪気に笑う母親の姿を見るのも、きっとこれが初めてだ。 佑介はふっと自嘲気味に笑った。けれど、そのぶんだけ目はさらに赤くなる。写真を見つめているうちに、ずっと霧の中でもがくようだった思考が、少しずつはっきりとした輪郭を持ちはじめた。 ――もう、答えは受け取った。 自分が欲しかった答えは、もうこの手の中にある。 光は言っていた。母親は重い病を抱え、体も心もひどく弱っている。雅臣が、母親と本当の父親を引き裂いたのだと。母親は今も苦しんでいるのだと。 だが今日、実際にこの目で見た母親は頬に血の気があり、あれほど楽しそうで、あれほど嬉しそうで、あれほど満たされていた。 自分がこのまま光の計画に乗り、異国へ逃げたとして、本当に今より幸せになれるのか。 画面の中の笑顔を見つめるほどに、胸の奥の答えは揺るぎないものになっていく。 ――光とも、顔も知らない実の父親とも、もう関わりたくない。 これでいい。 欲しかったものは、もう手に入った。 これ以上は、もう何もいらない。 写真を保存して、佑介は短く笑った。自嘲なのか、それとも、手を伸ばせば届きそうだった「家族」という幸福を自ら手放す愚かさへの皮肉なのか、自分でも分からない。 一滴、涙が落ちた。 画面の中の笑顔が、にじんでぼやける。 それでも、やっぱり辛い。 どうしようもなく辛い。 「大丈夫」 佑介は漏れそうになる嗚咽をこらえながら、かすれた声で呟いた。 「どうせ、ずっと辛かったんだ。あんなに長
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第524話

最近の佳乃は、気分が高ぶるのも沈み込むのもほんの一瞬で切り替わる。穏やかでいられる時間のほうが少ない。 だから小夜にできることは、そばにいることだけだった。 どんな感情の渦に呑まれようとも、ただ寄り添って一緒にやり過ごすことしかできなかった。 …… 佳乃の気分が急に崩れたせいで、遊園地での時間はそのまま続けられなくなり、途中で切り上げて帰路につくことになった。 小夜は家に戻ると、佳乃を寝かしつけた。その後、雅臣にもひとこと声をかけ、迎えに来ると言った彰の申し出は断った。自分で車を出し、濃い夜の底を縫うように自分の家へと向かった。 その道すがら、何度も佑介に電話をかけた。 けれど、最後まで電話には出なかった。 今日の佑介の様子を思い返すたび、小夜は落ち着かなかった。ひどく落ち込んで、また思い詰めてしまうのではないか。やけ酒をあおって誰かと揉めたり、もっと悪いことをしでかしたりしないだろうか。 そう考えた途端、とてもそのまま家へ帰る気にはなれなかった。小夜はハンドルを切り、進路を変えて佑介の通う大学へ向かった。 無事な姿を見ないことには、安心できなかった。 大学の門に着いたころには、時刻は夜の八、九時を回っていた。ここへ来るのは初めてではない。小夜は手慣れた様子で、佑介の指導教官に電話をかけた。相手は案の定まだ起きており、事情を話すと警備員に話を通してくれたため、小夜もすんなりと構内へ入ることができた。 そのうえ指導教官は他の学生にも聞いてくれたらしい。佑介が大学へ戻ってきたところを見た者がいると分かり、学生寮にいる可能性が高いと教えてくれた。小夜は礼を言い、急いで寮へ向かった。 途中で買ってきた果物と夜食を寮の管理人に渡し、佑介を呼んでもらえないかと頼んだ。大した手間でもなく、小夜の物腰も柔らかい。管理人は差し入れを受け取ると、にこやかにうなずき引き受けてくれた。 ほどなくして、管理人が下りてきた。 だが、佑介は一緒ではなかった。それでも、ようやく小夜の電話には出た。聞こえてきた声はひどくしゃがれていて、まるで泣き腫らしたあとのようだった。 「お姉さん」 小夜は少し黙り、単刀直入に聞いた。「泣いたの?」 「……ううん」 小夜はそれ以上追及しなかった。わざと明るい調子を作って言った。
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第525話

もし、死んでなかったら? ――誰が。 誰のことを言っている。 その一瞬、小夜は聞き間違えたのかと思った。言葉の意味をどうにか理解した次の瞬間には、佑介はどうかしてしまったのではないかとすら思った。 反射的に否定しかけた。普通なら、そうするはずだった。 なのに、喉までせり上がった言葉は否定ではなく、問い詰めるようなひと言だった。 「……どういう、意味?」 なぜそんなことを聞き返したのか、自分でもわからない。 ほとんど本能のままに問いただしたのに、即座に否定することだけはしなかった。 電話の向こうで、佑介は何も言わない。 示し合わせたように、二人とも黙り込んだ。電話越しに伝わってくるのは、互いの重たい呼吸の音だけだった。 長い沈黙の末、受話器の向こうから、どうにか落ち着きを取り繕ったような佑介の声が聞こえた。 「なんでもないです、お姉さん。今日、ちょっと気持ちが不安定で、変なこと言いました。気にしないでください。ただの仮の話です。今のお姉さんが兄さんのことをどう思ってるのか……いや、やっぱりいいです。心配しないでください。少し落ち着いたら、また連絡します」 焦ったように早口で言い訳を並べ立て、それだけ言うと佑介は電話を切った。 小夜は止めなかった。 本当は呼び止めて、問いただしたかった。けれど、喉が何かで塞がれたみたいに、声が少しも出なかった。 それとも、自分でも気づかないところで、答えを聞くのが怖かったのだろうか。 わからない。 寮の前は学生がひっきりなしに行き交い、あたりはざわめいていた。なのに小夜だけは人の波の中で、自分を取り囲む四方がしんと静まり返ったように感じていた。耳に当てたままのスマホすら、しばらく下ろすことができない。地面に縫い付けられたようにその場に立ち尽くしたまま、一歩も動けなかった。 通りすがりの学生に肩をぶつけられ、こわばった指から端末が滑り落ちる。そこでようやく、小夜は我に返った。 かがむより先に、ぶつかった学生が端末を拾い上げ、気まずそうに差し出してきた。 「すみません、ちゃんと見てなくて……」 小夜はうわの空のまま受け取った。相手の声が聞こえていたのかどうかも曖昧なまま、ただ首を横に振る。そのままふらつく足取りで大学の門へ向かい、何度も道端の
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第526話

だが、心だけは少しも静まらなかった。さっき受けた衝撃のせいか、それとも何かひどく強い既視感のせいか。小夜は車の中でもずっと黙ったままだった。家に着き、車を降りて、部屋へ戻って鍵をかけてもなお、激しく打つ鼓動は収まらない。血がそのまま頭まで駆け上がってくるようだった。小夜はまっすぐコレクションルームへ向かった。部屋の隅の棚を探り、精巧な細工の木箱を引っ張り出す。中から取り出したのは、翡翠の石が埋め込まれた古い短剣だった。ローマで圭介が小夜に贈ったものだ。いちばん鋭い刃物だった。ローマでの一件があってから、小夜は戻るなりこれを箱に封じた。まさか、またこれを思い出す日が来るとは思ってもいなかった。けれど今は、不安でたまらなかった。何がそんなに不安なのか、自分でもはっきりわからないまま、ただ胸の奥だけがざわついていた。短剣を手に二階へ上がり、枕の下へ差し込む。今日はもういろいろありすぎて、体はとっくに限界だった。少しでも眠らなければと思ったのに、どうしても眠れなかった。ベッドに腰かけたまま、しばらくぼんやりした。それから、ずっと縁の切れていないハッカーの友達に連絡を入れた。休みを邪魔するかどうかなど、気にしている余裕はない。長い付き合いだ。その相手の生活時間がめちゃくちゃなのはよく知っている。昼はともかく、夜ならまずつかまる。聞きたかったのは、前から頼んでいた件だった。雪が急に自分の首へ箸を向けたあの日、雪を止めたあの一本の電話。あのとき彰の説明を小夜は信じず、裏でこの友人に調べさせていた。誰からの電話だったのか、それを知りたかった。あの頃は、ほんの少し引っかかった程度で、そこまで深く気にしてはいなかった。けれど今になって思い返せば思い返すほど、おかしい。妙だった。もう悠長に待っている気にもなれなかった。案の定、向こうからはすぐ返事が来た。【相手は追跡対策も秘匿もかなり徹底してる。これ以上は追えない。無理にこじ開けたら逆にこっちの尻尾を掴まれる可能性が高い。続ける?】たかが一本の電話だ。そこまで秘匿する必要がどこにある。彰は柏木家の年長者だと言っていた。だとしても、柏木家は国家の機密に関わるような家柄ではない。それに、ただの私的な通話だ。雪が暴走するのを止める電話一本に、そこまでやる必要があるだ
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第527話

もしかしたら……何か見つかるかもしれないし。 手っ取り早く真実を知る道はある。直接雪を捕まえて、あの電話に裏があったのかどうか吐かせればいい。 けれど、相手はあまりにも危険で、小夜への敵意も異常だった。そんな女が、都合よく口を割ってくれるはずがない。 なにより、小夜はあの女の顔など見たくもなかった。 まずは自分で調べるしかない。 本当であれ勘違いであれ、今度こそ必ず白黒つけなければならない。でなければ、本当に眠っても食べられないほど気が気でならない。 とはいえ、限界を迎えた体は睡魔に勝てず、小夜は短剣を抱えたまま、胸の奥で渦巻く不安と一緒にわずかな眠りにつくことにした。 うとうとと浅い眠りに落ちたところで、また電話のコール音に叩き起こされた。 青山からだった。 意識が半分まどろんだまま通話に出た小夜は、受話器越しに数言聞いたところで一気に目が覚めた。跳ね起きるようにベッドで身を起こし、かすれた声で聞き返す。 「それ……本当なの?」 …… 時間を二時間ほど遡る。 とあるカフェの二階、青山は窓際の席に座って外を眺めていた。しばらく待つと、若葉が少し遅れてやって来た。 「私に何の用?」 席に着くなり、若葉は意外そうな顔で目の前の男を見た。 彼女が驚くのも無理はなかった。 このところ若葉は、あの手この手で接触を試み、自分からかなりの情報も餌として差し出してきた。なのに青山はのらりくらりとかわすばかりで、組むのか組まないのか、最後まで明確な返答をよこさなかったのだ。 もし青山の持つ手札がどうしても必要なものでなければ、とっくに見切りをつけていたはずだった。 それでも、粘った甲斐はあったらしい。 今日は青山のほうから連絡してきて、こうして場を設けたのだから。 「どう?やっとその気になった?私と手を組むってこと」 ここ最近で何度か腹の探り合いはしている。相手の食えない性格も少しはわかっていたから、若葉は回りくどい駆け引きをせず、最初から本題へ切り込んだ。 「それは、君が何を提示できるか次第だな」 青山は店員に合図して、自分の分のコーヒーだけを持ってこさせた。若葉に何を飲むかを聞くような気遣いは見せなかった。若葉は露骨に不快そうな顔をしたが、交渉の場でそこに噛みつくような真似はしなかった
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第528話

「かなり突飛な考えではあるけど」 若葉が押し黙ったままだったため、青山はそのまま続けた。 「何度も考えた。何度も最初から洗い直した。それでも、どれだけ信じたくなくても、他の可能性が見つからないんだ……それに、僕はあの人のことを多少は知ってる。あの人が本当にああなったときも、正直かなり驚いた」 本当に驚いたのだ。 青山なりに、圭介のことはよく知っている。長く憎み続けてきた相手だったからだ。ある日突然死んだと聞かされたとき、胸がすく思いがなかったわけではない。それでも、それ以上に理解できなかったし、信じがたかった。 あの男が、そう簡単に死ぬものか。 だが、その後の葬儀も、小夜の絶望も、心に残った深い傷も、長谷川グループのあの時期の混乱も、そのあと続いた連鎖も、どれもこれも圭介の死を認めるほかない現実だった。 もし全部が偽りなら、あの男は自分自身にこれだけの痛手を与え、自分が築き上げたものまで平気で盤上に乗せたことになる。 そこまでして、何の得がある。 けれど、ここ最近の出来事はおかしすぎた。胸の底から湧いたあの狂ったような推論を、青山はどうしても無視できなかった。結局、自分で調べるしかなかった。はっきりした証拠は何ひとつ出てこなかったが……だからこそ、逆に疑わざるを得なかった。 絶対に、裏がある。 そう考えたとき、青山の頭に真っ先に浮かんだのは若葉だった。 この女の動きも妙だった。今の疑いが本当だとすれば、その前提から逆に辿れば、若葉の不自然な狙いも行動も、全部きれいに筋が通る。 だからこそ、今日こうして会ったのだ。 青山は、自分の推測をこれ以上隠すつもりはなかった。今、自分に頼らなければならないのは若葉のほうであり、交渉の主導権はこちらにある。 案の定だった。 若葉は黙ったままだった。いつも隙なく張り付いていた笑みは保てなくなり、少しずつ剥がれ落ちて、冷たいものだけが残っていく。艶のある瞳にも氷が張ったようだった。青山を見る目はひどく冷ややかだ。 たぶん、あれがこの女の素顔なのだろう。 青山は何も言わず、目の前のコーヒーを一口含んだ。 黙って答えを待つ。 いや、もう答えは出ていた。 「……どうしたいの?」 若葉が口を開いた。 否定は、しなかった。 青山は微笑み、カップを
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第529話

それに、弄ばれ、騙されていたことへの激しい怒りもあった。 しばらくして、小夜はふうっと息をついた。ひどく疲弊した、かすれた声だった。 「ありがとう、青山。教えてくれて」 「あまり良くなさそうだね。そっちへ行こうか?」 青山がやわらかく聞いた。 「いいえ、いいわ」小夜はすぐに返した。「今日はいい。この話も、あなたは私に何も言っていないことにして」 「わかった」青山は優しく笑った。「じゃあ、この先どうするつもり?僕はずっと君のそばにいる。だから、何も怖がらなくていい」 「……ええ」 彼の穏やかで落ち着いた声は、確かに小夜の中で煮え立っていた不安や焦りを少しずつ鎮めてくれた。気持ちもだいぶ落ち着いた。 慌てても仕方がない。 それくらい、とうの昔にわかっている。 問題が起きたのなら、片づけるだけだ。 ほかに道はない。 青山とあと少しだけ言葉を交わし、限界を迎えていた小夜は通話を切った。すると、ほどなくしてハッカーの友人からも連絡が入った。 何も出なかった。 何もかもが「問題なし」だという。 だが、今この状況で「何ひとつ不審な点がない」こと自体が、一番不自然だった。 小夜の中に残っていた最後の疑念は、これで完全に消え去った。 小夜は無表情のままベッドにへたり込み、ただひとつのことだけを考えた。 ――どうして。 今になって思えば、あの葬儀で感じた違和感も、本家の人間が誰も来なかったことも、あのとき手いっぱいにまとわりついた冷たい血の感触も、すべてがおかしかった。 見過ごしていた細部が、一気に組み合わさっていく。 そのあとからどっと押し寄せてきたのは、激しい怒りだった。 みんな知っていて、自分だけが知らなかったのか。 自分だけを騙して、そんなに面白かったのか。 圭介も――いや、長谷川家の人間は、息をするように嘘をつくのか。 今すぐ雅臣と彰に電話をかけて問いただしたい衝動が湧き上がった。ほかはともかく、その二人が知らないはずがない。栄知も含めて。 もしかして、自分以外の全員が知っていたのではないか。 彼らがあれほど平然としていたのも、大して悲しんでいるように見えなかったのも、今ならすべて辻褄が合う。もともと血も涙もない冷たい一族なのだと思っていた。実際
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第530話

下手に動いて、相手に気取られるわけにはいかない。 小夜は圭介の狡猾さを身をもってよく知っていた。 彼らの真の狙いがまだ見えない以上、少しも気は抜けない。一歩ごとに慎重でいるしかない。……認めたくはないが、得体の知れないコルシオよりも、小夜が本当に恐れているのは、やはり圭介のほうだった。 あの男に植えつけられた恐怖の影は、あまりにも深い。 そして今、その影はまたひとつ濃くなった。 けれど小夜は、もう隠れたくもなかったし、逃げたくもなかった。疲れたし、そこまでする意味も感じない。――どうせ圭介たちは、小夜の命や感情など大して気にもかけていないのだから。 なぜ自分を騙して隠し事をしたのか、小夜が永遠に気づかないとでも思っているのだろうか。 答えなど、難しくもない。 この数日で頭もすっかり冷えた。小夜は何度も最初から記憶を洗い直し、だいたいの筋道は見えた。結局のところ、すべてはコルシオを始末するための罠だったのだろう。 前に彰は言っていた。コルシオをこっちの領域へ引きずり込みたい、と。 自分たちの手の届く場所におびき寄せて片づけたほうが、何かと動きやすいからだ。 しかも、これまでのコルシオの動きを振り返れば、小夜など相手の目にはろくに映っていなかったこともわかる。最初から、あの男の本当の標的は、たぶん圭介だけだった。 ローマで耳にした計画通りだ。 小夜はたしかに、計画の「的」だった。 圭介が自らの手で表舞台に置き、敵の視線を自分へ向けさせるために仕立て上げた「的」だ。そして同時に、コルシオへ圭介の死を信じ込ませるための、いちばん筋の通る理由でもあった。 もしコルシオがすぐにこっちへ来られる状況なら、とっくに来ていたはずだ。何年も動かなかったのは、誰かがずっとあの男を縛っていて、軽々しく手を出せなかったからに違いない。 それなのに彰は、相手はもうじき来ると言った。 なぜか。 その間に何が変わったのか。 理由はひとつしかない。 「長谷川圭介が死んだ」ということだ。 コルシオは圭介を警戒していた。そして圭介たちも、そのことを知っていた。だからこそ、こんな狂った計画を組んだのだ。 だからこそ、あの短い海外での旅のあいだ、圭介はあれほど小夜に優しかったのだ。まるで本当に愛している相手に向け
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