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第531話

小夜がグループ本社へ顔を出していないあいだは、雅臣が代わりに陣頭指揮を執っていた。 役員会議の場では、岸本隆栄が再び若葉のAI自動化開発計画書を持ち出した。そこに記載されている開発チームは、以前とはすっかり顔ぶれが変わっていた。実現性はかなり高く、もはやプロジェクトの立ち上げを認める条件は十分に揃っているように見えた。 だが、小夜は大株主でもある実質的なトップの一人だ。しかも雅臣は、小夜と若葉の確執がどれほど深いかもよく知っている。 だから雅臣は、その場で独断では決めなかった。 会議の合間に、直接小夜へ連絡を入れた。 最終的な判断を、彼女に委ねるためだった。 小夜は黙って話を聞き、送られてきた計画書の詳細にも目を通した。たしかに今回は、以前のものよりはるかに完成度が高い。とくに新しい開発チームの経歴は強力だ。過去の実績を見ても、自動化分野ですでにかなりの成功を収めている。 実現の見込みは十分に高い。 しかも小夜は知っている。表向きには見えないが、この有能な開発チームを裏で実際に引き入れたのは青山だ。海外で長く研究を続けてきた青山の、太い人脈と資金力が物を言っている。 この計画書そのものに、何ら問題はない。 経営陣として断る理由はどこにもなかった。 ここでまた突っぱねれば、小夜のほうが「私怨で会社の利益を損なう人間」になってしまう。ただの個人的な遺恨でプロジェクトを妨害していると見られても仕方がない。 もっとも、今回は最初から断るつもりなどなかった。 若葉がそこまで必死になっているのなら、どうして止める必要があるのか。むしろ気持ちよく通してやればいい。いい気になってAI自動化開発に乗り出させ、その先で、若葉がこれほど労力をかけ、危ない橋まで渡って青山と組み、どうしても立ち上げにこだわる真の理由を見定めればいい。 これまでの若葉のやり口を知っていれば、真っ当なビジネスであるはずがないことだけは間違いない。 いつまでも「泥棒」を見張り続けるような、神経をすり減らす真似はしていられなかった。 長谷川家と圭介とコルシオ、あの化け物たちの謀略に決着がつく前に、小夜は先に若葉と相沢家との因縁にけりをつけるつもりだった。そして、そのまま早いうちにすべてから身を引く。 今は若葉のほうが焦って、自ら罠の穴へ飛び込ん
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第532話

二言三言で電話を切ると、若葉はようやく大きく息を吐いた。少し迷った末、それでも青山に電話をかけた。 約束通り、あちらは優秀な開発チームを引っ張ってきた。 ならば、こちらも約束通り動かなければならない。危うい協力関係を保つためにも、青山の望みにはきちんと手を貸す姿勢を見せるべきだった。 しばらくして電話がつながる。聞こえてきた声は、ひどく淡々としていた。 「何か用?」 「別に」 若葉は少し考えてから、まず感謝の言葉を並べた。AI自動化の計画が通ったこと、あとで正式に利益配分の契約書も回すつもりだということも伝えた。 「いらない」 青山の声は氷のように落ち着いていた。 「僕はそんなものはいらない。君、前に言ったよね。僕と彼女がうまくいくように手を貸すって。どうするつもり?」 向こうからその話を出してきたことで、若葉は内心でほっと胸を撫で下ろした。 若葉は、青山に何かを求められること自体はまったく怖くなかった。むしろそのほうがいい。欲があるなら、そこに付け入る隙が生まれる。こじ開けられる弱点がある。そういう相手のほうが、互いの牽制が働き、協力関係はかえって安定するのだ。 若葉の声は、さっきよりずっと軽く弾んでいた。 「あなたと高宮のあいだのいちばん厄介なところは、知り合って長すぎることよ。距離が近すぎて、お互いの存在に慣れきってしまっているの。でも、こういう関係って、ほんの少し背中を押すだけでいいのよ。慣れで埋もれてる感情を揺さぶって、まず『別の角度』からあなたを男として意識させるの。そこから先は、こっちで少しずつシナリオを組んでいけばいいわ」 何でも一気に事は運べない。 本当は、もっと強引で手っ取り早い方法もある。だが若葉は、その切り札を教える気はなかった。青山への警戒はまだ解いていない。目的を果たしたあと、彼がそのまま大人しく自分に付き合い続ける保証はどこにもなかった。 たしかに契約は結んでいる。 けれど、違約金くらい青山に払えないはずもない。 それに、今はまだ決定的に彼と敵対する気もなかった。 こんな手駒を縛る機会まで、そう簡単にすべて手渡すつもりはない。 電話の向こうで、少し沈黙があった。 それから、また青山の声が返ってくる。さっきよりわずかに温度が混じっていて、どこか納得し
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第533話

「は?」 電話の向こうで青山が言ったことを聞いて、小夜は口を半開きにしたまま固まった。しばらくしてから、なんとも言えない声が漏れる。 「相沢さんの作戦って、それなの?くだらないでしょ」 数日前、青山が包み隠さず話してから、二人がどういう形で手を組んでいるのか、小夜もある程度はわかっていた。あきれるような話ではあるが、よく考えれば若葉ならやりそうなことでもある。だから、そこには何も言わなかった。 ただ、まさか若葉がこの件に本気で首を突っ込んでいるとは思わなかった。 そこまで熱心とは、ある意味感心するほどだった。 「で、ささよはどう思う?」 青山が笑い混じりに聞いた。 「え、私?」 小夜は恥ずかしさでいたたまれなくなり、しばらくしてからやっと一言を絞り出した。 「じゃあ、それで……どうせ芝居なら、最後までやり切らないとね。手間をかけるけど、よろしく」 何にせよ、若葉を安心させておかなければならない。妙なところを勘づかせるわけにはいかなかった。 青山は低く笑った。 「わかった」 …… その日の朝早く、小夜はクローゼットの前に立っていた。 これから自分が何をしに行くのかを思うと、どうしても迷いが出る。あれこれ悩んだ末、小夜が選んだのは、オリエンタルな意匠を取り入れた、上下が分かれたデニム地のセットアップだった。 生地は定番から外れた淡いブルーのデニム。タイトなシルエットの裾には、色とりどりの花枝の刺繍が入っている。上は半袖の丈の短いジャケットで、同じくボディラインに沿った仕立てになっていた。艶のある黒髪も、今日はいつものようにまとめ上げず、きっちり後ろで束ねて、そのまま背中へ流している。 アンティークの翡翠のペンダントをつけ、スマホのメッセージをひと目確認すると、小夜は黒い低めのヒールを履いて家を出た。 邸宅の門の外で待っていた彰は、小夜が姿を見せた瞬間、わずかに目を止めた。 こんな小夜は見たことがない。凛とした佇まいの中に、どこかノスタルジックな艶があって、いつもよりずっと気丈に見えた。 小夜は彰の視線に気づかなかった。今の小夜はひどく緊張していて、淡いブルーの小ぶりなバッグを握る手にも強く力が入っていた。背後へぴったりとついてくる彰を気にする余裕すらない。 真相を知ってからと
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第534話

お見合いの席だった。 つまり、小夜がくだらないと思っていた、あの若葉の作戦だ。 小夜自身、ついこの前似たような場を経験したばかりだった。だからといって、まさかこんな形でこの場に関わることになるとは思ってもみない。緊張のあまり、昨夜青山と打ち合わせた台詞まで危うく忘れかけていた。いや、覚えていたところで、この状況ではとても口にはできなかっただろう。 相手が知らない顔なら、まだましだった。 けれど雅は、顔見知りだ。 小夜は雅とも、その父親とも、仕事を通じて何度か関わっていた。取引先の令嬢の前でこんな真似をするなんて、年齢が近いかどうか以前に、顔向けができない。 耳まで熱くなる。 小夜は助けを求めるようにテーブルのほうを見た。だが、青山は俯いたまま表情を見せない。わかるのは、その肩がわずかに小刻みに揺れていることだけだった。 どう見ても、助け舟を出す気はなさそうだ。 小夜は仕方なく、困惑を深めるばかりの雅の視線を正面から受け止めた。ひとつ咳払いをして、気まずそうに口を開く。 「あの……雅さん。少し、お二人の邪魔をすることになるかもしれませんが」 「え?」 雅は完全にきょとんとしていた。 反射的に向かいの青山を見たが、彼はまだ俯いたまま何も言わない。それでようやく、何かがおかしいと感じ取ったらしい。 雅が口を開くより先に、扉の前に立つ小夜は唇を噛み、とうとう言い放った。 けれどそれは、昨夜決めた台詞ではもうなかった。 「すみません……あの、このお話、ここで終わりにしてもらえませんか。私……」 「どうして?」 雅は呆然と聞き返した。 「僕が話すよ」 ようやく青山が顔を上げた。 笑いをこらえきれていない顔のまま、わずかに申し訳なさをにじませて雅へ頭を下げる。 「本当にすみません、雅さん」 言い方は控えめでも、ここまで来れば雅にわからないはずがない。 雅はようやく反応した。 「私を馬鹿にしたの?」 怒りに任せて立ち上がる。扉のところで立ち尽くす小夜と、薄く笑う青山の端正な顔を見比べ、腹立たしさと屈辱で顔を真っ赤にした。 雅はもともと、お見合いなど大嫌いだった。 それでも父親から、相手が青山だと聞かされて承諾したのだ。 容姿はいい。家柄も申し分ない。能力もある。
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第535話

お見合いの席に乱入して嫉妬を煽るなんて。 よくもまあ、そんな陳腐な策を思いつくものだ。 若葉もまさか、青山が自分との密約をすべて小夜に筒抜けにしているとは夢にも思っていないはずだ。だから小夜も、若葉が望む通りの「嫉妬で縁談を壊しに来た女」の芝居に黙って付き合ったのだ。 けれど、お見合い相手くらいは最初から役者を雇っているものだとばかり思っていた。どうせ肝心なのは、小夜が乱入するという事実だけで、お見合いそのものではないのだから。なのに、どう見ても雅は本気でこの席に臨んでいたようにしか見えない。 あれだけ激怒するのも無理はない。 「芝居は本物に見えないと意味がないからね」 青山が悪びれずに微笑んだ。 「……」 小夜は頭が痛くなった。 「あとで何かちょっとしたものを買うから、雅さんに渡しておいて。お詫びってことで」 この件で、小夜のほうから雅に説明に行くわけにはいかない。この芝居で何も知らされていなかったのは、小夜だったはずなのだから。 雅は本気で傷ついていた。 しかも、重要な取引先の令嬢だ。今日以降、外の世界でどんなふうに尾鰭がついて噂が転がるのか、考えるだけで気が重くなる……もう、今さらだが。 「じゃあ、帰ろうか」 ここでの役目は済んだ。小夜はそう言って振り返り、そのまま部屋を出るつもりだった。 なのに、いつの間にか青山がすぐ背後まで迫っていた。 気づいた瞬間には、額がそのまま青山の胸へぶつかっていた。耳に入るのは、激しく打つ鼓動の音。薄いシャツ越しにも伝わってくる、絶えず立ちのぼる体温。 小夜は一瞬、何が起きたのかわからなかった。 反射的に体を引く。だが背中が扉にぶつかりそうになったその直前、腰を強く抱き寄せられ、引き戻された。 五月も近くなり、空気はもう熱を帯び始めている。もともと薄着だったせいで、小夜は腰に回された青山の掌の熱をはっきりと感じた。布越しのその部分だけ、皮膚がじかに焼けるみたいに熱い。そこから火が燃え広がるように、熱は腰から頬まで一気に駆け上がった。 頭の上から、重い呼吸が降ってくる。 小夜はしばらく固まったまま、ようやく片手を上げて青山の胸を押した。離れようとしただけなのに、触れたのは薄いシャツの下で大きく上下する胸板の張りだった。 激しい鼓動だった。
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第536話

「私……」小夜は車のドアハンドルをきつく握りしめたまま、青山の目を見ることができなかった。頭の中がぐちゃぐちゃで、何ひとつ整理がつかない。「私、帰りたい」少しだけ、一人で落ち着く時間がほしかった。ちゃんと落ち着いてからでないと、これ以上何も考えられそうになかった。「……分かった」青山はそれ以上無理に踏み込もうとはせず、やわらかな声で続けた。「家に着いたら、連絡してくれる?」数秒ためらってから、小夜は小さく頷いた。……走り去っていく車を見送りながら、青山は自分の右手をそっと持ち上げた。手のひらには、まだ小夜のやわらかなぬくもりが残っている気がした。指先を鼻先へ寄せると、かすかにジャスミンの香りが漂ってくる。胸の奥が静かに満たされるようでいて、同時にひどく酔わされるような甘い香りだった。青山は思わず、ふっと声に出して笑った。先ほど、自分がこの手で小夜に触れようとしたとき、小夜は身を引いて避けた。……あれは、これ以上ないほど素晴らしい反応だった。これまで小夜が青山との接触を避けていたのは、単に人と近すぎる距離で触れ合うのが得意ではなかったからにすぎない。けれど、さっきの小夜は違った。目を合わせることすらできず、触れられるのを過剰に避けた。あれはただ嫌だったからではない。青山を異性として強く意識し、これまでとは違うかたちで敏感になっていた証拠だった。それがいい。それこそが、青山の欲しかったものだった。そしてそれが、この極めて幼稚な芝居を演じた理由でもある。若葉が言った通り、自分と小夜は近すぎた。長く知り合いすぎたせいで、二人の間にはずっと一本の線が引かれていた。近くて、決して越えられない線だ。関係が進むことも退くこともないまま、ずっとそこへ引っかかり続けていた境界線。だが今回、ついに小夜へその線をはっきりと意識させ、実際に触れさせることができた。二人の関係は、ようやく本当の意味で一歩前に進んだのだ。――ささよは、必ず手に入れる。そう考えると、若葉の存在もまったくの無駄ではなかった。少なくとも、立ち回りはしやすくなった。恋愛事の助言も、多少は聞く価値があるのかもしれない。もっとも、ほんの一部だけだが。……一方、車の中。後部座席に座った小夜は、しばらくぼんやり
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第537話

その日家に戻ってからも、小夜はまた眠れなかった。ここ最近、どうにも眠れない夜が増えている。長いあいだ凪いでいたはずの心は、また感情の渦に巻き込まれていた。まとまりのない思いも、互いに食い違う感情も、夜になると入れ替わり立ち替わり浮かんできて、少しも休ませてくれない。翌朝。小夜はうっすら隈を作ったまま、鉛のように重たい体を起こした。のろのろと朝食を済ませてからスマホを手に取る。画面には未読メッセージがいくつかと、不在着信が一件残っていた。どちらも青山からだった。小夜は不在着信には触れず、そのままトーク画面を開いた。いちばん古いメッセージは昨夜のものだった。無事に帰り着いたかを尋ねる内容だ。……返信していない。どう返せばいいのか、本当に分からなかったのだ。昨夜は家に着くなり、現実から顔を背けるようにスマホを消音にした。そのあとも何かと動き回ってかなりの時間をやり過ごそうとしたのに、結局は夜中まで眠れなかった。でも、もうこのまま無視し続けるわけにもいかない。いつまでも逃げ切れる話ではない。とはいえ、電話は絶対に無理だった。今の小夜は、青山の声を聞くことさえ少し怖い。まだ文字越しのやり取りのほうがましだ。冷たい画面一枚ぶんの距離があるだけで、少しだけ息がしやすい。小夜は並んだメッセージを下まで見て、さんざん悩んだ末に一つだけ返信した。【昨日は帰ってからバタバタしていて、返信するのを忘れてた。ごめんなさい】苦しすぎる言い訳だった。一方、竹園の邸宅。朝食を終えてコーヒーを飲んでいた青山は、今しがた届いたメッセージを見て、思わず笑ってしまった。……翌日になってからでも、返ってきただけで十分だった。これ以上を求めるのは贅沢だ。とはいえ、嫌なことから逃げようとする彼女のこの癖には、あまり感心できない。少し考えてから、長い指で画面を叩く。【そっか。僕を避けてるわけじゃないなら安心したよ】ほとんど間を置かず返ってきたその一文を見て、小夜は黙り込んだ。こんなもの、どう返せばいいのだろう。どう受け止めればいいのだろう。また逃げ出したくなった。けれど、向こうもそんな小夜の気配を察したのか、すぐ続けてもう一通送ってきた。【朝ごはんは食べた?今日は何か予定あるかな。気分転換に少し出かけな
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第538話

ドレスに用いるサテン生地は、当然ながら手織りの最高級品でなければならない。生地そのものは、スプレンディドの仕入れルートを使えば、質のいいものを幅広く押さえられる。そこまで時間はかからない。本当に厄介なのは、むしろベールのほうだった。ドレス本体は全体に刺繍を用いる。けれど今回は西洋の王室の婚礼だ。すべてを東洋風の意匠で押し切るわけにはいかない。だからベールには極上のレースが必要になる。しかも、機械編みでは駄目だった。機械編みのレースでは、どうしても精巧さに欠ける。求められる繊細さにも、気品にも遠く及ばないのだ。あれほど格式高い婚礼に捧げるものとしては、どうしても格が足りなかった。数ある手仕事のレースの中で、、小夜が最終的に選んだのは、「レースの女王」の異名を持つ伝統的なニードルレースだった。そのレースはもともとフランスの無形文化遺産として知られ、技法そのものが博物館に収蔵されているほどだ。世界的に見ても、最も精緻で優美なレースのひとつとして認められていた。王室の婚礼という大舞台に添えるには、これ以上なくふさわしい。ベールの図案は、すでにいちばん早く仕上がっていた。そして小夜は、このベールを自分の手で編み上げると決めていた。そのレースは工程が複雑を極め、編み上げる難度もひどく高い。だがその技法なら、ずっと前に珠季から教わっている。できないわけではない。ただ、とにかく途方もない時間と気力を削られるのだ。それでも、やる価値はあった。必要な基礎素材をすべて確定させると、小夜はそのリストをイギリスにあるスプレンディド本社へ送った。現在の小夜は、珠季の会社において表向きにも上位の管理権限を持っている。こうした素材の融通も十分に利く立場だった。あとは素材が届けば、すぐにでも本格的な作業へ入れる。リストを送り終えたところで、小夜はようやく腰と背中の痛みに気づいた。部屋の時計を見た。もう午前二時だった。疲れ切った体を引きずって仕事部屋を出ようとしたそのとき、スマホが不意に震えた。画面を見ると、珠季からの着信だった。ぼんやりした頭で少し考えてから、小夜は思い出した。時差を考えれば、向こうはちょうど夜の浅い時間だろう。たぶん材料リストの件だろうと思い、すぐに通話へ出た。珠季が聞いた。「図
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第539話

小夜はそっと目を閉じた。「分かった」なら、ここで一度賭けて、頂点へ向かって進むしかない。……珠季はてっきり、仕事の話だけで電話をかけてきたのだと思っていた。だが肝心の用件が終わったあとも、ここ最近の細々とした出来事をあれこれと話し続ける。小夜は眠気が限界に近づいており、そろそろ珠季にも休んでほしいし、自分も早くベッドに入りたいと思いはじめていた。ところが、次の一言で一気に目が覚めた。「それと、あの白石光とは結局どうなってるの?」誰のことだろう、と一瞬本気で思った。眠気で錆びついた頭がのろのろと回りはじめ、二秒もしないうちに完全に目が覚める。……ああ、見合いの件だ。小夜が黙り込んでも、珠季はそのまま逃がしてはくれなかった。「光にはもう聞いたのよ。あの子、あなたの印象が悪くないどころか、わりと気に入ってるみたいだったわ。で、あなたは?こんなに時間が経ってるのに、いいのか悪いのか一つも返事をよこさないじゃない。気に入らないなら早く言いなさい。また別の相手を探してあげるから」光に聞いたのか。そんな話、本人からは一言も聞いていない。小夜は心の中で苦笑した。ここ最近はいろいろな厄介事が重なりすぎて、光と手を組んで周囲の年長者たちをやり過ごすために見合いの相手に好感を持っていたふりをしていたことなど、すっかり頭から抜け落ちていたのだ。まさかあちらがこんなに真面目に芝居を続け、年長者たちの前でそこまで積極的に盾になってくれていたとは思わなかった。よほど見合いが嫌なのだろう。とはいえ、あのとき贈り物を交換して以来、最近はまったく会っていないのだ。それなのに、どこから「印象がいい」になるのだろう。少し申し訳なくはある。けれど、この協力関係はやはりここまでにしたほうがよさそうだった。最近はただでさえ厄介事が多すぎる。そのうえ男がらみのあれこれまで重なり、頭はとっくに痛くなっていた。これ以上、余計なことに気を回したくない。「大叔母様」小夜は言葉を選びながら切り出した。「ほら、私、もうすぐ本格的に制作に入るでしょう?これからもっと忙しくなるし、正直、そういうことを考える余裕なんてなくて……」「じゃあ、好きじゃないのね」珠季は小夜の言葉を途中で遮り、あっさりと切り捨てた。
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第540話

「小夜、前の結婚がひどいものだったことは分かってる。怖くなるのも、怯えるのも無理はないわ。でもね、あんな過去の影に一生縛られる必要なんてないのよ。ああいう最低な男なんて、そうそういるものじゃないわ。あんなものに一度当たっただけでも、もう十分すぎるでしょう。ちゃんと切り捨てたのに、まだ何を怖がることがあるの」珠季はため息まじりに続けた。「あなたはいつもそうやって拒んで、逃げてばかりで、私にほんの少しの希望も見せてくれないじゃない。そんなあなたを見て、どうやって私に安心しろって言うの」「……大叔母様」小夜はかすかに唇を動かした。その目元はすでに赤く潤んでいる。「別に、あなたを追い詰めたいわけじゃないのよ」珠季の声が少しやわらいだ。「こういうことはゆっくりでいいし、急いでも仕方ないわ。誰かを好きになったからって、すぐに結婚を決めろなんて言ってない。それじゃあまりに軽率だもの。ただ、あなたはいつもこういう話題から逃げるでしょう。私が少し背中を押してあげなかったら、本当に全部頭の隅へ放り投げてしまうじゃない」「……分かった」「何が分かったのよ!」珠季の声がいきなり大きくなった。「また一人候補をだめにしたじゃない。この調子じゃ、いったいいつまでかかるの。こうしましょう。一度こっちへ帰ってきなさい。今度は私が直に見張って、一度きちんと見合いをさせるわ!」珠季は、小夜がどうせまともに相手と会ってすらいないのだと見抜いていた。だからこそ、今度こそ自分がこの目できっちり見張るしかなかった。「……」小夜はもう苦笑するしかなかった。帰ること自体は、もちろん帰りたかった。しばらく珠季の顔を見ていないから、会いたくてたまらないのだ。ただ、帰って見合いとなると話は別だった。その瞬間、なぜかある一人の顔が頭に浮かんだ。小夜は慌てて頭を振って、その顔を無理やり頭から追い払った。「何、見合いしろって言っただけで、家にも帰りたくなくなったの?」小夜がなかなか答えないせいで、珠季はすぐ大げさな嫌味へ飛躍した。「……そんなことない」小夜は困りきっていた。「帰るわ。帰るけど、見合いのことは……いいわ、その話は向こうに着いてからにしましょう。大叔母様、もう遅いから、先に休んでね」どうにか怒った珠季をなだめて休
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