美羽は指先で招待状のサザンカ柄を軽く叩いた。「『青山を仰ぐ』という作品が展示されると聞いたの。水村さん、見逃さないでね」美穂は視線を招待状右下の花文字の「吉良」に落とし、手を伸ばした。紙に触れた瞬間、違和感が走った。本来なら乾いているはずの箔押しの下、大きなサザンカの模様がしっとりと濡れた感触を帯びている。「ちょうど時間があるわ。ありがとうね、秦さん」美穂は何事もなかったように受け取った。美羽の瞳にわずかな驚きが走ったが、すぐにまた上品な微笑を取り戻し、丁寧に展覧会の注意事項を言い添えてから立ち去った。遠ざかる足音を聞きながら、扉の影から将裕が顔を出した。その背中を見送りながらぼやいた。「この秦さん、なんだか親切そうに見えるけどな?」「そう思う?」美穂は招待状を差し出した。将裕が受け取った瞬間、息を呑んだ。「なんだ、この刺すような匂い……?」近づけてよく見ると、濡れた絵具の表面が微かな光沢を放ち、指先に触れると痺れるような感覚が走った。テレビン油に化学薬品を混ぜたような匂いが鼻をついた。「さっきの言葉は取り消すよ」彼は招待状を放り捨てようとしたが、箔押しの署名が目に入ると、手が止まった。投げ捨てるにも惜しく、持っているのも嫌で、顔を歪めた。「人間に邪な心があるなら、まさにこういうやつだな」ファッション業界でうわべだけ相手とうまく調子を合わせる者を数々見てきた彼ですら、美羽ほど徹底して裏表のある人間は見たことがなかった。美穂は通りがかりの社員からティッシュを受け取り、招待状を丁寧に包むと、何事もなかったようにラボへ戻っていった。――プライベートの個展は午前10時に開幕し、美穂は時間通りに到着した。会場はまだ人影まばらで、ほとんどが元朔と旧知の芸術仲間たちだった。美穂は赤いカーペットを踏み、中央展示区へと進んだ。青緑色の山の斜面で茶摘みをする娘を描いた絵が目に飛び込んできた。写実的な田園の風景。美穂は足を止め、見上げるようにその絵を眺めた。まるで青山を仰いでいるかのように。「お嬢さん、その絵が気に入ったようだね?」声に振り向くと、鬢の白くなった老人が手を背に組み、穏やかな目で立っていた。画展の主人――吉良元朔その人だった。美穂の目にかすかな揺らぎが生まれ、柔らかな声で答え
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