All Chapters of 冷めきった夫婦関係は離婚すべき: Chapter 411 - Chapter 420

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第411話

美穂は一拍置いて、きっぱりと言った。「でも、芽衣が私を害するなんて絶対にあり得ない。彼女の人柄はよく知ってる。人を裏切るようなタイプじゃない」峯は皮をむき終えたリンゴを小さく切り、果物皿に入れて彼女の前にそっと置いた。「お前が彼女を信じてるのは分かってる。でも今は特殊な状況だ。可能性は全部潰していかないと」美穂はリンゴを一切れ手に取り、小さくかじりながら、考え込むように言った。「芽衣はいつも家でお菓子を作って、保温ボックスに入れて会社に持ってくるの。昼休みに私に届けてくれて、自分の分も取っておいて午後のおやつにしてる。もし問題があったら、彼女が無事なはずがない」「じゃあ途中で誰かが細工したってことか?」峯が眉を上げる。「例えば会社に置いてる間とか?」「私もそう思う」美穂はうなずく。「問題は別のところにある。もしかしたら……芽衣の手を借りただけで――」そこまで話した時、病室のドアが押し開けられた。芽衣が、深樹を連れて入ってくる。美穂が目を覚ましているのを見るや、芽衣の目が赤くなった。慌ててベッドのそばへ駆け寄る。「美穂、大丈夫?本当にごめんね、私のせいで――」美穂は手を上げて芽衣を遮った。「芽衣のせいじゃない。座って」芽衣の後ろに立つ深樹にちらりと視線をやる。軽くうなずいて、挨拶代わりにする。深樹もその淡々とした態度に気づき、子犬のような目をしょんぼりと目を伏せた。小さな声で呼ぶ。「……水村さん」美穂の声はまだ少しかすれている。「どうして来たの?」芽衣は涙をぬぐいながら説明する。「ちゃんと説明しようと思って来たの。それで会社で深樹くんに会って……入院したって聞いて、どうしても来るって」そう言いながらティッシュを差し出す。早口で、必死に続ける。「心配しないで。あのお菓子、本当に問題ないの。私もいっぱい食べたけど、何ともないから」「分かってる」美穂はやさしく言った。「芽衣を疑ってないわ」二人が話していると――ふいに峯が口を開いた。軽薄そうな笑みを浮かべながら、深樹を値踏みするように眺める。「お前が陸川深樹か」名前だけは以前美穂から聞いていたが、実物を見るのは初めてだ。青年の無垢で人畜無害そうな雰囲気は、噂とは少し違って見えた。深樹は視線を受けてもひるまない。軽く頭を下げる。「はじめまして。よろしく
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第412話

ふと視界の端に、深樹がまだ壁際に立っているのが映った。両手をぎこちなく背中に回し、肩を小さくすぼめて立っている。まるで隅に置き忘れられた子どものようだった。美穂は眉を上げ、先に声をかける。「まだ帰らないの?戻るって言ってなかった?」深樹ははっと顔を上げる。まさか彼女のほうから話しかけられるとは思っていなかったのだろう。頬がほんのり赤く染まった。「ぼ、僕……もう一回だけ水村さんの様子を見たくて。本当に大丈夫って確認したら帰ります」声は小さく、どこかおずおずとしている。「……少しは良くなりましたか?」その様子を見て、美穂は思わず口元をゆるめた。声も自然と柔らかくなる。「もうだいぶ楽になったよ」緊張でこわばった彼の表情を見つめ、美穂はふと問い返す。「私ってひどいよね?ずっと冷たくして……嫌な思いさせてた?」深樹は慌てて両手を振った。首をぶんぶんと横に振る。「ち、違います!水村さんは全然悪くないです!僕が鈍くて、どう接していいか分からないだけで……」視線を落とし、少し自責気味に続けた。「それに……前に僕、迷惑かけたし。顔出す資格ないって思ってて……」美穂の胸がわずかに動く。この青年は一見無垢だが、実は人の感情をよく観察している。他人の機微を、驚くほど正確に読み取る。彼女はさらに声を和らげた。「もう帰っていいよ。本当に大丈夫だから」「分かりました!」力強くうなずく。ようやく全身のこわばりが解けたのか、心からの笑顔が浮かんだ。目が三日月のように細くなった。「水村さん、ゆっくり休んでください。先に失礼します」そう言って、深々とお辞儀をし、軽い足取りで病室を出ていった。まるで肩の荷が下りたかのようだった。背中が消えたあと、芽衣が思わずため息交じりに言う。「ほんとは、すごくいい子なんだよ。ただ……前に美羽さんにあんな扱いされてから、あんなふうに慎重になっちゃって」声をひそめて付け加える。「でも最近……明美様とちょっと距離が近いんです」峯が眉を上げる。「近いって?」「グループ内で結構噂になってて……明美様がよく個人の車で送り迎えしてるとか、わざわざ楽なポジション用意して、ほとんど仕事しなくていいのに給料だけやたら高いとか」少しためらいながら続ける。「先週、パテック・フィリップの限定モデルの時計つけてるの見た人もいて
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第413話

峯は思わずむせかけた。眉をひそめる。「お前、疲れすぎて目がおかしくなってないか?あの二人、雰囲気が真逆だろ。似てるわけない。完全に両極端だぞ」「顔立ちじゃなくて、仕草とか雰囲気が」美穂は自分の見解を曲げない。「留置所にいたとき、陸川深樹が無表情になった顔を見たことあるの。あれ、和彦の若い頃に少し似てた」峯は肩をすくめる。「考えすぎだって」まだ言い募ろうとする彼女を見て、ひらひらと手を振った。「もういい。その話はやめだ。清霜の検査結果出てからにしよう」……夕方。清霜が検査報告書を手に病室へ入ってきた。無造作にベッドサイドテーブルへ置いた。「原材料に問題なし」口調はいつも通り淡々としている。「食材も調味料も全部分析したけど、幻覚剤成分は検出されなかった」美穂は報告書を手に取り、ページをめくる。峯が横から尋ねる。「じゃあ周防芽衣は白ってことか?」「少なくとも動機はない」清霜はゆっくり答えた。そして続ける。「周防芽衣が気づかない隙に、持ってきた食べ物に混入された可能性は?例えばオフィスに置きっぱなしだったとか、移動中に触られたとか」美穂はうなずく。「その可能性が高い。家で準備してる段階では絶対安全。でも、家から会社、会社から私のところへ来るまで……途中でいくらでも細工できる」峯も分析する。「周防芽衣のオフィスは陸川グループ本社だよな。人の出入りも多いし、手を加えるのは難しくないな」美穂はスマホを取り出し、陸川グループのセキュリティ部へ電話をかけた。本人確認をしてから、ここ一週間の芽衣のオフィス周辺の監視カメラ映像を見せてほしいと伝える。だが、返ってきたのは冷たい拒否だった。「申し訳ありません。会社幹部以外には監視カメラの映像の閲覧権限はありません。規定です」そう言って、電話は一方的に切られた。美穂は黒く落ちた画面を見つめ、眉をひそめる。――その数分後。突然、友達追加の通知が表示された。備考欄には【陸川グループセキュリティ部 部長 高田隆司(たかだ りゅうじ)】。不思議に思いながら承認すると、すぐメッセージが届く。【水村さん、先ほどは部下が失礼しました。監視映像はいつでも閲覧可能です。どの時間帯をご希望ですか?事前に準備しておきます】美穂は一瞬固まった。すぐに返信する。【明日の午前
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第414話

「このインターンは誰?」美穂が問いかけた。隆司はすぐに資料を確認した。「MOODプロジェクトチーム所属のインターンです。名前は小林里々(こばやし りり)。先週入社したばかりです」和彦は何も言わない。ただモニターに映る若い女性の横顔をじっと見つめている。瞳の色は深く沈んでいた。美穂はそのまま映像を見続ける。すると――水曜の午後、美羽が芽衣を訪ねている場面が映った。二人はオフィス前で数分言葉を交わしている。その直後。里々が立ち去る際、芽衣の菓子ボックスに何かを素早く忍ばせた。動きは一瞬。注意して見なければ気づかないほどだった。「止めて!」美穂が再び声を上げる。「今のところ、巻き戻して」スロー再生。はっきりと確認できた。芽衣が書類を取ろうと背を向けた隙に、里々が素早く白い錠剤を菓子箱の中へ落とす。錠剤は水に触れるとすぐ溶けて痕跡も残らない。美穂は唇の端を上げ、冷たい笑みを浮かべた。監視カメラの映像は、里々が菓子箱に薬を入れる瞬間を捉えていた。美穂は鮮明に映るその動作を見て、眉をひそめた。「随分堂々としてるわね。隠す気すらない」和彦の瞳は墨のように暗い。声には感情がないが、骨まで冷えるような寒気を帯びていた。「……愚かだ」彼は内線で指示した。「周防。MOODチームのインターン、小林里々を俺のオフィスに呼べ。今すぐ」美穂が横目で見る。「あなたのオフィスで?」「ここで尋問するわけにいかない」和彦は立ち上がり、袖口を整えた。「俺のところで待て」……二人が社長室に入ると、里々はすでに中で待っていた。両手で服の裾をぎゅっと握り、顔には明らかな動揺。美穂と和彦が並んで入ってくるのを見た瞬間、血の気が引く。視線が泳いで、目を合わせようとしない。「座れ」和彦が向かいの椅子を指す。氷のような声。里々は座ったかと思えば、また慌てて立ち上がった。「しゃ、社長……わ、私に何か……?」美穂は里々を見ず、デスクのペンを指先でいじりながら、ゆっくり口を開いた。「水曜の午後三時十七分。周防秘書のオフィスで何をしたの?」里々は慌てた様子を隠そうと平静を装った。「わ、私は……書類を届けただけです。周防秘書に報告書を……」「書類を届けるのに、菓子箱に何か入れる必要があるの?」美穂が鋭い眼差しで顔を上げた。「それとも、あなたた
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第415話

里々は呆然と立ち尽くした。まさか、こんなにもあっさり見逃されるとは思っていなかったのだろう。数秒固まったあと、ようやく我に返り、転ぶようにしてオフィスから逃げ出した。部屋には二人だけが残る。美穂は椅子の背にもたれ、和彦を見た。「……これで帰らせるの?」「じゃあどうする」和彦は立ち上がり、コーヒーを一杯注いだ。「後のことは俺がやる。お前は関わらなくていい」美穂は口元をひきつらせ、皮肉めいた口調で言った。「関わらせないの?それとも……言わせたくないの?」和彦がわざわざ質問を遮るほどの人物は、陸川グループで美羽以外に存在しない。和彦は否定しない。ただ、コーヒーを彼女の前に置いた。「この件は俺が片付ける。もう二度と、あいつにお前を傷つけさせない」「あなた、いつもそう」美穂はコーヒーに手を触れもしない。立ち上がり、バッグを手に取る。「毎回『これが最後』って言う。でも彼女には必ず次がある。和彦……あなたはいったい、何をそこまで甘やかしてるの?」それだけ言い残し、振り返らずにオフィスを出た。……廊下に出たところで、芽衣と鉢合わせる。美穂が出てきたのを見て、芽衣は慌てて駆け寄った。「美穂、どうだった?誰か分かった?」美穂は監視映像の内容を簡単に説明した。聞き終えた芽衣は怒りで顔を真っ赤にする。「小林里々!?やっぱり!あの子、前から目つきがおかしいと思ってたんだよ!やたら『周防さん周防さん』って懐いてきて……まさかこんな魂胆だったなんて!たった百万円で買収されるなんて、美穂がどれだけ危なかったか分かってるの!?」美穂は芽衣の怒りをただ受け流すだけで、何も言わなかった。本当は――誰よりも腹が立っていた。里々の愚かさと浅ましさにも。そして、和彦の底なしの甘さにも。ひとしきり怒鳴ったあと、ようやく芽衣が気づく。「あ……ごめん、美穂。私、言いすぎた……?」「大丈夫」美穂は首を振る。「芽衣が怒ってくれて、少しスッとした」その時。社内ネットワークに人事部からの通知がポップアップで表示された。【インターン小林里々は重大な社内規定違反および会社利益の毀損により、本日付で解雇処分とする】芽衣は鼻を鳴らす。「当然の報いだね」……一方。美羽はオフィスで通知を見た瞬間、指先が急に力み、スマホが床に落ちそうになった。
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第416話

美羽の泣き声は喉の奥で詰まり、和彦の瞳の奥に渦巻く冷たい光を見た瞬間、指先に力が入り、スカートの裾を強く握りしめた。必死に言い訳を考えようとしたその時――和彦はふっと眉間の力を抜いた。さっきまでの氷のように冷たい視線は潮が引くように消え、唇の端にはかすかな笑みさえ浮かぶ。彼は手を伸ばして彼女の髪をくしゃりと撫で、いつもの落ち着いた甘やかな声に戻った。「もういい。大したことじゃない。そんなに怯えるな」美羽は呆然とした。まつ毛にはまだ涙の粒が残っている。「和彦……」「もう二度とこんな馬鹿なことはするな」和彦はティッシュを一枚取り、彼女の涙を拭った。指先の温もりが肌越しに伝わる。「美穂は名目上とはいえ陸川家の若奥様だ。彼女に手を出したら、どんな結果になるか考えたことはあるのか?」不安が蔓のように美羽の胸に絡みつき、じわじわと膨れ上がる。彼女は恐る恐る、彼の胸元へ身を寄せた。「和彦、わざとじゃないの。ただ……あなたを失うのが怖かっただけなの」「そんなことはない」和彦はそのまま彼女の肩を抱き寄せ、背中を優しく叩く。「俺を信じろ。もうこの件は気にするな。な?もう同じことをしなければいい」美羽は彼の穏やかな横顔を見つめ、胸に残っていた不安が少しずつ溶けていった。――そうだ。和彦はいつだって自分を守ってくれた。本気で責めるはずがない。彼女は慌てて頷き、彼の胸に顔を埋める。「うん、あなたの言う通りにする。もう絶対にしない」和彦は小さく「ん」と答えた。だが視線は彼女の頭越しに窓の外へ向けられている。その瞳は、底の見えない深潭のように暗く沈んでいた。……美穂がSRに戻ると、峯は彼女のオフィスのソファに足を組んで座り、清霜はデスクの側で資料をめくっていた。相変わらず淡々としている。「おかえり」清霜が目を上げる。「まだ顔色が悪いわ。もう少し休んだほうがいいんじゃない?」美穂は椅子を引いて腰を下ろし、こめかみを揉んだ。「調べはつきました。MOODプロジェクトチームの小林里々っていうインターンが幻覚剤を入れてた。監視カメラにはっきり映ってる」峯が眉を上げる。「陸川和彦はどう処理した?」「人事に言って解雇させた。それで終わり」デスクの上のぬるま湯を一口飲む。峯は鼻で笑った。「終わり?ずいぶん都合のいい処理だな。クビにして幕
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第417話

「水村社長!どうか情けをかけてください、訴えを取り下げてください!」里々は美穂の腕にしがみついた。爪が食い込むほど強く掴み、皮膚に跡が残りそうになる。「私が悪かったんです。本当に反省してます!一時の気の迷いだったんです、そそのかされただけで……!」美穂は表情一つ変えず、静かに手を引き抜き、半歩下がって距離を取った。「誰にそそのかされたの?」里々の視線が泳ぐ。唇が震え、言葉が出ない。――美羽が里々を訪ねてきた。金を渡し、「全部自分の独断だと言い張れ。誰の名前も出すな」と。もし口を割れば、この金も消え、病床の母親の治療費も打ち切られる、と。「わ、私……言えません……」里々は顔を覆い、崩れるように泣き出す。「でも本当に反省してるんです!母がまだ病院でお金を待ってて……私が捕まったら、母はどうすればいいんですか……!」どさりと地面に膝をついた。「水村社長、お願いします!今回だけ見逃してください!頭を下げます、何でもしますから!」その場に人だかりができ始める。周囲の視線と囁きが、針のように突き刺さった。美穂は上から見下ろしたまま、感情のない声で言った。「私の食事に幻覚剤を入れた時、私が死ぬかもしれないって考えなかったの?」里々の泣き声が止まる。「他人の金を受け取って、誰かのために犯罪を実行した時、こんな日が来るって思わなかったの?」声は静かだった。だが、揺るぎない冷たさが宿っている。「法律は、事情があるからって見逃してはくれない。私も同じ」美穂は背を向け、ビルの入口へ歩き出した。「ここで私にすがる時間があるなら、法廷でどう弁護するか考えたほうがいい」決然とした背中だけが、その場に残された。里々はその場にへたり込み、回転ドアの向こうへ消えていく美穂の後ろ姿を見つめながら、ついに声を上げて号泣した。やがて野次馬は散っていく。同情する者もいれば、「自業自得だ」と吐き捨てる者もいる。陽射しは眩しいのに、彼女の身体は凍えるほど冷え切っていた。――自分の結末が、もう見えてしまったかのように。……美穂がオフィスに戻ると、峯と清霜はまだ帰っていなかった。美穂の冷えた表情を見るなり、峯が眉を上げる。「小林里々に会ったか?」「うん」水を一口飲む。「訴えを取り下げてほしいって」「で、了承したのか?」「どうして?」美
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第418話

相手の狙いは、キシンプロジェクトの妨害。そしてSRが関わっている以上、美穂に逃げ場はなかった。SRのヒューマノイドAIロボットは、ちょうど「皮膚装着プロセス」という最重要フェーズに入っている。ラボではエンジニアたちが、半完成状態のロボットを取り囲み、パラメータ調整に追われていた。美穂がラボに足を踏み入れると、技術ディレクターが重い表情で操作台の横に立ち、手に変形した人工皮膚のサンプルを握っているのが目に入った。「どうしたの?」足早に近づき、サンプルの縁に触れる。本来なら人の肌のように滑らかで繊細なはずの素材が、不気味な灰色の斑点を帯び、端には不規則な皺まで浮いていた。「水村社長、このロットの輸入バイオスキン、靭性テストがすべて基準を満たしていません」技術ディレクターは検査報告書を差し出す。「ロボットの骨格に貼り付けて三時間も経たないうちに、酸化反応が出ます。サプライヤーは原料ロットに問題はないと言っていますが、三回再試験しても結果は同じでした」美穂は報告書をめくりながら、眉間の皺を深めた。この素材はプロジェクトの中核資材。ロボットの外観品質を直接左右する。ここで遅延すれば、来年初頭の販売開始は確実に後ろ倒しになる。彼女は顔を上げ、アシスタントに指示した。「調達の全工程を洗い出して。サプライヤー出荷から倉庫搬入まで、記録も監視カメラの映像も全部確認して。特に保管工程の異常を重点的に」「承知しました」アシスタントは即座にチームを率いて調査に入った。美穂はデスクに腰を下ろし、指先でデスクを軽く叩く。視線は設計図の上に止まっていた。このバイオスキンは、保管温度と湿度の管理が極端にシビアだ。少しでも条件が狂えば、性能は即座に劣化する。――偶発的ミスのはずがない。その後の半日、彼女は自ら物流記録を突き合わせ、倉庫管理者に聞き取りを行い、温度制御システムのログを照合し、さらにサプライヤーにも連絡してロット情報を再確認した。調査範囲は次第に絞られていった。そして夕方。アシスタントが暗号化された監視カメラのデータを持って戻ってきた。顔色は硬い。「水村社長、倉庫のシフト交代時間に不審な操作がありました。ただ……映像が改ざんされていて、横顔しか映っていません」美穂は画面を拡大した。ぼやけたシルエット。だが――その体格、そ
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第419話

「無駄話はいいわ」美穂は検査報告書をデスクに叩きつけた。「うちの倉庫にあったバイオスキン、あなたが人を使って細工したんでしょ?」旭昆は書類を手に取り、数ページ適当にめくると、そのまま無造作にデスクへ放り返した。「水村社長、それは言いがかりってやつじゃない?証拠もないのに罪を着せられても迷惑だよ」体を前に乗り出す。目の奥で、計算高い光がちらついた。「それよりさ……最近、誰かに恨まれてるんじゃないか?この前は病院に何日も寝込んでたって聞いたし、今度はプロジェクト事故。ずいぶん運が悪い」「あなたの独断?それとも、誰かの指示?」美穂は嫌味を完全に無視し、核心だけを突いた。旭昆は鼻で笑い、椅子の背にもたれかかる。「誰の指示かなんて重要か?大事なのはお前が順風満帆にプロジェクトを成功させるのを、望まない人間がいるってことだ」彼は意味深に指を振った。「水村社長、あんまり強気に出るもんじゃないよ。敵を作りすぎると、いつか痛い目を見るさ」美穂は三秒、無言で彼を見つめた。そして、ふっと笑う。「私が痛い目を見るかどうかは、あなたが心配することじゃない。でも今回の損失額、秦グループにはきっちり弁償してもらうわ」そのまま踵を返す。「三日以内に新しい材料をSRの倉庫に届けて。でなければ……おばあ様が目を覚ましたとき、直接『報告』させてもらう」この件が表沙汰になれば、美羽は必ず和彦に泣きつく。和彦も動いて揉み消すだろう。だが――京市で彼らを本当に抑えられるのは、あの華子だけだ。美穂の要求は高くない。損害分を全額賠償してもらう。それだけ。旭昆は去っていく背中を見つめ、笑みをゆっくり消した。スマホを取り出し、どこかへ電話をかける。「やっぱり来た。安心しろ、こっちは抑えてある」……プロジェクト処理を終えたあと、美穂は車で療養病院へ向かった。華子は峠は越えたものの、いまだ意識は戻らない。和彦は仕事で手一杯で、普段は美穂と茂雄一家が世話をしている。療養病院の廊下は静まり返っていた。消毒液の匂いに、ほのかな花の香りが混ざる。病室の前まで来たとき、中から声が聞こえた。美羽だ。綿菓子のように甘ったるい声。だが今は、毒針を包んだ綿のように不気味だった。「おばあ様、まだ目が覚めないんですか?」美羽はベッド脇に腰掛け、スマホを操作して
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第420話

自分の手首を掴んでいたのは――和彦だった。顔を確認した瞬間、張り詰めていた美穂の肩がほんのわずかに緩む。だが次の瞬間、さらに深い冷えが胸に広がった。彼女は声を押し殺し、まだ収まらない怒りを滲ませながら言った。「……全部、聞いてたの?」和彦の瞳は重く沈んでいる。喉の奥から低い「……ああ」という声が漏れたが、手は離さない。美穂は顔を上げた。廊下の灯りが彼の輪郭に影を落とし、横顔の線が刃のように鋭く見える。「何か言うことはないの?」彼女は口元を歪め、冷笑を浮かべた。「例えば、どうして秦美羽が『おばあ様の病床の前で』あんなことを言ってたのか、とか」和彦は黙ったまま。ただ、彼の指先に込められた力だけが、さらに強くなる。掌の熱が、焼けるようにひりついた。「どうして黙ってるの?」美穂は強く腕を引く。だが振りほどけない。諦めて、そのまま言葉を重ねた。「彼女は悪くないって思ってる?それとも私が大袈裟だって?」瞳の奥に、皮肉が広がっていく。「和彦。たとえ彼女の本性を目の前で見ても、あなたはきっといくらでも理由を作って庇うんでしょう?裏表だらけのあの女が、そんなに気に入ってるの?」廊下はしんと静まり返っていた。互いの呼吸音さえ聞こえる。消毒液の匂いまでも、空気の中で凝固したかのようで、吐き気がした。それでも――和彦は何も言わない。ただその深い瞳の奥で、抑圧と葛藤が入り混じり、嵐の前の深海のように激しく揺れていた。その沈黙を見て、美穂はふと力が抜けた。――もう、疲れた。言い争う気力さえ、残っていない。彼の沈黙の意味は、とっくに分かっている。それは迷いじゃない。無言の容認だ。美羽のしたことは許されるという容認。自分が何度でも我慢すべきだという容認。全部、飲み込めという無言の押し付け。「……もういい」彼女は彼の手を勢いよく振りほどき、手首に鮮明な赤い痕がいくつも残った。「その『甘さ』は自分だけで抱えてて。私は付き合わない」背を向けて歩き出す。その時――「俺が処理する。だから焦るな」和彦が突然口を開いた。わずかに掠れた声だった。美穂の足が止まる。だが、遅すぎる。今さらそんな言葉。どうせ守られない約束。絵に描いた餅みたいなもの。振り返りもしない。ただ軽く手を振った。その指先にさえ、疲労が滲んでい
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