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喫茶店の影

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-11-05 14:54:44

佐伯は、雨脚が強くなった街角で立ち止まった。

アスファルトに跳ねる水が、ズボンの裾まで冷たく濡らしている。

このまま歩き続けても仕方がないと、自嘲混じりに思いながら、視線を上げた。

目の前には古びた喫茶店があった。

「珈琲室 かさね」と書かれた木の看板は、雨に滲んで輪郭がぼやけている。

ガラス戸越しに見える店内は、薄暗い照明と、しんとした空気に包まれていた。

店主がいるのかも分からない。けれど、もうどうでもよかった。

佐伯は、ドアを押した。

鈴の音が、小さく耳に残った。

中に入ると、湿った木の匂いが鼻腔に広がる。

古い椅子とテーブルが並び、薄いレースのカーテンが窓際に揺れていた。

他に客はいなかった。

店主らしき中年の女性が、カウンターの奥で黙って一礼した。

その目は、まるで無表情だった。

「……珈琲、ください」

佐伯はかすれた声でそう言い、窓際の席に座った。

椅子は少しきしみ、座面のクッションは薄くなっていた。

けれど、その沈み込みが逆に心地よかった。

窓の外は、相変わらず雨が降っている。

街灯の光がガラス越しに滲み、ぼやけた影を作っていた。

人の姿はほとんどなく、傘を差した誰かが時折横切るだけだ。

カップに珈琲が運ばれてきた。

店主は何も言わず、音も立てずに去っていく。

佐伯は、カップを手に取った。

熱いはずの液体が、唇に触れても何も感じなかった。

味も分からない。苦味も、香りも、ただの「黒い液体」として喉を通る。

「生きてるんだろうな、俺」

呟きそうになって、唇を噛んだ。

こんなことを考えるのは、何度目だろう。

毎日が、同じように過ぎていく。

同じように朝が来て、同じように夜が来る。

何かが変わることもなく、ただ「時間を潰しているだけ」の日々。

「罰だよな」

心の中で、もう一度そう言った。

あの夜から、すべてが変わった。

いや、変わった
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