All Chapters of もう遅い、クズ夫よ。奥さんは超一流ボスと再婚して妊娠中!: Chapter 51 - Chapter 60

100 Chapters

第51話

梨花は年齢のわりに落ち着いていて、性格も穏やかで、患者にも真摯に向き合う。ここ数年、彼女にお見合い話を持ち込む患者も少なくなかった。そのうち彼女は左手の薬指から結婚指輪を外さなくなり、ようやくそのような話を持ち込むおじさんおばさんたちも落ち着いたのだった。そんな智子のことも梨花はよく覚えていた。孫の結婚に悩ませる姿がなんとも微笑ましい。「智子さん、実は、私、離婚するんです......」「離婚しなさい!」智子はキッと顔を引き締め、驚くほどはっきりした声で言った。「さっきの電話、ぜんぶ聞こえてたわよ。わざとじゃないけど、ごめんなさいね。でもね、ばあちゃんが断言するわ。浮気する男なんて、絶対にダメ!離婚しなきゃ、あなた辛いことばっかり背負うことになるよ」「......うん」皺の刻まれたその手が自分の手を包み込んでくると、梨花はふと、記憶の底にある優しい温もりを思い出した。自然と声が和らぐ。「大丈夫です。もう手続き、進めてますから」そう言って、そっと智子の手首に指を当てる。「このところ、気分はだいぶ良くなってきましたか?」「ええ、すごくいいわよ。あなたの処方が本当に効くのよ」智子は手をひらひらさせながら、また話を戻した。「若いうちの離婚なんて、ぜんぜん怖がることないのよ」梨花は吹き出した。「もしかして、今度はお孫さんを紹介しようとしてます?」智子はむしろ真面目な顔で答えた。「なんで分かったの?」「でも私、バツイチですよ?本当にいいんですか?」「ぜんぜん問題ないわよ!」智子はきっぱりと言い切った。「離婚なんて、あなたのせいじゃないでしょう。バツイチだからって、何も恥じることはないの。うちの孫の方がむしろ性格悪くてね......口下手で、あなたに釣り合うかどうか心配よ」梨花はこらえきれずに笑ってしまった。「今回は薬、出しておきましょうか?」「お願い、3日分だけでいいわ。また来るから」智子はにこやかに微笑むと、小さな御守りを手渡してきた。「今朝、白鷺寺でいただいたものなの。持ってて。あなたにはきっと平穏と幸運が訪れるはずよ」智子が帰った後、入口の看護師がニヤニヤしながら冷やかしてきた。「梨花さん、あのおばあちゃん、薬をもらいに来たっていうより、完全にお嫁
Read more

第52話

「ウケるんだけど。だから彼女、来てすぐ奥の部屋に入っちゃったんだ。恥をかくのが怖かったんだね」「今さら気づいた?もしまだ竜也の義妹だったら、鈴木家も多少は気を使ったかもしれないけど、竜也と仲違いした今じゃ、鈴木家に嫁ぐなんて高嶺の花を狙ってるようなもんよ。しかも一真は元カノとヨリを戻したいんでしょ?そりゃ彼女、ただ見てるしかないって」梨花は最初ただのゴシップとして聞いていた。けれど、途中で気づいた。彼女が話のネタになっていた。「それでも離婚しないって、何が目的なんだろうね?」「そりゃお金でしょ。他に何があるのよ?後ろ盾もない小さな漢方医が、前半生は黒川家に寄生して、後半生は鈴木家にぶら下がるつもりなんだよ」綾香は顔をしかめ、思わず立ち上がろうとした。けれど梨花は彼女の腕をそっと引き止めた。「大丈夫、私が行く」そう言って席を立った。当のふたりは背を向けていたため梨花が出てきたことに気づいておらず、まだ喋り続けていた。「ねえ、あの顔だけは清楚っぽく見えるけど、実際めっちゃ腹黒そうじゃない?他人に寄生して生きてくなんてさ」「だよね。親もいない孤児なんだから、まともな教育も受けてないでしょ、どうせロクな女じゃないって」梨花は静かにひとりの肩を軽く叩きながら口を開いた。「何の話?誰がろくでもない女なの?」「誰って......もちろんあの梨花......」言いかけて、振り返った瞬間、女の顔は一瞬で凍りついた。まるで首を絞められたニワトリのように、言葉を失った。一瞬間をおいて、彼女は咳払いをしながら平静を装い、個室の向こうをちらりと見てから言った。「いや、あなたの義姉のことよ。既婚者と平気でイチャつくなんて、恥知らずにもほどがあるでしょ?」まるで梨花の味方かのように、正義感たっぷりに言った。梨花がその視線を追うと、いつの間にか一真が到着していて、隣には桃子が座っていた。まるで夫婦のように、しっくりとした空気感すら漂わせていた。その瞬間、ふたりは梨花の視線に気づいたように、同時にこちらを見た。一真は一瞬、驚いた表情を見せた。どうやら、梨花が何の連絡もなしに来ていたとは思ってもみなかったらしい。桃子はすぐに立ち上がり、ヒールの音を響かせながら、優雅に歩み寄ってきた。「梨花、いつ来たの?
Read more

第53話

パン......その音が響いた瞬間、周囲の注目が一気に集まった。床に落ちた画面がひび割れたスマホ、そして白く細い手にくっきりと残る赤い痕跡。それに加えて、ほんのりと赤くなった梨花の目。どう見ても、ひどく虐げられたような様子だった。誰の目にも明らかに、可哀想としか言いようがない光景。一真は眉をひそめ、彼女のもとへ歩み寄り、スマホを拾い上げた。「何があった?」桃子は梨花を責めたかったが、いざとなると何をどう説明すればいいか分からなかった。「梨花が私を守ってくれたのに、私はその気持ちを踏みにじった」なんて口が裂けても言えない。仕方なく、さっきの二人を睨みつけた。「彼女たちが私の悪口を言ってたの。ひどい言い方で!」「......」そのふたりは、穴があればすぐにでも入りたかった。まさか、一真の周りの女が、どちらもこんなに手強いとは!特に梨花。一見、大人しくて誰にでも従いそうなのに、口を開けば牙をむく。穏やかそうに見えて、実は噛みつけば骨まで離さない。そんなウサギみたいな女だ!彼女を敵に回すことだけは絶対に避けようと心に誓った。梨花はスマホを受け取ると、桃子のほうを向き、さっき彼女が言っていたような口ぶりで、優しく言った。「お姉さん、もういいよ。私の勘違いかもしれないし、きっとあの子たちも冗談のつもりだったと思う。今日は貴大さんの誕生日だし、これ以上騒いだら台無しになっちゃうから」さっきスマホを叩き落とされ、手まで叩かれたのは彼女自身。それなのに、加害者をかばうような言葉をかけた。つい先ほど桃子が言ったことが、そのまま逆に返され、しかもさらにえぐられるように痛く、桃子はまるで喉に骨が刺さったように、息も詰まる思いだった。胸の奥が煮えくり返るように悔しい。けれど、ここで騒げば自分の立場がもっと悪くなるのは分かりきっていた。手のひらに食い込む爪の痛みをこらえながらも、顔には笑みを浮かべた。「そうね。くだらない陰口なんて、相手にしない方がいいわ」一真は表情を変えず、ただひとこと。「謝れ」言われたふたりは、まるで恩赦でも受けたかのように、すぐに深く頭を下げた。「すみませんでした!本当に、すみません......」桃子も取り繕うように言おうとしたが。「違うよ」「あ
Read more

第54話

「大丈夫だよ」黒川家の使用人の手の力に比べれば、まだマシだった。これまで何年も、そんな環境で生きてきた梨花の肌はすでに厚くなり、少々の痛みなど耐えられるようになっていた。けれど、綾香は納得がいかない様子だった。「後で薬局寄って、塗り薬買お。あの時だって避けられたのに。なんでわざわざ打たれる必要あるの?」「その方が効き目あるでしょ」梨花の声はどこまでも穏やかだった。綾香はしばし言葉を失った。自分は梨花のことを誰よりも理解してるつもりだった。でも、今日のことを見ていると、胸の奥に何とも言えない感情が広がっていく。彼女はよく知っている。梨花の本質は、純粋で、優しくて、そして何よりも強くて真っ直ぐ。梨花はいつも前向きで、太陽みたいな笑顔を浮かべていた。綾香が沈黙しているのに気づいた梨花は、手のひらをぎゅっと握りしめながら聞いた。「ねぇ綾香、私のこと……計算高いって思ったりする?」「はぁ?なに言ってんの、バカじゃない?」綾香は思わず睨みつけながらも、目尻に涙が浮かび、拭ってから彼女の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。「こっちはあんたが心配なんだよ、バカ!」梨花が、どうしてこんなふうに人の心を探って、慎重に動くようになったのか。彼女には想像もつかない。ずっと、自分の方が家庭に問題を抱えていて、梨花には支えてもらってばかりだと思ってた。けど、本当は彼女の方がもっと苦しかったのかもしれない。梨花は心のなかでふっと力を抜き、微笑んだ。「もう終わったことだし。気にしなくていいよ」今は、昔に比べたら天と地ほども違う。「綾香、何か食べたいものある?今日は私の奢りよ」「ん......」綾香は少し考えてから、梨花の腕を抱きしめた。「スーパーで食材買って、家で鍋しようよ?ね、いいでしょ?」「うん、いいね」今年の冬はとくに寒い。鍋にはぴったりな季節だった。白いアウディが駐車場を出たその瞬間、ぴかぴかの黒いベントレーがちょうど入口から入ってきた。ふたつの車はすれ違うようにすれすれで通り過ぎた。「今のって、梨花さんの友達の車じゃない?助手席にもう一人いたし......まだパーティー、始まってないよな?もう帰ったのか?」車内で孝宏が不思議そうに呟いた。タブレットで仕事を
Read more

第55話

「うん」貴大は笑って場を和ませようとし、テーブルの上の錦の箱を指さした。「梨花は仕事が忙しいから、プレゼントだけ渡して先に帰ったよ」竜也の視線が錦の箱に落ちた。その瞳の奥には微かな波紋が走った。こうして、一連の騒動は大事には至らず、無難に終息した。後半は酒も進み、皆それぞれに楽しんでいた。誕生日の主役である貴大は軽く酔いながらもゲストを見送るべく、最後まできちんとホストとしての役目を果たしていた。そして、最後から二組目の客を見送ったあと、個室に戻ると、そこには、グラスを傾けながら黒い瞳でじっとこちらを見据える竜也がいた。その声は低く、冷たい空気を含んでいた。「今日何があったか……隠さず話せ」貴大はふらつきながらも竜也の隣に腰を下ろし、頭をぐるぐるさせながら小さく呼びかける。「竜也さん......ただの女同士の痴話げんかさ。大したことじゃない。でもさ、もし少しでも梨花に情があるなら、妹みたいに思ってるなら、早めに離婚させてやってくれ。あんな結婚、意味ないだろ」本音だった。痴話げんか。竜也は鼻で笑い、皮肉たっぷりに言った。「俺が止めても、彼女は必死に一真にしがみつく。誰にも止められねえさ」だが、酒で赤くなった貴大の目に、一瞬だけ澄んだ光が宿った。「それ、本当にそうか?そうせざるを得ないからじゃないのか?」梨花が黒川家で置かれていた立場。表面しか見えず他人には分からないだろう。けれど、近くで見てきた自分たちには、彼女がどれほど気を張って過ごしていたか、少しは察することができる。例えば、あのネットのスキャンダル。黒川家のお祖母様は、外では梨花のことを「大切な孫娘」と言っていたけれど、あの件について黒川家が表立って何か動いたか?ない。たった一言の擁護すらなかった。本当に大事な孫娘なら、影響力の強い黒川家が鈴木家に怒鳴り込んでもおかしくないだろう。だが、黒川家は何もしなかった。完全な沈黙だった。それについて、竜也はなんて言ってたっけ......翌朝。貴大はベッドの上で天井を見つめながら、酔いが冷めた頭で昨日の会話をなんとか思い出していた。竜也はグラスの酒を揺らしながら、まるで何事もないように淡々と、けれど皮肉を含んだ声でこう言ったのだ。「選択肢がなかったわ
Read more

第56話

「時間がないなら、俺が返しに行ってもいいけど」黒川グループ最上階のオフィスで、竜也は御守りを指先で回しながら、鋭く冷徹な顔に暗雲がよぎった。これはどう見ても、ただの御守りじゃない。白鷺寺でもらったものは、間違いなく恋愛の御守りだったんだ。「俺が返す」「そうか、助かる」貴大はようやく肩の力を抜いき、ため息をついた。その様子を見ていた孝宏は、目を丸くして驚いた。目の前で、竜也が財布を取り出し、その御守りを中のポケットに丁寧に収めるのを見たからだ。え?「返す」んじゃなかった?驚いている間もなく、一郎がドアをノックして入ってきた。手には、さっきのとそっくりな恋愛の御守りを持っていた。「旦那様、お祖母様がたった今届けさせたものです。今朝白鷺寺でお求めになったばかりだそうで、効果抜群とのことです。肌身離さず持っていてくださいっと」竜也は眉間を揉みながらため息をついた。「他に何か話してた?」ちょうどそのとき、脇に置かれたスマホが鳴り始めた。電話の向こうは、喜びを隠しきれない智子だった。「恋愛の御守り、届いたわね?ほらね、あの御守りは本当にすごいのよ!なんでみんな欲しがるか分かったでしょ?私が聞いたんだけど、漢方医の娘さんが離婚したってよ!彼女、今は独身よ!バツイチだからって気にしないで......」「おばあちゃん」竜也は容赦なく話を遮り、冷たい目で見据えた。「そういう問題じゃない。俺はバツイチの女に興味がない」梨花が御守りを失くしたことに気づいたのは翌日のことだった。それで、わざわざ病院にまで足を運ぶ羽目になった。ちょうど診察室の前を通りかかった和也は、ドアが開いているのを見て中を覗き込んだ。「梨花?今日は休みじゃなかったのか?」梨花はデスクの下から顔を上げて答えた。「うん、落とし物をしたみたいで、探しに来たんです」その姿に、和也は思わず笑いがこぼれた。「見つかった?」「いえ、見当たりません」梨花は手を払って立ち上がる。「たぶん、どこかで落としたんだと思う」「何を失くしたの?大事なもの?」「まあ、大したものではないです」梨花はにっこり笑った。「今日、潮見大学で講演じゃないですか?どうして戻ってきましたのですか?」「新しく入るスタッフが
Read more

第57話

「はい」梨花は隠すことなく淡々と頷いた。「でも、だからって、家と対立することありませんよ」和也が病院を立ち上げたとき、資金援助をしたのは田中家だった。田中家は基本的に病院の運営に口出しはしないが、時々誰かを押し込んでくるのは、まあよくあること。「俺から向こうに話してくるよ......」「和也さん」梨花は微笑みながら遮った。「一真の性格、私よく知っているんです。彼は人に借りを作るのが大嫌いだから、たぶん和也さんの家と何らかの取引をしたんじゃないでしょうか、ビジネスの」和也の顔色が悪くなった。「ごめん。そういえば、前に少しそれっぽいこと言われたけど、まさかこんな形でとは思ってなかった」「和也さんのせいではありませんよ」梨花は理解を示しながら続けた。「一真って、断られたところで諦めない人ですもの。ダメなら別の手段を使うだけです」一真と竜也、根本的には似ている。目的のためなら手段を選ばない。ただ、一真はやり方が穏やかで遠回し、竜也は一撃必殺タイプ。診察室のドアを開けると、桃子が余裕の態度で立っていた。まさに梨花の言った通りだった。一真がすでに全て段取りをつけているからこそ、彼女は何一つ心配していないのだ。桃子は手を差し出し、得意げに微笑む。「これで、たくさんお世話してもらえるわよね?」「もちろん」梨花の表情は変わらず静かだった。「病院では私が先輩、家では妻。公私において、あなたの面倒を見るのは私の当然の務めよ。遠慮しないで」その一言で、桃子の顔は怒りで真っ赤に染まった。だが梨花は気にすることなく、すっとその場を後にした。病院を出て、配車アプリで車を待っていたとき、ふとした思いつきが浮かんだ。車、買おうかな。離婚の際、彼女はマンションを2軒もらったが、車は1台も受け取らなかった。こうして毎回タクシーを使うのも、やっぱり不便だ。夜、綾香が帰宅してその話を聞くと、大賛成の様子だった。「いいじゃん!いつ買うの?」「明日」梨花は即答した。考えがまとまったら、すぐに行動する。それが彼女のスタイル。離婚のときもそうだった。翌日、午前中は病院で診察を行い、午後から一人で店に向かった。ショールームに入ってすぐ、彼女の視線はある1台に吸い寄せら
Read more

第58話

梨花が車のドアを開けた、そのときだった。車の前方から、耳に馴染みのある声が届いた。「梨花、あなたもここに?」桃子だった。「まさか、一真が私に車をあげることを知って、わざわざ追いかけてきたの?」「......」梨花は眉をひそめ、そっちの方へ目を向けた。桃子の隣には一真がいた。鉄灰色のスリーピーススーツを着た一真は、いつものように端正で品のある姿だったが、彼女を見るその目には、どこか不安げな光が混じっていた。「あなたがここに?どうして?」「......」梨花は普段は滅多に怒らないのに、今日だけはどうしても我慢できなかった。まったく、今日はどうもついてないな。ただ車を受け取りに来ただけなのに、なんでストーカーみたいに追いかけられなきゃいけないんだろう。梨花は細い指先でボンネットを軽く叩くと、平然と答えた。「車を取りに来たの。見れば分かるでしょう?」「家の車、もう飽きたのか?」一真はいつもの穏やかな口調で返した。「言ってくれればよかったのに。何が欲しいか、翼に言えば、すぐ家まで届けさせたよ」松本翼(まつもと つばさ)、彼の秘書だ。この三年間、梨花のワードローブにある高級ブランドのバッグやジュエリーは、誕生日や記念日に、ほとんど翼が届けてきたものだった。もう、翼のほうが「夫」らしく感じられるくらいだった。それに対して、一真が桃子の夫だ。「鈴木さん、お越しくださり、ありがとうございます!」ショールームのマネージャーが駆け寄ってきた。桃子の方を見て、さらに愛想良く話しかけた。「奥様、車は展示ホールにご用意しております。納車セレモニーもご主人のご指示通りに準備いたしました。きっとお気に召していただけると思います!」奥さん。梨花は無言で視線を逸らし、黙って車に乗ろうと手を伸ばした。「梨花」一真が歩み寄り、彼女のドアを押さえた。「彼らが桃子と僕の関係を誤解してるだけなんだ。あなたが勘違いする必要はない」梨花は一真という人間がわからなくなることがある。なぜこんなにも偽善的に振る舞えるんだろう。それとも、それが男という生き物の本性なのか。桃子を忘れられないのも、桃子と一緒にいるのも、全部彼自身の選択なのに、なぜ、自分の前では一度もその事実を認めようとし
Read more

第59話

桃子だけでなく、梨花もまた、呆然としていた。彼女はそっと目を上げ、なるべく穏やかな口調で話した。「それなら、彼らに説明するか、さっさと桃子さんと一緒に納車へ行けば?」彼の浮気を受け入れることはできたし、代わりに誤解を解くこともできた。けれど、何も分からずに翻弄されるのは、受け入れられなかった。このまま彼女と一緒に帰れば、他人から見たら、桃子が鈴木家の奥様であり、自分は他人の家庭を壊した女に見えるだろう。一真は唇を引き結び、「梨花......」と名前を呼んだ。「鈴木さん、私はまだ用事がありますので、先に失礼しますね」梨花は彼の躊躇を見抜き、彼の代わりに決断を下した。その声は大きくも小さくもなく、ちょうど周囲の人々にしっかりと聞こえるくらいのトーンだった。一言「鈴木さん」と呼び、はっきりと自分との関係に線を引いた。営業部長は空気を読むのが得意な人物だ。にこやかに言った。「鈴木さん、こちらの方はご友人だったんですね。早く言ってくだされば、割引サービスを適用できましたのに」「......ああ」一真がそう返したその瞬間、梨花は素早くドアを閉め、颯爽とその場を後にした。桃子は笑顔で一真の腕に絡んだ。「もう、納車が終わったら紅葉坂までドライブって言ってたじゃない。すっかり忘れてたのかと思ったわ」その言葉に、一真はやっと彼女の方に視線を戻した。「忘れてないよ」だが、その口調は明らかに冷めていた。桃子はそれを察し、彼の肩を軽く揺らして甘える。「ねえ、一真。あそこは私たちが最初に出会った場所だよ?こんなに上の空でどうしたの?」一方、梨花は赤信号でゆっくりとブレーキを踏んでいた時、LINEに一真からメッセージが届いた。彼女は開く気にもならず、そのまま別の着信に応じた。「先生」電話口の優真の声はいつも通り穏やかだった。「梨花、ちょっと聞きたいことがあるんだが」「なんですか?」「この間、あなたの兄さん、竜也がうちに来たときのこと、覚えてるか?」横で綾乃が優真の肩をポンと叩き、彼は少し咳払いして言い直した。「実はな、彼が今やってる癌の新薬プロジェクトで、漢方医学の協力が必要だそうで......和也に任せようかと思ったんだが、綾乃が『梨花の意見も聞くべきだ』って言ってね」信
Read more

第60話

梨花自身は、そこまで深く考えていなかった。「それも、ちゃんと開発に成功してからの話ですよ」「あなたの実力なら、きっと成功するさ」優真は誰よりも彼女の力を信じていた。電話を切った後、彼は綾乃に向かって感慨深げに言った。「まさか、お前の方が俺よりこの子の性格を分かってるとはな」「当たり前でしょ」綾乃は微笑んだ。「この子ね、他のプロジェクトなら十中八九は断るの。でも病気を治すことが絡んでくるなら、絶対に迷わないわよ」潮見市から桜丘町までは、200キロも離れていない。一真は翌朝黒川グループの株主総会を控えていたため、その晩は紅葉坂に泊まらず、桃子と一緒に夜のうちに戻ってきた。この時間帯の潮見市は、まだまだ車の流れが絶えない。赤い限定版の911が疾走し、信号待ちで停まると、通りすがりの人々がこぞってスマホを取り出し、写真を撮り始めた。桃子の虚栄心をガンガン掻き立てる光景だった。「一真、今日は本当に楽しかった。ありがとう......」彼女は助手席の彼をちらりと見たが、彼はどこか上の空。二、三秒してようやく一真は彼女を見返した。「何か言った?」「またボーッとしてた!」桃子は冗談めかして睨んだが、心の中では不安が芽生えていた。確かに、一真は今日約束通り自分と紅葉坂まで行ってくれた。でも......ずっとスマホを気にして、どこか心ここにあらずな様子だった。ふとした時に目がブラブラして、何度も考えが途切れる。彼は眉間を揉みながら言い訳した。「少し疲れただけだ」「疲れてるの?それとも......」梨花、あの女のことを考えてる?その先の言葉は喉の奥で詰まった。一真は決して認めないだろう。そしてまた、自分に対して「そんなことはない」と言い聞かせようとするだろう。だが、空気は明らかに重くなっていた。桜丘町の邸宅に車が停まっても、一真は桃子を待つことなく、真っ直ぐ玄関へ入り、急ぎ足で階段を上った。その足取りには焦りがにじんでいた。まるで何かを早く確かめたくて仕方がないように。主寝室の前に立ち、扉をノックするが返事はない。静かにドアノブを回し、中へ入った。部屋の明かりは消えていて、ぼんやりとした闇に包まれていた。一真は足音を殺してベッドへ近づき、そ
Read more
PREV
1
...
45678
...
10
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status