千夜一夜に囚われて~語りの檻と王の夜明け のすべてのチャプター: チャプター 11 - チャプター 20

88 チャプター

胎に棲むもの

その夜から、青年の腹部には小さな疼きが棲みついた。最初は微かな違和感だった。まるで夜毎に月が満ちるように、静かにじわじわと広がっていった。呼吸をするたび、胸の奥で音もなく形を変えるそれは、時に熱を伴い、時に氷のような冷たさで彼の身体を内側から撫でてきた。神殿の者たちは何も告げなかった。月の契約が済んだ後、青年はほとんど話しかけられることもなく、決まった時刻に水と少量の果実が与えられ、それ以外の時間はひとり静かに石室に閉じ込められていた。灯りはなかった。ただ天井の小さな窓から落ちる光が、時折壁に白い線を引いた。月の位置でしか時間を知ることのできない空間だった。鏡はなかった。いや、鏡が置かれたことは一度だけあった。ある夜、石の棚の上にそっと置かれたそれを、青年は半ば躊躇いながら覗き込んだ。だがそこに映ったのは、もはや“自分”ではなかった。頬はこけ、目の奥の光は沈み、肌は月の光を吸い込むように青白く透けていた。けれど何より恐ろしかったのは、鏡の奥に“それ”の影が映らなかったことだった。自分の身体の内に、確かに何かがいる。眠りの最中にも目覚めているような感覚があった。ときおり、夢とも幻ともつかぬ光景が脳裏に浮かんだ。ひとつの胎に暗い実が育ち、それが決して開かれることなく、内側から命を吸い取っていく。痛みはなかった。ただ、痩せていく。熱が失われていく。誰かに呼ばれているような気がして振り返っても、そこには誰もいなかった。青年はそれでも誇りを失わなかった。むしろ、その苦しみの中でさえ、自分が“選ばれた者”であることだけが唯一の支えだった。祭司たちは何も告げなかったが、視線には確かに敬意のようなものがあった。あるいは、それは畏れだったのかもしれない。彼が宿しているものが、人の手に負えない“神意”であることを、誰よりも彼らが理解していたのだろう。「私は、祝福されたのだ」青年は何度も呟いた。それは自己洗脳のようでもあり、ただの願望でもあった。だが言葉にすることでしか、保てないものがあった。命とは呼べぬ何かを内に抱えながら、彼は祈るようにして毎晩その言葉を唱え続けた。吐く息は次第に細く、微か
last update最終更新日 : 2025-08-26
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月を喰む者

満月の夜は、静寂を纏っていた。風もなく、砂は息を潜め、神殿の石壁さえ沈黙していた。夜空は深い藍に沈み、その中央に浮かぶ月だけが、まるで息づく者のように輪郭を脈打たせていた。すべてが、終わりを迎えるのを知っていた。青年は寝台に横たわっていた。白銀の布が肌に張りつき、汗と香が入り混じったその匂いは、どこか懐かしいものに似ていた。かつて母の腕に抱かれたことがあるのなら、それはそのときの感触だったかもしれない。けれど彼はその記憶さえ持たなかった。誰かに抱かれ、呼ばれ、選ばれるという体験のすべてを、神殿で初めて知ったのだった。「もう、満ちたのですか」仮面をつけた神官が頷いた。声はなかった。ただその仕草が、祭りの終焉を告げていた。青年はまぶたを閉じた。瞼の裏に月が浮かぶ。それは今宵に限って、ほんのわずかに赤く滲んでいた。まるで彼の中にある何かと呼応しているかのように。胸の奥が焼けるように熱い。けれど、その熱には苦痛はなかった。むしろ、安らぎに近かった。空っぽの中に残っていた最後の欠片が、静かに燃えているだけのこと。呼吸が浅くなる。意識が月へと引かれていく。指先が痺れ、花弁のように開いた唇から香が洩れた。それは乳香でも花の香でもなかった。青年自身の肉体が、内側から香を放っていた。白く、ほのかに甘く、だがどこか焦げたような匂い。それが神殿の隅々にまで満ちていき、石に染みこみ、衣に染みこみ、やがて空へと昇っていった。月が、ゆっくりと揺れた。誰の目にもはっきりとわかるほど、円の一角が欠けていた。それは雲ではなかった。まるで空の果てから、誰かが月に歯を立てたかのように、そこだけがくっきりと齧られていた。祭司たちは沈黙のまま、顔を伏せた。誰ひとりとして声を上げず、誰ひとりとして涙を流さなかった。ただ香の中で、月が一口、欠けていく音を聞いていた。青年の身体はもう動かなかった。花弁のように開かれた手のひらが、ひとつ、ふたつと震えたあと、静かに止まった。熱が抜けたわけではなかった。むしろ、彼の周囲の空気だけが異様に温かかった。命の名残が香となり、光となり、月の口元へと吸い込まれていく。「月に喰われた者」神官のひとりが、記録の板にそう記し
last update最終更新日 : 2025-08-26
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乾いた口吻(こうふん)

風が息絶えたように、沈黙の砂が世界を覆っていた。陽が沈んでもなお残る熱が、岩を灼き続け、空気を焼いていた。星ひとつ瞬かぬ夜の砂漠は、生者の皮膚に容赦なく死を纏わせる。だが少年は、すでに自分が生きているのかどうかさえ、わからなくなっていた。水袋はとうに空だった。唇はひび割れ、喉は焼けた紙のように音も立てずに裂けた。乾いた風が顔を撫でても、それを「冷たい」と感じる余裕はなく、ただ目を細めて進むしかなかった。砂に足を取られるたびに、記憶が遠のく。誰かの声が耳の奥で反響していたが、それがいつの記憶かさえ思い出せない。そして、突然だった。砂丘の端に、それは口を開けていた。岩の間に穿たれた、獣の顎のような暗い裂け目。気づけばそこに立ち尽くしていた。岩肌は黒ずみ、まるで太古の炎に焼かれた跡のようだった。風がひとしきり吹いたとき、少年の足元から砂が舞い、裂け目の奥へと引き込まれていく。まるで招かれているようだった。「…水があるのかもしれない」掠れた声が、喉の奥から漏れた。希望というより、執着だった。重たい足を一歩踏み出し、石の階段を下り始めた。空気は変わっていなかった。むしろ、熱がこもっていた。だが砂よりはましだった。汗はとうに乾き、心臓だけが微かに鼓動を刻んでいた。地下へと続く石段を、ゆっくりと降りていく。壁の装飾は剥がれ、掘られた文字は時の風に削られて判別できなかった。ただ、どこかに“牙”のような彫りが繰り返されているのがわかる。それがただの装飾でないことを、少年の本能は知っていた。最下層に着いたとき、空気が変わった。動きのない空間。息を吐いても揺れない空気。そこには、何かが“眠っている”という気配があった。目の前にあったのは、封じられた石室だった。巨大な扉には鎖が巻かれていた。だがその鎖のひとつが、誰かの手によってほどかれたかのように地に落ちていた。少年は無意識のうちに、その隙間を押し開いた。その中に“それ”はいた。巨大な背。焼けた岩のような鱗。空気の熱がその存在から滲み出していた。眠っているのか、死んでいるのかもわ
last update最終更新日 : 2025-08-27
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泉の瞳

石室の空気は、静かに濃くなっていた。竜は、動かぬまま少年を見ていた。大きく焼けた石のような背、鱗のひとつひとつに積もる砂。眼差しは敵意を孕まず、ただ重たく、澱のように沈んでいた。そこには、喰らう者の飢えも、捕らえる者の鋭さもなかった。ただ、観察していた。自分に差し出されたものと、それを差し出した者の意味を測るように。少年は、自分が睨まれているのか、それとも透かされているのか分からなかった。ただ、その視線の奥にある熱だけははっきりと感じた。それは体の芯にじんわりと沁みる、熱病のような気配だった。喉が痛んだ。唇を舐めても乾いたままで、皮膚がめくれて血が滲んでいた。それでも、彼は空の水袋をしっかりと抱えていた。もしかしたら、袋の底に一滴くらい残っているかもしれない。その希望は、喉を潤すためのものではなかった。竜の頭はわずかに傾いていた。大きな顎が、砂と骨の眠る床に影を落とし、その鱗の隙間に古い裂傷があった。肉がまだらに剥がれ、火傷のような痕が縦に走っていた。血は滲んでいなかった。きっとそれは、何年も前に負った傷だ。少年は、何かが心の奥でちりりと軋むのを感じた。怖かった。それは確かだった。だが、もっと深くにある何かが、彼を動かした。水袋を握る手に力を込めて、ぐいと引き寄せた。袋の口を開くと、内側で小さな水音がした。耳に届いたその音は、まるで幻のようだった。数滴、それだけだった。旅の最後の命綱だった。だがそれを、自分の喉に流し込もうとは思わなかった。少年は石室の床にひざまずき、水袋を逆さにした。滴がひとつ、ふたつ…かすかにゆれて、そして竜の足元に落ちた。音はしなかった。砂に染みて消えた。だが、香のような甘い匂いがふわりと立ちのぼった気がした。竜の瞳が、ゆるやかに揺れた。金属のような硬質さの奥に、何か柔らかな波紋が広がった。熱が、空気の中に濃くなっていく。焦げつくような吐息が、少年の顔にふわりと触れた。少年は、目を逸らさなかった。逸らすことが、嘘をつくように思えたからだ。泉の水面のような眼差しが、竜をまっすぐに映していた。まるで、その存在をそのまま肯定するかのように。「…傷が、痛むんじゃ
last update最終更新日 : 2025-08-27
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舌の熱、骨の記憶

石室の夜は、砂漠よりも静かだった。風の音すら届かず、時間という概念が失われたかのようにすべてが沈黙していた。少年は、竜の足元の岩に背を預け、眠りに落ちていた。呼吸は浅く、肩がわずかに上下するたび、疲れ切った身体がその存在を訴えていた。竜は、その寝息を見守っていた。眠る者の脆さ、温かさ、そして無防備さ。そのすべてが、竜には未知のものだった。喰らう者としてしか触れてこなかった他者の体温が、今は静かに自らの傍にある。鱗の隙間に風が這い、そこに残る古傷が鈍く疼いた。それはもうとっくに癒えたはずの痛みだった。だが、目の前の小さな存在が、それを呼び起こした。少年の手が、夢の中の動きで竜の鱗に触れたのは、ほんの一瞬だった。浅い眠りの中で無意識に伸ばされた指先が、竜の腹のあたりの、傷跡の縁にかすかに触れた。その瞬間、竜の背が震えた。空気がぬるく動いた。熱が走った。それは火ではなかった。炎でも怒りでもなく、もっと原始的なもの。何かが触れた、という事実が、竜の内部で反射的に“応答”を起こした。舌のように熱いものが、じり…と這うように動いた。竜の身体の奥で、かつて封じたはずの本能が目を覚ましかけていた。少年の肌に、何かが触れた。夢の淵にいた少年の身体が、ぴくりと揺れた。目を開けるより早く、彼はその「熱」に反応した。硬い岩よりも柔らかく、だが鋭く滑るような何か。ぬめりとした熱が、腰のあたりを這い、そのまま背中を撫で上げた。「…っ…!」少年は息を呑み、目を見開いた。暗闇の中、目の前には巨大な鱗の壁。そのすぐ向こうに、彼を見下ろす瞳。竜の目が、わずかに細められていた。怒ってはいなかった。むしろ、戸惑っているようにも見えた。だが、確かに舌が、まだ少年の腰に触れていた。熱かった。柔らかく、けれど力がある。呼吸をすれば、その熱が喉の奥にまで入り込むような感覚だった。「や…めて…」そう言いかけた声は、
last update最終更新日 : 2025-08-28
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砂上の幻

砂は風の指先に遊ばれ、夜明けの色をひそやかに映していた。少年は、竜のいる石室を背にして立っていた。背には旅の袋、乾いた足元には踏みならされていない白砂。彼はまだためらっていた。数歩進めば、外の世界が彼をのみ込んでいく。けれど、振り返ってしまえば…たぶん戻れない。背中の奥、心の奥で、何かが揺れていた。それは名のない感情だった。名前をつければ、きっと壊れてしまうような、繊細なものだった。竜は何も言わなかった。言葉を持たない獣の沈黙は、時に人の沈黙より雄弁だ。その眼差しはただ、ひとつの光を追っていた。少年の肩越しに見える朝の兆し。そこに、希望と名づけるにはあまりにも儚い、けれど確かに温かいものが滲んでいた。少年はようやく、ゆっくりと一歩を踏み出した。その足取りは決して迷いなくはなかった。砂に沈むたび、少しだけ振り返りたくなる。だが振り返らなかった。もう一度見てしまえば、きっと胸の奥で何かが崩れてしまうことを知っていた。砂漠に幻が咲くという。旅人が渇きに惑い、見るはずのない泉を見る。けれど、今、少年の心には確かに水があった。ほんの少し、けれど確かに。竜は、その背中を見ていた。ただ見ていた。見送ることしかできなかった。自分が閉ざされてきたこの石室には、誰かを繋ぎ止める鎖はなかった。あるのは、呪いと傷だけ。だが、その朝。少年のいた場所に、わずかな置き土産が残されていた。水瓶。ひび割れた古い皮の袋の中には、最後の一滴の水が底に揺れていた。竜はその匂いを嗅ぎ取った。人の手の匂い、水の匂い…そして、もっと微かな…花の匂い。その香りに導かれるように、竜は水瓶を嗅ぎ、覗き込んだ。袋の内側に、小さな、乾いた粒がひとつ、張りついていた。それは、種だった。花の種。砂漠では決して芽吹かぬはずの、小さな命の予兆。それは少年が運んできたもの。いや、少年の身体のどこかから零れ落ちた“存在の証&rd
last update最終更新日 : 2025-08-29
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仮面の花嫁

白銀の仮面が、夜の帳に淡く光っていた。月の神殿の奥、天蓋を持たぬ舞台は砂漠の夜空に溶け込むように広がっていた。その中央に、踊り子は立っていた。いや、立たされていた。仮面の奥の瞳は見えない。声は奪われ、名も与えられず、ただ一枚の仮面だけが彼の存在を証明している。白銀の面には何の装飾もなく、滑らかな曲線が顔の起伏をなぞるだけだった。その沈黙が、逆にすべてを語っていた。アミールはゆるやかに指先を動かし、語りの拍子をとった。まるで自身が、その踊り子であるかのように。仮面の踊り子はゆっくりと片膝を折る。絹の裾が静かに地を這い、足の甲に紅が差す。鮮やかな紅は、処刑の合図として染められたものであった。舞が終わるその瞬間、彼は神のものとなる。魂ごと。王は香炉の煙の向こうから、アミールの唇の動きを見ていた。言葉は抑揚を持ちつつも決して声高にならず、耳元で囁くように流れてくる。それが不思議と、目の前の幻影に呼応していく。仮面の踊り子が、腰をゆっくりと傾ける。鈴の音が絹にまぎれて鳴る。その音すら声の代わりであり、舞いの言語だった。「彼は語れぬままに、神へと捧げられた者でした」アミールがそう語ったとき、王の指先が香炉の縁を掴んだ。「名を呼ばれず、声を奪われ、ただ身体だけがここにある」王のまなざしが鋭くなる。仮面の下の素顔を暴きたい衝動、それは目の前の物語に対してか、それとも語り部自身に対してか。踊り子の腕がゆるやかに風を裂く。動きにはなんの誇示もない。ただ静かに、無音の祈りを空へ放っていた。その手は、何かにすがるように震えている。だが足取りは乱れず、完璧な構成を保っていた。「彼は語りませんでした。誰のために舞うのか、何を願っているのかも」一瞬だけ、アミールの瞳が王を見た。そこには責めも媚びもなかった。ただ、計ったような呼吸が、その目の奥に宿っていた。「けれどその沈黙の舞こそが、祈りであり、懇願でした」踊り子が仰ぐ。その視線の先には神官たち。誰もが静かに彼の一挙手一投足を見つめている。だが誰ひとり、彼に名を与えない。
last update最終更新日 : 2025-08-30
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沈黙の振動

祭壇の上、仮面の踊り子はまたひと振り、腕を上げた。白銀の面は冷たく無表情で、仄かに揺れる灯火がその輪郭にかすかな陰影を与えていた。踊りに合わせて鈴が鳴る。細く高い音が、ひとつ、またひとつと空気を切り、静寂に小さな波紋を刻んでいく。だがその沈黙の美しさに、最初に動揺したのは観客だった。「なぜ声を持たぬ」「これが舞か」ざわめきは小さな火種のように広がっていった。踊り子はそれでも動きを止めなかった。むしろ沈黙の中にある不安定なリズムを受け取り、それを吸い込むように舞い続けた。仮面の奥にある感情は見えない。だが、その一歩ごとの重みが、指先の揺れが、鈴の震えが、それを明確に語っていた。王は静かに身を乗り出していた。鈴の音がどこか胸の内側を打つように響く。ひび割れた祭壇の前で、踊り子はわずかに身体を揺らす。重心の移動は波のようで、腕の動きは風のようで、だがその中心には確かに“祈り”の震えがあった。アミールは王の視線を感じていた。語りは止んでいた。今は物語が自身を語っている時間だった。踊り子の舞は台詞を持たず、説明もなかった。それなのに、何かが満ちていく。それは静けさのなかで、確かに響いていた。「神は、声なき祈りを聞き届けるか」誰かのつぶやきが、舞台の周囲で反響する。「名もない者に、神の眼差しは届くのか」空気が、試すように問いを重ねた。踊り子はその中心で揺れていた。細い体躯に宿る熱が仮面の奥で結ばれ、鈴の音に託されて放たれていく。ひとつ、またひとつ。そして、祭壇の脇。金と白の法衣を纏った神官長だけが、顔を上げていた。目元が濡れていた。その涙は、長きに渡って神の前に仕えてきた者のものであり、かつて自らも“声を持たぬ舞”を経験した者の、それに対する共鳴だった。神官長の胸元にある刺繍はわずかに脈打っていた。光輪の文様が、揺れる灯に呼応してかすかに滲む。その輪郭は、踊り子の動きと呼応するように、震えた。王はその震えを見ていた。そして、自らの
last update最終更新日 : 2025-08-31
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名なき夜の接吻

神殿の奥、揺らめく青い香煙の中で、踊り子はひとり膝を折っていた。沈黙の舞は終わった。鈴は鳴らない。仮面の奥にある瞳も、もはや動かない。ただ胸だけが、細く震えていた。白銀の仮面は夜を映す鏡のように、何も語らず、すべてを映し返していた。それは選ばれし者の最後の姿だった。神官たちは円陣を組み、沈黙を守っていた。言葉は許されていなかった。祈りも、嘆きも、命乞いすらも。神は、名を与えるか、命を奪うか。それがこの儀式の最後の問いだった。神官長が一歩、踊り子に近づく。神の意志を代弁する者として、手に青い香を掲げ、ゆっくりと輪を描く。空気は冷たいようでいて、肌を刺す熱を孕んでいた。踊り子の背中はわずかに揺れ、だが仮面はまっすぐ前を向いていた。「選べ」王の座からも、その声は届いた。語りではない。これは、神の名を借りた問いだった。踊り子は静かに首を垂れた。そして、仮面のまま、ゆっくりと前に進み出た。白い足首が、祭壇の赤い石を踏むたび、音もなく細やかな布が揺れた。神の像の足元に、彼は跪いた。額を石に伏せるように、低く、低く。仮面の端に、香煙が触れる。揺れる光の中で、銀は青を含みながらも、鈍く、無言を貫いていた。神官たちの間にざわめきが走る。言葉も、顔も、名も差し出すことなく、ただ祈りだけを捧げたこの者に、神は応えるのか。静寂が、鋭利な刃のように場を切り裂く。その中で、神の像がわずかに前へ傾いたように見えた。誰も動いてはいなかった。ただ、踊り子の仮面に、かすかに影が落ちた。そして次の瞬間、その額に、何かが触れた。重くなく、熱くなく、だが確かに、そこに存在するもの。唇だった。仮面の上からでも、その感触は伝わる。金属越しに与えられたその口づけは、名の代わりの印だった。神は彼に名を与えなかった。だが命もまた、奪わなかった。それは祝福だった。だが、誰でもないままの祝福
last update最終更新日 : 2025-08-31
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仮面の下の夜

香炉の煙が細く、そして頼りなく揺れていた。王の寝所にほど近い小間に、アミールはひとりでいた。その手には銀の香炉。けれど火は弱く、煙は既に白く冷えていた。語りの夜が終わったあとの、静かな残響のような空気だった。王サリームは、扉を開けるのにほんのわずかな躊躇を見せた。だが一歩入ると、視線は真っすぐアミールに向いた。彼はまだ言葉を持たぬまま、背筋をまっすぐにして煙を見つめていた。その横顔は仮面こそつけていないが、仮面のように無表情だった。「今夜の語りは…妙に沁みた」王は低く呟きながら、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。「なぜだと思う?」アミールは振り返らない。だが唇だけが、ごくわずかに動いた。王の眼差しは、その沈黙を読み解こうとするように、焙られるように彼を見つめていた。「名を持たぬ者…名を呼ばれぬ者…」そこに自分を見たのか、それとも彼を見たのか。語りの踊り子は誰でもなく、ただ舞っていただけだった。その姿は、声を持たぬアミールそのものにも映った。サリームは、煙の先に透けるように立つその後ろ姿に目を凝らした。「踊り子は仮面を外さなかった。…お前も、そうなのか?」アミールは香炉を少し傾けた。香の粉が最後の火を包み、煙がひとつ弾けるように揺れた。「見せないのではなく、見られないのか?」王の言葉には苛立ちが混じり始めていた。だがその苛立ちは、理解できないことへの怒りではなく、理解してしまいそうな自分自身への戸惑いだった。アミールはようやく振り返った。その顔に仮面はなかった。けれど、その目の奥には、確かに裂け目があった。感情があった。だがそれは名づけるには淡く、しかし消せるには深すぎた。王は無意識のまま、彼に向かって歩み寄っていた。音を立てぬように、慎重に。「…お前の“本当の名”は、どこにある?
last update最終更新日 : 2025-09-01
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