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疑いの視線

Penulis: 中岡 始
last update Terakhir Diperbarui: 2025-09-21 16:55:52

湊の背中を、玄関から見送るのが瑛の朝の日課になっていた。

けれどこの数日、その背中に微妙な変化があることに気づいていた。コートの襟を立てる仕草が少し早くなり、靴音は以前より硬い。ドアを閉める瞬間の横顔には、出勤の憂鬱というより、何かを押し隠すような影が差していた。

今夜もまた、鍵の回る音がしてドアが開くなり、湊は「ただいま」と短く言い、靴を脱ぐよりも先にコートを脱いで浴室へ向かった。鞄はソファの端に無造作に置かれ、足音が廊下に消える。

瑛はキッチンでまな板の上の葱を切りながら、その足音の速さに耳を澄ませた。シャワーの水音がすぐに響く。冬の夜に湯気が立ち上る音は、普段なら帰宅の安堵を表すもののはずだ。だが、この数日は違う。まるで一刻も早く何かを洗い流したいとでもいうように、湊は着替えもそこそこに浴室に籠る。

「今日は寒かったな」

湊が浴室から出てきたとき、瑛は鍋の蓋を開けながら声をかけた。

「ああ…まあ」

湊は短く答え、タオルで髪を拭きながらダイニングの椅子に腰を下ろす。湯上がりの赤みが頬に差しているのに、表情は妙に固い。

「お、髪の毛はね、もうちょっと拭かんと風邪ひくで」

軽口を叩いてみても、湊はふっと笑うだけ。その笑いは唇だけが動く、形だけのものだった。

「別に大したことない」

瑛は味噌汁を椀に注ぎながら、短いその言葉を噛み締めるように耳に入れる。箸を置く音や食器の触れ合う音が、やけに際立って響く。二人の間に流れる沈黙は、鍋の湯気をも冷たく感じさせた。

「なあ、最近ちょっと…顔、変わったで」

冗談めかして言いながら、視線を湊の目に合わせようとする。しかし、湊はすぐに視線を逸らし、茶碗の中の白飯をゆっくり口に運ぶ。

「気のせいだよ」

その返しの軽さが、かえって重い。笑ってごまかす湊の唇の端には、僅かに緊張が滲んでいた。

瑛はそれ以上問い詰めなかった。だが、胸の奥で何かが確かに動き出している。違和感は確信へと変わりつつあった。

湊が何を隠しているのか。

それを知るのは、もうすぐかもしれない。
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  • 君と住む場所~契約から始まった二人の日々   気づきの予感

    まだ外は白む前、部屋には冷たい空気が漂っていた。カーテンの隙間から差し込む薄い光が、床とベッドの端を淡く染めている。布団の中で丸まる湊の背中は小さく上下し、浅い呼吸が静かに繰り返されていた。瑛はその寝息を壊さぬように、足音を忍ばせて部屋を出る。朝食の準備をしようとクローゼットを開けたとき、昨日のうちに洗い忘れていたスーツの上着がハンガーに掛かっているのに気づいた。袖口に乾いた水滴の跡があり、それが昨夜の雨の名残であることを思い出す。ふと、ポケットがわずかに膨らんでいるのが目に入った。何気なく手を差し入れると、親指の腹にざらりとした感触が触れる。小さく折り畳まれた紙切れだった。光の下に広げると、それは会社のメモ用紙らしい。端が少し湿ってよれ、書かれている文字はところどころ薄くなっていたが、「坂井」という苗字だけは濃く、乱雑に書かれていた。一瞬、瑛の呼吸が止まる。名前の響きが頭の奥で硬く反響し、その意味を探るように眉間に微かな皺が寄る。偶然かもしれない…そう思うには、あまりにもはっきりとした筆跡だった。しかも、その下にかすれた数字が見える。電話番号のようにも、日付のようにも見えた。瑛は指先でその紙をなぞり、もう一度視線を湊の寝室に向けた。扉の向こうからは、まだ変わらぬ寝息が聞こえる。そっと紙を二つに折り、ポケットに戻そうとしたが、ほんの一瞬、ためらった。その間に、昨夜の湊の硬い笑顔や、帰宅直後の湿った空気、毛布を拒むようにずらした肩の感触が蘇る。それらが一つの線でつながっていくのを感じた。深く息を吸い込み、吐き出す。その吐息は冷えた空気の中で白くはならないが、胸の奥の温度はわずかに下がった気がした。瑛は紙を丁寧にポケットへ戻し、スーツを再びハンガーに掛ける。その手の動きはゆっくりと一定で、まるで何事もなかったかのようだ。しかし、胸の奥では水面下に沈んでいた何かが、ゆっくりと浮かび上がり始めていた。鞄を片付けるために手を伸ばすと、中にくしゃくしゃになった別の紙切れがあった。開くと、今度は会議資料の余白に「また話したい」とだけ走り書きがしてある。その文字も同じ筆跡だ。視線が自然に鋭くなる。唇を噛み

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    湊の背中を、玄関から見送るのが瑛の朝の日課になっていた。けれどこの数日、その背中に微妙な変化があることに気づいていた。コートの襟を立てる仕草が少し早くなり、靴音は以前より硬い。ドアを閉める瞬間の横顔には、出勤の憂鬱というより、何かを押し隠すような影が差していた。今夜もまた、鍵の回る音がしてドアが開くなり、湊は「ただいま」と短く言い、靴を脱ぐよりも先にコートを脱いで浴室へ向かった。鞄はソファの端に無造作に置かれ、足音が廊下に消える。瑛はキッチンでまな板の上の葱を切りながら、その足音の速さに耳を澄ませた。シャワーの水音がすぐに響く。冬の夜に湯気が立ち上る音は、普段なら帰宅の安堵を表すもののはずだ。だが、この数日は違う。まるで一刻も早く何かを洗い流したいとでもいうように、湊は着替えもそこそこに浴室に籠る。「今日は寒かったな」湊が浴室から出てきたとき、瑛は鍋の蓋を開けながら声をかけた。「ああ…まあ」湊は短く答え、タオルで髪を拭きながらダイニングの椅子に腰を下ろす。湯上がりの赤みが頬に差しているのに、表情は妙に固い。「お、髪の毛はね、もうちょっと拭かんと風邪ひくで」軽口を叩いてみても、湊はふっと笑うだけ。その笑いは唇だけが動く、形だけのものだった。「別に大したことない」瑛は味噌汁を椀に注ぎながら、短いその言葉を噛み締めるように耳に入れる。箸を置く音や食器の触れ合う音が、やけに際立って響く。二人の間に流れる沈黙は、鍋の湯気をも冷たく感じさせた。「なあ、最近ちょっと…顔、変わったで」冗談めかして言いながら、視線を湊の目に合わせようとする。しかし、湊はすぐに視線を逸らし、茶碗の中の白飯をゆっくり口に運ぶ。「気のせいだよ」その返しの軽さが、かえって重い。笑ってごまかす湊の唇の端には、僅かに緊張が滲んでいた。瑛はそれ以上問い詰めなかった。だが、胸の奥で何かが確かに動き出している。違和感は確信へと変わりつつあった。湊が何を隠しているのか。それを知るのは、もうすぐかもしれない。

  • 君と住む場所~契約から始まった二人の日々   沈黙の帰路

    仕事終わりのオフィスを出た瞬間、夜の冷気が頬を刺した。湊は肩をすくめ、マフラーの端を無意識に握り込む。駅までの道を歩く足取りは、いつもよりわずかに重かった。街灯の下を通るたび、アスファルトに落ちる自分の影が揺れ、長く伸びたり縮んだりする。その動きに合わせて、胸の奥で凝り固まったものが微かに軋む。坂井の視線、同僚の曖昧な笑い、会議室での途切れた言葉。それらが一つに絡まり、脳裏を離れなかった。電車に揺られている間も、視線は窓の外に向いているのに、景色は何一つ入ってこない。窓に映る自分の顔が、どこか他人のように見えた。部屋のドアを開けると、ふわりと温かい匂いが迎える。煮込み料理の香り。リビングの奥から瑛の声が飛んできた。「おかえり。寒かったやろ?」湊は靴を脱ぎながら「うん」と短く答えた。それ以上の言葉は喉の奥で固まり、動かない。ダイニングテーブルには、湯気を立てる鍋と、色鮮やかな小鉢が並んでいる。瑛はエプロンを外しながら、湊の様子をちらりと見た。「今日は魚と根菜。あったまるで」「ありがとう」箸を手に取ったものの、湊は料理を口に運ぶ動作がぎこちない。味も温かさも感じるのに、喉の奥が拒むようだった。「どうしたん、口に合わん?」瑛の問いに、湊は首を横に振る。「違う。ただ…あんまり食欲なくて」それ以上は説明せず、みそ汁を一口すする。舌に広がる塩気と出汁の香りは確かに沁みるのに、胸の重さは減らない。食後、ソファに並んで座った二人の間に、テレビの音だけが流れていた。画面ではバラエティ番組の派手な笑い声が響くが、湊の耳には遠く、ぼやけた音として届く。視線は画面に向いていても、心は別の場所を彷徨っている。瑛がふと隣を見やり、軽く肩をつついた。「なんや、その顔。俺、なんかした?」「…別に」その一言が、やけに冷たく響いた。湊自身もわずかに眉をひそめる。返した声に棘があったことに気づいたが、引き返せなかった。瑛はそれ以上追及せず、背もたれに深く身を預けた。視線は

  • 君と住む場所~契約から始まった二人の日々   孤立の始まり

    昼休み前の会議室は、空調の風が微かに唸り、紙をめくる音やボールペンのノックが断続的に響いていた。湊は配られた資料に目を通し、意見を求められたタイミングで口を開く。「この件は、現行の進行表だと三日ほど遅延が出る可能性がありますので…」そこまで言った瞬間、向かいの席の課長が軽く手を上げた。「はいはい、それは後で調整しよう。次、坂井さん」湊の声は、まるで空気に吸い込まれるように途切れた。課長は目も合わせず、すぐ隣の坂井に発言を促す。坂井は愛想の良い笑みを浮かべ、澱みなく話し始める。その横顔を見つめながら、湊は言葉を失った自分の唇を閉じた。会議が終わる頃には、胸の奥に小さな棘のような痛みが刺さっていた。以前はこうではなかった。発言すれば必ず何かしらの返答があったはずだ。昼休みになると、同僚たちは自然と小さな輪を作り、ランチの相談を始める。湊は自分のデスクで資料を整理するふりをしながら、その声を聞いていた。「じゃあ今日は駅前のあそこにしようか」「いいね、行こう行こう」誰も湊を誘わない。以前は、たとえ形だけでも「湊さんも行きます?」と声をかけられた。それすらも消えた今、机の上の書類が白く浮かび上がって見える。仕方なく、コンビニで買ったパンとコーヒーを持って給湯室に向かうと、そこには坂井がいた。冷蔵庫からペットボトルの水を取り出し、振り返った彼女は、柔らかな笑みを浮かべる。「湊さん、お昼ですか?」表情だけは以前と変わらない。だが、その瞳の奥には何か湿ったものが潜んでいる気がした。湊が軽く会釈を返すと、彼女はペットボトルのキャップを開ける音と共に、小さく鼻で笑った。その笑いが湊に向けられたものかどうかは分からない。だが、背中に薄い冷気が走る。午後の業務に戻っても、微妙な変化は続く。資料を手渡す時に視線を合わせない同僚、コピー機の前で無言ですれ違う瞬間の距離感。何か透明な壁が、湊と彼らの間に立ちはだかっている。夕方、電話を取り次いだ後に顔を上げると、少し離れた席で坂井と別の女性社員が目を合わせ、口元を押さえていた。笑っているのか、何かを囁いてい

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  • 君と住む場所~契約から始まった二人の日々   静かな水面のひび

    蛍光灯の白い光が一様にデスクを照らし、パソコンのモニター越しに湊の視界は淡々とした色をしていた。午前中のメール処理と書類整理を終え、次の案件に取り掛かろうとする。電話のコール音とキーボードを叩く音が、背景のBGMのように耳に馴染んでいる。京都支社に異動してから数か月、この一定のリズムが湊の日常になっていた。「大塚さん、このあとお昼どうします?」背後から掛けられた声に、湊は手を止めて振り返る。坂井がそこに立っていた。肩までの髪を軽く巻き、控えめな笑みを浮かべている。社内では柔らかな印象で通っている彼女だが、視線の向け方が妙に近い。「まだ決めてませんけど…」返事を濁すと、坂井は一歩踏み込むように机に手をかけた。「近くに美味しいパスタのお店があるんですよ。今度一緒に行きません?」軽く笑って断ろうとした湊は、その言葉の「今度」という曖昧さに引っかかる。今日ではないが、予定を作ろうとしている…そう感じた。「そうですね…また時間が合えば」努めて柔らかく返すと、坂井は「じゃあ楽しみにしてますね」と言い、ゆっくりと離れていった。その背中を目で追いながら、湊は首筋に残る微かな緊張を振り払う。午後の会議までの間、彼女は何度か湊の席を訪れた。資料の確認や進捗の共有といった理由はあるものの、わざわざ自席から歩いてくるほどの用件ではない気がする。彼女の声が耳に近づくたび、机に影が落ちるたび、心の奥でわずかな波紋が広がる。会議室への移動のときも、廊下で並んで歩く距離が妙に近い。袖口がかすかに触れた瞬間、湊は反射的に半歩退いた。坂井は何事もなかったように話を続けるが、その目元には一瞬だけ、愉しげな色が差した気がした。昼休み、湊は別の男性社員と外に出るつもりだったが、エレベーター前で再び坂井と鉢合わせる。「奇遇ですね、一緒に行きましょうか」その誘いを笑顔でかわしながら、心の中で小さな棘のような感覚が残る。断るたびに、相手の笑顔がほんの僅か固くなるのを見逃さない。午後のデスクワークに戻ると、坂井は自席で電話をしていた。ふと視線を感じ

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