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触れた指先

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-09-22 16:57:25

湊は視線を落としたまま、膝の上で組んだ拳を強く握り締めていた。爪が掌に食い込む感覚がかすかな痛みとして伝わってくる。それでも力を緩められない。指先から肘にかけてじわじわと熱が溜まり、肩も背中もこわばっている。

リビングには時計の秒針が刻む音だけが響いていた。静かすぎるその音が、かえって自分の呼吸を乱しているように思えた。口を開けば震えが混じる気がして、湊は唇を固く結んでいた。

ふと、視界の端に瑛の動きが映る。ソファの横に座るその肩がわずかに傾き、ゆっくりと手が伸びてきた。

固く握った湊の拳に、指先がそっと触れる。ほんの一瞬、湊は全身の筋肉が跳ねるのを感じた。けれど、払いのけようとした力は生まれない。その触れ方があまりにも静かで、乱暴さや強制の気配がどこにもなかったからだ。

「…」

声は出なかった。けれど、瑛の指先は迷いなく拳の輪郭をなぞり、そのまま包み込むように手を覆った。掌と掌の間に、思ったよりも確かな熱が広がっていく。

「大丈夫や」

その囁きは、深夜の空気に溶けるように小さく、それでいて確実に湊の鼓膜に届いた。声の低さが胸の奥をゆっくりと撫で、背中の硬直を少しずつほどいていく。

湊はわずかに呼吸を乱し、握っていた拳の力をゆるめた。指が一本ずつ解かれていく感覚が、皮膚を通じて鮮明に伝わる。掌の温かさがじわじわと染み込み、内側に溜まっていた冷たい緊張を押し流していく。

それでも、心の奥底には戸惑いが渦を巻いていた。こんな風に触れられることに慣れていない。触れられることで、自分の弱さまで見透かされるような不安がある。それなのに、拒む言葉は浮かんでこなかった。

瑛の手は強くも弱くもなく、まるで「離さない」と告げるだけの力加減だった。その手の中にあるのは自分の指の感触、脈打つ血の温度。

湊はゆっくりと顔を上げ、瑛を見た。照明の柔らかな光が瑛の横顔を縁取っている。その視線は揺らがず、湊の方へまっすぐに注がれていた。そこには詮索も責めもなく、ただ「ここにいる」という確信だけがあった。

再び視線を落とした時、包まれた手がほんの少しだけ動いた。親指が優しく甲をなぞる。そのささやかな動きが、言葉以

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    湊は視線を落としたまま、膝の上で組んだ拳を強く握り締めていた。爪が掌に食い込む感覚がかすかな痛みとして伝わってくる。それでも力を緩められない。指先から肘にかけてじわじわと熱が溜まり、肩も背中もこわばっている。リビングには時計の秒針が刻む音だけが響いていた。静かすぎるその音が、かえって自分の呼吸を乱しているように思えた。口を開けば震えが混じる気がして、湊は唇を固く結んでいた。ふと、視界の端に瑛の動きが映る。ソファの横に座るその肩がわずかに傾き、ゆっくりと手が伸びてきた。固く握った湊の拳に、指先がそっと触れる。ほんの一瞬、湊は全身の筋肉が跳ねるのを感じた。けれど、払いのけようとした力は生まれない。その触れ方があまりにも静かで、乱暴さや強制の気配がどこにもなかったからだ。「…」声は出なかった。けれど、瑛の指先は迷いなく拳の輪郭をなぞり、そのまま包み込むように手を覆った。掌と掌の間に、思ったよりも確かな熱が広がっていく。「大丈夫や」その囁きは、深夜の空気に溶けるように小さく、それでいて確実に湊の鼓膜に届いた。声の低さが胸の奥をゆっくりと撫で、背中の硬直を少しずつほどいていく。湊はわずかに呼吸を乱し、握っていた拳の力をゆるめた。指が一本ずつ解かれていく感覚が、皮膚を通じて鮮明に伝わる。掌の温かさがじわじわと染み込み、内側に溜まっていた冷たい緊張を押し流していく。それでも、心の奥底には戸惑いが渦を巻いていた。こんな風に触れられることに慣れていない。触れられることで、自分の弱さまで見透かされるような不安がある。それなのに、拒む言葉は浮かんでこなかった。瑛の手は強くも弱くもなく、まるで「離さない」と告げるだけの力加減だった。その手の中にあるのは自分の指の感触、脈打つ血の温度。湊はゆっくりと顔を上げ、瑛を見た。照明の柔らかな光が瑛の横顔を縁取っている。その視線は揺らがず、湊の方へまっすぐに注がれていた。そこには詮索も責めもなく、ただ「ここにいる」という確信だけがあった。再び視線を落とした時、包まれた手がほんの少しだけ動いた。親指が優しく甲をなぞる。そのささやかな動きが、言葉以

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